2021年3月3日水曜日

20210303 「幕末維新変革史」下巻巻末での記述から思ったこと・・

先日投稿の記事にて岩波書店刊 宮地正人著「幕末維新変革史」上下巻を読了したことを書きましたが、その下巻巻末近くに、福沢諭吉と田中正造についての記述がありました。この組合せは多少意外とも思われましたが、実際のところ両人の年齢の差は6歳ほどであり、幕末期から国内外各地を移動し活躍していた福沢と比べ、田中正造は幕末期においては、主に地元での活動に従事し、また、領主である旗本との諍いなどもあったりと、この時期での活動範囲は福沢諭吉と比べると、相対的に狭かったと云えます。

その後、田中正造は一時期官吏として勤めていた時期もありましたが、やがて郷里に戻り地域選出の議員などを務め、さらには衆議院議員にも選出されています。そして、明治34年には足尾鉱毒事件についての直訴を行います。

思うに田中正造は、江戸時代の名主・庄屋によくある実直な篤農家的なメンタリティーを持ちつつも、直情径行的な性格的特徴を持つ人物であったように思われます。とはいえ、現在から、田中正造のある意味、悲劇的とも云える人生を考えてみますと、そこには、西欧的に近代化された明治日本の所謂「有司専制」そして、それに付随する「政商」といった様相や存在が否応なく見えてきます。

そして、もう一人の記述のあった福沢諭吉との関係性について考えてみますと、何かしら複雑な、一筋縄ではいかない様相が見えてくるように思われますが、福沢諭吉は、思想や文化といった文明の基盤となるものを重視するのと同時に、事物の経済的な側面そして、その基盤となる国家の強さ(盤石さ)もまた重視しました。また、それは当時流行の西欧合理主義的思考とも軌を一にすることから、福沢諭吉は門弟・教え子や読者達に対して、そうした主張をしたものと思われます。

また、ここにその播種を見たも云える民権思想派(田中正造)と国権伸張派(福沢諭吉)との分立は、昭和期に入ると、土着民権思想的なものと国権伸張論的なものが合流して行き、福沢諭吉以来の西欧由来の色彩を遺す国権伸張論は、あまり世間一般で流通しなくなったのだと思われます。

こうした事情は、これまでにも何度か触れました中江兆民による「三酔人経綸問答」に登場する南海先生・洋学紳士・東洋豪傑の三名の関係性・立ち位置とも異なり、たとえば福沢諭吉は、南海先生もしくは洋学紳士に比定することが出来ると思われますが、田中正造については、この各々三名の特徴には合致しないように思われます。

また、当著作下巻では、この六歳違いの二人(福沢諭吉・田中正造)の人生を並列的に示すことによって、明治期の時代精神の一様相を伝えたかったのではないかと思われました。

ともあれ、下巻巻末近くに書かれている、この二人の人生についての記述は、それまでの比較的淡々としているとも思われる記述から、うって変わり、その文章は生き生きとしているように感じられました。また私見としては、当著作下巻は、これら記述部分を読むだけであっても、何かしら得るものはあると思われますので、ご興味のある方は、ご一読をおススメいたします。

そして、自身のこととしては、先日ツイートしましたが、伊藤正雄氏翻訳による「現代語訳 文明論之概略」を購入して読んでみたくなりました・・。

*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!


ISBN978-4-263-46420-5

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