2017年4月15日土曜日

20170414 コスプレ化する社会と権威について・・

本日の首都圏は気温も上昇し、日中は特に寒さを感じることはないようでしたが、こうした季節の変わり目になりますと、体調もまた多少変化するようであり、本日はどうしたわけか一日を通し頭痛に悩まされました・・。

そのことから、本日はブログ記事の更新を断念しようかと考えた次第ですが、目標とする600記事到達まであとわずかのところで、何も書かないというのも、多少口惜しいところですので、とりあえず何かしら書いておこうと考え、まだ頭の重さも残るなか記事作成を開始した次第です・・(苦笑)。

そういえば、昨日投稿した記事に多少関連することであるのかもしれませんが、先日知人から聞いたところによりますと『最近の我が国の社会とは何でもコスプレの対象にする傾向がある』とのことであり、これは云われてみますと、たしかに思い当たることが少なからずあります・・。

とはいえ、我が国とは古来よりその物真似の巧みさこそが優れた国民性の一つであると考えますので、それだけでは特に非難されることはないものと考えます・・。

しかし一方において現今におけるそうした傾向(何でもコスプレの対象にする)が目に余るといったさきの意見にも少なからず理があるのではないかとも思われるのです・・。

そしてその理とは、おそらく我々の社会において一般的に『権威』あるいは『禁忌』とされるものに対し、あまりにも手軽、身近(その背景の文脈を考えず)に、それをファッションの一つのように扱い、真似るという昨今のコスプレの傾向に対して感じる『危うさ』のようなものではないかと考えます・・。

また、そうした傾向の背景には、一つ目に、さきに述べた我が国古来からの物真似の巧みさ、そして二つ目には、インターネットの普及により、さまざまな視覚情報もまた容易に入手することが出来るようになったという道具立て、環境といったもの、さらに三つ目として、我が国の国民性である『権威』をバカにしながらも、一方においてそれを極めて重視するといったambivalent、二律背反的な性質が挙げられるのではないかと考えます・・。

また、こうした傾向が以前に比べ非難される程に顕著になりつつあるのであれば、それは端的に現在の我が国のあらゆる『権威』の価値が揺らいでいることを示しているのではないかとも思われます・・。

私見としては重苦しい『権威』といったものは出来るだけない、少ない方が良いのではないかと思う一方、『権威』といった社会、文化における『重石』のようなものがなければ、ものごとの価値とは有耶無耶となり、特に明晰化を求められるあらゆる行為においては『権威』の欠如とは障害になるのではないかとも思われるのです・・(これも二律背反です・・(苦笑))。

また、こうしたもの(『権威』)とは、通常、経時的な文化、伝統の蓄積によって成立しているものであると云えますので、現今『権威』の価値が揺らいでいるのであれば、もしかすると、それはさまざまな『権威』の外側にいる人々によるものであると同時にそれら『権威』の内側にいる人々による部分もまた、少なからずあるのではないかとも思われるのですが、さて如何でしょうか・・?

『権威。権威がなくては、人間は存在し得ない。しかし、権威は真理と同様に誤りを伴うものである。それは個々のものとして消滅すべきものを永遠に伝え、固く把持さるべきものを拒み消滅させる。こうして権威は往々人類をして一歩も先へ歩かせぬようにする原因となる。』
ゲーテ 「格言と反省」から
(これも二律背反のようです・・。)

今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年の4月14日に発生した熊本での大地震から丁度一年が経過しました。
また、その後の2016年内に山陰東部、福島県周辺において発生した地震によって被災された地域の諸インフラおよび家屋等の出来るだけ早期の復旧、その後の復興を祈念しております。」