2024年1月1日月曜日

20240101 株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」pp.262-265より抜粋

株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」pp.262-265より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4794203233
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4794203236

ロシアの相対的な力は一八一五年から数十年間、国際的には平和がつづき、産業革命が進行するにつれて衰えていく運命にあった。だが、このことが明らかになるのはクリミア戦争『一八五四~五六年)が勃発してからである。

一八一四年、ヨーロッパは西に進出してくるロシア軍に畏怖の念をおぼえ、パリの民衆は抜け目なく「アレクサンドル皇帝、ばんざい」と叫んで、コサック旅団を先に立てて入城してきたツァーリを迎えた。和平協定そのものは、徹底的に保守的な立場から今後の国境や政治体制を決めようというもので、八〇万の軍隊を擁するロシアも支持にまわっていた。

ロシア軍はどの国の軍隊よりも強大で、海上で英国海軍が圧倒的な力をふるっていたのと同じく、陸地では行く手を阻むものがなかった。オーストリアもプロイセンもこの東の巨人の影をつねに感じ、王室同士で手を結びあっているときでも、ロシアの力に対する恐れが消えなかったのである。ヨーロッパの憲兵としてのロシアの役割は、救世主のようにあらわれたアレクサンドル一世から専制的なニコライ一世(在位一八二五~五五年)に代わったあとも、強まりこそすれ減ずるものではなかった。

ニコライ一世の姿勢は、一八四八年から四九年の革命の嵐によってさらに強硬になる。パーマストンが述べているように、このころはロシアとイギリスだけが「毅然として立つ」ゆるぎない大国だったのである。ハプスブルグ政権が必死の思いでハンガリーの反乱を鎮圧する助力を乞うたときには、ロシアは三個軍を派遣してこれに応えている。

だが、逆にプロイセンのウィルヘルム四世が国内の改革派につきあげにられて動揺し、ドイツ連邦の変更を提案したときには、ロシアは断固たる圧力を加えて、ついてにベルリン政府に国内では反動的な姿勢を強化させ、オルミュッツでは譲歩を余儀なくさせた。「変化を求める勢力」は、ポーランドやハンガリーの民族主義者も、欲求不満をつのらせたブルジョア自由主義者も、マルクス主義者もこぞって、ヨーロッパの進歩の前に立ちはだかる最大の障害はツァーリの帝国だと考えていた。

 しかし、経済と技術の水準では、ロシアは一八一五年から八〇年までのあいだにみる影もなくなっていく。少なくとも他の大国にくらべて、その衰えは明らかだった。もちろん、だからといって経済がまったく発展しなかったわけではない。ニコライ一世のころでさえ、官僚の多くが市場経済やあらゆる近代化に敵意を燃やしていたが、経済は成長していた。人口は急速に増え(一八一六年には五一〇〇万人だったものが、六〇年には七六〇〇万人、八〇年には一億人)、とくに都市部での増加がいちじるしかった。鉄の生産も増大し、繊維産業も数倍の成長をとげた。一八〇四年から六〇年までに、工場や企業の数は二四〇〇から一万五〇〇〇に増えたといわれている。さらに蒸気エンジンや近代的な機械が西側から輸入された。一八三〇年代からは鉄道網の建設も始まる。歴史家がこの時期のロシアには「産業革命」があったのかなかったのかと議論していること自体、ロシアの発展を裏書きするものであろう。

 だが、肝腎なのは、それ以外のヨーロッパ諸国の発展のスピードの方が大きく、ロシアは取り残されてしまったことだった。人口がはるかに多かったから、十九世紀初めの国民総生産はロシアが最大だった。ところが、二世代あとには、第9表(265頁)に示されているように、国民総生産の総額でも追い越されてしまっている。

 しかし、この数字を国民総生産一人当たりの額に換算してみると、さらにはなはだしい差があらわれる(第10表参照)。

 これらの数字が示しているのは、この期間のロシアの国民総生産の増大が圧倒的に人口の増加によるものであって、この人口増加が出生率の上昇のせいか、トルキスタンなど新たに征服した領土のおかげかはともかく、(とくに工業の)生産性の向上とはあまり関係がなかったということである。ロシアの一人当たり所得と一人当たり国民総生産はつねに西ヨーロッパに劣っていた。だが、いまやその差がいっそう開き、(たとえば)一八三〇年には一人当たり所得がイギリスの半分だったのが六〇年後には四分の一になっている。

 同じく、ロシアの鉄の生産は十九世紀初めに倍増したが、イギリスは三〇倍に増えており、比較にもならなかった。数十年のうちに、ロシアはヨーロッパ最大の鉄生産、輸出国から転落して、西側からの輸入に依存する度合がますます高まっていく。鉄道や蒸気船の発達による運輸通信手段の改善も、相対的な視点でみる必要がある。一八五〇年当時、ロシアには五〇〇マイルあまりの鉄道が敷かれていたが、アメリカでは八五〇〇マイルにおよんでいた。さらに蒸気船による貿易も大きな河川やバルト海、黒海の沿岸でさかんになったが、積み荷の多くは増えつづける国民を養うための穀物と製品輸入の代金としてイギリスに送られる小麦だった。またあらたな進歩がみられても。そのほとんど(とくに輸出業務)が外国の商人や企業家に握られていて、ロシアは先進国経済に一次産品の原材料を供給する国という性格を強くしていく。さらに詳細に検討すれば、新しい「工場」や「工業関係の事業」のほとんどは労働者数一六人以下で、機械化もろくに進んでゐないことがわかる。資本の不足と低い消費需要、そして専制君主の横暴と国の疑い深い姿勢、これらがあいまってロシアの工業の「離陸」はヨーロッパのどの国よりも困難だったのである。

 だが、しばらくのあいだは、経済の暗い見通しもロシア軍のいちじるしい弱体化にはつながらなかった。それどころか、一八一五年以降、大国がみせたアンシャン・レジーム擁護の姿勢がいちばんはっきりとあらわれたのが、軍隊の構成、武器、戦術面だった。フランス革命の余波が残っていたから、各国政府は政治的にも社会的にも軍事力に頼る傾向が強く、軍部の改革には乗り気でなかった。将軍たちも、大きな戦争によって力を試されることがなくなって階級や服従を重視し、慎重になった。この傾向を助長したのがニコライ一世の閲兵好き、大行進好きである。こんな状況であるから、徴兵によって維持される大規模なロシア軍は、外部から見るぶんにはいかにも力強い戦力にみえた。兵站や将校の教育水準といった問題は外部からはわかりにくかった。しかもロシア軍は活動的で、たびたびの軍事行動に勝利をおさめて、カフカスやトルキスタンに領土を広げていた。この動きをインドにいるイギリスが警戒しはじめたため、十九世紀のロシアとイギリスの関係は、十八世紀のそれとくらべてかなり緊張したものになる。

20240101 東京大学出版会刊 池内 恵・宇山 智彦・川島 真・小泉 悠・鈴木 一人・鶴岡 路人 ・森 聡 著「ウクライナ戦争と世界のゆくえ」pp.112‐113より抜粋

東京大学出版会刊 池内 恵・宇山 智彦・川島 真・小泉 悠・鈴木 一人・鶴岡 路人 ・森 聡 著「ウクライナ戦争と世界のゆくえ」pp.112‐113より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4130333054
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4130333054

イスラエル

 イスラエルはユダヤ人による民族主義(シオニズム)に基づく建国の当時から、米国といわゆる「特別な関係」にあり、公式の同盟関係にはないものの、事実上は米国の最有力・最重要の同盟国の一つとみなされている。外交や安全保障政策における密接な関係や、最先端の米国製兵器の他に優先した供与や、兵器の共同開発などで、米国との関係は深く、トランプ政権期に顕著だったように、相互の国内政治はしばしば複雑に相互影響する。そのようなイスラエルであるが、ロシア・ウクライナ戦争に際しては、米国の対露制裁に加わらず、ロシアとウクライナ、米国とロシアの間で、中立の立場を維持しようとしてきた。防空システムのアイアン・ドームやドローン等のイスラエル製兵器や、イスラエルの技術が入って共同開発した兵器の、ウクライナへの供与を拒否するなど、政治的・軍事的に反露姿勢を取ることを最大限回避し続けた。イスラエルはウクライナ支援に際し「ウクライナの人々」に対する「人道支援」に厳しく限定し、大きく国際的に広報を行った。侵攻から間もない三月五日に、野戦病院の設立のため医師チームを派遣すると発表し、翌週にはこれを実施し、六週間にわたり活動して四月末には撤収させている。

 イスラエルは建国当時から東欧・旧ロシア帝国・旧ソ連からのユダヤ人の移民を国家の根幹としてきた。ソ連邦崩壊の際にはウクライナとロシアを中心としる旧ソ連圏からの大規模な移民の波を受け入れ、その後もロシアやウクライナのユダヤ人との民族的な人的ネットワークを外交にも生かしている。ロシアとウクライナへの戦争の勃発は、ユダヤ系人口の拡大・維持を国家存立の最重要課題とするイスラエル政府にとって、新たなユダヤ人移民の波をもたらす可能性のある好機とも言える。ゼレンスキー大統領自身がユダヤ人であることや、プーチン政権に近いオリガルヒの中にユダヤ人が多いことも、イスラエルとウクライナとロシアとの間に、人的ネットワークを成長させてきた。また、イスラエルは労働力不足に悩み、スーダンやエリトリアなどアフリカ諸国からの非ユダヤ人の移民の不正入国や不正就労を、制度上はともかく経済的な実情としては、事実上、一定数受け入れている事情がある。ウクライナからの避難民は、より文化的な摩擦の少ない、教育水準の高い経済移民としても歓迎され得る経済的実績がある。

 イスラエルの連立政権の交代制の首相だったナフタリ・ベネットは三月五日にロシアを訪問し、モスクワでプーチン大統領と会談した。これがユダヤ教の安息日の土曜日であり、宗教的には、生き死にに関わる事柄でなければ労働が許されてないにもかかわらず訪問を行ったことも、話題を呼んだ。ベネット首相のモスクワ訪問は、二月二四日の衝撃的なウクライナ侵攻によって国際的な孤立に陥りかけていたプーチン大統領に、「西側」の外国首脳として異例の速さで手を差し伸べる形となった。同時期にベネット首相はウクライナのゼレンスキー大統領と頻繁に電話会談を行い、プーチン大統領との仲介を図った。ベネット首相の姿勢はしばしばロシア寄りとみなされた。三月八日の電話会談でベネット首相がゼレンスキー大統領にロシアの要求を呑んで降伏するよう要請したとの情報がウクライナ側から一時期流れ、のち否定される一幕もあった。三月一二日にウクライナのキーウで行った記者会見で、ゼレンスキー大統領は、プーチン大統領との協議の場をエルサレムで設けるようにベネット首相に依頼していると語った。ヤイル・ラビド外相が往々にして親米・親西欧的な、リベラルな国際秩序の護持の姿勢を示すのに反して、あるいは役割を分担して、活発にウクライナ問題をめぐる外交を繰り広げた。

 ゼレンスキー大統領は三月二〇日にイスラエルの国会(クネセト)でビデオ演説を行ったが、これは英国(三月八日)、カナダ(三月一五日)、米国(三月一六日)、ドイツ(三月一七日)に次ぐ五番目であり、ゼレンスキーの一連の演説の中で非欧米圏では最初に行われた国となった(日本は三月二三日で六番目)。