2019年12月22日日曜日

岩波書店刊 丸山眞男著 古矢旬編「 超国家主義の論理と心理 他八篇」 pp.121‐124より

岩波書店刊
超国家主義の論理と心理 他八篇
「日本ファシズムの思想と運動」pp.121‐124より抜粋引用「日本の右翼には最も進んだナチス型から、ほとんど純封建的な。遠く玄洋社につらなる浪人型まで実に系譜が雑駁です。そこには「近代」の洗礼を受けたものが殆ど見当たらない。ファッショ的というよりも幕末浪人類型が支配的であります。

フリーダ・アトリーの「日本の粘土の足」(Japan's feet of clay)という本の中に、右翼指導者を「封建時代の浪人とシカゴのギャングのCrossである」といっているのは至言です。例えば右翼運動の大御所が頭山満というような人物であったこと、そこにも右翼運動の特質が象徴されています。ヒットラーやムッソリーニの生活様式と頭山満の生活様式を比べると、前者に見られるような生活の計画性は、頭山満には恐らくないだろうと思います。

例えばここに「頭山満翁の真面目」という本があります。その中にいろいろ頭山さんの談話が書いてありますが、一つ例を挙げて見ると、若い頃のことでこう書いてある。
「あれは血気盛りの二十六七の頃ぢゃ。東京へ出て来て五六人の仲間と一戸を借りて居った。傘も下駄も揃って居るのは初めての中で、やがて何もなくなる。蒲団もなくなる。併し裸生活は俺れ位のもので他の連中は裸では通せんであった。弁当を取って食ふ。金は払はん。そこで弁当屋の女が催促に来る。俺れは素裸で押入れの中から出るものぢやから、女中、あっと魂消て退却ぢゃ。俺れは食はんでも何ともなかったのぢゃ」。
 借りた金を返さないし、こういう手段で撃退することになにか誇りを感じている。この手でやはり高利貸も撃退した話もしております。どう見たって「近代的人間類型」には属さない。ここには近代的合理性は一片もない。

右翼的人間は頭山だけではなく、こういった共通性が見られるのであります。又右翼団体の内部構成を見ても多分に親分子分的組織をもっている。前に申しましたようにあれほど右翼に有利な情勢に恵まれながら右翼運動の統一戦線は一度もなかった。何度も統一が唱えられるのだけれども、一旦は結びついてもすぐに分裂して、互に口ぎたなく罵り合う。親分中心の結合であるからどうしても規模が小さいし、めいめい自分の神様を押し立てて拮抗する。

同じことは終戦後に無数というほど政党が乱立した事情にも現れております。スモール・マスターを中心にして沢山のグループが出来てくる。なかにはていのよい暴力団もある。ナチスでも突撃隊などは多分に暴力的色彩がみられますが、それにはやはり組織と訓練があり、日本のように離合集散はないのでああります。こういう前近代性は右翼団体だけでなく、これと結んで重要な役割を演じた革新将校についてもいえます。

彼等の策謀の根拠地は殆どつねに待合や料理屋でした。彼らがそこで酒杯をかたむけつつ悲憤慷慨するとき、彼らの胸奥には「「酔うては伏す美人の膝、さめては握る天下の権」とうたった幕末志士の映像がひそかに懐かれていたにちがいありません。要するに日本におけるブルジョア民主主義革命の欠如が、ファシズム運動におけるこういった性格を規定しているといえるでしょう。そうして以上のことを別の面からいうならば、日本の「政党政治」時代とファシズム時代との著しい連続性として表現されます。上に云ったような右翼の指導者や組織に見られる前近代性は、程度の差こそあれ日本の既成政党にひとしく見られる特質とも云えます。

日本の政党が民主主義のチャンピオンではなくて、早くから絶対主義体制と妥協し吻合し、「外見的立憲制」に甘んずる存在であったればこそ、日本では下からのファシズム革命を要せずして、明治以来の絶対主義的=寡頭的体制がそのままファシズム体制へと移行しえたのであります。ナチスは天下をとると社会主義政党はもとより、中央党その他一切の既成議会勢力を一掃した。ところが日本では、これまでヘゲモニーをとっていた勢力が一掃されて新しい勢力が登場したのではなくて、旧来の勢力は大体ずるずるべったりに、ファシズム体制の中に吸収されていった。前に述べたように既成政党は殆ど大部分翼賛政治会の中に吸収された。これが戦争終了後大量的な追放者を既成政党や官僚などの古い政治力のなかから出すことになった原因であります。どこからファッショ時代になったかはっきりいえない。一歩一歩漸進的にファシズム体制が明治憲法の定めた国家体制の枠の内で完成して行った。日本の既成政党はファッショ化の動向と徹底的に戦う気力も意志もなく。むしろある場合には有力に、ファシズムを推進する役割を果たしていたのであります。」
ISBN-10: 4003810430
ISBN-13: 978-4003810439