2020年2月26日水曜日

20200226 時代精神・地域性と人工知能

今回の記事投稿により、総投稿記事数が1250に到達します。そして、今月中、新規にて2記事投稿出来れば、以前に述べた目標をクリアすることになります。そうしますと、残り3日の今月のうち、2日間投稿(1日1記事として)すれば良いということになりますが、果たしてコトはそこまで上手く運ぶのでしょうか・・。

さて、先日来から読み進めている岡義武著「国際政治史」は、その後頁が進まず今に至っておりますので、出来れば近日中に読了し、新たな著作を読み始めたいと考えています。

新たな著作として現在考えているのはユヴァル・ノア・ハラリによる「21lessons 21世紀の人類のための21の思考」ですが、ここに来て、折角であれば、もうしばらく近現代史について扱った著作を読んでみてはどうかとも考え始めています・・(苦笑)。

さきにも述べました通り、近現代史、特に我が国の昭和初期のそれは大変に痛ましいものがあり、おそらく、どの頁を開いてみても眉間に皴が寄るような感じがあると云えます・・。

しかしながら、これもさきに述べました通り、我が国のこの時期の歴史に対し、ある程度クリアな認識を持っておくことが、さきの時代を考える上で極めて重要であるように思われるのです・・。

これは、あまり云われることは少ないのですが、ある時代・地域に生み出されたさまざまな事物は、それを生んだ時代精神を象徴するものと云えます。その意味において、昭和初期、特に昭和6年(1931年)あたりからのそれは、全体的に不自然であり、何と云いますか、のびのびとしたところが少ないように見受けられます。異言しますと、桎梏に喘ぐ人々が、そこから逃れ得ず、また、そこで苦しんでいるということを外に云えないような状況にある時に表現されたものであるといった感じを受けるのです・・。

とはいえ、こうしたことは後知恵であると評されても仕方がありませんが、それでも、この時代の事物には、感覚的に何かしら嘔吐感を催すものがあると感じられます・・。

そして、それと同じような感覚を最近の広告やテレビ番組を見ていますと、不図、感じることがありますが、これは「私が疲れているからなのであろうか・・?」とも思うのですが、他方で「そこには何らかの共通性があるのではないか?」と考えてしまう私もまたいるのです・・(苦笑)。

このような各時代・地域におけるさまざまな事物から、それぞれの時代精神や地域性を考えようとすることは、もっと広く行われても良さそうに思われるのですが、私の見聞きするところ、現今の我が国では、そうした試みは、あまり為されていないように見受けられます。

あるいはまた、こうした時代・地域毎のさまざまな事物と、それぞれの時代・地域に当て嵌まると思われる言語表現を、人工知能に学ばせていくことにより、ある程度の確率で、未だ評価が定まっていない時代・地域に対する時代精神・地域性の仮説のようなものを提示することが出来るのではないかとも思われます・・(笑)。

そして、今後、こうした人工知能ソフトが出来ましたら、現在の我が国社会に対しては、どのような評価の仮説が提示されるのでしょうか・・(笑)?

今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。