2023年5月1日月曜日

20230430 株式会社角川書店刊 横溝正史著「獄門島」 pp.9-10より抜粋

株式会社角川書店刊 横溝正史著「獄門島」
pp.9-10より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4041304032
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4041304037

それは終戦後一年たった、昭和二十一年九月下旬のことである。いましも笠岡の港を出た、三十五トンの巡航船、白竜丸の胴の間は種々雑多な乗客でぎっちりとつまっていた。それらの乗客の半分は、ちかごろふところぐあいのいいお百姓で、かれらは神島から白石島へ魚を食いに出かけるのである。そして、あとの半分は、それらの島々から本土へ物資を仕入れに来た、漁師や漁師のおかみさんたちである。瀬戸内海の島々は、どこでも魚は豊富だけれど、米はいたって不自由だから、島の人々は魚を持って、米と交換して来るのである。

 すりきれた、しみだらけの、薄ぎたない畳敷きの胴の間は、それらのひとびとと、それらのひとびとの持ちこんだ荷物とで、足の踏み場もないほどであった。汗のにおいと、魚のにおい、ペンキのにおい、ガソリンのにおい、排気ガスのにおい、どのひとつをとってみても、あまり愉快でないにおいが、錯綜して、充満しているのだから、気の弱いものなら、嘔吐を催しそうな空気だけれど、漁師と百姓、いずれも神経の強靭な人たちばかりである。そんなことにはおかまいなしに、この辺の人間特有のかん高い調子でしゃべりまくり笑い興じて、その騒がしいことといったらお話にならない。

 ところがそういう胴の間の片すみに、ただ一人ちょっと風変わりな男が乗っていた。その男は、セルの袴をはいている。そして頭にはくちゃくちゃに形のくずれたソフトをかぶっている。いまどきは家にいるときの百姓だって、洋服あるいは洋服に類したものを着ている。ましてや旅に出るとあれば、猫も杓子も洋服を着る。現にこの胴の間につまっている乗客でも、男で和服を着ているのはこの男のほかにもうひとりしかいなかったが、これはお坊さんだから致し方があるまい。

 こんな時代に、あくまでも和服でおしだすこの男は、どこかしんにがんこなものを持っているのだろうが、見たところ、いたって平凡な顔つきである。がらも小柄で、風采もあがらない。皮膚だけはみごとな南方やけがしているが、それとてもあまりたくましい感じではない。年齢は三十四・五というところだろう。

 胴の間の喧騒もどこ吹く風といわぬばかりに、その男は終始窓際によりかかって、ばんやり外をながめている。瀬戸内海の潮は碧くすみわたって、あちこちに絵のような島がうかんでいる。しかしこの男はそういう景色にもかくべつ心を動かすふうでもなく、いかにも眠たげな眼つきである。