2016年11月9日水曜日

20161109 ガラパゴス化 百家争鳴 歯科医療について・・☆☆

先日より言語、コトバの解像能について記してきましたが、これはなかなか大事なものではないかと思われます。

しかし、それと同時にここ数日はそうした形而上、思想的なものとは対極にあるともいえる、かつて研究に従事した歯科材料・補綴装置についてのハナシを伺うことが多かったです・・。

こうした偶然もまた、なかなか面白いものです(笑)。

とはいえ、これに関しては単純に現在仕事にて歯科医院を訪ねることが多いからであり、決して偶然とは云えないのかもしれませんが・・(笑)。

さて、現今、歯科医療にて用いられる様々な補綴物とは、概ねその発明、原案が海外(特に欧米)由来のものであり、それが我が国に移入し、歯科臨床にて広汎に用いられるようになりますと、どうもその発明、原案が保持していた、背景における意味合い、思想的なものが改変・変質あるいは除去され、あくまでも我が国における実用性、有用性に寄与するような形式に沿い、ある種独特の発展、変化の形態を辿るといった特徴・傾向があるのではないかと思われます・・。

そして、それが歯科医療の臨床にて傾向として認められるようになりますと、おそらく原理・守旧派、現実・改革派といった名称の付与が適当であるか分かりませんが、その構図を単純具体化しますと、海外よりもたらされた当該歯科臨床技術の移入初期に活躍された多くは海外著名大学への留学経験およびツテのある先生方と、移入以後の我が国での普及、発展期において国内にて活躍された先生方との当該臨床技術を巡る思想的な対立といった構図を示すようになるのではないかと思われます・・。

しかしながら、こうした対立とは我が国の場合、何も歯科医療の分野のみならず、他の様々な分野にもまた類似した構図を見出すことが出来るのではないかとも思われます・・。

そして、その結果の状態に付与される名称が「ガラパゴス化」といったものではないかと思われます。

また、それが工業により製造される機器であるならば、まだ妥協点を模索できるのかもしれませんが、これが人の生命・健康に対しても深く関与するものである場合、そうとばかりはいえなくなり、それこそ、さきに示した二者あるいはそれ以上の異なった思想をもつ主体、集団による、まさに百家争鳴といった事態をも招来するのではなかろうかと思われます・・。

さらに、我が国における、こうした構図の淵源について考えてみますと、それは古代における鋳造青銅器である銅鐸・銅矛あるいはそれ以前の縄文土器あたりからの系譜ではないかと考えさせられます・・。

くわえて、それらが歯科補綴物の作製に多用される鋳造技術によるものであり、また一方はこれまた歯科補綴物の作製に用いられるセラミックスであることは構図としては大変面白く、また見方によっては皮肉なものであるのかもしれません・・(苦笑)。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます

さる四月の熊本における大地震、昨今の山陰東部における大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。

20161108 コトバ・言語の解像能および詩、普遍とは・・

本日の首都圏は雨が降り、なかなか寒いものでした・・。
また九州の博多駅前にて地下鉄工事での何らかの異変により、道路の表面が陥没したとのことです。これにより怪我人が出なかったのは本当に幸いでした。
さて、昨日のブログ記事に記した「解像能」ですが、これは我々の用いるコトバ、言語に対しても便宜的にではあるかもしれませんが、用いることが出来るのではないかと思います・・。
つまり解像能が高い、低いコトバ、言語そして文章ということになります。
解像能の高いコトバ、言語、文章とは、それを読み、聞くことにより、その述べる、言わんとするところがスンナリと容易に理解出来るといった性質を持つものであると考えます。
そして、解像能の低いものとは、その逆です。
そのように考えてみますとコトバ、言語、文章ではありませんが、マンガとは、極めて解像能が高いといいますか、視覚即認識といったところがあるのではないかと思われます・・。
それに対し、音声言語、文字言語とは何れであれ、その内容理解に至るまでには様々な段階があるのではないかと思われます・・。
そして、本当に良いコトバ、文章とは、一見容易にその内容が理解出来るものでありながら、同時に、そこに様々な抽象度の段階における理解、認識、解釈の仕方があり、また、それが各々充実した内容を持っているようなものではないかと考えます。
そこまで考えてみますと、私には未だその価値の深遠さを理解することは出来ませんが「詩」の価値などは概ね、そうしたところを基盤としているのではないかと考えさせられます・・。
その一方において、あくまでもコトバ、言語の第一義的な解釈、あるいは多義的な解釈をあまり為さしめないコトバ、言語によって記された、いや、構築された文章といったものが論文など学術的な著作一般ではないかと考えます。
とはいえ、考えてみますと、さきのようにして構築された論文などにおいてもまた、表層のみならず深層的な意味において「詩的」な文章を持つものがあってもまた面白いのではないかとも思われますが・・(笑)。
繰り返し、私は詩に関しては門外漢ではありますが、それでも、さきに述べた「詩」の価値に基づいて考えてみますと、本当に「詩」あるいは「詩的な文章」にて充実した内容を持つと認識される要因とは、それが作成された時から長く経た後においても、何かしらの内容、意味、深さが認められる、つまり「普遍性」に関連するのではないかと考えるのです・・。
また、それは類似音、言語などの巧みな反復というような表層的、技巧的なものと少し(次元が)異なるように思われます・・。
そして、そのコトバ、文章が普遍性に触れる、貫くような(詩的な)内容、意味を持つようになるためには、個人は一体どのような過程・経験を経るのが良いのでしょうか・・?
あるいは、たとえ目指すものが普遍性であったとしても、そこに至るまでの過程、経験とは、各個人によって異なり、いわば個別性が高いようにも思われます・・。
いや、あるいは、それはいくつかのタイプぐらいには分類することが出来るのかもしれませんが・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる熊本での大地震、昨今の山陰東部における大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の復旧およびその後の復興を祈念しております。