2017年6月1日木曜日

20170601 640記事 昨日の偶然の読書から思ったこと【書籍からの抜粋引用あり】

A「昨日ある書類を探していたところ、以前に購入していたラッセル著『西洋哲学史』全三巻が目につき、就寝前に第一巻を読みはじめてみたところ、どうしたものか大変面白く感じられ、そのまま10頁近く読んでいしまいました・・。

では『何故この著作を読み面白いと思ったのか?』とは、おそらくこの著作に現在自身が日常生活において接することがない考えが、流れるように、あるいは理路整然と述べられていたからではないかと考えます・・。

たしかにこうした文章を書くことが出来る人は先ず間違いなく凡人ではないと思われます・・。

また、おそらく現在の我が国において西洋哲学に対して、こうした文章を書くことが出来る研究者、著述家とは少ないのではないかと思われます・・。

とはいえ、多少これと類似する読後の感覚に持つに至る日本人研究者は、粘菌、民俗学の南方熊楠、アジア史の宮崎市定、解剖学、考古学の金関丈夫、そして近いところになりますと、数年前に亡くなられた考古学の森浩一あたりではないかと思われます・・。

もちろん、他にもそうした研究者、著述家はいるとは思いますが、あくまでも自身のこれまでの経験から述べることが出来るのは概ね以上の方々です。

また、丸山眞男加藤周一などもその文章は大変優れたものであるとは思われるのですが、これらの方々は、それと同時に当時の政治情勢などとも、幾分浅からぬ関係があると思われるため、何と云いますか、その述べるところには、スンナリとは肯定、納得させない何かがあるのです・・。

とはいえ、それもまた特に思想などを扱う研究者においては大変重要な要素ではあるのですが・・。

そして、そのようなことを述べると『南方熊楠も少なからず当時の政治に対する言及があるのではないか?』と考える方々もいらっしゃるとは思いますが、南方熊楠の場合、自身が住み、慣れ親しんだ熊野、南紀の自然を守るための論陣であり、何と言いますか、その背景にある土俗的精神が、さきに挙げた二者とは大きく異なり、私見とはなりますが、それは西郷隆盛の土俗精神とも相通じる何かがあるのではないかと思われます・・。

そして、このように考えてみますと、近代以降の我が国とは、現在に至るまで、その意図の有無に関わらず、無意識的ではあれ、こうした地域毎の土俗精神を減衰させ、骨抜きにしてきたのではないかとも思われるのです・・。

また、こうした視点とは、実際に幾つかの地域に数年程度住むことにより、はじめていくらか実感を以って理解出来ることであり、その点において現在の自身とは、以前と比べると、多少内面が複雑になってしまったのではないかと思われるのです・・。

そして、さらには、こうした経験があることから、現在の自身とは、どうにか継続的にブログ記事の作成を行うことが出来ているのではないかとも思えるのです・・。

また、このようなことを書いていて、不図思い出したのは、冒頭に挙げた著作からの一部分であり、以下にその抜粋引用を示します。

みすず書房刊バートランド・ラッセル市井三郎訳 『西洋哲学史
1古代より現代に至る政治的・社会的諸条件との関連における哲学史 P.3より抜粋引用

ISBN-10: 4622019019

ISBN-13: 978-4622019015
スパルタにおいては、個人はほとんど自由を持たなかったし、アテナイにあっては、時として迫害がありはしたが、市民はその最良の時期には、国家の制約からの異常なほどの自由を持っていた。
アリストテレスにいたるまでのギリシャ思想は、都市に対する宗教的で愛国的な献身に支配されていて、その倫理の諸大系は市民の生活に適応させられ、政治的な要素が大きかったのである。
しかしギリシャ人が最初はマケドニア人に、次いでローマ人に従属することとなった時、ギリシャ人が独立していた頃にはふさわしいものであった倫理的諸概念は、もはや通用し得ないものとなった。
このことは一方では、伝統と訣別することによる旺盛な力の欠如を産み出し、また他方では、より個人的であまり社会的ではない倫理を産み出した。
ストア学派のひとびとは、有徳な生活というものを、市民の国家に対する関係というよりは、魂の神に対する関係として考えるにいたった。このようにして彼らは、キリスト教への道を準備したのである。

今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

昨年2016年に熊本、山陰東部、福島県周辺において生じた地震により被害を被った地域の出来るだけ速やかな諸インフラの復旧、さらにその後の復興を祈念しております。