2015年12月1日火曜日

20151201「初見 野上彌生子著「迷路」」

A「ここ最近随分寒くなりましたけれどお元気ですか?」

B「ええ、まあどうにかやっております。しかし如何せんここ最近寒いので、つい先日セラミックファンヒーターを秋葉原で購入しました。
また、その帰りに神保町に立寄り古本屋街をぶらつきましたが、また面白そうな本をいくつか見つけてしまいました()。」

A「そうですか。私の方もまた幾つかそういった本を見つけましたが、ここ最近はどうも、長編の小説などはどうも読むのが難しくなってきましたね・・。
こういったのはやはり年齢のせいなのかねえ()。」

B「ええ、そうですね。
私も長編の小説などはここ最近ずっと御無沙汰です。
しかし同時に長編の小説などを読み終えた時の充実感はなかなかのものです。
あの感覚は何といいますか、頭の中を列車が通過してゆくような感じですか(笑)。」

A「うん、それは何となくわかるね・・(笑)。
私も若い頃に色々と読んだつもりだけれど、今となってはすっかり忘れていると思った時に、不図その内容や文章を思い出したりすることがあるけれど、ああいう時は我ながら不思議な感じを受けるねえ・・。」

B「ああ、そうですね。
それはわたしにもよく分かります。
人間の記憶とは、なかなか不思議で面白いものですね。
その一方でやはり何といいますか、長編小説や数冊ものの通史などのヘヴィーなものは、ある程度若い時分に読んでおいた方が良いとも思いますね。
多分、ああいうのを継続、集中して読むのは頭脳の明晰さと同様、体力が必要なのではないでしょうかね・・。
ですから、決して若いとはいえない現在では、そういったものを読むのが苦痛とはいいませんが、困難になってきているのではないでしょうか?」

A「うん、それはたしかにあるね。私も一番集中して色々と読めていたのは20代後半から30代前半ぐらいの時期だったね。それでもそういった集中して読書をした時期と自身の研究活動にアブラがのる時期にはタイムラグ、ずれがあるみたいだね・・。
いや、逆にこういったことを同時期に自転車操業的に行うのは難しいのではないかな?」

B「・・はあ、そうですか・・。
私が現在作成しているブログは大体自転車操業的なものなのですが、それでもネタ帳に記したものは、全てそれ以前に考えたものですから、厳密にいえば自転車操業ではないかもしれません・・。
また、多少自意識過剰かもしれませんが、私のブログを読んでいただいている方は「ああ、こういった内容はたしかにBが書きそうな内容だな。」と思われているのではないでしょうか?
まあ、これは若干今Aさんが仰ったものと意味合い、示す現象の相が違うのかもしれませんが、私はその様に思いました。」

A「うん、ちょっと違うかもしれないけれど、まあ、それも一つの考え方であるし同時に特に間違ってもないではないかなあ()
まあ、ともあれ色々読むことが出来た時期は今考えてみると私にとってはとても貴重なものであったと思うね()。」

B「ええ、そうですね。
繰り返すようですが、私も現在これまでに読んだ学術書、長編小説、哲学書、通史などをもう一度継続、通読する必要が生じても、それが出来るかどうか正直なところかなり不安ですね・・(苦笑)。
それでも先日神保町に行った際にまた私の書籍センサー(笑)が「これはすごいかもしれない。」と思わせる一作を見つけてしまいました・・()。」

A「ほう!それは何という著作でしたか?」

B「これはAさん御存知であるかどうかわかりませんが岩波書店から出ている野上弥生子の著作で「迷路」という作品です。
冒頭部を立ち読みしておりましたらどうも続きが気になってしまいました・・。」

A「うーん、その作品は読んだことがありませんが、ただ野上弥生子は君のいくつかのブログで触れた大分県の臼杵出身なのだけれど、御存知でしたか?」

B「・・・あ!たしかに臼杵に着いた時に駅近くの案内板にそのことが書いてあった様な気がします。
Aさんにいわれまして思い出しました!
いや、正確には無意識に近いところで憶えていたものが今のAさんの発言でつながったというような感じです。」

A「はあ、そうですか。
それもまたなかなか興味深く、面白いですね()
何だかこれは以前君のブログにも書かれていた夏目漱石夢十夜の第三夜のモチーフに近いものがありますね・・。
もっとも、あれはどちらかといえばこわい内容、怪談に近いものでしたが、たしかに人間の心にはそういったところがありますよね。」

B「なるほど・・そうですね。
そういったものがデジャブ、既視感とかいうのでしょうかね・・?
いや、正確には違うかもしれませんが、まあ、大まかに考えれば似たようなものでしょう・・。」

A「ああデジャブですか・・。
そうともいえるかもしれませんが、それは過去において、明晰でない意識状態で見聞きし、記憶していたものを再度どこかで同一、類似したものを見聞きして意識化されたことをも指すのかもしれません。」

B「ええ、そしてそういったことは、先程の話しで出ました継続した読書や研究などによって、徐々に明晰化された意識が感じ取り、意識化することが出来る様になった事象の多寡およびその範囲の広さなどにも似た様なことがいえるのかもしれませんね()。」

A「ええ、もしかしたらそれらは似た様なことなのかもしれません。
まあ、何れにしましても人間の心、精神とは、実は記憶のことなんでしょうね・・。
そして、精神力とは、一面において記憶を呼び起こす力のことを指すのではないでしょうか?
その様に考えますと、現在の発達したPC、スマホは便利な道具であると同時に、この意味での人間の精神力に対してはあまり良い効果をもたらさないかもしれません。
丁度腰の補強ベルトをずっと着用しておくと背筋、腹筋が弱くなってしまうように・・。」



「茶の味」予告編



北杜夫著「どくとるマンボウ小辞典」中央公論社刊pp.124-126より抜粋20151130

H・G・ウェルズは、ジュール・ヴェルヌと共に、空想小説の元祖として私たちの記憶にとどまっている。しかし、一時代まえのヴェルヌの小説は、ロマンチックな夢物語(といって彼は将来の実現性を第一目標にした)という感じが強く、いわゆる空想科学小説の種々のタイプ、アイデアの原型のほとんどを創始したウェルズは、やはり偉大であったといってよい。

しかしウェルズは、科学者としての彼の知識を(彼はもともと生物学者として出発した)、文学上の筋の展開のために、かなりしばしば犠牲にもしている。初期の小説群、「タイムマシン」「透明人間」「宇宙戦争」「月世界最初の人間」などのすでに古典となった大衆小説はこうしてうまれた。その着想の新鮮さはぬきにしても、物語の運び方、描写の正確さ、つまり彼の卓抜な小説技術が、これらの作を古典にしたといえる。

しかしウェルズは、やがてこうした空想科学小説から離れてゆき、社会科学的な立場から書かれた思想小説、科学的あるいは歴史的な著述に、その後半生は費やされた。

世界文化史大系」などはなかんずく著名だが、一九三三年に出版された「来るべき世界」(最後の革命)」という書物がある。

一九三三年といえば、ヒトラーが政権をとった年である。ウェルズはこの書物のなかで、日本の中国本土侵略、日本の敗北、ヒトラーの檯頭、第二次世界大戦原子爆弾を暗示する細菌戦などを予言していて、いかにも当たった予言という感を抱かせるが、客観的に見てこれはどうであろうか。

ウェルズほどの頭脳で当時の世界情勢を判断すれば、この程度の予言は当然のことではなかろうか。また彼に近い立場の人で、誰がヒトラーの勝利を予言するだろうか。
この書物はむしろ彼の広範囲な知識、ときおり見せる小説家的な描写力のほうに興味がもてる。

この書物は、彼の友人が夢のなかで見た書物―その中には未来のことまで描いてあるのだが―を書きとめた遺稿という形で書かれている。著名な科学者や作家の子孫などを登場させて、未来における研究や当時の描写をさせているところがおもしろい。
原子爆弾を連想させる「永久死滅ガス」というのが登場するが、「この殺人地帯はだれも二度と足を踏み入れることができず、一九六〇年になって、ようやく二、三の探検隊員が、特別マスクをかけてはいったほどであった。発見されたものは、人体ばかりでなく、そこに迷い込んだ家畜や犬などの死体が、ばらばらとなり白骨となり、数百万のネズミや鳥の小動物の皮や羽のくずが散乱していた。あるいは雑草は傷んでいたが、他の加下等植物は繁茂していた。広大な地帯はちぢかんでムギナデシコでおおわれ、オオグルマは灰色のうぶ毛が生えかかっていた」さらに、この死滅ガスの副産物として、不妊性放射物が生じたことが記されている。これは日本軍の南京緑色ガス攻撃の報復として、中国空軍が日本へ投下したものだが、偶然の結果として、日本の都市では、人間のみならず鳥や牛やネズミまで不妊になってしまった。ウェルズは特に、一章をもうけて憎悪について語っている。つまり、後世からの見方では、「憎悪が知的に緩和され抑圧されるようになったのは、おどろくほど最近のことだが、われわれの祖先たちは、この憎悪を予防し得るものとは考えていなかった」その説くところによると、憎悪は一種の病気であって感染しやすいが、特に哺乳類動物の大脳、とりわけ社会集団型の大脳は感染しやすい。それは合理的なコントロールを欠くためであり、大脳皮質がくり返し少しずつ刺激されるために起こる。伝染は成熟の前後に発生するもので、幾度か的確におそわれると、ついには執念ぶかい痼疾とまでなる。この憎悪から、必然的に手ひどい残酷が生まれた。「しかし、一九八〇年の復興途上の世界の記録には、人間や獣に対する兇悪な行為はほとんど見られない。これは局面の変化であって、人間天性の変化ではない。現に人を殺したりいじめたりした同じ人々が、今はまったく合理的に善良にふるまっている」ウェルズは混乱と残酷な未来史―それは私たちが経験し、経験しつつあるものである―を描いたが、そのあとに、ユートピア的な世界国家の像を描いている。これは、他の作家たちの描く未来像がおおむね暗く絶望にみちているのにくらべ、一特色といってよい。彼によれば、人類は悪戦苦闘のはてに、かがやかしい新世界を創造できるというのだが、その根本を、彼は遅々とした教育の力においている。
どくとるマンボウ小辞典
ISBN-10: 4122000734
ISBN-13: 978-4122000735
北杜夫

20151129

A「欧米のメディアが先日のパリでの自爆テロを「KAMIKAZE」と報道した様ですね・・何だか我々日本人とすれば複雑な心境です・・。」

B「ああ、それは私も聞きました。欧米の方々から見れば捨身の自爆テロは一般名詞としてそうなるのかもしれません・・これに特に悪意はないと思います。
しかし一方において、少し前のベストセラー小説映画化されたものの中で、日本人の登場人物が神風特別攻撃隊のことを自爆テロと評価しており、それを主人公が強く否定していた場面がありましたので、そういった流れで考えてみますと、やはり違和感が残るのかもしれません。」

A「そうだね。日本人がこの欧米での報道に対して違和感を覚えるか覚えないかは、おそらく太平洋戦争への評価によって変ってくるのではないかもしれませんね・・。
そして、そうでなければ英和辞書にも出てくる「TSUNAMI」と日本語の津波も同じ様なものとして、まあ特に違和感を覚えることもなく納得できるのではないでしょうか?」

B「ええ、たしかに仰る通りですね。
この問題にはおそらく、太平洋戦争、第二次世界大戦における立場の違いが根底にあるのではないかと思います。
また、もし日本がいまだ旧連合国を主とする現在の欧米諸国に対して敵意、反感を持っているとするならば、むしろこの報道の仕方に対し、違和感を覚えることなく、むしろ「そうだ!その通りだ!思い知ったか!」となっても良いかもしれません。
しかし、さすがにそういった意見、傾向は国内で皆無あるいはかなりの少数派ではないかと思います。
また、それと同時にアメリカの原爆投下に対する日本側の謝罪の要求と、それを決して受け入れないアメリカなどにおいてもこれと似た様な構図があるのかもしれません。
何れにしましても、自らの視座を定めた近現代史に対し払ってきた価値が、こういったことの遠因となっているのではないでしょうか?
そしてそれが、先程の欧米における「KAMIKAZE」報道に対する我が国のはっきりとしないモヤモヤとした違和感となるのではないかと思います・・。
まあ、しかしそう考えますと、これは国内においても同様のことがいえまして、たとえば沖縄問題などについても、様々な方々が、その歴史的経緯において損な役を負わされた続けた沖縄のまさしく歴史的経緯を認識し、対応するべきであると論じていますが、こういった意見はあまり主流派となることはありません。
そしてこれは日本の国際間の対応においても同様の傾向があるようにも思われます・・。
しかし一方において、近代以降の特に明治期の日本などにおいては、決して当初からそういった傾向を持つ人々が主流派であったようにも思えません・・。
つまり、何といいますか、明治維新から敗戦に至るまでの日本とは、当初相手の立場に立つ義侠心と自身の利益が混在、葛藤していたものから徐々に後者つまり利益一辺倒の態度にシフトしていった結果、敗戦に至り、それが現在まで続いているのではないかと思います。
しかしまあ、このあたりのことはおそらく司馬遼太郎著の「坂の上の雲」あたりを通読してみれば大体わかるようなことではないかと思いますが・・。
そういえば「坂の上の雲」は英訳が出版されたそうですが、Aさん御存知でしたか?」

A「うん、君のいう近代日本の社会全体、あるいは少なくとも国策、外交の意思決定を行ってきた社会上層部の漸進的なパラダイムシフト、あるいはそのハビトゥスの変化とは、竹山道雄などが様々なところで説いているけれど、それは私も概ね賛成できますね・・。
あと、こういったことは戦前の国粋主義団体などの発足から太平洋戦争に至るまでの歴史を見てみてもなかなか面白いと思うよ・・。
あと「坂の上の雲」の英訳本の存在は知りませんでしたね。
しかし、それはなかなか面白そうですが、あの作品の海外での評価はどうなのでしょうか?
少なくとも、そういった近代日本の勃興期を主題として扱った小説は海外ではあまり知られていないと思うから、それはそれで面白いと思いますね。
また、それと併行し、同時代ものとして夏目漱石の「三四郎」、「現代日本の開化」の英訳あたりを読んでみたら近代日本の複雑さをもう少し理解してもらえそうな気もしないではないね()
あと、そういえば、こういったことは小林秀雄もどこかで書いていたね・・。」

B「はあ、なるほど・。それは面白い趣向ですね・・()
あ!それで話はもとの「KAMIKAZE」に戻りますが、かつての神風特攻隊隊員の残された遺書で、大変考えさせられ、胸につまるものがあるのですが、これが岩波文庫の「きけわだつみのこえ」に載っているのですが、そこに隊員の方が自分のことを「彼らのいうとおり自殺者」と書かれているのですが、やはり当時においても「KAMIKAZE」とは、欧米側からすれば、初めての経験であったかもしれませんが、自爆攻撃のことを指すものであったのではないかと思います・・。」

A「ああ、その「きけわだつみのこえ」は私も読みました・・。
あれは実に悲痛な内容の文章でした・・。
ああいった当時の学徒兵の書いた文章が英訳にてもっと世界に認知されていたら前の「KAMIKAZE」の報道もまた別のものになっていたかもしれないね・・。」

B「ええ「きけわだつみのこえ」は2000年に「Listen to the Voices from the Sea」として英訳出版されています。私も未だ読んではいませんが、それでもこういったものを教材として用いれば、ある程度効果的な平和教育になるのではないかと思いますが・・。」

A「うん、それは個人的には大変良いアイデアであると思いますが、そういったものは果たして国内では受け入れられますかね・・?」

B「内容が重過ぎるのかもしれませんが、歴史教育、特に日本の近現代史などは多少重過ぎても仕方ないのではないかと思います・・。
また、それを避けて利益一辺倒、あるいは臭いものに蓋をする不自然な歴史教育を行うよりかはいくらかはマシであるような気もします・・。
また、三島由紀夫が日本の将来について抱いていた危惧も今考えてみますと、そういったところにあったように思えます・・。」

A「うーん、たしかにそうなのだけれどねえ。
果たしてそれが受容されたとしてもその後上手くいくかどうかもまた難しいような気がしますねえ・・。
そうすると今度はオルテガのあの著作を私は思い出してしまうのです・・。」