2021年12月24日金曜日

20211223 株式会社日本評論社刊 中井久夫著「日本の医者」 pp.150-152より抜粋

株式会社日本評論社刊 中井久夫著「日本の医者」
pp.150-152より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4535804249
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4535804241

また人間の例ばかりでなく、微生物も、人間に感染をくり返しているうちに性質が変わる。微生物はなにしろ数が多いので、そのなかにはさまざまな突然変異種がたえず発生している。そうして代がわりが非常に早い。たとえばウィルスの10年は、高等生物の100万年以上に相当するという。したがって、進化の速度が非常に早いわけである。適者はまたたく間に全体の99.9パーセントをしめるようになる。

微生物の人間に対する毒力の変化は、むかしから学者のあいだで注目されてきた、あまりに強毒な微生物で、それにかかった生物がたちまち死ぬようなものは微生物にとってあまり有利ではない。それよりも発病してからも、微生物をまき散らしながら長い間生きていてくれる方が都合がよいわけである。もっとも繁殖できないほど毒力がよわくても、微生物の子孫繁栄のためには具合がわるい。結局、中程度の毒力のものが、時の経過とともに主流を占めるようになることが多い。

このような変化は、オーストラリアのウサギを退治するため、人間が、南米からあるウィルスを持ち込んだ時におこったことである。ウサギは結局全滅しないで、数年後には、あまり毒力のつよくないウィルスがウサギの間に流行をくり返すようになり、ウサギとウィルスの間にある種の平衡ができあがってしまった。

人間の病気でも、梅毒などは、カリブ海の小島からひろまって以来の500年のあいだに、あきらかに毒力がよわまっているのであり、そのかげには、このような事情が考えられるようである。

むろん、事がそれほど簡単でない場合も多い。狂犬病は、一発必中の、きわめて毒力のつよいウィルスである。しかし、これは人間から人間へと伝染するものではない。そもそもは、おそらくイタチのたぐいがもっているウィルスであり、イタチにとっては、無害なウィルスであろう。実際、南アフリカではマングースというイタチの類がもっていることがわかっている。マングースをたまたまイヌがつかまえる。イヌが感染し、他のイヌをかんだり、ヒトをかんだりする。このようにしてヒトやイヌに別の世界のウィルスがまぎれこむのである。一般にきわめて毒力のつよいウィルスは、その動物にはなじみの浅いものが多い。サルにはかるい病気しかおこさないヘルペスBウィルスは、病気のサルにかまれたヒトには、狂犬病におとらぬ致命的な病気をおこす。有名な日本脳炎ウィルスは蚊には全く無害なウィルスである。おそらくもともとは蚊のウィルスであろうといわれている。

このように感染したら最後、人間を倒さずにはおかないものから、大腸菌のように、まったく人間と平和共存をしているものまで、微生物と人間との関係はさまざまであり、しかも、その間には野生の動物や家畜が介在している。そうして、自然的・社会的な環境が変動すれば、それにつれて思いもかけないまったくあたらしい局面が生まれてくる。アメリカの細菌学者デュボスの名著「健康という幻想」の言うように、人間が病気とまったく縁を切ることはおそらく不可能であろう。

しかし逆に、自然環境や社会的条件がほぼ定常的であるなら、病原微生物と人間との関係には一種の平衡が成り立つことになる。むろん、それは、長い時間をかけて獲得されるバランスであり、多くの個体の犠牲に成り立つバランスであろうが。

ゆたかな出生率と地域の孤立性はこの安定に大いに寄与するものである。「古事記」にあるイザナギノミコトとイザナミノミコトの問答の中で、今や死者たちの国の女王と化したイザナミノミコトが地上の国の支配者のイザナギノミコトに対して、「お前の国の人間を日に千人死なせる」と呪うと、イザナギノミコトは「それならば日に千五百人ずつ生み出す」と宣言する話がある。そのように、豊かな出生率によって高い死亡率に対抗することが、人類が病気の脅威の下で生き残るいちばん古い戦略であった。共同体の小ささと交通のとぼしさが、地球上のどこかでおこった流行をその小さな地域に封じ込めていたことも、おおいにあずかって力になったであろう。