2023年6月10日土曜日

20230610 株式会社岩波書店刊 吉見俊哉著『大学とは何か』 pp.24-27より抜粋引用

株式会社岩波書店刊 吉見俊哉著『大学とは何か
pp.24-27より抜粋引用
ISBN-10: 400431318X
ISBN-13: 978-4004313182

今日につながる意味での「大学」が誕生したのは、12世紀後半から13世紀初頭にかけての中世ヨーロッパでのことであった。北イタリアのボローニャで、世界最初の大学に神聖ローマ帝国皇帝の特許状が下されたのが1158年、パリ大学が教皇の勅書によって設立されるのが1231年のことである。この二つの原型的な大学に続き、13世紀、英国ではオックスフォードとケンブリッジの二大学が設立され、イタリアでは、モデナ大学、レッジョ大学、アレッツォ大学、パドヴァ大学、ナポリ大学、シエナ大学、ペルージャ大学、フィレンツェ大学、ピサ大学、ヴェローナ大学、パヴィア大学、フェラーラ大学、トリノ大学など多数が設立されていった。同じ頃、中央ヨーロッパでも、プラハ大学、ウィーン大学、クラクフ大学、ハイデルベルク大学、ライプチヒ大学などの新大学の誕生が続き、15世紀までにヨーロッパ全土で大学数は70~80校に及んだ(図6)。中世的秩序のなかで、大学、その根幹をなす教師と学生の協同組合は、教皇権力と皇帝権力の対立を巧みに利用し、これら普遍的権力とそれぞれの都市の地元有力者のバランスを利用しながら、急速に増殖し、勢力を広げたのだ。
 重要なのは、このような中世西欧における大学の誕生はに、同時代の都市を拠点とした広域的な人の行き来や物流の活発化が先行していたことである。西欧諸地方では、10世紀頃から農業生産力の上昇が地域間商業の活発化をもたらし、広域的な経済の拠点として都市が発達し、それらはしばしば自治権を獲得した。急速に拡大する貿易と分業体制のなかで、中世都市は地中海沿岸からバルト海・北海沿岸まで広がる新しい全ヨーロッパ的ネットワークのハブとなり、新種の商人から放浪の托鉢修道士まで、多種多様な移動民を抱え込み始めていた。生まれ故郷から離れ、一生を移動しながら過ごす彼らは、各地で勃興しつつあった自治都市に集い、そこで知識を交換し、新たな協同組合的な組織を形成していった。当時、情報メディアといっても写本や手紙しかなかった時代、都市から都市へ移動するこれらの人々は、新しい知識を伝え、集積する最大のメディアであった。
 当時、「遍歴者、流浪者、旅人の中には、学者や朗読者の小さなグループもあって、そのまわりにはいつも教えを請う者たちが集まり、その影響圏に知識欲の旺盛な者たちがどっと押し寄せていた」(H=W・プラール「大学制度の社会史」)という。大学は、このような中世の移動民たちが結びついたネットワークの結節点として出発したのであり、その組織原理の根底に越境性、脱領域性を内包している。彼らは移動する能力によって都市を支配層や地主、より普遍的な皇帝や教皇の権力さえも相対化する自由を手にしたのであり、この移動性と一体をなす「都市の自由」こそが、後年に理念化される「大学の自由」の現実的な基盤であった。
 もちろん、「都市の自由」だけが大学誕生の唯一の要因だったわけではない。中世西欧で大学が誕生したのは、特権的知識層の増大を許容する生産力、行政組織の発達、知的活動への需要増大と専門家や学者の役割拡大、同業組合的組織の普及、アラビア経由での古代地中海世界の学問の受容など複合的な諸要因が作用していた。しかし、このような要因だけならば、そこに登場する知識・教育機関が、「大学」でなければならなかったとは必ずしも言えない。
 古代以来、文明が高度化してくると、社会は必ず専門知識層を生み、そうした専門家による知識継承機関が設置されてきた。古代ギリシャのアカデミーやバビロニアの図書館、イスラムの聖書学校などがその例で、日本の近世には藩校があった。知識機関の設置は、社会のアイデンティティ維持にとって常に根幹だったが、その頂点に立つものは必ずしも「大学」でなければならなかったわけではない。高度な知識を有しながら「大学」が存在しない社会がいくらでもあった。ところが12世紀のヨーロッパは、知の中核的な機関として「大学」を誕生させ、以来、「大学」は、人類の知的活動に最も影響力あるモデルとなっていくのである。

20230609 株式会社岩波書店刊 コンラッド著 中野好夫訳「闇の奥」 pp.14‐15より抜粋

株式会社岩波書店刊 コンラッド著 中野好夫訳「闇の奥」
pp.14-15より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003224817
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003224816

「君らも知っているはずだ。その頃僕は、だいぶ印度洋や、太平洋、支那海などをうろつきまわったあげく、ロンドンへ帰って来たばかりだった―六年余りだったかな、―といえば、まず東洋も一通りは味わってしまったわけだが。ところで、僕は毎日ブラブラしながら、よく君らの仕事を邪魔したり、君らの家庭を襲ったりしたものだったっけ、まるで君らを啓蒙することが、僕の天職だと言わんばかりにね。それも一時は愉快だった。だが、暫くすると、じっとしているのにも倦いて来た。そこでまたしても船を探しはじめた、―ところが、こいつがおよそ難しい仕事でね。今度は船の方で見向いてもくれないのだ。船探しにも倦いちまった。

 「ところで、僕は子供の時分から、大変な地図気狂いだった。何時間も何時間も、よく我を忘れて南米や、アフリカや、豪州の地図に見入りながら、あの数々の探検隊の偉業を恍惚として空想したものだった。その頃はまだこの地球上に、空白がいくらでもあった。中でも特に僕の心を捉えるようなところがあると、(いや、一つとしてそうでないところはなかったが、)僕はじっとその上に指をおいては、そうふぁ、成長くなったらここへ行くんだ、とそう呟いたもんだった。今考えると、北極などもその一つだったと思う。なに、もちろんまだ行ったこともないし、今ではもう行ってみる気もないがね。つまり、魅力が消えてしまったのだ。だが、まだそうした場所は、いくらでも赤道付近にころがっていたし、他にも両半球あらゆる緯度にわたって残されていた。中にはその後本当に行ってみたところも幾つかある。それに・・いや、こんな話はもうよそう。だが、一つ、いわばもっとも広大な、しかももっとも空白な奴が一つあったのだ。そして僕は、それに対して疼くような憧憬を感じていた。

 「なるほど、その頃はもう空白ではなかった。僕の子供時分から見れば、すでに河や、湖や、さまざまな地名が書き込まれていた。もう楽しい神秘に充ちた空白ではなかったし、―恣に少年時代の輝かしい夢を追った真白い地球でもなかった。すでに闇黒地帯になってしまっていたのだ。だが、その中に一つ、地図にも著しく、一段と目立つ大きな河があった。たとえていえば、とぐろを解いた大蛇にも似て、頭は深く海に入り、胴体は遠く広大な大陸に曲線を描いて横たわっている。そして尻尾は遥かに奥地の底に姿を消しているのだ。とある商店の飾窓に、その地図を見た瞬間から、ちょうどあの蛇に魅入られた小鳥のように、―そうだ、愚かな小鳥だ、僕の心は完全に魅せられてしまった。で、僕はふと思い出した、そういえばこの河で商売をやっている、大きな貿易会社があったはず。畜生、そうだ!これだけの河といえば、船―それも蒸気船を使わなければ、商売のできるはずがない。それなら、そいつに一つ乗りこめばいいではないか!と、僕はひとり肯いた。そしてあのフリート街を歩きながら、どうしてもこの考えを振り捨てることができなかった。蛇の魅力だったのだな。