2024年3月29日金曜日

20240328 先日読了の「クリミア戦争」上下巻と「セワ゛ストーポリ」について

今回の記事投稿により、総投稿記事数が2165に達します。そして、当面の目標としている2200記事まで残り35記事となりますが、これは1カ月と数日間、毎日1記事の投稿により達成出来ることが見込まれますが、それでは多少無理があると思われますので、もう少し期間を延ばして、2カ月での到達を目標にします。

 さて、つい先日、オーランドー・ファイジズ著「クリミア戦争」上下巻を読了して、そこから続いてレフ・トルストイによる「セワ゛ストーポリ」を読み始めましたが、こちらは旧字体であることから、たしかに読み難いは読み難いのですがしばらく読み進めていますと、徐々に慣れて来て、またその文体は、これまで読んだ限りにおいては、視覚的な情景描写が多く、おそらく読者は、戦場を案内されているような感じを受けるのではないかと思われます。

 そして、こうした、情景を複数案内することにより、ある世界観、あるいは物語を伝えようとする進行の仕方は、特に珍しいわけではありませんが、当「セワ゛ストーポリ」の語り口は、和訳文ではありますが、真に迫るものがあったと思われます。

 そしてまた、当作品を読んでいて、不図想起されたのが、面白いことに、大分以前に体験した東京ディズニーランドのアトラクションである「カリブの海賊」でした。その背景には、おそらく双方に大砲を操作する場面があったからであるとも思われますが、同時に全体を通じても、それぞれの視覚的な情景描写の推移に相通じるものがあったように思われます。

 そして、そうした物語進行の仕方とアトラクションでの情景の推移の背後に通底するものが何であるのかと考えてみますと、多くのキリスト教教会に掲げてある、聖書の絵物語や教会に関係のある聖人の生涯を絵で説明したものであり、あるいは我が国で云えば、絵巻物である様にも思われます。

 そして、そこから、キリスト教文化圏での物語進行の仕方と、我が国での絵巻物とを比較してみますと、それぞれの文化傾向の相違についての仮説も思いつくのですが、話は戻り、さきの「セワ゛ストーポリ」は、そうしたことをも考えさせるほどに、その文体は視覚を意識したものであったと云えます。それ故、旧字体さえ気にしなければ、当著作を読み進めることは、そこまで困難ではないと思われます。

 「クリミア戦争」上下巻を読了し、そして「セワ゛ストーポリ」をこれまで読んできたところから、クリミア戦争が勃発した19世紀半ばとは、他面において兵器の革新の時代でもあり、軍艦は無論のこと、兵員・物資を輸送する船が蒸気船、それも外輪船からスクリュー船へと、また鉄道を用いた陸上輸送、さらには大砲や小銃が、それまでの前込め式から後装式へと変わったのが、まさにこの時代でした。また、我が国においても、この19世紀半ばにアメリカ合衆国から黒船四隻が来航して幕末の回天期に至り、そしてまた、19世紀初頭の我が国では、いまだ主たる火器であった火縄銃が、その後の20~30年あまりの期間で、ゲベール銃、エンフィールド銃、後装式のスナイドル銃、そしてさらには、連発式の機関銃であるガトリング銃なども用いられるようになり、そこから、まさに一面においては、海外から齎された軍事技術の革新によって国の政体が変化した時代であったとも云えます。
 
 その意味において、世界史的な視座からも、このクリミア戦争が勃発した19世紀半ばとは、きわめて重要な時代であると云え、そしてまた、現在なおも続く第二次宇露戦争が、19世紀半ばのクリミア戦争と同じ地域で行われていることにも、あるいはいまだ看取し得ないものの、大きな意味があるのではないかと考えさせられるのですが、実際のところはどうなのでしょうか?

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2024年3月26日火曜日

20240326 株式会社白水社刊 オーランド―・ファイジズ著 染谷徹訳「クリミア戦争」下巻 pp.314‐315より抜粋

株式会社白水社刊 オーランド―・ファイジズ著 染谷徹訳「クリミア戦争」下巻
pp.314‐315より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4560094896
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4560094891

 イギリス産産革命とフランス革命がおこった十八世紀後半から第一次世界大戦が勃発した一九一四年までを、しばしば「長期の十九世紀」と呼ぶ。この時代は、いわば「ヨーロッパの時代」であり、近代社会の特徴が最もよく現れた時代であった。その特徴とは、特に西ヨーロッパを中心に、工業化と、民主化を伴いながらの国民国家形成が進んだということであり、グローバルに見れば、世界全体がヨーロッパで生み出された体制の中に包摂されていったということであった。たとえば新しい技術学伸について言えば、一八〇七年汽走船(蒸気船)が発明され、一八一七年には汽走船による大西洋横断が成功した。当初外輪船であったが三〇年代後半にはスクリュー船が登場している。一八三〇年には鉄道がイギリスで最初の営業運転を開始した。こうした運輸手段の発達などは、交通革命と呼ばれる状況をもたらした。ナポレオン戦争後、ヨーロッパではウィーン体制と呼ばれる復古体制が支配したが、フランスでは一八三〇年に七月革命がおこって、復古ブルボン朝は倒れ、ルイ=フィリップが「フランス国民の王」となった。この七月革命の影響で、ベルギーが独立する一方、イギリスでは二月革命がおこって王政が倒れ第二共和制となった。二月革命は、ヨーロッパ各地に波及してウィーン体制を終わらせる一八四八年革命と総称される大きな歴史的事件へと発展した。一八四八年革命の時には、「諸国民の春」と呼ばれる国民主権運動や国家を持たない中東欧の新たな運動も生起した。他方、十九世紀半ばにかけてのグローバルな状況を東アジアについて見ると、一八二〇年代には中国・インド・イギリスを結ぶアヘン・茶・イギリス綿製品のアジア三角貿易が成立し、これはやがてアヘン戦争(一八四〇~四二年)を引き起こした。欧米のアジア進出は、清朝と同様に鎖国体制に会った日本にも及んだ。ペリーが四隻の艦隊(うち二隻は汽走軍艦)で浦賀に来航したのはまさにクリミア戦争勃発の年、一八五三年である。一八五四年初めにはロシアのプチャーチンとの交渉が、長崎で行われている。

 クリミア戦争が勃発したのは、「長期の十九世紀」のちょうど中ごろ、右のような大きな歴史のうねりが世界を覆いつつあった時代であった。したがって、この戦争は「古い騎士道精神に則って戦われた最後の戦争」(本書二二頁)であった一方、最新の工業技術が、とりわけ英仏側において、動員された近代的な戦争であった。たとえば、英仏軍が使用したミニエ銃は、ロシア軍のマスケット銃よりもはるかに長い射程距離を持っていた(第7章)。ロシアはいまだ国内にすら十分な鉄道網を持っておらず(首都ペテルブルグとモスクワの間に鉄道が開通したのは一八五一年)、そのことがロシアの軍事的補給を困難にしていたことはわが国の概説書などにおいても指摘されてきたことであるが、本書では、イギリスが一八五五年に入って突貫工事でバラクラヴァ港とイギリス軍陣地近くの積み降ろし基地を結ぶ延長一〇キロの鉄道を完成させ、セヴァストポリ要塞攻撃のための物資補給体制を整えたことが描かれている。これは世界の世界史上初の戦場鉄道であった(第10章)。新技術の採用と並んで、イギリスやフランスにおいては、国民形成の進展とジャーナリズムの発展によって(戦闘の現場に戦争報道記者と戦争写真家が登場したのは初めてであった)、ファイジズがいたるところで強調しているように、国民世論が戦争遂行にとって決定的な役割を果たすことになった。このこともまた歴史上初めてのことであった(第5章、第9章)。

2024年3月25日月曜日

20240324 当ブログの現況と短期的な展望およびいくつかの著作について

昨日の記事投稿により総投稿記事数が2162に達しました。そうしますと、あと38記事の新規投稿により、現在目標としている2200記事に到達出来ます。そしてこれは、毎日1記事の更新の場合、1カ月と1週間ほどで達成されることが見込まれますが、また以前のように、突発的に記事作成を休止する可能性もあることから、少し期間を長く設定し、現在から2カ月ほどでの2200記事到達を目標にします。

さて、現在から2カ月としますと、来る5月末頃になりますが、そうしますと、そこから2、3週間ほどの継続で6月17日となり、当ブログ開始より丸9年になりますので、当ブログ記事数と、その継続期間との組合せも9年間で概ね2200記事と比較的分かり易いものになります。

もちろん、これは先のハナシではありますが、もし来る6月17日の丸9年の継続までに、目標とする2200記事に到達出来れば、それまでの9年間、5日間で3記事以上は投稿してきたことになりますので、我がことながら、多少は「身を入れた」「頑張った」と云えるのかもしれません。

とはいえ、毎度のことながら、ブログの継続により何かが変ったのかと考えてみますと、その実感はありません。あるいは今後、丸9年間の継続と2200記事の到達により、これまで実感し得なかった有意な変化が生じるのかもしれませんが、そのようなことは全く予想出来ませんので、これまでの調子で変化などは期待せず、あと3ヶ月弱、そして40記事ほど、更新・継続したいと考えます。

そういえば、ここ最近、何度か、複数の方々から、それぞれの会話の際に、当ブログ記事、あるいは引用記事にて扱った内容について、先方より話題にされたことがあり、それぞれについては、ごく自然な会話の流れではあったとは思われるのですが、後になり、どうも「あるいは私のブログを読まれているのでは・・?」とも思われました。

そうして思い返してみますと、以前にも度々、そのようなことがありましたが、それらは自分で考えてみても、おそらく、納得できる答えは得られないと思われますので、このまま棚上げ、保留しつつ、あまり気にせずに当面は更新・継続するのが良いのではないかと思われます。

また一方で、当ブログのこれまでの総閲覧者数はおよそ85万人であり、それを継続期間の日数で均すために割りますと、1日の閲覧者数が大体250~260人となります。この値はエックス(旧ツイッター)での1日のインプレッション数と比較しますと、桁が異なるくらい少ないのですが、こちらブロガーでの閲覧者数の方が、当ブログの実態を精確に反映していると思われますので、時折、エックス(旧ツイッター)の方でインプレッション数がいくらか増加しても、連携は継続しますが、同時に、こちらも、あまりそうした数字を気にしない方が良いのではないかとも思われます。

別件ですが、現在読み進めているオーランドー・ファイジズによる「クリミア戦争」下巻はいよいよ残り頁もわずかとなり、ここ数日で読了に至ると思われますが、当著作の記述で若い頃の作家レフ・トルストイが、この戦争に砲兵少尉として従軍していたことを知り、さらに、その経験から「セヴァストポリ物語」という作品を著したことを知り、先日、古書にてこれを購入しました。

そして「クリミア戦争」下巻もいまだ読了に至っていませんが、早速、入手した当著作を読んでみますと、その訳文は旧字体が多く、また、文体も硬く古めかしいと思われましたが、同時にそれは、以前に読んだ陸奥宗光による「蹇蹇録」と同程度であるようにも思われましたので、読めないことは全くなく、「クリミア戦争」下巻読了後は、以前に述べたアレクシ・ド・トクヴィル著「旧体制と大革命」と並行して「セヴァストポリ物語」を読み進めたいと考えています。しかしながら、他方で、ここ最近は19世紀ヨーロッパについての著作ばかりを読んでいることにも気が付き、そこから、近いうちに、我が国の考古学あるいは民俗学などを扱った少し硬めの著作をも読んでみようと考えるに至りました・・。

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2024年3月24日日曜日

20240323 中央公論新社刊 池内紀著「ヒトラーの時代-ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」 pp.21-24より抜粋

中央公論新社刊 池内紀著「ヒトラーの時代-ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」
pp.21-24より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121025539
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121025531

ナチ党の集会に多くの聴衆を引きつけたのは、党の政治的プログラムよりも、ヒトラー個人の演説だった。痩せぎすで、こころもち割れた声。論点を黒白図式で明快に示して、それをくり返しつづける。断固とした口調で、大胆に断定する。ヒトラー自身が政治的プロパガンダの基本的原理として口にしたところであって、ナチス・ドイツ一五年間を通して一貫して変わらなかった。大衆の情緒的な感性にもっともよく訴えることを見きわめていた。

 単純化と、くり返しと、断定が、ひときわ効果を発揮する土壌があった。すでに述べたように当時ドイツは第一次世界大戦後の底知れぬ不況と失業者に苦しんでいた。古今未曾有のインフレによって、ドイツの屋台骨にあたる堅実な中産階級が、せっせと維持してきた預金を一夜にして失った。年金はパン一つ買うにも足りない。

 第一次世界大戦は四年あまりもの無意味な戦いののちに終結した。ロシアは革命で戦線から脱落、イギリス、フランス、ドイツ、ベルギー、どの国も消耗しきっていた。ドイツが戦線放棄を余儀なくされたのは、キール軍港における水兵の反乱などで、本国の厭戦気分がもはやとどめようもなくなっていたせいであって、戦線が国内に及んだことはない。「敗戦国」の意識がきわめて薄く、そこから「背後からのナイフの一刺し」の意識が生まれた。その際、情報、外交、経済に強力なネットを持つユダヤ人=ナイフ説が定着した。

 生きがいの喪失と将来への不安、そのような精神状況のなかに、ナチスは「救済役」として現れた。旧弊を断ち切り、明るい未来を実現する。それを邪魔立てする敵は何か。ヴェルサイユ条約、ユダヤ人、コミュニズム。くり返し、またくり返し名指しするー。

 ところで私は一つのことを忘れていた。ヒトラーの声である。記録映画などにとどめられているヒトラーの声はガラガラ声、ときに金切声であって、やたらに壇上で獅子吼するふぜいだが、まだ未熟だったトーキーのせいではあるまいか。あれほど大衆をとらえた演説は、声そのものにも、いうにいわれぬ魅力、また魔力をそなえていたのではなかろうか。

「新編春の海ー宮城道雄随筆集」という本がある。幼いころに失明したが、箏の世界で革新的な業績をのこした宮城道雄(一八九四~一九六五)の随筆を集めたもので、巻末に作家林芙美子との対談がついている。一九三八年、「文藝春秋」九月号に掲載されたものだという。耳の人には人一倍敏感な聴覚が視覚の補いをする。その宮城道雄がヒトラーの声について述べている。一九三八年はドイツが戦後の荒廃から立ち直り、ヒトラー政権五年間の功績が大きくクローズアップされていたころだった。

宮城 しかし何ですね、厳めしそうな将軍なんかで、会ってみると存外声の優しい方がありますね。この間中継で聞きましたが、ヒトラーという人はやはり声がちゃんと具わっておりますね。

林 なんだか、怖い声のように想像されますが・・・。

宮城 ちょっと聞きますとライオンが吼えるような感じがします。しかし、あまり太い声じゃありません。いい声で、やはりドイツ人特有の声です。

 ヒトラーの演説には、プロパガンダだけがいわれるが、「耳の人」が聴きとったような「いい声」の要素がはたらいていたにちがいない。女性がとりわけ演説に「しびれた」というのも、女性は男性よりも、はるかにその種のことに敏感なものである。

2024年3月23日土曜日

20240322 岩波書店刊 ジョージ・オーウェル著 小野寺 健訳『オーウェル評論集』pp.217-220より抜粋

岩波書店刊 ジョージ・オーウェル著 小野寺 健訳『オーウェル評論集』pp.217-220より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003226216
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003226216

わずか一年前にハースト・アンド・ブラケット社から出版された「わが闘争」の無削除版は、ヒットラー擁護の立場で編集されている。これこそ歴史の動きの早さを示すものだ。訳者はその序文と注で、あきらかにこの本の残忍さを弱め、ヒットラーをできるかぎり好意のもてる人物に仕立てようとしている。というのも、当時のヒットラーはまだまともな人物だったからである。彼はドイツの労働運動を粉砕した。その結果、有産階級は彼のすることならたいてい大目に見ようという気になった。左翼も右翼も、国家社会主義と保守主義の一種にすぎないとする浅薄な見方では、一致していたのである。

 ところがとつじょとして、ヒットラーはやはりまともな人物でないことが明らかになったのだ。その一つの結果として、ハースト・アンド・ブラケット社の再版本には、本書から上がる利潤はすべて赤十字に寄付するというという説明入りの、新しいカバーがついたのである。だが「わが闘争」の内容を考えてみただけでも、ヒットラーの目標や主張には、なんら本質的変化があったとは考えられない。一年くらい前の彼の発現と十五年前のそれとを比べてみて驚かされるのは、その世界観にまったく発展がみられない、彼の精神の硬直性なのだ。これは偏執狂の固定した幻想であって、現実政策の一時的な戦術くらいでは、たいした影響をうけることは考えられない。ヒットラーの精神にとっては、おそらく独ソ不可侵条約も単なる時間表の変化にしかすぎないのだろう。「わが闘争」の中での計画では、まずロシアを叩き、つづいて英国を叩く予定になっていた。ところがロシアのほうが懐柔しやすいものだから、まず英国から片づけようということになったのである。だが英国を抹殺したなら次はロシアの番だーこれがヒットラーの計画であることに疑いはない。むろん、結果としてそうなるかどうかは、むずかしいところだが。

 ヒットラーの計画が実現したとしてみよう。彼が百年後に画策しているのは、広い「居間」を持った二億五千万のドイツ人が住む、ひとつづきの国である(その「居間」はアフガニスタン周辺あたりまでひろがる)。それは戦争のための青年の訓練と、砲弾の餌食となる人間を無際限に産ませる以外本質的には何もしない、恐るべき、愚かしい帝国である。彼がこんな途方もない計画を立てられたのは、なぜだろうか?その生涯の一時期に、彼ならば社会主義者や共産主義者をつぶせると見た重工業家たちが財政的支援を与えたからだというのでは、あまりにも安易な解釈すぎる。この重工業家たちにしても、彼がその弁舌に物を言わせて、一つの大きな運動が実現したかのような幻想をすでに与えていなかったら後援などしなかっただろう。失業者七百万というドイツの情勢が扇動家たちにとっては有利だったことも、一面では当たっている。だが、ヒットラー自身の独自な個人的魅力がなかったなら、多くの競争相手を敵にまわして彼一人が成功するというわけにはいかなかっただろう。その魅力は、「わが闘争」の不器用な文章からもうかがわれるが、演説を聞いたとすれば、さぞかし圧倒的な力をもっているにちがいない。わたしは、自分が一度もヒットラーを嫌いになれなかったことを、はっきり言っておきたい。彼が政権を握って以来ーそれまでは、たいていの人と同じように、わたしも彼など問題にならないものと思いこんでいたーわたしは、もし手の届くところまで近づければぜったいに彼を殺すだろうが、それでも個人的な敵意を抱くことはできまいと考えてきた。つまり彼にはどこかふかく人の心を動かすところがあって、それは写真を見てもわかるのである。とくにハースト・アンド・ブラケット社版の巻頭にある、初期のブラウンシャツ時代の一枚の写真を見てもらえばいい。それは憐みをさそう犬のような顔というか、耐えがたい虐待に苦しんでいる男の顔である。やや男らしいところはあるものの、無数にある十字架上のキリストの絵の表情にそっくりなのだ。そしてヒットラー自身が、自分をそういう目で見ていることはまちがいない。宇宙にたいする彼の恨みのそもそもの個人的な原因は、推測するしか方法がないけれども、とにかく、ここに恨みがこもっていることはたしかである。彼は殉教者であり、犠牲者なのだ。岩につながれたプロメテウスであり、徒手空拳で自己をかえりみず耐えがたい不正と戦う英雄なのである。ねずみ一匹殺すにしても、彼はそれをうまく恐龍に見せる方法を知っている。われわれはナポレオンにたいする時のように何となく、彼は運命と闘っている、勝つことはできまいが勝ってもいいではないかといった気持になる。こういうポーズはきわめて魅力的なものだ。映画の主題の大半はこれなのである。

2024年3月21日木曜日

20240321 現在読み進めている著作から思ったこと

ここ最近は、数日間遠出していたこともあり、ブログ記事の更新は進んでいませんでしたが、後になり記事材料となる経験を意識的に持つことも記事作成と同様に重要であり、またそれら経験を整理しつつ、さらにそれを自然に文章化出来るようになるまでには、ある程度の期間を要すると思われますので、多少気の長い話ではあるかもしれませんが、こうした突発的な休止期間も時には必要であって欲しいと考える次第です・・(苦笑)。

他方で読書の方は進み、先日の遠出の際にも、かねてより読み進めている白水社刊 オーランドー・ファイジズ著「クリミア戦争」下巻を持参して、移動時や睡眠前に読み進め、残り数十頁となりました。また、その他にも書籍に関しては、立ち読みなどで興味深い著作をいくつか見つけましたが、現在メインで読み進めている前出の「クリミア戦争」下巻の読了後は、以前、購入したままで積読状態にあるアレクシ・ド・トクヴィルによる「旧体制と大革命」を読み進めたいと考えています。

考えてみますと、トクヴィルの生年はフランス革命の期間から数年経た1805年であり、そして没年は1859年であり、また、その生涯を通じた大きな興味の一つが「フランス革命」であったことから、トクヴィルは19世紀前半の思想家と見做されがちと云えますが、当記事前出、もう一つのトピックである「クリミア戦争」は1853~1856年の期間続き、また、その歴史的背景、基層には所謂「東方問題」として、数世紀にわたり懸念視され続けてきたものがあります。

ともあれ、そこでトクヴィルとクリミア戦争との関わりについて考えてみますと、1848年の2月革命政権(第二共和制)時に官職に就いていたトクヴィルが、1851年のナポレオン三世によるクーデターによって辞職することとなり、それから2年後にクリミア戦争が勃発しましたが、この戦争についてトクヴィルがどのように考えていたのかは興味深いものがあり、トクヴィルのそれまでの履歴から考えてみますと、おそらくは、フランスにとっては犠牲が大きく、益の乏しい戦争であると考えていたのではないかと思われます。

とはいえ、このクリミア戦争とは、主体となる国家や政体は変化しても、残念ながら今なお継続しており、そこから、まさに重層化したフォルト・ライン戦争の勃発地域、あるいは国際秩序が乱れた際に紛争・戦争といったカタチでの応力集中が生じ易い地域であるとも云えます。

その視座からも、もしもあるとすれば、トクヴィルのクリミア戦争に対する見解は興味深く、そしてそれは、今後の世界情勢の展開を検討するうえで一つの参考になるのではないかと思われました。さらに、トクヴィルが興味を抱き続けた18世紀末の「フランス革命」即ち、大きな社会変化の様相や、その機序についての考察もまた、今後のさまざまな国や地域について考えるうえでの有効な参考になるのではないかと考えました。

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2024年3月20日水曜日

20240319 中央公論新社刊 中公クラシックス トクヴィル著 岩永健吉郎訳「アメリカにおけるデモクラシーについて」 pp.69-70より抜粋

中央公論新社刊 中公クラシックス トクヴィル著 岩永健吉郎訳「アメリカにおけるデモクラシーについて」
pp.69-70より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121601610
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121601612

政府はふつう、無力によるか、または圧政により崩壊する。前者では権力がその手から漏れるが、あとの場合には権力がもぎとられる。

民主制の国家が無政府状態に陥るのを見て、政府が本来、弱くて無力だったのだと、多くの人は考えた。しかし、実は、いったん党派間に闘争が勃発すると、政府が社会に対する影響を失うのである。

私は、民主的な権力に本来、力と策とが欠けているとは思わない。反対に、政府を崩壊させるのはたいていの場合、物理的な力の濫用と方策・資源の悪用とであると信じている。無政府状態は、たいがい、圧政か未熟から生まれるが、無力からではない。

 安定を物理的な力と混同したり、巨大なものは持続すると考えてはならぬ。民主的共和制においては、社会を指導する権力は安定しない。しばしばその持ち手と目的とを変えるからである。しかし、それを行使されることになると、その力に抵抗するのはきわめて困難である。アメリカ共和制の政府は、ヨーロッパの絶対君主制の政府と同様に中央集権的で、精力の点ではまさっているように見える。それが弱いから崩れるとは、とても思えない。

 万一、アメリカで自由が失われることがあるとすれば、多数の万能が少数(派)を絶望に追いやり、物理的な力に訴えさせるようになる場合にちがいあるまい。その場合には無政府状態になるであろうが、それは専制の結果として到来する。

 (のちの)大統領ジェイムズ・マディソンが同じ考えを述べる〔『ザ・フェデラリスト』第五一篇を参照〕「共和国においては、支配者の圧制から社会を守るだけでなく、当該社会の一部を他の部分の不正から守ることがきわめて重要である。正義はすべての政府の向かうべき目的である。それこそ社会形成の目的なのである。これを人民は達成されるまで追求したし、今後ともそうするであろう。あるいは、追求は自由の失われるまでつづけられよう。一つの社会で、より強力な党派が容易に勢力を結集して、より弱い党派を圧迫するようなことがあれば、その下では、自然状態においてと同様、無政府状態が支配するといえよう。自然状態では、より弱い個人は、より強い個人の暴力から護られていない。そして、自然状態でより強い個人さえも、自己の境遇が不確かで不安定なため種々の不都合が生じるから、政府に服する気にさせられ、その政府が同様が弱者を彼らとともに保護することになるのと同様、無政府状態でも、より強力な党派が、同様な動機から、しだいに強弱を問わず、すべての党派を保護する政府を希求するようになる。

2024年3月14日木曜日

20240313 令和・歯科医院訪問記③ 院長について

 以前投稿の記事にて、かつて勤務先での営業活動のため、首都圏の医療機関をまわっていた時期があったことを述べました。その具体的な期間は2016年3月から2018年5月頃まででしたが、思い返してみますと、この時期も当ブログは継続しており、また丁度、毎日に近く記事投稿をしていた頃でもありました。しかしながら、少なからずの医療機関をまわっていたこの時期は、かえって、その活動についての具体的なことを記事にすることは(あまり)ありませんでした。

そして、この時期の記事作成の視座から、現在のそれを考えてみますと、当時は、これまでに2記事作成・投稿した「歯科医院訪問記」のようなブログ記事は作成しなかった、否、出来なかったことから、自分が当ブログ全体に対して自信のようなものを持ったようにも思われますが、他方で「何か違ったことをやらなければ・・」と考えた結果の行為であったようにも思われる次第です・・(笑)。

いや、こうした自らを信じる自信と、内面での葛藤とは、本来、両立しあうものであり、あるいは、それらが噛み合い駆動することにより、人間の精神に内発的な変化が生じてくるのではないかとも思われます。そして、それがなくなると、変化はなくなり、徐々に硬直化して、そして衰頽していくというのが、我々人間の活動に普く認められる性質であるようにも思われます。

とはいえ、そこまで掘り下げなくとも、今回の投稿記事は「歯科医院訪問記③」であり、前回の続きですと、クリニック玄関から中に入るところからになりますが、そこから書き始めてしまっては、過日、冗長気味をも是とするとした訪問記についての見解に反するとも云えることから、ここでもう少し今回の訪問先歯科クリニックの院長についてを述べます・・。

以前投稿の訪問記①にて述べたことですが、こちらの院長はご出身が山梨市であり、御実家は歯科クリニックを運営されていますが、数年前に現院長が敷地を駅前の大通りに面した場所に移転して、またそれに伴い、徐々に診療業務も代替わりをされつつあるというのが現状と云えますが、しかし他方で、こちらの院長は長らく沖縄県の大学病院口腔外科に勤務され、10年ほど前に帰郷し、拠点を山梨市に戻されたとのことですが、私としては、このあたりが大変に奮っており、また珍しいと思われるのです。そのため以前「何故、先生は沖縄での臨床研修を望み、そこからまた6年間医員として勤務されたのですか?」と訊ねたところ「ああ、高校時代の修学旅行で行ってから好きになり、その後は歯科大学時代でも毎年行っていましたので、臨床研修先の病院も沖縄にしようと思いまして**大学病院を希望しました。」とのことでしたが、そのようにして、自らの故郷ではない地域を好きになれるのは、外界に対して開かれ、能動的でないと出来ないと思われますので、私見としては、それは幸せなことであると考えます。

そしてまた、この「能動的」という言葉も当院長には似つかわしく、院長が医員として勤務されている、私が歯科治療を受けた都内東部の比較的大きな歯科医院でも活発に動かれていて、院内に複数いる臨床研修医や若手医員の先生方への指導や、自分でなければ困難と思われる歯科治療の手技の際には、どこからともなく現れて、適切な処置を若手の先生がたに見せつつ説明しながら行い、それを行うと、次の処置の確認をされて、また足早に去って行くといった感じであり、そこから、おそらく、院内に複数いる臨床研修医や若手医員の先生方が行っている歯科治療の概要と、それらに必要な処置の流れや、要する時間なども把握されているのだと思われました。そして、こうした様子を見ていますと、故郷から離れた沖縄の大学病院の口腔外科におられたことや、離島勤務の歯科医師であったことなども想起されてきます。こうした活動も、自ら動く「能動性」が必要であると思われますので・・。

そしてまたこちらの院長を特徴付ける「能動性」について、さらに私見を述べさせて頂きますと、これは当然であるのか、あるいは意外なことであるのか、ご当地山梨県の地域性にも触れるように思われましたので、それにつきましては、また次の訪問記にて述べます。

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2024年3月13日水曜日

20240312 株式会社岩波書店刊 岡正雄論文集「異人その他 他十二篇 大林太良編」pp.159‐161より抜粋

株式会社岩波書店刊 岡正雄論文集「異人その他 他十二篇 大林太良編」
pp.159‐161より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003319613
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003319611

日本民族の文化的社会的展開の道筋

 私は、日本民俗学が対象とする基盤的生活文化を、西欧近代文明渡来までに成立した生活文化と、いちおう限定するが、種族的混成が国家の創立によって、いっそう促進され、それがどんな過程を経て、江戸時代の社会的・文化的構造を展開するまでにいたったかという、あらましの展開の道筋をここで考えてみたいと思う。

 さきに述べたように、石器時代以来、日本列島にはいくつかの種族が渡来し、それらは隣住し、多少とも独立の種族的生活を営んでいたが、しかし時の経過のうちに相互に交流し、接触し、あるものはすでに混合の過程が進んでいたであろう。最後に渡来した天皇種族は、これらの先住農耕種族や漁労種族を征服し、国家を創建し、時とともに政治的権威を強大にし、領土を拡大し、かくして国家広域社会が形成されるにいたった。先住の諸種族はその種族としての独立性を失い、国家広域社会内に組み入れられることになり、だんだん階層化して被支配層となり、あるものは農民層となり、あるものは漁民層となり、あるものは手工業者層と変貌し、またさらに支配者種族自身も種族としての独立性を喪失し、階層化して支配層となり、また貴族層となり、王朝制を確立するに至った。種族としての独立性を失った諸種族の社会的結合力は必然的に弱化し、これら種族固有のさまざまな社会的規制は徐々に弛緩し、たとえば種族内婚的通婚性は崩れ、通婚圏は拡大し、混血の過程は急速に進行した。このばあい、種族の種族としての社会的な枠組みは、まず壊れたが、しかし種族社会を構成していた核社会としての村落共同体、小社会集団、親族構造、社会制度、それにまた生活様式、とくに生産様式は、比較的に長く存続したであろう。種族としての社会的枠組すなわち内婚制は消滅し、通婚圏は広まり、経済生活圏も拡大し、異種族との通婚による混血は文化の交流・混交を促し、かくて身体形質の遺伝、文化伝承の場はその範囲を拡大した。文化の地盤であり容器であった種族の解体は必然的にまた種族文化の統体性の解体を促した。この解体がすすめばすすむほど、その文化要素は母胎社会集団から遊離し、浮動し、伝播し、異系文化要素と混合し、結合し、癒着し、さきに述べた通婚による文化の交流、混交の現象とともに、雑多な新しい形態の宗教、儀礼、社会制度、習俗を生み出すにいたった。伝播や交流は時とともに広範囲に広がり、混合分布の地方差はあっても同じような文化要素が日本列島にほとんど一般化し、ついに雑多で、しかも等質とも見られるような日本文化を生み出すにいたったのである。これはまた身体形質の混合がその度合いの相違はあっても、日本全島に一般となるにいたって、現在見られるとうな雑多なしかも同系等質らしくみえる日本人の人類学的相貌といわれるものが結果するに至ったことにも並行する現象である。しなわち混合の一般化、融合化が等質らしさを生んだのである。この等質らしさはまた事実の等質化への進行を意味する。生物学的遺伝、文化的伝承の場は時とともに拡大し、かくて共同出自の観念は一般に浸透し、言語は統一化し、信仰、儀礼、習俗などは、さまざまな結びつきあいの混合で、広く散布しているというような形で一般化し、等質化しかくて日本民族という新しい大きな単位体エトノスが徐々に形成されるにいたったわけで、しかもエトノスの可変的=過程的性格からもいえるように、この日本民族という民族単位体の一様化・等質化は現在もなお進行しているのである。

2024年3月11日月曜日

20240310 令和・歯科医院訪問記②クリニックに着くまでの経緯

「やがて私が山梨市の医院を訪問する運びとなり、その日程が昨年暮れに決まり、翌、本年の1月下旬と訪問日が決まりました。」

その続きになりますが、この訪問時のポイントはその場でメモをとり、翌日に、それらを短文にまとめておきましたが、それらを統合した訪問記事の文章の書き方については悩みました。その理由は、こうした医院や歯科医院への訪問記、取材記事といったものは、既に数多くネット上にあり、それら前轍に倣い作成することに違和感を覚えたためです。

とはいえ、当記事は、すでにサイは投げられており、書き進める必要があることから、上述の、いわば呻吟している様子をも含めて訪問記の一部として書き進めることにしました。

そして、そうした書き進め方とは、往々にして簡潔ではなく、冗長気味にもなりますが、それはそれで悪いことではなく、シベリウスとマーラーの作曲スタイルの比較にも通底するものがあるのか、ともかく「オッカムの剃刀」も使いようであると私は考えます。

さて、訪問当日は早めの朝7時頃に起床して身支度を整え、最寄のJR総武線本八幡駅に到着したのが7時30分頃でした。そこから総武線で御茶ノ水駅まで出て、中央線に乗り換え、新宿まで行き、そこで予め乗車券を購入していた8時30分新宿発の「かいじ7号」に乗車しました。

「かいじ7号」は予定時刻通り出発して、当初は見慣れない周囲の景色を眺めつつ、持参していた白水社刊 オーランドー・ファイジズ 著「クリミア戦争」上巻を読み進めていましたが、八王子あたりから眠くなり、少しウトウトとしていたところ、早くも目的とするJR山梨市駅は近くなっていました。そこで不図、以前に訪問先医院の先生が「いやあ、新宿から一寝入りする時間もありませんよ・・(笑)。」と仰っていたことが思い出されました。

山梨市駅に到着し、下車してから改札がある駅舎二階に出ると周囲の景色を臨むことが出来ました。そこで此処は山に囲まれた典型的な盆地であることが実感されて、さらにまた、新宿と比べ、明らかに気温が低いことも実感されました。そして、北口から駅前の通り沿いに徒歩2分ほどで目的のクリニックが左側に見えてきました。

こちらのクリニックはここ数年、令和に入り、ごく近隣にあった以前のクリニック敷地からこの場所に移転してきたとのことであり、現在の新クリニック2階の窓からJR線方面を眺めると、以前のクリニック建物が自然と目に入ってきました。現在、この旧クリニック建物は、倉庫や院長の休憩部屋などとして用いているとのことです。

さて、駅から歩き、左手に見えてきた新クリニックは開院してからまだ数年と日が浅いためであるのか汚れも少なく、あるいは見方によれば、周囲の他の建物と比べて、少し異質なくらい「美」を意識しているようにも感じられました。

とはいえ、無論、そうした「美意識」あるいは「審美性」といったものは、医療機関だけに変に耽美的であったり、あるいは装飾過多といったものではなく、簡素ななかに美しさを見る、何というか、北欧の各種生活雑貨や家具などからも看取される文化に近いものであり、そして、そこに何らかの独自の機能美を付加、追求したと思しき嗜好の傾向を持たれている開業医師・歯科医師の先生方も実際に少なからずおられました。それでも、こちらの歯科医院は、あまりそうしたことを強調するようでもなく、そして、そこにまた独自の嗜好の傾向があるようにも感じられました。

さて、クリニック前に矯正治療後の歯列のように整然と置かれたプランタの間を通り扉を開けて中に入ると・・・

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

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ISBN978-4-263-46420-5

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2024年3月10日日曜日

20240309 株式会社新潮社刊 新潮選書 鶴岡路人著「欧州戦争としてのウクライナ侵攻」 pp.80‐82より抜粋

株式会社新潮社刊 新潮選書 鶴岡路人著「欧州戦争としてのウクライナ侵攻」
pp.80‐82より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4106038951
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4106038952

 ウクライナと国際社会にとって最も厄介なシナリオは、ロシアによる一方的な停戦、つまりロシアのいうところの「特別軍事作戦」の一方的な終了宣言である。それは、更なる侵略のために態勢を整える時間稼ぎにすぎない可能性が高いが、それでも、ロシアが停戦を宣言し、実際に攻撃をやめることがあれば、ウクライナ側にも停戦受け入れの圧力がかかることになるだろう。ウクライナが戦闘を停止しなければ、ウクライナ側が戦争にエスカレートさせていると捉えられかねない。

 そうしたなかで事実上の停戦になった場合に、ロシアは占領した地域に居座ることになる。自発的に撤退する可能性は皆無だろう。ウクライナにとっては自国領土を奪還する機会が失われ、ロシア占領地域の国民の犠牲は続くことになってしまう。ここで問われるのも、国際世論がこうした状況をどのように捉えるかであろう。ロシアによる一方的停戦の不当さやまやかしを批判し続けるのか、それとも、ウクライナに対する停戦への同調圧力を作り出すことになるのか。この帰趨が与える影響は大きい。

 ロシア・ウクライナ戦争の語られ方をめぐる攻防は、現在も続いているし、戦争が継続する限り、今後も決着することはない。これまでのウクライナ優位の継続はまったく保証されていない。ウクライナは侵略を受けた側であるにもかかわらず、ウクライナの方が戦争をエスカレートさせているとみられかねない要素は常に存在しているのである。

 とはいえ、エスカレーションの回避という課題は、ウクライナにとっても重要であるし、米国のウクライナ支援においても、大きな要素になってきた。核兵器保有国であるロシアを刺戟しすぎれば、核兵器の使用、そして第三次世界大戦という破壊的な結果を招きかねないというのである。この懸念ゆえに、常に慎重さが求められることは論を俟たない。ロシアが米国やNATOを抑止している構図である。

 しかしそのことは、ロシアによるエスカレーションの脅しのすべてを真に受けて、ウクライナやNATOを抑止していると同時に、米国を含むNATOの側の対露抑止も機能しているからである。つまり、エスカレーションに関して、ロシアがフリーハンドを有しているわけではない。

 あらためて強調すべきは、エスカレーションの懸念を惹起させ、その責任をウクライナに押し付けることこそ、今回の戦争の語られ方をめぐる攻防におけるロシアの重要な目的だということである。そして、それは抑止という根源的な問題と直結しているのである。語られ方はやはり重要だ。

【初出】「戦争とエスカレーションするのはどちらかーロシア・ウクライナ戦争における「語られ方」をめぐる攻防」コメンタリー、日本国際フォーラム(二〇二二年八月二二日)

2024年3月8日金曜日

20240307 株式会社講談社 講談社学術文庫刊 村上陽一郎著「日本近代科学史」pp.64‐66より抜粋

株式会社講談社 講談社学術文庫刊 村上陽一郎著「日本近代科学史」pp.64‐66より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4065130271
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4065130278

 織田信長が国友鍛冶の技術に目をつけ、大量に発注したことから量産が始まり、いわゆる「国友鉄砲」は、希代の名声を得るようになった。とりわけ信長に継いで全国の覇者となった秀吉は、国友村を直轄領地として、専属武器工場のように扱ったと言われる。国友村のこの権力者隷属の立場は徳川幕府成立後も変わらなかった。

鉄砲伝来の背景
 
 ここで考えておかねばならないことは、鉄砲伝来の技術が、例外なく刀工、刀鍛冶の手で開発されていることで、すでに八板金兵衛の例が物語るように、わずかなコツをヒントとして与えられれば、正確に現品を模するだけの錬鉄(鉄の原料は、初期にはある程度、いわゆるシャム鉄などの輸入にたよっていたが、日ならずして山陰の砂鉄を中心に、国産で十分良質の鉄材を得ることができるようになった)、加工の技術を当時の日本の刀工、刀鍛冶たちが身につけていたことがわかる。やがてこれらの銃は、中国大陸沿岸を荒らし回った日本の海賊倭寇の手にわたり、明の人びとは、日本製の小銃を、飛鳥をも落とす「鳥銃」と呼んで恐れたが、それを模することに大きな苦心を払った明の技術水準に比較すれば、当時の日本の刀剣技術水準の優秀さが読みとれよう。
 さらに、日本における鉄砲の急速な普及に幸いとしたのは、当時の日本が戦国の世であり、単に各大名が競って威力のある武器の開発を志していたばかりではなく、各地に群雄が割拠し、戦乱の軍馬が各地方を往来し、また、その間を縫って、ようやくはっきりした形をとりはじめていた商人階級の手になる商業路網が、活発な活動の緒についていたことであった。もし強大な権力を一手に握った徳川幕藩体制の確立後に、西欧の鉄砲が伝わったとしたら、幕府の手で秘密に開発される努力は尽くされたではあろうが、けっして全国各地にあれほど激しい勢いで普及はしなかったはずだし、そうとすれば築城法その他多くの点で日本の古来の立場に、ここまでの大きな変革の影響も与えなかったであろうと想像される。

戦法は一変した

 とにかく、鉄砲は初伝以来わずか五年もすれば、全国の強力な大名の手に渡り、少なくとも一五四九年には、はやくも銃戦の記録が見えはじめている。ことに織田信長が鉄砲の利用にすぐれていたことはよく知られている。一五六〇年の桶狭間の戦いですでに、織田・今川両軍とも鉄砲隊を組織しているが、鉄砲隊の使い方は、信長勢のほうが格段にまさっていたようであり、そうしった幾多の経験から、弾丸をこめ代え、次弾を斉射できるまでの時間を見計らい、一陣、二陣(場合によっては三陣まで)交替で斉射と装弾をくり返す、というよく知られた戦法や、弾丸の射程内に馬止めの障害柵を巡らし、騎兵を殲滅する戦法などを会得した織田の軍勢は、高名な長篠の戦い(一五七五年)において、武田勝頼の軍を壊滅させ、鉄砲隊の戦争における効果に決定的な評価を与えたのであった。
 このため、旧来の騎兵を中心にしたやりと刀での戦闘は意味を失い、とりわけ名乗りをあげて豪の者同士が争う一騎打ちは影をひそめ、これに代わって、足軽など身分の軽い者で組織された歩兵団をいかに巧妙に使うか、という点が、戦術の要諦として浮かび上がってきた。これは、一介の足軽でも鉄砲を使って相手の大将さえ殺すことができ、それゆえ論功にもあずかれる可能性のあることであり、下剋上の風潮に拍車をかけることになった点も見のがせない。

2024年3月7日木曜日

20240306 朝日新聞出版刊 朝日新書 東浩紀著「訂正する力」 pp.105-108より抜粋

朝日新聞出版刊 朝日新書 東浩紀著「訂正する力」
pp.105-108より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4022952385
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4022952387

 人間は「じつは・・・だった」の発見によって、過去をつねにダイナミックに書き換えて生きています。よく生きるためには、この書き換えをうまく使うことが大事です。それが訂正する力ということです。

 もちろん「じつは・・だった」は万能ではありません。その力を野放図に使うと、過去を都合よく書き換える場当たり的な人間になってしまいます。歴史修正主義の問題です。

とはいえ、それは人生の転機においては必要になる力です。長く続けてきた仕事を辞める、長いあいだ連れ添ってきたひとと別れる、そういうときに、多くのひとが、いままではまちがっていた、これからは新しい人生を送るんだと考えます。リセットの考えかたです。

 これども、いままでの仕事はたしかに苦しかった、いままでのひととは性格が合わなかった、でもそれは「じつは」こういう解釈ができて、その解釈をすると未来ともつながっている、だから、過去と切れるのはむしろ人生を続けるためなんだ、と考えたほうが前向きになれると思います。それが訂正の考えかたです。

 いまはそんな訂正する力をネガティブな方向で使っているひとが多い。「じつはずっと騙されていた」「じつはずっと不幸だった」「じつはずっと被害者だった」という「発見」はネットに溢れています。

 しかし、同じ力はポジティブにも使えるはずです。訂正する力を人生に応用する方法については、あらためで第3章で話します。

リベラル派は新しい歴史を語るべきだ

「じつは・・・だった」の発想は共同体の物語にも応用できます。

 いま日本は危機を迎えています。急速に進む少子化、深刻な国際情勢、経済的な凋落、低迷するジェンダー指数やエネルギー問題、頭の痛いことが山積みです。

 そこでどう舵を切るか。過去はまちがっていた、昭和の日本とは手を切るというのもひとつの方法です。多くのひと、とくにリベラル派はそういうリセットを望んでいるように見えます。

 けれども、そこでも訂正の考えかたを取ったほうがいいのではないでしょうか。具体的には、今後の日本を見据えたうえで、未来とつながるようなかたちで「じつは日本はこういう国だった」といった物語をつくるべきだということです。

 これは歴史修正主義を推進しろということではありません。歴史とは、過去の事実を組みあわせ、物語になってはじめて成立するものです。エビデンスに反しなくても、複数の物語がありえます。

 そのような作業が必要なのは、じつはいまは保守派よりもリベラル派のほうです。保守派はもともと物語をもっている。リベラル派は独自の歴史観に乏しい。

 たとえばリベラル派には、自民党の支持母体ということもあり、神道を警戒するひとが多くいます。たしかに戦前の国家神道には大きな問題があった。しかし、神道そのものについて言えば、これは日本の土着宗教、というよりも文化習慣と不可分なものであって、その価値を否定して政治的な影響力をもつのは難しい。それならば逆に、「じつは神道にはこのような歴史がある、それは保守派が想定するよりもはるかにリベラルで、私たちの未来に続いている」ぐらいの物語をつくってみたらいいのではないか。

 日本のリベラル派は戦後80年弱の歴史しか参照できず、その点でたいへん弱い。アメリカだと、共和党も民主党も独立宣言やゲティスバーグ演説に戻る。左右問わず国家の歴史が利用可能なリソースになります。

 日本でも同じように歴史に接するべきです。左右ともに歴史を参照して、はじめてバランスが取れる。別に天照大神や神武天皇に溯れとは言いません。それでもいろいろな歴史が語れると思います。

2024年3月5日火曜日

20240305 株式会社 河出書房新社 三島由紀夫著 対談集「源泉の感情」 pp.66‐69より抜粋

株式会社 河出書房新社 三島由紀夫著 対談集「源泉の感情」
pp.66‐69より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309407811
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309407814

言語だって、二十世紀になってから、ずいぶん意識的に考えられるようになったわけだろう。言語に対する、ある種の不信といってもいいかな。

 そこできみに聞きたいのだけど、どうだろうね、純粋に意味というものを媒介にして、言語を普遍化する場合、それは意味の普遍性に対する信頼だね、ちょうど数字の記号みたいに、記号に対応する内容は、一応客観的な普遍性をもっている。もう一つ、言語はさまざまなイメージを誘発する。同時に一つのイメージが、さまざまな言語を必要とする。しかし、その間の操作さえ適切であれば、その言語が、ある普遍的イメージを誘発し得るという信念がありうる。第三は、言語自体に対する信頼だ。意味やイメージは疑わしいものだが、言語そのものを、それ自体として信じる立場。言語に対する信頼にも、こんなふうに、いろんな立場や見解があるわけだな。これも結局、二十世紀になって、言語に対する総体的な信頼が失われたために、そんなふうに分析的になっちゃったわけだが、どうだろうね、われわれとしては、今後の文学上の課題として、いったいどういう立場を選ぶべきなのか・・・。

三島 文明社会のなかのセックスの映像は言語で媒介されるのだから、言語はばい菌みたいなものだからな(笑)。

安部 それはそうさ。言語を媒介しなければ、なんだって無害なものさ。

三島 有害じゃない。言語というのは非常に猥雑だからな。

安部 しかし、なにも疑わないで言語を使っている文学が、依然としてわれわれの周辺には多いのだよ。

三島 それはもうどんな時代でも、きっとあったのだろうと思うよ。いまほどではないが。

安部 でも、言葉に対して、一見いかにも厳しそうなことを言う人がいるね。日本語の美しさとかなんとか・・・。

三島 おれもよく言うのだよ(笑)。

安部 きみも言う。おれはあまりいい傾向だとは思わないけれどね(笑)。だいたい、そういうことを言う人が、本当に言葉に疑いを持ってみたことがあるのかどうか。その疑わしさを前提にしないで、厳しさだけを言ったところで、それはただ規範を外に求めるだけだろう。そういう疑わしさも持たない前時代的な文学が、無神経に文学として通用しているとことは・・・。

三島 きみのを聞いていると、つまり日本のくだらん小説を頭のどこかにおいてる・・?

安部 うん、大多数の小説の普遍的状況だな。

三島 そうか。

安部 それはおく必要ないか。

三島 おく必要はないのではないか。おれはきみの話を聞いていてね、きみが三つ出したから、その三つの類型について一人一人具体的にきみのあれを聞きたいな。その一つにはこういう作家がいる。第二にはこういう作家がいる。日本人でも西洋人でもいいけれども。

安部 類型は図式だから、それほどすっきり現実に適用するわけにはいかないな。しかし、アンチ・ロマンの出現なんかは、やはり意味とイメージと言語の関係の再検討だろうし・・。やはり言語の疑わしさというものを、これからの文学を考える場合には、考えざるをえないのではないか・・。

三島 なるほど。それでね、純粋言語という問題が出てくるけれども、いま言語から夾雑物を取り除いて、そうして言語からコンベンショナルな観念をみな取り除いて、言語が成り立つかどうかということは、シュールレアリストがやったことだよね。それから十九世紀にそういう試みはたいていされていったのだけれども、絵なら絵というものが、絵の言語を、どうしても絵だけしか通じない言語をもちたいというのが、印象主義の芸術だと思うのだよ。そういう傾向はどこから出てきたかといえば、ロマンティックが何もかもごちゃまぜにしちゃった。これではいけないというので、みながそれぞれ考え出したのが、それからあとの傾向だと思う。二十世紀にきたら、そういう純粋言語に関する実験というものは、少し古くなっていると思うのだ。

20240304 2150記事に達して思ったこと:即自的から対自的への過程について

 直近、3月2日の引用記事投稿により、総投稿記事数が2150に到達しました。そして、そこからさらに50記事更新することにより、当面の目標としている2200記事に到達することができます。

50記事は、毎日1記事の更新により、2カ月弱の期間で達成可能ですが、若干余裕を持たせ、来る5月半ばでの到達を目指し今後も継続したいと思います。また、5月半ばでの2200記事到達を想定しますと、当ブログ開始から丸9年となる6月22日も近く、おそらく、そこまでは継続するものと思われます。

しかしながら、以前にも述べましたが、9年間の継続が出来たのであれば、さらに1年追加して、10年間継続することも、そこまで困難ではないようにも思われてきますので、あるいは、2025年の6月まで、どの程度の記事数になるかは分かりませんが、続けることになると思われます。

とはいえ、ブログ開始当初は継続期間などは全く考えず、ただ、自らの吐露したいことをブログ記事として作成してきましたが、そうした思いや考えが思いのほかに多かったのか、300記事程度までは、そのような感じであったと云えます。

また、当時の記事は、現在読んでみますと、さまざまな考えが重複しつつ、繋がり合っていたことに気付かされ、また、それが現在に、どのように結節しているのかといった疑問も惹起され、そこから、当時、記事の題材としたことが、現在に至るまであまり変わらない、私の興味の方向性なども看取され得ます。

そうした題材は、当ブログを継続的に読んでくださっている方であれば、おそらく、お分かり頂けると思われますが、銅鐸や古墳などであると云えます。そして、私がこれらに興味を抱くようになったのは、現在から20年ほど遡る、今世紀初頭、南紀白浜に在住していた時期でした。

それ以前の私は、そうしたことにはあまり興味を持つことなく、ただ、漠然と大学院のヨーロッパ文化専攻に進みたいと考えていました。しかしながら、当時の私の日常はヨーロッパ文化とはほど遠い南紀白浜にあり、この地域はあまり多くの人々が住んでいないにもかかわらず、古くからの人跡が数多くあり、それが古社であったり、その境内に立地する古墳であったり、あるいは何かの遺構であったりしました。

くわえて面白いことは、そうした古社や古墳、遺構などにまつわる現代まで伝わっている伝承や口碑があることでした。こうしたことは首都圏で育った私としては大きな驚きであり、また同時に、我が国の歴史文化については、ある程度の知識を持っていると、秘かに自負していた私にとっては、大きな挫折ともなりました。

そうしたなか、紀伊田辺の書店での立ち読みや、当時普及したてのインターネット検索などで、面白そうな著作を見つけては、少しずつ読んでいますと、さきの地域の言い伝えや口碑の内容とも類似あるいは相通じるものがあることが、ボンヤリとながら認識されてくるのです。こうした経緯は、現在、振り返って、こうして文章化しますと、おそらく、その通りであったとは云えるのですが、しかし、その実際の経緯には、我がことながら、明確な意図や計画といったものはありませんでした。また、自然な興味の推移といったものは、概ね、そのような様相になるのではないかとも思われます。

ともあれ、さきに述べたような経緯で、徐々に読む著作にも変化が生じ、やがて現代語訳版の「日本霊異記」(「日本国現報善悪霊異記」にほんこくげんほうぜんあくりょういき)などの古典もごく自然に読むことが出来るようになりました。

そういった意味で、和歌山を含む近畿圏とは全般的に、歴史文化の重層化の仕方、そしてその現代での有様といったものは、そこに住んでいますと、徐々に、そして自然と感覚的に理解出来るようになり、そしてそこからの文献、著作などを通じた対自的なものとしての認識へもまた、比較的自然に至ることが出来るののではないかと思われますが、ここで面白いと思われることは、地域の歴史文化を生きたモノとして見るためには、自らが生れ育った場所・地域での生活経験のみでは困難であり、どこか他の地域での(数年にわたる、埋没した)在住経験・日常生活を経て、そうした認識の仕方を得て、そしてそれを用いて、自らの故郷や、あるいはまた、他の地域を対自的なものとして理解・認識することが出来るようになると思われるのです。

とはいえ、現在の私を鑑みますと、そうした異郷での在住期間が長く、そしてまた、その過程において自分自身も変わってしまい、全体としては疲れてしまったように思われるのです。それはおそらく鹿児島在住期間での生命の燃焼度が、それまでと比べ、顕著に強かったからであるのではないかと思われるのです。

時折、研究室でご一緒させて頂いた先生方や、その他で知遇を得た先生方から、当ブログを読まれているのかいないのか「よく昔のことを憶えているね。」といった主旨のことを仰って頂きますが、それは端的に、先述の生命の燃焼度が強かったからであり、その要因は、人の情感を励起させる当地の風土や習俗、あるいは個人的には、兄の死や指導教員の予期せぬ退職などにより、精神が「危機モード」になっていたからであると思われます。

そして、そうした緊張はあまり長い期間続けることは出来ず、学位取得を頂点として徐々に弛緩そして緩慢なものになり、それをどうにか制御するために、学位取得の2年後である2015年より、当ブログをはじめたのだとも云えます。また、この公表を前提とするブログが現在まで(どうにか)継続することが出来ているのは、さきに述べた鹿児島在住期間に「危機モード」になり、生命の燃焼度も強まり、公開の文章を作成するような(してしまうような、ある種、躁的とも云える)精神のスタンスを覚えた(覚えてしまった)からであるのではないかと思われるのです。

このことにつきましては、まだ思うところがありますので、後日、またの機会に述べたいと思います。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

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2024年3月2日土曜日

20240302 株式会社新潮社刊 新潮選書 高坂正尭著「歴史としての二十世紀」 pp.150-151より抜粋

株式会社新潮社刊 新潮選書 高坂正尭著「歴史としての二十世紀」
pp.150-151より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4106039044
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4106039041

 戦後資本主義は社会福祉を制度内に組み込んで、以前にも増して強固になりました。だが、問題がないでもない。今の社会が民主主義ならば、国民の力は強いはずです。しかし、別のものが大きくなっていないでしょうか。

五〇年前を思い出せば、町役場、市役所、区役所は規模が今の五分の一くらいでした。古い役所と新しい役所、有楽町の旧都庁と新宿の東京都庁を比べれば、庁舎がいかに大きくなかがわかります。そして、その分、行政権力も強大になっている。一方、当の住民の力が強くなったとはいえない。「みんな」と言いながら、本当のところ役所が大きくなっているのです。

 そのように、政治機能がとてつもなく大きくなり、政治家がやらなければいけない仕事は桁外れに増えました。今の政治家は気の毒です。私は年に二回くらい永田町に行く用事があるので知っていますが、朝七時五〇分の自民党本部前、日本中であそこほど、人が頻繁に出入りしている場所ではありません。他は警察と自衛隊関連の施設くらいでしょうか。八時前から勉強会、会議に出て、宴会の後帰るのが一〇時、一一時。

議会の審議でときどき居眠りでもしなければ身がもたない。彼らが特に優秀になったという話も聞きません。私は固い信念がありまして、人間の頭が動くのは一日に四時間が限度です。それ以上の頭脳労働は絶対無理です。仕事は増えて、時間は足りないので、オーバーワークで、頭がズタズタの綿みたいになっているはずです。寝る暇もないようなオーバーワークをぜざるをえない理由は、政治機能の肥大化にあるのです。

 福祉国家と民主主義の両立、資本主義の将来性には、依然としてそのような問題が残っていますが、共産主義が潰れたので、資本主義が手放しにいい、ということになってしまいました。

その点については、私が敬愛するケインズによる「自由放任の思想がここまで人々に信用されてきたのは、それを攻撃した社会主義や共産主義の人たちがよほど出来が悪かったからだ」という誰も引用しない名言があります。半世紀前によくこんな傲慢でありながら鋭い指摘をしたと感心させられますが、今の時代、この意味をもう一度噛み締めるべきでしょう。

ケインズは経済学者ですが、難解な理論は専門家にまかせておいて、彼の素晴らしいのは人物評伝であり、ちょっとした発言であり、さらにその中の批判や悪口です。「自由放任の思想がこれまでのさばってきたのは、資本主義と自由放任を批判する思想があまりにもくだらなかったから」と一刀両断です。共産主義との対抗関係があったから、自分たちのシステムが本当にいいのか悪いのか考えてくるのを怠ってきた。その点を今こそ考えるべきではないでしょうか。

2024年3月1日金曜日

20240229 株式会社講談社刊 養老孟司・茂木健一郎・東浩紀著「日本の歪み」pp.131‐133より抜粋

株式会社講談社刊 養老孟司・茂木健一郎・東浩紀著「日本の歪み」pp.131‐133より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4065314054
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4065314050

養老 防衛費の拡大で気になるのは、戦前の轍を踏まないかということです。「天皇制」といっても、天皇の下にはいつも武力をもった幕府がありました。日本の歴史を見れば、天皇制の中から鎌倉幕府という暴力集団が成立し、江戸幕府まで続きます。尊王攘夷の明治政府も同じ構造です。一〇〇〇年近く続けてきたものから簡単に抜けられるのでしょうか。
 言い換えると、暴力をいかに言語で統制するかという問題を本気で考えているのかということです。「シビリアン・コントロール」といいますが、そもそも英語ですから。自分の国の言葉にもできないようなことが身につくのかよ、と思います。

東 重要な指摘だと思います。おっしゃるように、日本は武家支配が長い軍人国家です。鎌倉幕府以降、一九四五年までずっと武士や軍人の時代だったわけで、むしろ戦後日本のほうが軍政の影がない様な稀な時期でしょう。だから軍人以外の人たちこそが社会の実体だ、ということをあまり真剣に考えたことのない国なのかもしれませんね。

茂木 戦後日本の出発点となってGHQだって、つまりは「アメリカ軍」だもんな。つまり日本国憲法は「軍政」の下でできた。

東 軍政下で作った平和主義です。だから朝鮮戦争が起きたら即、脱臼されてしまう。

茂木 第九条だって本当は、「戦力は保持しない、但しアメリカ軍を除く」というのが実態で、日本国内に軍はずっとあったんですよね。

東 日本の民主主義の起源として、「船中八策」とか「五箇条の御誓文」を持ち出してくる人がいるでしょう。けれど、僕の理解では、民主主義というのはまず人民が力を持つ、人民こそが社会の本体であるという発想が必要なんですよね。「和が大切」というのとはちょっと違うし、「みんなで決める」といっても「偉い人がみんなに意見を聞く」だけではだめなんです。自分たちで決めないと。けれども日本では、みんなでわいわい言ったあと、「偉い人」が決めて丸く収めてくれるのを民主主義だと思っているふしがある。ある意味で権威主義的な国だとも言えますよね。

養老 そうですね。憲法の問題にせよ、民主主義の問題にせよ、今の状況だとどうも空中戦のように思いますね。