2017年9月2日土曜日

20170901 文章作成に対しての読書も持つ意味について・・書籍を読むとは?

A「本日、九月初日の首都圏は未だ『残暑』といっても良いこの時季であるにもかかわらず、いささか早急に秋が訪れたような陽気でした。

さて、先日より読み進めている著作は残り50頁程度となりました。おそらく明日には読了に至るのではないかと思われます。

ともあれ、
久々に通史的な著作を読んでいるためであるのか、昨今、能動的にブログ記事を作成することへの困難さをおぼえるのです・・(苦笑)。

やはり書籍を読む行為、そしてその時期とは主に『受容』の態勢にあると云えますので、それが何かしらブログ記事作成といった能動的な行為に対して影響を及ぼしているとは十分に考え得ることです。

いや、もう少しこのことを【読書とブログ記事作成】考えてみますと、それは精確には自身にとって身近な、慣れ親しんだ、血肉化された言語・著者・分野における書籍の読書であるならば、さきに書いたように読書という行為が本質的に『受容的』なものであるとしても、それとは逆に能動的な(ブログ記事をも含めた)文章作成に対して促進的な役割を果たすことの方が多いのではないかと思われるのです・・。

このあたりには如何なる精神のメカニズムが関与しているのか分かりませんが、何れであれ、これまで一応ブログ記事を作成してきた実感として、以上のようなことが認識し得るのです。

しかし、そのように考えてみますと『では、文章作成行為を励起させる、自身のより基層に近い部分にある(一連の)書籍とは何か?』と考えてみますと、それは端的に『その著作を読むと比較的文章がスムーズに書くことが出来る。』と分類、認識し得るものであり、当然ながらそうした著作とは個人により異なると云えます。

また、そうした著作を未だ見出していない方もいるのではないかと思われます。
【もちろん見出す必要性などまったくないのですが・・(笑)。】

さらに、もちろんそこには表層的な文体の【読書の影響による】真似もいくらかは含まれるのでしょうが、おそらく、そこには無意識にも至るさらに深い何かがあるのではないかと思われるのです・・。

つまり、その程度(無意識にも至る)まで深く読み込んだ書籍があるということが、その反面にある文章作成という能動的な活動に対しても影響を及ぼしているのではないかと思われるのです・・。

そして、書籍の乏しかった時代における読書とは、そうしたものであったのではないかと思われます・・。

また、現代の我々もまた、そうした経験を教育の何処かの段階で経ることは、なかなか重要なことではないかとも思われるのです。

とはいえ、そこで極めて重要であると思うことは、個人にとって、そうした核ともいえる存在となる書籍を選ぶことは、現代の我が国においては、あくまでも個人の裁量に任せられることであり、また、そうした意味においてキリスト教文化圏(特に新教)での信教に必ず付随する『聖書』という(書籍の)存在が極めて意義深いものであることが認識されるのです・・。

一方、我々日本人にはそうした種類の書籍はありません。
(あると主張される方々もいるかもしれませんが、キリスト教文化圏における『聖書』のような存在はないと思われる。)

それ故、もちろん無理強いはしませんが、それに代わり得る書籍(複数でも)を何かしら持つことは、我々先祖の行ってきた伝統的な読書の方法にも適い、少なくとも、文章作成という能動的行為に対しては、あるいは多少の効果を持つのではないかとも思われます・・。
【昨今巷にていわれる『紋切り型社会』とは、おそらくこうした社会での(読書の)傾向がPC・スマホの普及により侵食され、劣化していることを示しているのではないかとも思われます・・。】

他面
、私事になりますと、これまでに書いてきたブログ記事とは、そうした核となる存在が自身にとって何であるのか、あるいはそれ以前に、その核となる存在の有無に対する賭けであるようにも思われるのです。

もちろん、まだ勝負はついていませんが・・(笑)。

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在までに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った地域での諸インフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念します。」