2023年1月10日火曜日

20230110 科学技術の進化発展により生じることについて・・

日露戦争にて我が国とロシア帝国間の調停を申し出たアメリカが戦争により我が国が権益を得た南満州鉄道の共同経営を申し出たが、我が国はその申し出を一蹴し、その後から急に日米関係が冷却・悪化していった。
とはいえ、当時の我が国もまた、多大なる犠牲によって獲得した南満州の権益を少しでも減ずるような行為とは出来かねる状況であったこともまた理解出来、当時としては無理からぬことであったようにも思われる・・。

また、明治近代化以降、軍備、とりわけ海軍力の増強とは大英帝国に依存するものであり、日露戦争期における我が国海軍の主要な艦船とは、概ね英国製であった。つまり、一面において、日露戦争における我が国海軍の勝利とは、大英帝国重工業の勝利をも意味するものであったとも云える。そしてその後、我が国においても重工業が興ると、国産の軍艦を建造し用いるようになった結果、英国に発注しなくなり、これが英国を怒らせる結果となった。

その後1914年に欧州にて第一次世界大戦が勃発すると、我が国は日露戦争前に締結された日英同盟に基づき、ドイツ帝国に対し宣戦布告し、極東におけるその根拠地であった青島半島南側の膠州湾ドイツ租借地を攻略した。また地中海の機雷除去のため、我が国海軍艦船が派遣されるということもあった。

ともあれ、こうした富国強兵の流れとは、新興国家が一度は通過しなければならない民族主義の一つの現れであると云え、我が国の場合、それは明治・大正期に概ね為されたのであるが、同時にそれは危険な後遺症をも伴った。

それは軍事優先・他民族の蔑視・絶対不敗の信念の普遍化などであるが、これらもまた戦争勝利の後に生じる現象ではあるのだが、こうした考え、否、信仰とは、一度成立すると、現実に国家が戦争で敗北するまで続くことから厄介なものであると云える・・。

株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著『サピエンス全史』
下巻pp.70-72より抜粋引用
ISBN-10: 4309226728
ISBN-13: 978-4309226729

『何世紀もの間に、科学は数多くの新しいツールを提供してきた。死亡率や経済成長を予想するのに使われるもののような、知的作業を助けるツールもある。それ以上に重要なのがテクノロジーのツールだ。科学とテクノロジーの間に結ばれた絆は非常に強固なので、今日の人は両者を混同することが多い。私たちは科学研究がなければ新しいテクノロジーを開発するのは不可能であり、新しいテクノロジーとして結実しない研究にはほとんど意味がないと思うことが多い。
 じつは、科学とテクノロジーの関係は、ごく最近の現象だ。西暦1500年以前は、科学とテクノロジーはまったく別の領域だった。17世紀初期にベーコンが両者を結びつけたとき、それは革命的な発想だった。17世紀と18世紀にこの関係は強まったが、両者がようやく結ばれたのは19世紀になってからだった。1800年にさえ、強力な軍隊を望む支配者の大半や、事業を成功させたい経営者の大半は、物理学や生物学、経済学の研究にわざわざお金を出そうとはしなかった。
 私はなにも、例外がまったくなかったと言っているわけではない。優れた歴史学者なら、どんなものにも先例を見つけられるだろう。だが、さらに優れた歴史学者なら、そうした先例が全体像を曇らせる珍しい例であるときには、そうとわかる。一般的に言って、近代以前の支配者や事業者のほとんどは、新しいテクノロジーを開発するために森羅万象の性質についての研究に資金を出すことはなかったし、ほとんどの思想家は、自らの所見をテクノロジーを利用した装置に変えようとはしなかった。支配者は、既存の秩序を強化する目的で伝統的な知識を広めるのが使命の教育機関に出資した。
 現にあちらこちらで人々は新しいテクノロジーを開発したが、それは通常、学者が体系的な科学研究を行うのではなく、無学な職人が試行錯誤を繰り返すことで生み出したものだった。荷車の製造業者は、来る年も来る年も同じ材料を使って同じ荷車を組み立てた。年間収益の一部を取っておいて、新しい荷車のモデルを研究開発するのに回すことはなかった。荷車のデザインはときおり向上したが、それはたいてい、大学には足を踏み入れたことがなく、字さえ読めない地元の大工の創意工夫のおかげだった。
 これは民間部門ばかりでなく公的部門にも当てはまった。現代国家が、エネルギーから健康、ゴミ処理まで国家政策のほぼすべての領域で科学者の助言を仰いで解決策を提供してもらうのに対して、古代の王国はめったにそうしなかった。当時と今の違いが最も顕著なのが兵器の開発・製造だ。1961年、退任間近のドワイト・アイゼンハワー大統領が、しだいに増していく軍産複合体の力について警告を発したとき、その体制の一部を抜かしてしまった。彼は、軍事・産業・科学複合体について、アメリカの注意を促すべきだったのだ。なぜなら、今日の戦争は科学の所産だからだ。世界各国の軍隊は、人類の科学研究とテクノロジー開発のかなり大きな部分を創始し、それに資金を注ぎ込み、その方向性を決める。第一次世界大戦がいつ果てるとも知れない塹壕戦の泥沼に陥ったとき、両陣営は科学者たちの援助を仰ぎ、膠着状態を打ち破って自国を救おうとした。科学者たちはその呼びかけに応え、戦闘機や毒ガス、戦車、潜水艦、際限なく性能を上げる機関銃や大砲、小銃、爆弾など、新しい驚異の新兵器が各地の研究所から絶え間なく送り出された。』

この記述によると、おおよそ16世紀以降から科学と技術の結びつきがヨーロッパを中心としてはじまり、さらには、それが時代を経るごとに加速・進展し、帝国主義の萌芽となり、またそれが世界の他地域にも影響を及ぼした結果、現代の国際社会の枠組み・基礎が形成されたとも云える。そして、その具体的な様相を述べたものが以下の記述であると思われる。

株式会社 草思社刊 ジャレド・ダイアモンド倉骨 彰訳『銃・病原菌・鉄
下巻pp.84-86より抜粋引用
ISBN-10: 4794218796
ISBN-13: 978-4794218797

『有用な発明は、一つの社会から別の社会に二つの方法で伝播する傾向がある。一つは、その発明を実際に目撃したり教わったりした社会が、それを受容し、取り入れる方法である。もう一つは、その発明を持たない社会が、自分たちが不利な立場にたたされることを認識し、その発明を取り入れる方法である。後者の例は、ニュージーランドのマオリ族のあいだでマスケット銃がどのように普及したかを考えるとわかりやい。ニュージーランドでは、1818年頃に、マオリ族の一部族であるナプヒ族がヨーロッパの貿易商からマスケット銃を手に入れてから、マスケット戦争とよばれる戦いが15年間続いた、その結果、マスケット銃を持たなかった部族は、銃を手にした部族によって征服されてしまうか、あるいは自分たちも銃を持つようになり、1833年になると生き残ったすべての部族がマスケット銃を持つようになっていた。
新しい技術は、発祥地から別の社会にさまざまな方法で伝播する。トランジスタ(半導体)が1954年に合衆国から日本へ伝わったのは、平和的な交易を通じての例である。蚕が西暦552年に東南アジアから中東へ密輸されたように、技術がスパイ行為もどきに伝播することもある。1685年に、20万人のユグノー教徒がフランスから追放されて、フランスのガラス製造技術や衣服製造技術がヨーロッパじゅうにひろまったように、技術を持った人びとが移住することによって伝播することもある。そして戦争によって技術が広まった例が、中国の製紙技術のイスラム圏への伝播である。イスラムの製紙技術は、中国人の製紙職人が、西暦751年の中央アジアのタラス川の戦いでアラブ側の捕虜になり、サマルカンドに連れてこられたのがきっかけではじまった。第12章において、われわれは、文化が「実体の模倣」や「アイデアの模倣」で伝播することを考察し、実際に文字システムがどのように伝播したかに言及した。そしてわれわれは、この章のここまでの考察において、技術の伝播にも「実体の模倣」や「アイデアの模倣」があることを示す例をとりあげてきた。前の段落で紹介した事例はどれも「実体の模倣」によって技術が伝播している。ヨーロッパ人は、中国で発明された陶磁器技術を、長い時間をかけて自分たちで独自に考えだしたが、これは「アイデアの模倣」によって技術が伝播した例である。硬質の半透明な陶磁器は、7世紀頃に中国で誕生し、14世紀になると、シルクロード経由でヨーロッパに伝わり、非常に珍重された。だが、その製造方法はまったく知られていなかった。そして、それを模倣しようといろいろ試みられたものの、すべて失敗に終わっていた。今日のマイセン磁器が登場するには、1707年になってからのことである。これは、ドイツの錬金術師(アルケミスト)ヨハン・ベトガーが、長い時間かけてさまざまな実験を繰り返し、各種の鉱物と粘土の混合割合を編み出した結果である。その後、フランスやイギリスでも多かれ少なかれ独自の研究成果を踏まえて、セーブル磁器、ウェッジウッド磁器、そしてスポード磁器が誕生している。このように、ヨーロッパの職人たちは、中国で発明された製造法を自分たちで独自に考え出した。しかし、彼らが陶磁器の製造を思いついたのは、目標とするお手本が目の前にあったからである。』

また、他方で、そうした原初的(14世紀初頭)な科学と技術の結びつきの様子をミステリー作品の中に落とし込んで描いた作品がウンベルト・エーコによる『薔薇の名前』であると云える。

株式会社東京創元社刊 ウンベルト・エーコ著 河島 英昭 翻訳 上巻pp.30-33より抜粋引用
ISBN-10 ‏ : ‎ 4488013511
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4488013516

『私たち主従が行動を共にしていたあいだは、規則的な生活を送る機会があまりなかった。とりわけあの僧院に着いてからは、真夜中に目を覚ましたり昼間から疲れて眠りこんでしまったり、規則的に聖務日課に加わることはなかった。けれどもまだ旅から旅を続けていたころには、終課の後にまで師が目を覚ましていたためしは滅多になく、つねに節度ある習慣を保っていた。それが、あの僧院に入ってからは、しばしば生じたように、一日中薬草園を歩きまわって、緑玉や翠玉を探すみたいに、植物を調べていることがあった。あるいは地下聖堂の宝物庫を歩きまわって、朝顔の茂みを除きこむみたいに、緑玉や翠玉の鏤められた手箱に見とれていることもあった。あるいはまた、一日中文書館の写字室に籠って、自分の楽しみ以外の何ものも求めていないといわんばかりに、写本をめくっていることがあった。(私たちのまわりでは、日一日と、身の毛よだつばかりの殺され方をした修道僧の死体が殖えていったというのに)。ある日など、師は自分の没頭している仕事のために神さまへの務めなど気にかけていられないと言わんばかりに、やたらに僧院の中庭を歩きまわっていた。私が学んだ修道会ではこういう師の行動とはまったく違ったやり方で日課が定められていたから、思いきってそう言ってみた。すると師は、宇宙のすばらしさは多様性のうちの統一性にあるばかりでなく、統一性のうつの多様性にもあるのだ、と答えた。そういう返事は無教養な経験論に基づくもののように思えてなっらなかったが、後になってから、理性の働きはあまり重要な働きはしないという言い方で、師と同郷の人士たちが事物を規定することを知った。 あの僧院では共に日夜を過ごしていたあいだ、師のほうは書物に積もった塵や、仕上がったばかりの細密画の金粉や、セヴェリーノの施療院で触れた黄色い物質などで、いつも両手を汚していた。それはまるで両手を使わなければ考えは進まない、と言わんばかりの態度であり、当時の私の目に師はときおり機械職人そのもののように映った(そして私がそれまでに受けてきた教育では、機械職人とは〈不倫ナ者〉であり、本来は貞節な結婚で知的生活と結ばれるべきなのに、いわば不倫を犯している者なのであった。)師の手が非常に壊れやすいものを、たとえば細密画を施し終わったばかりの手写本や、古くなって無酵母パンのようにもろくなり、崩れかけたページなどを取り扱うときには、少なくとも私の目には、師が並はずれて繊細な触角の持主であり、職人が自分の機械仕掛けに触れるときとまったく同じ手つきをしているように見えた。じじつ、いずれ述べることになろうが、このように風変りな人物であった師は、旅行用の袋のなかに、当時は私などが見たことも聞いたこともなかった道具類を所持していて、これを大切な機械類と称していた。機械とは技工の現れであり自然の模倣である、と師はいつでも言っていた。また、機械によって再生されるのは自然の形態ではなくて、作用そのものであるとも。こうして師は、時計の仕組みや天体観測器や磁石の秘密などを、私に説き明かしてくれた。しかし初めのうち、私はそれらを魔術のように恐れていたので、晴れた夜に師が(奇妙な三角形の道具を手にして)しきりに星座の観測を繰り返していたときなどには、眠っているふりをした。私がイタリアの各地や自分の故郷で知りあったフランチェスコ会修道士はみな素朴で単純な人たちばかりで、なかには文盲の人も少なくなかったから、師があまりにも博学の士であることに驚いてしまった。けれども師は微笑みながら、彼の故郷の島に住むフランチェスコ会修道士たちも自分とはまったく別種の人間だ、と私に言った。「ただしロジャー・ベーコン、この方を私は師とも仰いでいるのだが、この巨匠の説かれた言葉によれば、神の意図はやがて聖なる自然の魔術すなわち機械の科学となって実現されていくであろうという。また、人はやがて自然の力を用いて航海のための装置を造りあげ、船舶は〈人ノ力ノ支配ニヨッテノミ〉進むことができるようになるであろう、帆や櫂で進むよりはるかに迅速に航行できるようになり、さらには地上を走る車も別種のものになるであろうという。〈動物ニ牽カレナクトモ猛烈ナ勢イデ動ク車、サラニハ空飛ブ機械。人ハソノ機械ノ真中にスワリ、何ラカノ装置ヲマワスト、巧ミニ作ラレタ翼ガハバタイテ、鳥ミタイニ空ヲ飛ブデアロウ〉そしてごく小さな装置で非常に重いものを持ち上げるようにようになり、海底を進む乗物さえ造りだされるときが来るであろう」
 どこへ行けばそのような機械にお目にかかれるのかとたずねると、師はすでに古代において造られた例がある、そして私たちの同時代にはいくつか造られている、と答えた。「ただし、例外は空飛ぶ機械だ。これだけはわたしもまだ見たことがないし、見たという話を聞いたこともない。だが、その装置の考案にたずさわっている博学の士ならば、私は知っている。また、支柱を立てなくとも支点がなくても河川に橋梁を架けることができたり、それ以外にも、まだ聞いたことのない機械装置さえ造られているという。いままで存在しなかったからといって、疑いを抱くには当たらない、将来にも存在しないとは限らないからだ。そこで、おまえに言っておくが、神はなによりもそのような事物の存在を望んでおられるのだ。それが神慮のうちにすでにあることは疑いを入れない、たとえオッカムのわたしの親友〔ウィリアム〕がそのような形での思念の存在を否定しようとしても。なぜなら、わたしたちには神の性格が決定できるからではなく、そこに何らかの限界をも設けることができないからだ」このように矛盾する命題を師の口から聞いたのは、そのときに限らなかった。それにしても、すっかり年老いてあの当時よりはるかに賢明になったはずの私に、いまなお完全に理解しがたいのは、どうして師がオッカムの親友にあれほどまでの信頼を寄せていたのかという点であり、と同時にまた口癖の一つでもあったベーコンの言葉に、師があれほどまでに全幅の信頼を寄せていたのかという点だ。ともあれ、確かに言えるのは、あれが暗い時代の渦中の出来事であり、いかに賢明な人物であっても矛盾のうちに思索を進めなければならなかったということである。』

さらに、そこからもう少し考えると、以前に読んだポール・ケネディー著『大国の興亡』もの著作内にある歴史の流れが1500年代・16世紀以降から始まっていたため、おそらく、さきの見解(おおよそ16世紀以降から科学と技術の結びつきが主にヨーロッパにてはじまった。)は、国際的な見地においても、ある程度妥当と云えるのかもしれない。

しかし、16世紀以降顕著になった、この世界史的潮流は20世紀に至ると、戦場にて用いられる各種兵器の殺傷能力の著しい増大となった。そして、そうした状況をいささか悲観的な視座から述べた記述が以下のものであると思われる。

法政大学出版局刊 R.ペイン佐藤 亮一
ISBN-10 ‏ : ‎ 458802146X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4588021466

『戦争からきらめきと魔術的な美がついに奪い取られてしまった。アレクサンダーやシーザーやナポレオンが軍隊を勝利に導き、兵士たちと危険を分かち合いながら馬で戦場をかけめぐり、緊張したわずか数時間の中で彼等の決断と行動が帝国の運命を決するというようなことは、もうなくなったのだ。これからは彼等は政府省庁のような安全で静かでものうい事務室に書記官たちに取り囲まれてすわり、一方何千という兵士たちが電話一本で機械の力で殺され息の根を止められるのだ。我々は既に最後の偉大なる総指揮官たちを見てしまった。おそらく彼等は国際的な大決戦が始まる前に絶滅してしまったのだろう。そして勝利の女神は、その様な殺戮を大規模な形で組織した勤勉な英雄と不本意な結婚をすることだろう。

 自己の生存が危うくなっていると信じた諸国は、その生存を確保する為にあらゆる手段を使うことになんの制約を受けなくなる、ということは確かである。そしておそらく、いや確かに、やがてそれら諸国が自由に使えるようになる手段の中に、大規模な限界のない、そして多分一度発動されたら制御不可能となるような破壊のための機関と工程が含まれるだろう。

 人類がこのような立場に置かれたことは以前にはなかった。美徳をいくぶんか高めたり、より賢明な導きを受けたりするようなこともなしに、人類はそれによって彼等自身の絶滅を確実に達成できるような道具を、初めてその手にしたのである。これこそが人類の過去の栄光と苦労の全てが彼等を導き最後に到達させた人類の運命の特質なのである。人類は彼等の新しい責任について思い巡らし熟考するが良い。死が気をつけをして立っている。彼はまさに働こうとして従順に待ち受けている。まさに諸国民をそっくり消し去ってしまおうとして、そしてもし呼ばれれば文明の残したものを再建の望みなきまでに粉砕しようとして待ち受けている。死は、誘惑に弱く当惑しきった存在であり、長いことその犠牲者であったが今この時期だけその主人になっている人間からの命令を待っているのである。』

この記述は、まさに現在の世界情勢において、あらためて考えされらるものがあると思われるが、しかし、考えることは至極結構であるが、そこから実質的に進化して、上述のような事態に対して賢明に処することが出来るようになったのかと考えてみますと、そこにはかなり疑問があるように思われます・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。




20230109 中央公論新社刊 石光真清著 石光真人編 望郷の歌 - 新編・石光真清の手記(三)日露戦争 (中公文庫)pp.94-98より抜粋

中央公論新社刊 石光真清著 石光真人編 望郷の歌 - 新編・石光真清の手記(三)日露戦争 (中公文庫)pp.94-98より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4122065275
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4122065277

凱旋祝いや挨拶廻りに数日過ごした後のこと、老母が遠慮がちに私の考えを質した。「どうお考えかい」

「まだ、頭がまとまらないのです。もう暫く保養してからにします」

「そうだね、それがいい、もう当分は戦争もないだろうからね」

「はい・・・」

 これだけの問答で終わったが、私の胸には覚悟を促す強い言葉として響いた。その頃すでに軍を退いて貴族院議員になっていた叔父の野田豁通を訪うと、

「あせるなよ、いいか、ゆっくりやるんだよ」

と言い、参謀本部の田中義一大佐は、

「僕に考えがあるから待っとれ」

と言った。

 凱旋後の一カ月余は、御陪食とか歓迎会とか送別会が続いて気がまぎれた。弟の真臣を始めとして出征した親族も幸い無事に帰って来た。だが落ち着いて周囲を見廻すと、遊んでいるのは私だけであった。自分が職を持っていないと、ひがみではないが、とかく職場の人々を訪ねずらくなる。遠慮がちになるのである。すると自然に世間から孤立していくような淋しさを感じた。戦前にハルピンの写真館で生死を共にした人々には、満州に残して来た写真館を始め視点の類一切を無償で提供するほかに、何一つ与えるものがなかった。それ以上には頼りにならない境遇の私を諦めて、ちりぢりに去って消息を断ってしまった。

 こうして三カ月余り、なすことなく過ごしているうちに、花の季節がめぐって来た。その頃の私には、家からほど近い青山墓地の静かな桜並木の散歩が楽しみになっていた。香煙のただよっている新しい墓に立ち寄ると、きまったように陸軍歩兵上等兵何々の墓というように、ほとんどが戦死者の墓であって、例外なしに新しいお花が供えられていた。勝ったとはいっても、この大戦争の傷痕は深く広くえぐられていて容易に消えることはないであろう。ある時は幼い長女の手を引いて赤坂見附、三宅坂、九段、上野と・・・永年の間楽しめなかった桜の下を、たんのうするまで歩き廻った。明け暮れ家族と遊び暮らしているうちに、いつの間にか心の中に大きな穴があいているのに気がついた。埋めようとしても埋めきれないほど空虚な深い穴が、ポッカリと口をあけているように感じたのである。それはいけないぞ・・と気がついた頃、三月二十八日のことであった。参謀本部の田中義一大佐から招かれた。

 「君の苦労に酬いるためにな、実は接収した満州鉄道の会社が出来たら、長春に勤めてもらおうと思ってね、関係方面とも協議の上で名簿の中に加えてあるんだが、どうも会社の設立が思うように進まん」

と、南満州鉄道株式会社設立が、戦後の資金難と米国の鉄道王ハリマンの協同経営申し入れなどの国際問題がからんで、本格的に発足できないでいる事情を説明した。

「いつまでもぶらぶらしとるのは苦しかろう。どんなもんだろうな、もう一度満州に行ってみる気はないかね」

「・・・・」

 満州と聞いて私はぐっと言葉が詰った。田中義一大佐も敏感に私の心の動きを感じたらしい。声を落として言った。

「家庭の方はどうかな、そう永いことは要らん、まあ二年か三年かな・・・」

「どこですか」

「蒙古だ」

「仕事はなんでしょう」

「ゆっくり調査でもしとればいいさ、そのうち鉄道の方も片付くだろうからね」

私はこの話が田中義一大佐の非常な好意によるものであることを覚った。

「やりましょう、どうせぶらぶらするんなら蒙古の方が遠慮がなくていいです。内地ではどうも遊んでいるわけにはいきませんし・・」

と私が答えると、今度は田中義一大佐が心配の色を眼に湛えた。

「いいかな、そんなに簡単に承諾して」

「いいです。ほかにやることはありませんし・・そろそろ、やり切れなくなってきましたから」

 田中義一大佐は笑い出した。

「先方に落着いたら、どうだね、今度は奥さんたちを呼びよせたら。もう危険はないしな」

「いつからですか」

「正式に参謀本部の所管になるのは遅れると思う。気の毒だが、とりあえず陸軍通訳の名義で関東都督府陸軍付になって待機してもらえんかな」

「名義はなんでも結構です」

私はこう言って田中義一大佐の好意を受けたのである。誰にも先々の鉄道のことは話さなかった。老母は「御奉公ならいいさ」と言い、妻は「お気の毒ですね・・」と言葉を濁した。母や妻が喜ぶはずはなかった。それが判らないほど鈍感ではなかったが、私は当時何かしら追いつめられた気持でいたし、また一方では、これを機会に未来が開かれるような気もしていたのである。

 叔父の野田豁通に話すと「ほう、また行くかい、お前は馴れとるからな」と言って、これもあまり多くを語らなかった。

 このような次第で、またも私は家族と別れて、ただ一人船中の人となり、船橋(デッキ)から新緑の山々を眺めて、過去幾たびかの船出を偲んだのである。明治三十九年五月十日であった。