2020年6月17日水曜日

20200617【架空の話】・其の30

【架空の話】
我々は古墳をしばらく見学し、その後、周辺をしばらく歩き景色を眺めてから車に戻った。時刻は午後3時を少し過ぎた頃であった。考え事を始めたのか、兄はまた言葉数が少なくなり、そこからしばらくの間、自分からしゃべることはなかった。そして、次に兄が話しかけてきたのは、さきに通った海沿いの道を走っている時であった。

兄は「今度の古墳は昨日の古墳群と比べると、また趣が違うけれど、同じように興味深いと思うけど、どうかな?」と訊ねてきた。それに対し私は「うん、古墳が数多く集まっている中でなくて、ああした集落から離れた場所にわざわざお墓を造ろうとすることは、それなりの理由があったのだと思うけれど、それで思ったのは、あの古墳の被葬者は、何というか海洋民とか航海民に出自を持つ人だったのではないかということだけれど、どうだろうね・・。」すると兄は少し黙ってから「うん、海洋民か・・たしかにそれもあり得るなあ・・。それと、前に話したと思うけれど、あの古墳の造営様式は肥後・熊本のそれに近いとされているのだけれど、それが興味深くてね。つまり、肥後・熊本に出自を持つ集団がこの地域に移住したのか、あるいは双方に共通の起源がある他の場所が存在するのかよく分からないけれども、まあ、どうであろうと、こうしたものは明確な結論が出るようなハナシではないと思うけれども、同時に、実際の遺物が物語る仮説だから、そこには史実に沿ったモノガタリというものはあるはずだよね・・。」とのことであった。

それはたしかに兄の云う通りであると思われるが、このモノガタリはおそらく6世紀頃のものであるはずだが、同時代のヨーロッパは中世前期にあたり、東西ローマ帝国は周辺蛮族によって国境を侵され、そして西ローマ帝国の方は既に5世紀末に滅亡し、他方の東ローマ帝国でも同様の危機に瀕していたが、それに対し、国家体制の立て直しをはかるべく、皇帝ユスティニアヌスによる、それまでのローマ法を統合編纂したローマ法大全(市民法大全)が著された頃である・・。

それに比べると、我が国における文字資料が出てくるのは、しばらく後で、しかも当初期のそれは大陸から齎された漢字の「意味」を拝借したり、あるいはその「音」を拝借したりと、結構いい加減な使用法であり、我が国での「愛羅武勇」「仏恥義理」もしくは「牛津」や「剣橋」なども、ある意味では、その係累と云えるのだろう・・。

つまり、文字資料がないことから、6世紀代の古墳被葬者の特定も出来ないのではないか・・。といった旨を兄に話したところ、兄は「まあねえ・・。日本ってクニは何でも流行しだすとスゴイ勢いで伝播していくけれども、そこに至るまでが大変というか、鈍重なんだよなあ・・。まあ、それが外来文化の選択的な摂取に追われているクニの特徴なのかもしれないなあ・・。」とのことであった。

そして、しばらく経ってから「そうだ!ここWで誰が葬られているか大体分かっている古墳があるから、少し急げば、日があるうちに着くことが出来るかもしれない。」と云った。それに対して私は「え、そんな古墳があるの?それで、その場所はどの辺りなの?」と聞いてみると、兄はまた少し間を置いてから「・・うん、今日の朝、ハナシに出た道成寺の近くで、たしかH川の南岸だったと思う。詳細については、休憩をとるコンビニの駐車場でスマホでググってみるよ。」とのことであった。そこから兄は心なしか車を飛ばし始めたが、法定速度は概ね順守していたようだった。そして、その後、16時頃に高速道路入口があるS浜に到着し、そこから更なる北上を始めたわけだが、急いでいたためか、兄はコンビニに立ち寄ることなく高速道路に入ったが、そのことに途中で気が付いたのか、あるいは前々からそう考えていたのか、高速道路で運転中、私に「ちょっと悪いんだけれど、スマホを使って「I内一号墳」って検索をして、その場所をナビしてもらえないか?」とのことであった。私としてはお安い御用であったため早速検索すると、その古墳はG南インターチェンジが最寄りであった。

また、所要時間は30分程度とのことであり、午後5時前には到着することが出来る目途が立った。そのことを兄に告げると「おお、そうか、ありがとう。じゃあ、少し余裕を持って動けるね。」と安心したようだった。

続けて「それで、その「I内一号墳」は、おそらく7世紀代、終末期の古墳なんだけれど、これがD志社大学のM教授によると万葉集にも幾つか歌が残る有間皇子の墳墓ではないかとされているんだ・・。それで、普通、昔から皇族のお墓は、陵墓参考地とかで禁足地になるんだけれど、考古学的な検討がより洗練されてくると、これまで陵墓参考地とされていなかった墳墓が実は皇族のお墓ではないか?といったことが生じてくるんだ。その一例が大阪の高槻にある今城塚古墳だけれど、これはホンモノの継体天皇陵ではないかと有力視されているんだ。

それで、まあこの「I内一号墳」も造りがシッカリとしていてWでは数少ない終末期古墳であり、また出土した破片から漆塗りの棺が埋葬されていたことが分かっているんだけれど、当時、漆塗りの棺を用いることが許されていたのは最高位の皇族のみであったことから、その被葬者は、この辺りに縁のある7世紀代の皇族ということで有間皇子ではないかと考えられているんだ・・。」とのことであった。丁度その時、カーステレオからは宇多田ヒカルの「Michi」が流れはじめていた。

そうこうするうちに車はG南インターチェンジに近づいていた。私はスマホ画面と道路を見つつ、運転する兄をナビして無事に古墳近辺で駐車出来るところまで辿りついた。周囲は既に薄暗くなりつつあり、日の入りまであと30分ほど、といったところでった。

二人してペンライトを持ち、また古墳まで、しばらくの道のりを歩いていると、開口している古墳入口に木の柵が置かれて比較的整備された古墳が我々の目の前に現れた。この古墳は、玄室に入ることは出来ないものの、外から玄室内部を見ることは出来た。そこで二人してお辞儀をしてからペンライトで内部を照らして見てみたが、たしかに石室の造りが洗練され、シッカリしており、また面が平に加工された巨石が多用されていたことから、これまでWで見学してきた古墳とは異なった背景を感じさせられた。
こうして日が暮れるまで古墳を見学をして車に戻った。我々はまた言葉数が少ないままで発車し、近くのG南インターチェンジまで戻り、そこから再び高速道路に乗り、W市内に戻るべく北上をはじめた。時刻は午後6時少し前であった。


*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!


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ISBN978-4-263-46420-5

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