2020年11月2日月曜日

20201102 中央公論社刊 司馬遼太郎著「歴史の中の日本」内「異常な三島事件に接して」ー文学論的なその死 pp.331-335より抜粋

 中央公論社刊 司馬遼太郎著「歴史の中の日本」内「異常な三島事件に接して」-文学論的なその死 pp.331-335より抜粋

ISBN-13 : 978-4122021037

三島氏のさんたんたる死に接し、それがあまりになまなましいため、じつをいうと、こういう文章を書く気がおこらない。ただ、この死に接して精神異常者が異常を発し、かれの死の薄汚れた模倣をするのではないかということをおそれ、ただそれだけの理由のために書く。

 思想というものは、本来、大虚構であることをわれわれは知るべきである。思想は思想自体として存在し、思想自体にして高度の論理的結晶化を遂げるところに思想の栄光があり、現実とはなんのかかわりもなく、現実とかかわりがないというところに繰りかえしていう思想の栄光がある。

 ところが、思想は現実と結合すべきという不思議な考え方があつねにあり、とくに政治思想においてそれが濃厚であり、たとえば吉田松陰がそれであった。

 松陰は日本人がもった思想家のなかで、もっとも純度の高い人物であろう。松陰は「知行一致」という、中国人が書斎で考えた考え方(朱子学・陽明学)を、日本ふうに純粋にうけとり、自分の思想を現実世界のものにしようという、たとえば神のみがかろうじてできる大作業をやろうとした。虚構を現実化する方法はただひとつしかない。狂気を発することであり、狂気を触媒とする以外にない。要するに大狂気を発して、本来天にあるべきものを現実という大地にたたきつけるばかりか、大地を天に変化させようとする作業をした。当然、この狂気のあげくのはてには死があり、松陰の場合には刑死があった。松陰は自分のゆきつくところが刑死であることを知りぬいてみずからの人生を極度に論理化し(松陰は自己陶酔者ではなかったから美化ではない。しかしその道程と結果は似ている)人生を論理化したあげく、かれ自身が覚悟し予想していたがごとく、異常死へゆきついた。みずからの人生と肉体をもって純粋に思想を現実化させようとした思想家は、その純度の高さにおいて松陰以外の人を私は世界史に見出しにくい。

 われわれの日本史は松陰をもったことで、一種の充実があるが、しかしながら、そういうたぐいの精神は民族のながい歴史のなかで松陰ひとりでたくさんであり、二人以上も出ればその民族の精神体質の課題という別な課題にすりかわってしまうであろう。(ただし、ここでいう思想は、宗教と別個に考えたい。宗教にあってはとくにカトリシズムにあっては、多くの殉教者を出した。ここではカトリシズムのように天に生まれるということを期待することなく、自分の死をもって自分の思想を純粋に表現しようという精神、もしくは発作を考えたい)。ただ、そういう松陰でさえ、自殺はしなかった。刑死させられたが、刑死するまでの幾段階か前までは遠島程度のものであると思っていた。

 かれほどの思想家としての結晶度の高い人でさえ、自殺によって思想を完結しようとは思っていなかった。さらに松陰の門下から多くの血なまぐさい思想的奔走家や政治的奔走家を出したが、かれらの一、二をのぞいては思想と現実が別個なものであることを知っており、現実分析による現実的行動によって歴史を変革することをなしとげた。というより変革期にきている歴史的現実を、現実的にとらえ得た。

 私は松陰という極端な例をここに出したのは、むろん念頭に三島氏を念頭に置いてのことである。三島氏のは、三島氏独自の思想であり、日本人の精神の歴史的系列とは別個のものだということを考えたいがためである。

 三島氏ほどの大きな文学者を、日本史は数少なくしか持っていないし、後世あるいは最大の存在とするかもしれない。

 ただ氏は、ここ数年、政治的発言をしきりにしてきただけに、今度の死の異常死をもって、それを政治的死であると解釈されるかもしれない危険(われわれ同時代人にはその危険性はないが)を私は感じる。三島氏の死は、氏はおそらく不満かもしれないが、文学論のカテゴリーにのみとどめられるべきもので、その点、有島武郎、芥川龍之介、太宰治と同じ系列の、本質的には同じながらただ異常性がもっと高いというだけの、そういう位置に確固として位置づけられるべきもので、松陰の死とは別系列にある。

 三島氏の場合、思想というものを美に置きかえた方が、よりわかりやすい。思想もしくは美は本来密室の中のものであり、他人が踏み込むことのできないものであり、その純度を高めようとすればなおさらのことであるが、三島氏はここ数年、美という天上のものと政治という地上のものとを一つのものにする衝動を間断なくつづけていたために、その美の密室に他人を入りこまさざるを得なくなった。盾の会のひとびとが、その「他人」である。

「ああいうことをしていては、三島さんは殺されるかもしれない」ということを、三島氏に接していた編集者が、私にいったことがある。三島氏の狂気は、天上の美の完成のために必要だったものであり、そのことを文学論的にいえば昭和38年刊行されたかの名作(まことに名作)「午後の曳航」に濃厚に出ている。この小説は他者を殺す。少年たちが精密な観念論理を組み上げ、その観念を「共同」のものにしたあげく、その論理の命ずるところによって、現実的になんのかかわりもない一人のマドロスを殺す。そういう主題である。「共同」がすでにはじまている。

 その「共同」はしかし氏の観念のなかでのみ成立させるべきところを、現実の生活者であるところの氏はその密室に生き身の他人を入れたがために、その「共同」が今度、現実のものになってしまったのである。

 であるがためにあくまでも、氏の死は政治論的死ではなく、文学論的死であり、であるから高貴であるとか、であるからどうであるという計量の問題はさておき、それ以外の余念をここで考えるべきではないように思える。ただ氏と「共同」した他者の悲劇をここで考えざるを得ない。彼らは政治論的死のつもりであったに相違なく、痛ましさはむしろそのあたりにあるといえるのかもしれない。

 いずれにせよ、新聞に報ぜられるところでは、われわれ大衆は自衛隊員をふくめて、きわめて健康であることに、われわれみずからに感謝したい。三島氏の演説をきいていた自衛隊員は、三島氏に憤慨してヤジをとばし、盾の会の人をこづきまわそうとしたといったように、この密室の政治論は大衆の政治感覚の前にはみごとに無力であった。このことはさまざまな不満がわれわれにあるとはいえ、日本社会の健康さと堅牢さをみごとにあらわすものであろう。

 むろん、こういう私の感想は三島氏の美学に対してはきわめて無力であり、それがわれわれの偉大な文学遺産であることをすこしもそこなうものではない。要するに三島氏の「密室」が分裂していたがごとく、この事件をうけとったわれわれも、それを反映して、分裂せざるをえないのである。われわれはそれをむしろくっきりと分裂させ、規定を別々にし、感受性のゆたかな芸術鑑賞者であることと、健康な日本人であることを同意にもちたい。しかしながらわれわれはおそらく二度と出ないかもしれない文学者、三島由紀夫を、このような精神と行動のアクロバットのために突如うしなってしまったという悲しみにどう堪えていいのであろう。