2022年2月13日日曜日

20220213 作品社刊 関口高史著「戦争という選択」pp.96-98より抜粋

作品社刊 関口高史著「戦争という選択」pp.96-98より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4861828643
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4861828645

我が国は「持たない国」である。

 海で囲まれ、資源を他国に依存している。一部の研究者は、日本は「持たない国」ではなかったと定義している。彼らの主張は、日本が世界平均と比べ、決して貧しい国ではなかったとする。

 しかし、それには同意できない。なぜなら「持つ」または「持たない」を分けるものは、その国の産業構造と主要資源の保有量などが影響する。特に、当時の時代背景や主要産業を考慮すれば、石炭や石油、それに鉄などが大きな資源であった。

 そして、そのどれもが日本には不足していた。特に為政者たちが最も気にしていたのは石油などの液体燃料だった。戦争原因の大きな理由の一つにもなり得るものだった。この問題を見誤ると、結論が全く違うものになってしまう。

 また、ただ単に冨の再配分の問題では終わらない。確かに日本の経済は成長しつつあった。逆に資源があるだけで産業化されていなければ「持つ国」と言えないゆえに、日本が「持たない国」ではない、と言切るのは早計ではないだろうか。その後、「持つ国」である英米と「持たない国」、すなわち日独伊の対立は昭和7年(1932年)のオタワ会議以降、益々拡大していったのである。それがブロック体制の構築を進める結果になったからだ。

 日本はこのような危機的状況から、どのように脱却したか。結論から言うと、唯一の解決策と考えたのは中国への進出と、それに続くブロック経済圏の構築だった。その経緯はどのようなものであったのか。

 これは軍主導による経済領域の視点から日本の行動を見ていくことに他ならない。また、この問題は米国との関係のみではなく、日本の国際的孤立を招いたという点で国際情勢の流れと切り離して考察すべきではない。

 まず大正デモクラシーの終わり、汚職などによる既成政党への不信感、立憲君主制の限界などから、国民は政治の無力さを感じるようになっていた。国民が次に期待をかけたものは何か。それは軍、中でも青年将校だった。

 日本では、軍は国体とともに国民を護る存在であるとされていた。その上、彼らは老獪な政治家や莫大な富を誇る財閥などとの関係が薄いと見られていた。しかも青年将校らはエリート教育を受けていた。旧来の国策の後継者ではなく、新たな国家の創造者を自任する者も多くいたのである。

 また日本の都市には失業者が溢れ、農村の疲弊はひどかった。多くの軍人、特に下士官・兵は農村出身者だった。このため将校も多くの場合、純粋な気持ちで、この状況から抜け出さなくてはならないと感じていた。さらに陸軍は各歩兵連隊へ天皇自ら軍旗を親授し、「天皇の玉体を仰ぎ見る」のと同じ尊崇の念を抱くように国民にも徹底してきた。

 加えて、青年将校らは若い天皇という純粋潔白なイメージと重なった。すなわち、最も大きな視点から見れば、日本の指導者層あるいは指導勢力の新旧交代の時期に入ったとも言えるのである。これは大正時代から見られる傾向だった。

 大正時代には西園寺公望を除いて、元老が相次いで世を去った。その上、大正天皇も病弱で最高調整機能を十分に発揮できなかった。よって大正期の政策決定は次第に混迷の度を深めていった。このような傾向は昭和時代に入ってますます深刻化した。

 国家の政策決定を一元化する道は統治権の総攬者である天皇の裁定を俟つよりほかはなかった。しかし明治憲法に忠実な昭和天皇は立憲君主の分限を厳守し、その埒外に出ることを慎んだ。

 そのため、特に控え目に表明される天皇の意思も、いわゆる「君側の奸が聖明を覆うもの」と解せられ、徹底されなかった。よって調整の方途を見失った日本の政治・外交は、ついに一大破綻の悲劇を見るに至ったのである。だからといって、それ以外の領域、つまり経済、文化、社会などに期待しても恐慌から脱却するのは難しかったであろう。

 そこで軍が恐慌からも国民の生活を守る存在であることを期待されたとしても不思議はない。また軍は武力を用い、現状打破を具現できる専門集団であった。しかも、その目的は国民の望むものだと思われていた。

 そのような意味で日本国民が国家に何か期待する際、真っ先に思い浮かぶのは身近な存在である陸軍だった。また軍人も国内で、あるいは満州で、さらには南洋諸島などで民を護る存在であることを自負していた。

 その後、青年将校による暴発が続くのであるが、それらに対しても国民から絶大な期待が寄せられていた。急進的な青年将校たちは「天皇親政」という名目で天皇個人のリーダーシップを引き出そうとしていたのだった。なす術のない国民の中には袋小路に入った苦境を何とかしてくれる救世主と感じる者もいた。

 政府は五・一五事件では有効な防止策を講じられなかったばかりではなく、事件の首謀者たちの主張を国民に広める結果となった。ただし、二・二六事件という最大のクーデター未遂事件が発生した際には、昭和天皇の時勢に流されない英断で事態は収拾されるのだった。

 ただしクーデターは失敗したが、失ったものも少なくなかった。多くの優秀な人的資源はもちろん、思想や考え方が違えば力づくでも排除できることを示す事例の一つとなったのである。思想の亡失、あるいは良心・良識の喪失である。これ以降、自由な意見を議論する場の消滅が顕著になっていくのだった。

 また下からの改革こそ、真の改革であり、その実例が「明治維新」であった。多くの国民の支持を背景に「昭和維新」の断行を企図した青年将校たちの行き場を失ったエネルギーは二・二六事件以降、北支事変に始まる一連の対外膨張へと吸収されていくのだった。