2017年8月9日水曜日

20170809 1895・1945:広島・長崎 【帝国主義の出発点と終着点】★★★★

本日の首都圏は日中気温も上昇し、ようやくこの時期らしい陽気になったのではないかと思われます。

そして、今現在(22:07)もまた多少蒸し暑く感じながら、当ブログ記事作成をはじめた次第です。

さて、現在の我が国において広島、長崎と聞きますと、殆どの場合『原子爆弾が投下された都市』という反応が返ってくると思われます。

しかしその一方で、そこ(1945年)から50年遡った頃にて広島、長崎と考えてみますと、それは丁度日清戦争の講和会議が為された頃であり、当初、清国側の使節は広島に上陸したものの日本政府側から必要書類の不備および使節人員地位が不十分であると指摘されたことにより広島から長崎へ渡り、そこから一旦帰国したことが陸奥宗光著『蹇蹇録』に記されています。

その後、本国にて書類が整えられ、しかるべき地位の人員構成による新たな使節が来日し講和会議が為され下関条約(馬関条約)が締結されたことは御周知のことと思われます。

とはいえ、この締結された条約内容は、その直後のロシア、フランス、帝政ドイツによる所謂三国干渉によって強圧的に改変され、そして我が国にとっては次なる戦争(日露戦争)への端緒が切って落とされることになるわけです・・。

ともあれ、この50年の年月を隔て、両都市が歴史の流れに登場することは、おそらく単なる偶然ではあるのでしょうが、少し見方を変え、これらのこと(1895年、1945年)考えてみますと、それぞれ日本帝国主義の国際的な意味での出発点と終着点とも評することが出来るのではないかと思われます・・。

しかしながら、こうした歴史の見方とは、要するに後知恵の最たるものであり『そうであるから次はこうなる。』といった見方に基づく未来の推測・予測が為されてはいけない類いのものであると考えます。

もとい、このように歴史の流れとは大変面白いものでありながら、それを扱う我々人間の普遍的ともいえる浅はかさを簡単には修正、補完させない何かがあるのかもしれません。

とはいうものの、であるからといって(表層的にはどうであれ)歴史を無視、バカにすることから生じる災厄とは、前者の結果に劣らず恐ろしいものであることもまた認識しておく価値があることではないかと思われますが如何でしょうか?

また、文系学問全般の存在意義とは、究極的にはそういったところにあるのではないかと思われます・・。

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在までに発生した一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害により被害を被った諸地域での速やかなインフラの復旧、回復および、その後の力強い復興を祈念しています。