2016年12月24日土曜日

50161223 501回目の投稿 創造性を生む文化的土壌としての議論の重要性

直近の500回目の記事投稿からしばらく経ちました。
そして、本日新たに記事を作成することにしました。

さて、500回の記事投稿の後「何か大きなことが起きるか?」と多少思いましたが、残念ながら、明らかにそれが原因であると断定できる出来事は生じませんでした・・。

生じたといえば500回目投稿直後の晩はなかなか寝付けなかったことぐらいです(これは何故であろうか?)。

また、その後の毎日においても自身の考えなどに大きな変化が生じることもなく、どちらかというと平穏に過ぎていったのではないかと思います。

また「猛烈に何かを書きたい!」といった心境が生じることは特にありませんでした・・。

ただ、ほぼ毎日ブログ記事を投稿していた時期に比べ、500記事到達後は書籍を深く読むことが出来るようになったのではないかと思われます・・。

それは、この時期(500記事到達後)、直近に読了した長編小説「楡家の人びと」を再読、また再読しましたが、以前に比べ、純粋に楽しんで読むことが出来たという自覚から判断した次第です。

また、他のこの時期に読んだ書籍においても同様の自覚、感想を持ち得ました。

そうした自覚、感想から、今後のブログ記事作成は、書籍を読むことを楽しむことの出来る程度の頻度にて作成していくのが良いのではないかと思いました・・(笑)。

また、その頻度を高める何かしら具体的な方策を得ることが出来ましたら、ブログ記事の文体、内容において漸進的な変化が生じてくるのではないかとも思われます・・。

しかし、であるからといって、以前のほぼ毎日ブログ記事を更新していた行為が、無駄ということではなく、むしろ、そうした経験、時期、段階とは必要であったのではないかとも、さきに述べた自覚、感想と同程度、あるいはそれ以上に持ち得ました。

しかしまた、それ(必要性云々)は、特に「何のため」というものではなく、ただ「自身の文章をより明瞭に記す」という、いうなれば、自己満足の充足を目指す類いのものであるということが出来ます(苦笑)。

そうしますと、上に記した一連の内的現象とは、一面において、まさしく「自縄自縛」と評することが出来ると思います・・(苦笑)。

とはいえ、そうした能動者の自己満足の充足行為全般に対する他者による判断、評価基準の「選択」こそが、かなり難しいものであり、そこには形而上的な思考つまり哲学といったものが要求されるのではないでしょうか・・?

そして、その意味において、現代とは「普遍的な知識の普及、定着」では、おそらく過去のどの時代に比べても、より高い水準に達しているといえるのかもしれませんが、さきに述べた形而上的思考、哲学に関しては、それ(「普遍的な知識の普及、定着」)と反比例とまではいきませんが、おそらく過去のどこかの時代の方が、より高水準であったのではないかと考えさせられるのです・・。

また、ここまで記していて不図思うことは、さきに述べた能動者の自己満足の充足行為に対する他者による判断、評価基準の選択」に形而上的な思想・哲学が介在されなくなると、ある種の相互作用の結果、能動者・評価者共に虚無的あるいは野狐禅に堕し「後の世」に対し誇れる、評価され「得る』ような文化を創造することが徐徐に『面倒』になってくるのではないでしょうか・・?

しかし、であるからといって、強烈な何かしらの(父権的な)権威の強化および必要性を希求するのではなく、ただカタチだけではない対話・議論を行うことが出来る文化的土壌(それは歴史が培うものではあるのですが)が社会一般において存在すれば、どうにかなるのではないかと思います・・。

いうなれば、血の通った対話、議論が可能な文化的土壌とは、さまざまな創造的な行為を行う際の弾性、靭性を付与するものではないかと思われるのですが、さて如何でしょうか?

さる熊本、山陰東部、福島周辺にて発生した大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧および、その後の復旧を祈念しております。