2017年6月17日土曜日

20170617 現在読んでいる書籍から・・

つい先ほど帰宅しましたが、本日は大変長く感じる一日であり疲れました(笑)。

そのことから、本日は記事作成を止めて、早めに休もうと考えておりましたが、ブログの閲覧者数をチェックしてみますと、本日もまた三ケタの方々に読んで頂いていたことから、にわかに気を取り直し、現在こうして記事を作成している次第です・・(苦笑)。

さて、現在読んでいる書籍に書かれていたことであり、また以前にブログ記事として抜粋引用した書籍においても書かれていたのですが、古代4、世紀頃の朝鮮半島では、その南端に任那、伽耶といった国があり、その北部の西部に百済、東部に新羅が位置していたのですが、この南端の任那、伽耶とは、あまり統一的、中央集権的な王権、国家体制らしきものが確立されなかったようであり、それと同時に対馬海峡を挟んだ南隣の倭国とも交易を盛んに行っており、当然の如く人の行き来も盛んでした。

おそらくこの当時、朝鮮半島南部と北部九州の間には、かなり似通った、共通した文化らしきものがあったのではないかと思われます・・。

しかし後年、朝鮮半島のさらに北方に位置する高句麗が強大化するに及び、その南隣諸国(百済・新羅)もまた圧迫を受け、あるいは刺激され、統一、中央集権的な王権が確立されていなかった任那、伽耶国土を蚕食することとなり、そのことから対馬海峡を挟み南隣に位置する倭王権が任那あるいは百済の要請を受け、海外派兵をすることがたびたびあった。

こうした派兵の際、指揮、統率者として倭王権豪族である紀氏、大伴氏某などが赴いたと考えられている。

また、彼等の中には半島での戦いにおいて功績を上げた者もおり、北東アジア騎馬文化の香りが濃厚に感じられる馬冑が出土した和歌山市大谷古墳の被葬者も、おそらく、そうした史的背景に立つ人物ではないかとされている・・。

加えて、以前投稿した『ラッセルにはじまりコンラッドに至るまで・・M2病の妄想?』にて描いた世界、光景とは、こうした史的背景を一つの基盤としている。

今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。


去る2016年、
熊本、山陰東部、福島県周辺において発生した地震によって被害を被った地域の出来るだけ早い諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しております。」