2016年1月26日火曜日

20160126 トートロジー、東西の絵画技法について

A「とりあえず最前の記事により、ブログへの投稿が200記事を越えましたが、今後も出来る限り自身の作成した文章を投稿し続けようと考えております。

今後こうした行為を続けてゆくと何か起きるのか、起きないのかはわかりませんが、いずれにせよ、こうした行為を継続することには、わずかではあるかもしれませんが、何かしら意味があるのではないかと考えております。

そしてその意味とは何かと考えてみますと明確、判然とした答えはわかりませんが、それでも私の内面の力と外界よりの刺激が反応し続ける限り、たとえ多少断続的になっても、書けるところまで書いてみることには、少なくとも私自身に対しては多少の価値を持ち、また、一連のブログを読んでくださっている方々がいらっしゃることにより「これを継続してゆこう。」という気持ちを保持し続けることが出来るのではないかと思います。

これまで様々なことをほぼ思いつきのように対話形式を用い、またこれまでの対話での実体験を散りばめて一連の記事を書き続けてきましたが、その中には内容、主題の類似、重複がいくつも見られると思います。

こうしたことは、特に理系学問分野における執筆の場合などにおいては割愛され、圧縮、まとめられるものではありますが、一方においてトートロジーという言葉もあり、これは述べたい一つの主題を反復表現することであり、またゲーテも「私の発表した一切のものは、大きな告白の断片にすぎない。」といった意味のことをどこかで述べていましたので、これもおそらくさきのトートロジーに繋がるものがあるのではないかと思います。

では、このトートロジーにはどのような意味、効果があるのかと考えた場合、その一つに「ある主題を反復表現し続けることにより、その過程のなかで主題がより鮮明になり、また類似、派生概念の発見などにつながり、それがこれまでの学問、研究において指摘されていないものである可能性がある。」ということではないかと思います。

そして、これは多くの学術、芸術など創造的活動の過程において重要且つ必要不可欠な要素ではないかと思います。

そのように考えると、反復表現、トートロジーとは一見冗長と思われるかもしれませんが、それはそれである程度意味があることではないかと思われます。

また、同時にこれは一つの主題に基づいた他者との対話、議論によっても同様の効果を得ることが出来るのではないかとも思います。

そして、そうした対話、議論をある程度継続して行ってゆくと、いつのまにか自身の内において、そうしたことが出来るようになってゆくのではないでしょうか?そして、それを自問自答というのではないでしょうか?

ここまで書きますと、私の一連の対話形式のブログとは、この自問自答に対し実際に経験した対話の断片を挿入したものであることに気付かれるのではないでしょうか?

そして、今後は実際の対話の割合が減少することにより、このブログがより創造的なものとなってゆくのではないかと思います。

しかし一方、作成するものが創造的であることを早急に目指しすぎると、それは実際の冗長と思われる経験から出発していないことにより、あまりにも観念的、現実離れした考えに結果として陥ってしまう可能性が強いのではないかとも思います。

それ故、現在の私のブログとは、一面においては創造的要素の向上を目指しつつも、他面において、これまでの対話、議論の経験から離れることはいささか危険なのではないかとも思います。

しかし、こうしたことはあくまでも脳裏の片隅に留め、あまり意識することではないのかもしれません。

また、それはさておき、夏目漱石の小説家としての出世作ともいえる「我輩は猫である」とは、かねてより苦しんでいた神経衰弱を緩和するために高浜虚子に勧められ作成したものであるとされていますが、この作品の執筆により、それまで漱石が主に職務の必要性により居た硬質な文体の世界から解放され、自由に言語を操る経験を得ることにより生み出されたものではないかと考えます。

また、同様のことはウィンストン・チャーチルが欝症状を緩和することを目的として始めた絵画においても同様のことがいえるのではないかと考えます。

さて、その絵画で思い出すのは欧米の絵画とは油彩水彩を問わずその描き方の特徴とは、何度も色を重ね、執拗に描いてゆくことではないかと思います。

その一方において、我が国の前近代つまり欧米の影響を受ける以前の絵画とは、こうした執拗な描き方はあまり見受けられず、どちらかというと、水墨画あるいは書道の文字などのように、描く一つの線に精魂を傾けるような一種、居合い抜きにも通じるような特徴があるのではないかと思います。

そしてそうした特徴とは、さきに述べた反復表現、トートロジーにおいても関連があるのではないかと考えさせられます。

反復表現、トートロジーには対話、議論に通じる要素があるとさきに述べましたが、欧米の絵画と近代以前の日本の絵画における特徴の相違とは、反復表現、トートロジーが一つの基礎となる対話、議論文化の彼我の相違にも何かしらの影響を与えているのではないかと思われます。

これはこじつけであるといわれると、たしかにその気味もありますが、一方において様々な文化とは、その国、地域の古来より続く文化的土壌で誕生、成長したものであり、それは本質的に移植することが困難なものではないかと思います。その意味で我が国とは古代より、そして近代以降は特に顕著に雑種移植文化であり、それを良い方向に進化発展させてゆく以外にないと思うのですが、それは彼我文化の相違をある程度把握、認識することによりはじめて可能となるのではないかと考えます。

しかし我が国の基層に近い文化には対象との一体化を強く指向ような傾向もありますので、こうしたことは、他国、他文化と我が国との関連を重視するような歴史像を把握、認識することにより、どうにか中和することが出来るのかもしれません。

今回は対話形式を採らずに書きましたが、今後はまたしばらく対話形式にて書いてゆこうと考えております。」