2017年11月17日金曜日

20171116 英雄と逆賊 筑紫君磐井と西郷隆盛

九州の人々には『我々の祖先が日本古代史の幕を開けた』といった自負心がどこかにあるように思われる。

それは日本が未だ統一国家として成立する以前から九州北部諸地域は大陸、朝鮮半島と交易を行い、そして数多くの銅鏡、特に前漢鏡の出土がこの地域にて認められることからも実証される。

くわえて、福岡市の志賀島にて江戸時代に出土した金印『漢委奴国王』は、当時の文献とも符合し、当時(後漢・AD25~220)より交流が為されていた証拠と云える。
(奴国とは、現在の博多湾沿岸地域にあった古代国家の一つである。)

以上のことをも含め、大陸からのさまざまな文化事物の集積が為された九州北部は、地理的に大陸に近いという有利な点が大きく作用し、古代の文化先進地であった。

しかしながら、九州の人々にはそれ以上に『我々の祖先こそが日本で最初の新たな文化を創造したのだ』といった思いを大切にしたいという気持ちが強くあるように思われる。

こうした気持ちは古代国家群が統一され、政治、経済、文化の中枢が畿内にて形成されることによって、九州の人々にはさきに述べたような辺境意識が徐々に形成され、そして、さきの気持ちとの葛藤が生じると云える。

そして、そこで生じる葛藤こそが、さきに述べた九州の人々の中央に対する凝集性、求心性およびそれとは反対の遠心性の根源にあるものではないかと考える。

また、そうした辺境意識、葛藤に訴え九州の人々の心を鼓舞し、そして悲涙を誘うのが古代においては筑紫君磐井であり、また近代であれば西郷隆盛であると云える。

西郷隆盛は西南戦争後、明治維新における功績によって逆賊の汚名は返上され、英雄と見做されたが、筑紫君磐井は1945年以前の天皇が社会において、より重かった時代においてはあくまでも逆賊のままであった。

しかしその反面、地域においては、より身近な、正しいとも云える筑紫君磐井に対する態度は継承され続けた。

筑後国風土記逸文により筑紫君磐井の墓所と比定される福岡県八女市にある岩戸山古墳では磐井の乱以後も祭祀が為された痕跡が古墳周囲にて発見されている。

継体天皇の御代、六世紀前期における磐井の乱から1945年の太平洋戦争の終結に至るまで、この古墳が地域において残されてきたことには地元の方々の間で継承され続けた(筑紫君磐井に対する)温かい素直な気持ちがあったからではないかと思われる。

今回もまたここまで読んで頂きどうもありがとうございます。


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