2021年9月9日木曜日

20210909 既投稿記事をいくつかまとめたもの③

直近の投稿記事にて銅鐸を扱いましたが、その後、気になり書籍を取り出し、インターネットにて検索したところ、後期(1世紀末以降)作成の大型、高装飾といった特徴を持つ、近畿式・三遠式双方銅鐸のなかで、近畿式銅鐸の鰭飾りの円型部位を、おそらくは銅鐸祭祀終焉後の時代に銅鐸本体から削り取り、ペンダント様に加工していた出土例が静岡県東部(沼津市・伊豆の国市)にあったことは以前から知っていましたが、それと同様の事例が、静岡県東部から遠く離れた四国は徳島市の庄・蔵本遺跡にて2013年に出土していることを知りました。

これは私にとっては驚愕すべきことであり、また徳島県は、さきの静岡県東部と異なり、元々が近畿式銅鐸の出土圏内であることから、如何なる経緯にて、銅鐸鰭飾りの円型部位をペンダント様に加工したのかとは大変興味深く、具体的には、削られる前の円型部位が飾っていた(近畿式)銅鐸は、元来、同地にて祀られていたものであるのか、あるいは、他の近畿式銅鐸の祭祀圏から齎されたものであるのかとは、さきの静岡県東部での事例と比較してみますと、当時の社会の一面を知る材料になるのではないかとも思われるのです。

そして、ここまで書いていて思い出されたのが、以前に記事として投稿した以下の引用記述です。

谷川健一著 古代学への招待(日経ビジネス人文庫)
ISBN-10: 4532195284
ISBN-13: 978-4532195281

「邪馬台国の後身であるヤマト朝廷は屈服した物部氏を厚遇した。三輪山の周辺に根拠地を持つ物部氏の勢力を無視できなかったことによる。ヤマト朝廷の組織の中に組み入れられて宮廷に奉仕する物部を、「古語拾遺」には「饒速日命(にぎはやひのみこと)内物部を師(ひきい)て、矛、盾を造り備ふ」とある。「内物部」に対して物部氏の傍流はヤマト政権の中核に奉仕することなく、蝦夷と行動を共にする姿勢を見せた。その体制の外にある物部は、いうなれば「外物部」と称すべき存在にちがいなかった。この「外物部」は、物部王国の崩壊を契機として、東海地方への進出をはかったことが推定される。それは東海地方の国造がほとんど物部氏によって占められていることからも推測できる。「先代旧事本紀」を見ると、美濃、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆の国造はいずれも物部氏の流れを汲んでいる。それはヤマト朝廷から派遣されたとばかりは言い切れない性格を持っていた。
国造はヤマト政権に必ずしも従順なものばかりではなかったのである。それが物部氏につながるものとすれば、「外物部」の性格をうらなうに足りる。」

上掲引用文から、さきの近畿式銅鐸の鰭飾り円型部位を加工した静岡・徳島での出土例とを加味検討してみますと「物部」氏が大きな意味を持っているのではないかと考えさせられます。

近畿圏主体にて祀られていた(近畿式)銅鐸の欠片を加工したものが静岡県東部(東海地方)から出土していることと、引用文中の「「外物部」は(ヤマト朝廷誕生による)物部王国の崩壊を契機として、東海地方への進出をはかったことが推定される。それは東海地方の国造がほとんど物部氏によって占められていることからも推測できる。」には、何らかの関連があるように思われます。

徳島市の庄・蔵本遺跡での事例に関しては、その南隣にある高知県東部が近畿式銅鐸出土の一つの西限であり、具体的には、高知県を流れる「物部川」の東岸が現時点では限界となっています。そして、この「物部川」の名の由来もまた、ヤマト朝廷誕生による「外物部」の当地への流入であるように思われるのです。

他方で、ヤマト朝廷のもとに留まった方の物部氏は、王権に対し主に軍事方面にて奉仕し、その氏社とも云える奈良県天理市の石上神宮は、古くはヤマト朝廷の武器庫でもあり、またそれは、物部氏がかつて銅鐸と同様に銅矛、銅剣をも鋳造にて作成していた頃の名残りであると思われるのです。さらにまた、そうした経緯の可能性を検討してみますと、以前に作成・投稿した以下のブログ記述が思い出されました。

20151103 辺縁 温泉 地鎮 神社 武力についてより抜粋

A「あ、そうですね!
それで今思い出しましたけれど、関係ないかもしれませんが、古代律令制で朝廷に認識されていた神社(式内社)の数は伊豆諸島を含む旧伊豆国が他に比べ有意に多いのです。
これはたしか西郷信綱論考にありましたけれども、それによると平安時代中期頃の朝廷の支配領域の辺縁、辺境と認識されている地域に外敵侵入の阻止、地鎮の意味を込めて多くの神社を設置したのではないかとのことでした・・。
しかし、こういった考えは世界各地に類例を見ます。
具体的にはローマ帝国北方辺境におけるハドリアヌスの壁、中国歴代王朝が北方辺境に築いた万里の長城などです。
そしてこのことを約言すると、実質的な防衛機能を持つ城砦を築くのが彼等の手法であり、一見実質的でない呪術的な意味での防衛機能を持つ施設、つまり神社を築くのが我々の祖先の手法ではないかということです。
しかしながら以上の分類の仕方はあくまでも表層的なものであり、よく考えてみると事情はもう少し込み入っていると思います・・。先を続けてもいいですか・・?」

B「ああ、どうぞ、今までの話は大体わかったから、その込み入った事情とやらを是非聞いてみたいね(笑)。」

A「どうもありがとうございます。
それでは続けます。
ところでBさんは奈良県天理市石上神宮は御存知ですか?」

B「・・もちろん知っているよ。
大分前だけれど参拝にも行ったよ。
あの神社はたしか神武東征に出てくる神剣の布都御魂(ふつのみたま)が御神体で、あとは百済王から贈られた七支刀が納められているのではなかったかな?」

A「専門の分野と違っていてもさすがによく御存知ですね・・(笑)。」

B「なあに、私が幼い頃の子供向け読本なんていうのは戦争期に出版されたのも普通にあったからね・・。
それで、そういう本にはそういった神話はごく普通に書かれていたものだよ・・。
それでまあ、後から得た知識やらを肉付けしたり、修正し易いんだろうね(笑)。」

A「ははあ、なるほどです。
あ、それで石上神宮ですが、この神社は仰る通り朝廷にとって神聖とされる武器が納められていることで有名なのですが、その考えを敷衍、拡張して、ここは古代大和朝廷の武器庫としての役割、性質をも持っていたと考えられています。
そうしますと、前にいいました我が国の古代において辺境地域に神社を設置する傾向とは、当時、神社が武器庫でもあるならば、それはそれで呪術的一辺倒でもなく実質的な意味合いも有していたと考えられるのです。
さらにこの考えを補強する要素として、石上神宮は物部氏の氏神を祀っているのですが、伊豆国をはじめとした東海地域の諸国造もまた物部氏に出自を持つものが多いことが挙げられます。」

B「ああ、それはたしか前に君のブログに書かれていたような気がしますね。」

A「ええ、それは確か銅鐸に対しての興味からの抜粋ですが、仰るとおりです。そして、この考えに銅鐸、銅剣銅矛などの青銅製鋳造祭器を要素として加えて考えてみると、これがまた面白いのです。
つまり、これらの青銅製祭器とは辺縁、辺境における地鎮の役割も持っていたと考えられているのです。
そうしますと、本来地鎮の役割を有していた青銅製祭器が廃れ、それが武器庫としての神社となり、さらにそこから社会の安定化に伴い、武器庫的要素が薄れ、現在の神社の様になっていった過程がまあ何となく理解できるような気がするのです・・。
しかし、これはあくまでも古代朝廷から見た辺縁、辺境地域における神社の性格、傾向であって、全部が全部そうではありません・・。」

B「ふーん、何だか面白いね・・あと、そういうのは日本だけでなく他の国においてはどの様な傾向があるのか調べてみたら、もしかしたら、もっと興味深いものが見つかるかもしれないね。」

A「ええ、そうですね。
それは確かに面白そうですね。
機会があれば是非もう少し深く追究してみたいですね・・。」

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

順天堂大学保健医療学部

順天堂大学医療科学部

日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 

一般社団法人大学支援機構


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ISBN978-4-263-46420-5

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