2021年4月29日木曜日

20210429 手書きからPCへの直接入力によるブログ記事作成の変化にあるもの・・

去る3月23日に自身による記事作成、投稿を行ってから一カ月以上経ちました。その間、何度かオリジナルの記事作成を思い立ちましたが、そうした場面では「敢えて記事作成をせずに休むことも大事」と考え、記事作成は行いませんでした・・。

また、一カ月以上、記事作成を行わなかったことから、現在の記事作成が困難になっていることはないようであり、今現在において、キーボード上の指は比較的速やかに動いてくれています・・。

くわえて文章作成と云えば、先月1500記事到達をしてからすぐの頃、休日に神保町界隈を歩いていますと、文房具店の特価品コーナーにて手帳らしきものを見つけ、そこには「memorandum」と記されていました。

そこから以前読んだ書籍に「田中メモランダム」(田中上奏文とも)というコトバがあったことが思い出され「なるほど、こういうものも良いかもしれない・・。」と思いつつ、手に取って開いてみますと、以前、鹿児島在住の頃、こうした日付を特に定めない手帳・日記をようなものを(当初は実験ノートの延長で)書き付けていた時期があったことが思い出され、また、後のブログ記事のネタにでもなるのではないかとも思われ、さらには値引きされていたということもあり、これを購入して、何か思いついたときにすぐに書き付けるようにしました。

一般に我々の発想・思い付きは、水中にて底から湧いてくる泡のようなものでもあり、しばらく経つと、泡が弾けるように忘れてしまうことが殆どであると云えます。そこで、それらを忘れないように書き付けることには、それなりの意味があるのではないかと思い、今現在まで続けていますが、これはたしかに書いている時には、比較的スムーズに文章が出て来るのですが、その書き付けた文章をいざ、ネット上に移そうとPCを開きますと、どうもその書き付けた文章が、公表を前提とするネット上の文章としてはどうも稚拙であるように思われてきて、躊躇ってしまうのです・・。

とはいえ、以前にも書いたことがありましたが、当ブログ開設当初は、ノートにて手書きで作成した記事の下書きをキーボードで手打ちしてPC上に移していましたので、このブログを継続していた期間に、手書きとPC入力の慣れの度合いが逆転し、いつのまにかPCへの直接入力の方が主流になってきたのだと云えます。

これも自身としては面白い変化であると思われましたが、ともあれ、今後しばらくは、さきのメモランダムに書き付けることを続けていきますと、また何か新たな面白い発見が見つかるのではないかとも思われます。

くわえて、そこから関連して思い出されたことがありましたが、これは次回の記事のネタにしたいと思います。

*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 2020年4月開設



一般社団法人大学支援機構

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ISBN978-4-263-46420-5

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2021年4月25日日曜日

20210425 中央公論社刊 「自由の限界」世界の知性21人が問う国家と民主主義 中公新書ラクレ pp.117-120より抜粋

中央公論社刊 「自由の限界」世界の知性21人が問う国家と民主主義 中公新書ラクレ pp.117-120より抜粋

ISBN978-4-12-150715-0

 ヒトラーの原体験は、志願して出征した第一次世界大戦です。英軍と戦い、敗走します。大戦末期には米軍とも遭遇します。敗戦でヒトラーが心に刻んだのは、米英両軍の圧倒的な強さでした。ヒトラーは米英を妬み、憎みます。

 心の底にあったのは、対照的に、ドイツの弱さについての悲嘆です。そこから妄想混じりの信念が作られます。

 ドイツの最も良質な国民たちは祖国を見限って米国に移民し、米国を豊かにし、戦争になれば兵士となって祖国を負かしにやってくる。彼らが祖国から出て行くのは、領土の不足するドイツには自分たちを養う余地がないと判断するからだ。最良のドイツ人の流出をくい止める喫緊の対策は、東欧にドイツの「生存圏」を確保することだー。

 この東方拡大はヒトラーの対ソ観も反映していました。ヒトラーの目には、ソ連は帝政ロシア崩壊の混乱を引きずり、共産主義という病に患っているように映じたのです。ソ連は軍事的脅威ではなく、ドイツの東方拡大の支障にはならないだろう、と。

 ドイツには米英を負かす力はありません。そのことはヒトラーも承知していました。当初は英国に対し、帝国主義を認める代わりに、ドイツの東欧支配・生存圏確保を認めさせる腹積もりでした。結局、ドイツは英国と対立し、1939年、ポーランドに侵攻します。「手術しなければ死が必至となる場合、成功の確率が5%でも手術は受ける」という物言いをヒトラーはしています。その後は坂道を転がるように、北欧、フランス、バルカン半島、北アフリカ、ソ連などへ戦線を広げることになります。

 話は前後しますが、ヒトラーは30年代後半、日本の戦略的重要性に気付きます。日本の存在によって米英の注意が極東にそれることを期待します。そうなれば、欧州戦線でドイツは有利になる。ヒトラーはドイツと日本、そしてイタリアを一つにまとめる理屈を見出します。世界は米英を中心とする「(富を)持つ国」と独日伊に代表される「持たない」国に分裂し、対立しているー。

 ヒトラーの戦略的過ちはソ連の力を極めて過少に評価したことです。

 日本の41年の対米英開戦を受けて、米国が参戦した結果、ヒトラーの憂慮は現実のものになりました。欧州の空と陸で米軍を指揮した二人の司令官はいずれもドイツ系移民の子孫でした。ヒトラーは45年4月、敗戦を覚悟して自殺します。

 今日、「持つもの」と「持たないもの」を分断する、グローバル資本主義のあり方に批判があるまり、反ユダヤ主義が再び台頭しています。移民問題も深刻です、ポピュリストらの主張に耳を貸すと、ヒトラー流の言説が響いてきます。ヒトラーの影が現代まで伸びてきているとの印象を受けます。私たちはこれからも不断にヒトラーを打ち負かす必要があるのです。

 45年以降、欧州の平和は三つの事業で保たれてきました。第一はナチスドイツの打倒です。これは米英とソ連が主体になりました。第二は東西冷戦下でのソ連の介入の阻止。これは米英、特に米国が北大西洋条約機構(NATO)を組織して実現しました。第三は欧州諸国間の戦争の否定です。これは仏独を核とした欧州統合という枠組みで実現しました。このうち平和の構築と維持に最も貢献したのはNATOです。2012年のノーベル平和賞はEUに与えられましたが、本来ならNATOです。ただ、米国はオバマ前政権以来、欧州関与を減じています。

私の見果てぬ夢はEUが真の平和事業へと進化することです。そのためには政治統合を果たし、軍事力を整えることが必須です。しかし、EUは既に政治統合を放棄しています。

 確かにEUは対象国に経済制裁を発動し、罰を与えることはできますが、例えばロシアを抑止するような政治力・軍事力は持ち合わせていません。EUは威圧できません。私見では、単独の国家として威圧できるのは英国だけです。

 ドイツは経済大国ですが、軍事小国です。89年の東西冷戦崩壊後、軍事力を更に落としている。軍事的な役割を担うことに極めて臆病です。ここにもヒトラーの影が差しています。ためらう気持ちは理解できますが、欧州の安全保障上、ドイツの振る舞いは問題です。

 英国のEU離脱問題を巡り、英国と大陸欧州の関係がねじれています。

 欧州側は「英国はEUの外に出れば、国際的な発言力を失う」と主張しますが、英国は歴史的に発言力を維持してきました。欧州側は英国がEUを離脱した場合、早晩、英国の力を必要とするはずです。英国の力を欧州に組み込む、新たな枠組みを見いだせるのか否か、それが欧州側の課題になると私は考えます。

2021年4月24日土曜日

20210424 株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」上巻 pp.322-323より抜粋

株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」上巻pp.322-323より抜粋

ISBN-10 : 4480084878
ISBN-13 : 978-4480084873

西行は、俗名を佐藤則清といい、もと武士の出、若くして剃髪(1140)の後、全国に旅したことで知られる。家集は「山家集」(成立年代不明)、千数百首を含み、『新古今和歌集』はその歌を多く採る。歌風は定家流の手のこんだ技法に走らず、単純で平易であり、しばしば当人の感情と経験を直接伝える。

 浮れ出づる心は身にも叶はねば如何なりとても如何にははせん(『山家集』中、雑)

儚しなちとせ思ひし昔をも夢のうちにて過ぎにける代は(『山家集』下、無常十首)

心がみずから統御できない、どうなっても勝手にしろ、というのは、「幽玄」でも「有心」でもない。「ちとせ思ひし昔」は、おそらく西行の「春宵一刻」であり、『新古今集』流の古典をふまえるよりは、換え難い経験をふまえた独特の語気を示しているだろう。

 しかし西行の旅の歌の圧倒的多数は、『古今集』以来の月なみの主題による。花鳥風月。旅の自然をほとんど自分の眼でみていないという点では、平安朝の宮廷知識人と変わらない。

 この時代には、画家でさえも、名所を描くのに、名所を見てはいなかった。重要なのは、画題の歌枕であって、現実の風景でなない。たとえば後鳥羽院が新築の寺(最勝四天王院)の障子に四人の画家の名所絵を注文し、定家が名所を選んだとき(1207)、画家の一人が、割りあてられた須磨・明石を一度行って見てきたいと申出たということがある。おそらくその画家は例外であり、遠い名所は、見たこともないのに描くのが当然であった。いわんや歌人をや。春は花、花は桜、というのは、貴族文化の月なみであって、日本国の植物分布とは全く関係がない。他のどんな花も、貴族の眼にはみえなかったのであり、だから貴族文化に組みこまれた西行にも見えなかったのである。

 ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃(『山家集』上)

これこそはすでに彼の同時代から、西行の歌のなかでもっとも有名なものである。おそらくこの歌が北面の武士の貴族文化への降伏の証言に他ならなかったからであろう。

2021年4月14日水曜日

20210414 中央公論新社刊 池内紀著「闘う文豪とナチス・ドイツ」トーマス・マンの亡命日記 pp.44-48より抜粋

中央公論新社刊 池内紀著「闘う文豪とナチス・ドイツ」トーマス・マンの亡命日記
pp.44-48より抜粋

 
ISBN-10 : 4121024486
ISBN-13 : 978-4121024480

1936年12月、ボン大学はトーマス・マンの名誉博士号を剥奪した。7年前のノーベル賞受賞にあたり、大学当局みずからが申し出たものを、みずからで取り消した。

『トーマス・マン日記」 1935-1936』では1936年12月25日付、クリスマス当日の記述に出てくる。

「-うっかり忘れるところだったが、国籍剥奪の結果として名誉博士号を剥奪する旨、ボン大学哲学部から通告があった。-回答を考慮」

「うっかり忘れるところ」となるのは、その日、クリスマス・ケーキの朝食に始まって、おりしも来訪中の友人たちと森を散歩し、そのあとコーヒーを飲みながらジッドの『贋金つくり』、ジョイスの『ユリシーズ』、自作『魔の山』などをめぐり小説の危機について語り合った。ほかにも執筆中の短編、まぢかに迫ったプラハ、ブダペストへの講演旅行の連絡などと、いろいろ用があったせいだろう。

 とともに大学からの通告に対する意味合いもこめてのこと、自分のほうから申し出て与えたものを、国家による「国籍剥奪」を理由づけにして取り消しを言い立てる愚かしさ。

 ナチス政府によるトーマス・マンのドイツ国籍否認の告示は1936年12月2日付で、翌日のナチ党新聞「フェルキシャー・ベオーバハター』に発表された。マン夫人、および4人の子供を含むもので、活動家の長女エーリカと長男クラウスは、その前から国籍を剥奪されていた。

 マンはナチス内務省の動きを早くに察知していて、先立つ11月にチェコスロバキアの国籍を取得しており、剥奪を通告された時点で、すでにドイツ国籍を持っていなかった。12月2日の日記に記している。「ミュンヘンからハインスの電話(中略)先手が取れるよう是非とも事実を公表せよという」。公表して相手のハナをあかす予定のところに党新聞の情報が入り、マンは多少くやしい思いがしたらしい。12月4日に書いている。「・・やはりこれは不意打ちだし、先手をとられたのが腹立たしい」

 ともあれ法的には国籍剥奪に何の意味もない。むしろすでになくなっているものを、やっきになって取り消す側の滑稽さが浮かび出る。

 それだけではなかった。すぐさまこの一件に飛びついて、ものものしく、名誉博士の剥奪を伝えてくる、もう一つの滑稽集団がいた。通告文は日記の注に再録してある。ボン大学は通称で、正式にはライン州フリードリッヒ・ヴィルヘルム大学哲学部、12月19日付。

 ボン大学総長の合意を得て余は貴下に対して、貴下が国籍を剥奪されたる以上、哲学部としては貴下を名誉博士名簿から抹殺するのやむなきに到れる旨、通告せざるをえざるものなり。本称号を帯びる貴下の権利は、本学学位授与規則第8条により消滅せり。

                       (署名判読不能)学部長

 著作家トーマス・マン殿

 文中の「抹殺するのやむなき」といった言葉から、大学当局がこころならずも決定したように受けとる人がいるかもしれないが、ドイツ語原文はネガティヴなことを伝えるときの常套句であって、いたって事務的な通告文である。学費滞納の学生に退学を伝えるときと、まったく同じ文面である。

 権力が大きくふくれ上がったとき、さまざまな喜劇がかいま見えるものだが、ボン大学による名誉博士号剥奪もその一つだろう。ヒトラーが政権についてほぼ4年になる。全面的な国家一元化が完成して、「党と国家の一体の保障のための法律」により、大学教授団もまたヒトラー・ユーゲントやナチス婦人団と同様に「ナチスの肢体」の一つとなった。

 法律の施行より早く、新しい権力者への迎合が始まった。ドレスデン工科大学教授だったヴィクトール・クレンペラー『私は証言する/ナチ時代の日記 1933-1945』(大月書店、1999年)が、同僚たちのうろたえぶりと変節のもようを克明に書きとめている。非アーリア系官吏の罷免を含む新官吏法が出されるやいなや、てのひらを返すように態度を一変させ、ユダヤ人言語学者を大学から追放した。フライブルグ大学哲学教授マルティン・ハイデガー教授はケルン大学公法学教授カール・シュミットに「ナチへの協力」を勧め、シュミットは一週間後にナチスに入党した。

 通告に対してマンの日記に「回答を考慮」とあるのは、まるで椋鳥が飛び込んできたような気がしたからではあるまいか。相手方の出方を利用して、存分にナチス批判ができる。素竿を当の相手が提供してくれた。学部長カール・オーベナウアーへの返書については12月30日の日記に見える。「コーヒーの後、鉛筆で学部長宛ての書簡を書き上げる」。かなりの長文であって、実際は誰に宛てたものかいうまでもない。

「わたくしは夢にも思いませんでした」

中年すぎて亡命者となり、祖国に背き、やむにやまれぬ政治的抗議のなかで過ごすとはーそんな書き出しのあと、ナチズムと呼ばれるものの実態、我が世の春を謳歌している権力者の欺瞞と虚構を克明に語っていった。

「学部長殿、わたくしはうっかり、あなた宛てに書いていることを忘れておりました」しかし、まあ、いいだろうと、辛辣な皮肉がまじえてある。「あなたはとっくに読むのをやめておられるでしょうから」

 私的書簡ながら広く伝わることを図って書かれ、「ある往復書簡」のタイトルで翌年1月『新チューリヒ新聞』に掲載。すぐさまチューリヒの出版社が学部長の通告文つきで仮綴じ本に仕立て、またたくまに二万部を売り上げた。オーベナウアー学部長がいかなる人物かは不明だが、幕間狂言の愚かしいメッセンジャーとして歴史に名をとどめている。

2021年4月13日火曜日

20210413 株式会社新潮社刊 北杜夫著「どくとるマンボウ青春記」pp.147‐149より抜粋

株式会社新潮社刊 北杜夫著「どくとるマンボウ青春記」pp.147‐149より抜粋

ISBN-10 : 410113152X
ISBN-13 : 978-4101131528

 トーマス・マンが告白しているが、彼もまた若いころ観念主義のトリコとなって精神的なものをより重視し、政治にいわば背を向けていた。現在の、国家の実際面を担当するには、そのために専門の政治家や軍人がいるではないか。自分は自己の内面のみを見つめ芸術作品を書いていればよいと思っていた。しかるに見よ、いつしかナチスはドイツ自体を代表し、気づいたときには彼の国家は泥沼に落ちこみ、彼の著作は発禁となり、彼は国籍を剥奪されアメリカに亡命しなければならなかった。

 マンがボン大学の名誉教授号を剥奪されたとき、彼がスイスから学部長あてに送った公開書簡はわれわれの胸を打つ。この中でマンは正面きってナチスを弾劾しているが、その末尾にこう記している。

「学部長殿、実のところ、私は貴殿にあてて書いているのだということをまったく忘れておりました。しかし私は、貴殿がもうおそらくかなり前から私の文章を読んでおられはしないことと考えて、安心することができます。ドイツではすでにその習慣を失ってしまったこうした言葉に驚き、人があえて自由なドイツ語を語ることに呆然自失されたことでしょう。おお、私をしてこんなふうに語らしめているのは、傲慢ではなくして、むしろ身を切るような苦痛の念なのです。貴殿の指導者たちは、私をもはやドイツ人ではないと決定したときにも、この苦痛の念から解放することはできませんでした。私の言葉は、魂と精神との苦痛から生まれたものです。・・・人間は、宗教的な羞恥心から、あの至高なおん名をみずから進んで口にしたり筆にしたりしないものであるとしても、自分の思いをすっかり表現するためには、それを抑えることのできがたい深刻な感動の時があるものです。それゆえー私はもうこれ以上言うことができないのですからーこの手紙を次のような祈りの言葉で結ぶことを許して頂きます。

 神よ、憂いに閉ざされ、道をあやまれるわれらが国を救わせたまえ、他の国々とも自国とも平和を結ぶことを教えさせたまえ」

 かくしてやがて、かつては自らを非政治的人間と称したマンは、第二次大戦中、敢然と言葉を通じてファシズム打倒のために立上がり、アメリカ中を講演してまわり、相手国家むけの放送をする。戦後、マンはデモクラシー擁護の戦士としてわが国に再紹介されたが、これはもともと彼の本質とは微妙に異なるものであった。

 ついでながら、私たちが三年のとき、望月先生は戦時中のマンの講演「デモクラシーの勝利」をテキストに使った。もちろん古い答案用紙の裏側に謄写版で刷ったものである。あたかもその折、この論文の訳が某雑誌に載った。なんたるタイミングのよさ、と私たちは大喜びをし、みんなその雑誌を買い、これで大丈夫と教場に出てゆくと、なんとその訳があちこち誤っており、みんな叱られてしまうのであった。翻訳というものが間違うこともあることを、私はそのときはじめて知った。

2021年4月10日土曜日

20210410 中央公論社刊 吉田裕著「日本軍兵士」-アジア・太平洋戦争の現実 pp.42‐45より抜粋

ISBN-10 : 4121024656
ISBN-13 : 978-4121024657

【太平洋戦争沈没艦船遺体調査大鑑」によれば、海没死者の概数は、海軍軍人・軍属=18万2千人、陸軍軍人・軍属=17万6千人、合計で35万8千任に達するという。日露戦争における日本陸海軍の総戦没者数、8万8133人(「日露戦争の軍事史的研究」)と比較すれば、この35万8千人という海没死者の重みが理解できるだろう。なお、船舶輸送軍医部は、「船舶輸送中における戦死は溺水死その半ばを占むべし」としている(「船舶輸送衛生」)。つまり「溺れ死に」である。

 多数の海没死者を出した最大の要因は、アメリカ海軍の潜水艦作戦の大きな成功による。第二次世界大戦で、米海軍は52隻の潜水艦を喪失したが、1314隻・500万2000トンの枢軸側商船を撃沈している。潜水艦一隻の喪失で25隻もの商船を撃沈していることになる。ドイツ海軍は781隻喪失、撃沈が2828隻・1400万5000トン、一隻の喪失で3.6隻を撃沈しているが、米海軍には大きく水をあけられている。ところが日本海軍の場合は、127隻喪失、撃沈が184隻・90万トン、一隻の喪失でわずか1.4隻を撃沈しているにすぎない。

 米海軍の対日潜水艦作戦では1943年半ばが大きな画期となった。米海軍は、この頃までに不発や早発が多かった米軍魚雷の欠陥を是正しただけでなく、日本商船の暗号解読に成功した。これにより、船団に対する待ち伏せ攻撃が可能になったのである。(「研究ノート 対日通商破壊戦の実相」)

 多数の兵士たちが海没死した日本側の要因としては、日本軍の輸送艦の大部分が徴傭し、船倉を改造した狭い居住区画に多数の兵員を押し込めたことがあげられる。そのため沈没の際に全員脱出することは不可能であった。また、多数の喪失によって船舶の不足が深刻になり、一輸送船あたりの人員や物資の搭載量が過重となったことも犠牲者を増大させた(前掲、「アジ化・太平洋戦争の戦場と兵士」)。

 先にあげた船舶輸送軍医部「船舶輸送衛生」は。船舶輸送に特有の環境の一つとして、居住区画の「狭隘」さをあげ、軍隊輸送では坪あたり3ないし4人の兵士が適当だが、温度が高い熱帯地の輸送では坪当たり2.5人を理想とする、しかし、船腹の関係や作戦上の要求から、「坪当たり5人の多きに達すること」があると指摘している。

 一坪に完全武装の兵士5人が押し込まれれば、横になることさえ不可能である。1944年7月、フィリピンに向かう輸送船の船内の状況を軍医(見習士官)の福岡良男は、「まるで奴隷船の奴隷のように、定員以上の兵が輸送船の船倉に詰め込まれ、自由に甲板に出られぬ兵が、船倉の異常な温度と湿度の上昇のため、うつ熱病(熱射病)となり、体温の著しい上昇、急性循環不全、全身痙攣などの中枢神経障害を起こし、多くの兵が死亡した。その都度、私は水葬に立ち会い、肉親に見送られることなく、波間に沈んでゆく兵を、切ない悲しい思いをして見送った」と回想している。(「軍医のみた大東亜戦争」)。

 入隊したばかりの初年兵など、甲板に出られない兵士が多かったのは、福岡によれば甲板の出入口付近に涼を求めて古手の古参兵たちが我が物顔でたむろしているからだった。

2021年4月9日金曜日

20210409 株式会社岩波書店刊 野上弥生子著「迷路」上巻 pp.279‐280より抜粋

株式会社岩波書店刊 野上弥生子著「迷路」上巻
pp.279‐280より抜粋
ISBN-10 : 4003104927
ISBN-13 : 978-4003104927

その外側に、風を伴ってまだ散乱しているであろう雪は、今日の騒動(2・26事件)にもつれあい、桜田門の遠い椿事を、弟と語るあいだも彼の胸に白い幻影にしていた。当時の保守党の尊王攘夷の叫びの中で、敢然と開港条約に調印した祖父江島近江守の行動が、彼を激しく打ち、強い感動とともに、肉親の同情を交えた共鳴で祖父のことを考えるようになったのはまだ学習院の頃であった。歴史についての彼の興味も、一つにはそれに誘いだされたといってよく、明治維新政府は、祖父を人柱にして建築された、とする結論は彼には誇りがなものであった。しかも、そこで栄達の座についてのは、祖父を死体にし、その首を打ち落としたものではなく、それを狡く利用した仲間であるのを思うことによって、はじめの尊王攘夷、徳川幕府打倒を、巧みに文明開化主義に乗りかえた新しい明治の権力者ー薩長が代表する政治家、軍人、新興財閥には、下手人の水戸浪人たちに対するよりも、ずっと底深い憎しみと軽蔑を感じさせた。宗通をかたく捕らえている反社会的な生活は、まだ若かった頃から、この秘密なフレームにその芽をもっていたのであった。

 こうした考え方を、宗通は誰にも打ち明けたことはなかった。もちろん、また秀通(弟)にも話そうとはしなかった。容貌がすっかり違っている通り、性質もまるで反対な弟は、宗通の眼には、つねに騒々しい俗物で、彼が憎み、軽蔑しているものと如才なく手を繋いで、損をしないで生きるのを世渡りの第一義としている、欲深い、おろか者に過ぎなかった。つねは向からやって来る以外には、めったに呼びよせもしない。今朝の特別な例外は、出来事の詳細を聞こうとするためであったとはいえ、宗通の気持の底には、彼自身でもはっきりは心づかないものが潜んでいた。

「この雪で、お祖父様の桜田門の事件が思い出されるではございませんか。」

 この意味の言葉が、秀通の口からもしも洩れたとしたならば。-眼先だけの、騒々しい世間師が、そんなことに考え及ぶ筈はない、と思いつつも、宗通には漠然とした期待があった。それほど彼は誰かとその話がしたかった。また、それほど、今日の出来事は雪を媒介として、祖父の横死の歴史の一ペエジを、彼の追想に甦らせていたのであった。

2021年4月6日火曜日

20210406 株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー②「私の中の日本軍」pp.306‐307より抜粋

 株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー②「私の中の日本軍」pp.306‐307より抜粋

ISBN-10 : 4163646205
ISBN-13 : 978-4163646206

以下の話は、今では私自身、ちょっと気恥ずかしい気持もする。私は最後の引揚船でフィリピンをあとにしたが、昭和17年以来足掛け5年mまず内地軍隊食にはじまり、戦地軍隊食・フィリピン食・ジャングル食(?)・収容所食と、奇妙なものを食べつづけて来た。そしてタタミはもちろんのこと、普通の「日本食」の味も香りも形態も、茶碗も箸も忘れていた。否、内地の軍隊のあおのどんぶり型のアルミ食器と麦飯すら半ば忘れていた。

 戦地ではずっと飯盒とその蓋と掛蓋が食器であり、収容所でははじめは缶詰のあき缶であった。後には食器(メスキット)も支給あれ給与もよくなったとはいうものの、毎日のように豆とブタの脂身のきんとんのようなごった煮ーいわば米軍の最低の兵隊食、彼らのいう、黒人のえさ(ニガー・フーズ)の連続で、しかもそれには缶のにおいがついており、しまいにはこの亜鉛か錫のにおいが鼻についてやりきれなかった。しかもそれを、日に三度、雨の日も風の日も、野天に一列に並んで、順番にバケツの中から、おしゃもじのような大きなスプーンで、フライパンを楕円にしたような食器にペタッぺタッと盛ってもらっては、幕舎にもって帰って食べるのが毎日だったわけである。

 そういう日々も終って引揚船に乗り、甲板から港を眺めていたとき、輸送指揮官から、輸送本部の仕事を手伝ってくれといわれた。「最後の最後までブツキですかあ、もうまっぴらです」といったものの、結局口説き落とされ「ま、一応本部までは来て下さい」ということになって輸送本部に行った。

 何しろ佐世保につくまでに半徹夜ぐらいで処理しなければならない復員事務から、所持軍票の整理やらがあり、また常夏の国から一週間足らずで厳冬の日本に帰るこの人びとのたmr、積み込んできた冬服冬外套の支給も早急にはじめなければならず、相当大変な仕事がまっていた。

 もっとも重労働だからということで幾分か優遇され、上甲板に近い復員官の個室の隣の、20畳ぐらいのタタミ部屋が提供されていた。船倉ではとても半徹夜で事務を処理することなどできないからだろう。しかし私は、そういう優遇で仕事をさせられるよりも、船倉で一向かまわないから、ただただ静かに休んでいたかった。しかし、それもならず、最後の最後まで「ブツキ」をやらされることになってしまった。

 夕食になった、なるほど特別待遇で、タタミの上に、四角いアルミ盆にのった食事が、船のボーイの手で並べられた。一椀の麦飯、味噌汁、野菜と肉の煮つけであった。全部で十数人だったと思う。何年かぶりのタタミの上での「人間らしい」食事であった。

 正座して、まず味噌汁をとった。かすかな湯気とともに、味噌と煮干のにおいが鼻孔に入って来た。その瞬間涙が出て、鼻孔を流れ、湯気といりまじった。味噌汁のにおいで涙を流すなどということは何となく恥ずかしく、照れくさかった。私は歯をくいしばって涙を抑えようとした。しかしそうすればするほど涙はあふれ、目にたまり、手がふるえてきた。味噌汁をこぼさないように、うつむいたまま、湧きあがってくる涙を必死で抑えた。

 私はうつむいていたので、ほかの人に気づかなかったから、こういう状態になったのは自分だけかと思っていた。だが、全員が同じだったのである。鼻をすする音がした。やがて一人が耐え切れなくなったように「ムムッ」といってこぶしで涙を拭った。それが合図のようになって、あとは全員、堰を切ったように同時に声をあげて泣きだした。

 以上が典型的な「感覚的里心」の発作的激発であろうが、考えてみればこれは異常である。もちろん、こういう感情の激発は一瞬にすぎない。不平不満はすぐに出てきた。三日もしれば、人びとは、「給与だけは収容所の方がよかったな」などと言い出すのである。しかし、そのことと、こういった感覚的な感情の激発が絶えず内在していることとは別である。

2021年4月4日日曜日

20210404 株式会社岩波書店刊 加藤周一著「羊の歌」-わが回想- pp.101‐103より抜粋

ISBN-10 : 4004150965
ISBN-13 : 978-4004150961

祖父の家が一歩一歩没落の道を辿っていったときに、祖母の側の親類は栄えていた。祖母の兄は、その頃実業界で成功し、独占的な大燃料会社の副社長になっていたし、弟は海軍で昇進し、少将となり、やがて中将となった。30年代の後半に満州ではじまったいくさは、いよいよ拡がりつつあったから、もとより大燃料会社の景気はよく、海軍の高級将校の威勢はいよいよ増すばかりであった。

副社長はよく親類縁者の面倒をみた。その会社にはいたるところに一族が就職して働いていた。しかし傾きかけた妹の家、つまり祖父の家を救うところまではゆかなかった。たとえ望んでも、その能力はなかったのかもしれない。副社長といっても、技術者の社員から昇進したので、大株主ではなかった、娘がひとりあって、娘婿が後に同じ会社の副社長になった。

この人は快活な人柄で、相手によってわけへだてしなかった。私の父とさえも、-というのは、この気むずかしい医者とうちとけて話す人は親類のなかにも少なかったからだが、会えば談笑して倦まなかった。中学生の頃の私は、この副社長の一家とほとんどつき合っていなかったが、太平洋戦争の後、パリで貧乏暮らしをしていたときに、その娘婿、つまり二代目の副社長と、思いがけなく一晩を過ごしたことがある。下宿に突然手紙がきて、しかじかの日にパリに行くから、よろしくたのむと簡単に書いてあった。飛行場へ行ってみると、彼は鞄持ちの会社員を二人連れてあらわれ、「やあ、どうだい」といった。その気さくな調子が、私にいくさのまえの記憶をよびさまし、大会社の副社長という肩書きを忘れさせた。

 海軍少将は、若いときに英国へ留学し、ロンドン軍縮会議の頃大使館附武官をしていたこともあって、英国の文化を尊敬していた。親類の集りでも、英国人の風俗やその歴史について語ることが多かったと思う。30年代後半の日本で海軍の将校が外国人と交際することは少なかったから、どの程度に英語を話したかはわからない。しかしよく英語の本を読んでいた。オークション・ブリッジという遊びを、私たちの家庭にもちこんだのも彼である。

あるときには、巡洋艦の艦長をしていたし、あるときには、揚子江艦隊の司令官で、またあるときには、艦政本部長でもあった。私は子供の頃巡洋艦に招かれたことをよく覚えている。それは県知事になった伯父の権力をはじめてみたときとは全くちがう印象を私にあたえた。県知事には役人がへつらっていた。県庁の役人たちは、ほとんど陰惨な気をおこさせるほど卑屈だった。しかし巡洋艦の水兵たちは少しも卑屈ではなかった。彼らはお世辞をいわず、必要最小限度以外には口をひらかず、しかし敏捷で、正確で、能率的で、艦長の客に対しては申し分なくゆきとどいていた。そこでは人間の組織が機械のように動き、ほとんど美的な感動を与えた。その印象があまりにも強かったので、私はその他のすべてのことを忘れてしまったのかもしれない。その巡洋艦の大きさも、その日誰が一しょに招待されていたかということも、またおそらくは晴れた日の海の色や、飛び交う鷗や、風にひるがえる軍艦旗も。私たちはこの海軍将校を「おじさん」とよび、またあるときには「提督」とよんでいた。提督は太平洋戦争の前後を通じて一種の見識を有し、決してそれをゆずろうとしなかった。それは狂信的な超国家主義は必ず国をほろぼすということである。

20210403 株式会社光文社刊 岩田健太郎著「丁寧に考える新型コロナ」 pp.72‐74より抜粋

pp.72‐74より抜粋
ISBN-10 : 4334044999
ISBN-13 : 978-4334044992

日本人はなぜ予後が良いのか。この観点から、京都大学の山中伸弥先生は、こうした予後を変える要素を「ファクターX」と名付けました。これから突き止めたい謎のファクター、ということですが、ぼくはむしろ日本、日本人特有のファクターではなく、もっと一般化できる(うまくいっている国共通の)要素を希求するのが筋だと思っています。

 一つのヒントは、血栓です。

 すでに重症COVID-19感染で動脈、そして静脈の血栓が起きやすいことが知られています。これが予後に影響を与えている可能性もあります。

 海外で診療したことがある医者ならよく知っていることですが、欧米と日本では抗凝固薬のワーファリンの必要量が全然違います。アメリカだろ10㎎など多い量で投与するワーフェリンは、日本人だと体重の違いを考えてもずっと少ない量で十分な抗凝固ができます。

 ぼくは最初、このワーファリンの投与量の違いから、「日本人のほうが血栓ができにくいのでは」と思ったのですが、調べてみるとこれはワーファリンの代謝の人種間の違いで、直接的な抗凝固の違いではないようです。

 ただ、それとは別に、やはりアジア人は静脈血栓はできにくいようです。

 これはカリフォルニアでの人種間の疫学研究で示唆されたもので、日本人や中国人などの静脈血栓リスクは、他の人種・民族に比べると低いようです。

 動脈血栓、すなわち心筋梗塞や脳梗塞などですが、これは高血圧やいわゆるコレステロールの高い人(脂質異常)、肥満、男性、喫煙、糖尿病などがリスク因子です。COVID-19も、男性や肥満はリスク因子になっていますから、COVID-19の動脈血栓リスクがCOVID-19のリスク(あるいはその一部)になっている可能性があります。

 そして、こうした動脈の病気も、日本人などアジア人では欧米より少ない傾向にありますから、これも説明の一つになっている可能性はあります。禁煙指導や高血圧の治療、スタチンなどによる脂質異常の治療などで動脈血栓の病気は世界的に減っていますが、それ以上に日本の頻度は海外のそれより少ないのです。

 ぼくは血管の病気の専門化ではないので、このへんの推測は一般的な医者目線からの議論に過ぎません。

 が、血栓と人種の関係は、COVID-19の重症化リスクに寄与している可能性は高いと思っています。さらに決定的なデータが出ることを期待しています。

2021年4月2日金曜日

20210401 未來社刊 丸山眞男著「現代政治の思想と行動」pp.158‐161より抜粋

 未來社刊 丸山眞男著「現代政治の思想と行動」pp.158‐161より抜粋

ISBN-10 : 462430103X
ISBN-13 : 978-4624301033

日本は周知のように明治維新による上からの革命に成功してともかく東洋最初の中央集権的民族国家を樹立し、ヨーロッパ勢力の浸潤を押しかえしたばかりか、世界を驚倒させるスピードでもって、列強に伍する帝国主義国家にまで成長した。

ところが中国では、曾国藩らの「洋務」運動から康有為の「変法維新」運動に至る一連の上からの近代化の努力も結局、清朝内部の強大な保守勢力の前に屈服し、その結果は19世紀後半の列強帝国主義の集中的蚕食を蒙って、半植民地、いな孫文のいわゆる「次植民地」の悲境におちた。

むろんこのような中国と日本の運命のひらきには、両国の地理的位置とか「開国」の時期のずれとか、旧社会の解体過程の相異とか、支配階級の歴史的性格とか、いろいろの要因が挙げられるであろう。しかし、ここではそうした原因論が問題なのではなく、むしろ、こうした出発点の相異が結局両国のナショナリズムに殆ど対蹠的な刻印を与え、それが今日の事態にも致命的に影響しているという点が重大なのである。

すなわち、中国は支配層が内部的な編成替えによって近代化を遂行することに失敗したため、日本を含めた列強帝国主義によって長期にわたって奥深く浸潤されたが、そのことがかえって帝国主義支配に反対するナショナリズム運動に否応なしに、旧社会=政治体制を根本的に変革する任務を課した。

旧社会の支配層は生き残らんがためには多かれ少なかれ外国帝国主義と結び、いわゆる「買弁化」せざるをえなかったので彼等の間から徹底した反帝国主義と民族的独立の運動は起こり得なかった。一方における旧支配層と帝国主義の癒合が、他方におけるナショナリズムと社会革命の結合を不可避的に呼び起したのである。孫文から蒋介石を経て毛沢東に至るこの一貫した過程をあとづけることはここでは必要なかろう。ただ、こうしたナショナリズムとレヴォリューションとの一貫した内面的結合は、今日中国において最も典型的に見られるけれども、実はインド・仏印・マレー・インドネシア・朝鮮等、日本を除くアジア・ナショナリズムに多かれ少なかれ共通した歴史的特質をなしていることを一言するにとどめる。

 ただひとり日出ずる極東帝国はこれと対蹠的な途を歩んだ。ここで徳川レジームを打倒して統一国家の権力を掌握した「維新」政権はそれ自体、旧支配階級の構成分子であり、彼等はただ「万国に対峙」し「海外諸国と併列」する地位に日本を高めようという欲求にひたすら駆り立てられて急速に国内の多元的封建制力を解消してこれを天皇の権威の下に統合し、まさに上述の「使い分け」を巧妙きわまる仕方で遂行しつつ、「富国強兵」政策を遂行した。

この、上からの近代化の成功はまことにめざましかった。かくて日本はその独立を全うしつつ「国際社会」に仲間入りしただけでなく、開国後半世紀にしてすでに「列強」の地位にのし上がったのである。しかし同時に、近代化が「富国強兵」の至上目的に従属し、しかもそれが驚くべきスピードで遂行されたということから、まさに周知のような日本社会のあらゆる領域でのひずみ或いは不均衡が生まれた。

そうして、日本のナショナリズムの思想乃至運動はその初期においてはこのゆがみを是正しようという動向を若干示しはしたが、やがて、その試みを放棄し、いろいろニュアンスはあるにせよ、根本的にはこの日本帝国の発展の方向を正当化するという意味をもって展開していったのである。

従ってそれは社会革命と内面的に結合するどころか、玄洋社ー黒龍会ー大日本生産党の発展系列が典型的に示しているように革命に対してーというより革命の潜在的な可能性に対して、ある場合にはその直接的な抑圧力として作用し、他の場合にはそのエネルギーの切換装置たる役割を一貫して演じてきた。しかも他方それは西欧の古典的ナショナリズムのような人民主権ないし一般にブルジョア・デモクラシーの諸原則との幸福な結婚の歴史もほとんど、ろくに知らなかった。むしろ上述のような「前期的」ナショナリズムの諸特性を濃厚に残存せしめたまま、これを近代ナショナリズムの末期的変質としての帝国主義に癒着させたのである。かくして日本のナショナリズムは早期から、国民的解放の原理と訣別し、逆にそれを国家的統一の名においてチェックした。そのことがまたこの国の「民主主義」運動ないし労働運動において「民族意識」とか「愛国心」とかいう問題の真剣な検討を長く懈怠させ、むしろ挑戦的に世界主義的傾向へと追いやった。そうして、それはまたナショナリズムの諸シンボルを支配層ないし反動分子の独占たらしめるという悪循環を生んだのである。

 日本のナショナリズムが国民的解放の課題を早くから放棄し、国民主義を国家主義に、されに超国家主義にまで昇華させたということは、しかし、単に狭義の民主主義運動や労働運動のあり方を規定したというだけのことではなかった。それは深く国民の精神構造にかかわる問題であった。つまり日本の近代化過程が上述のように「使い分け」の見事な成功によって急激になされたということは、一般に国民大衆の生活基盤の近代化を、そのテンポにおいても、その程度においても、いちじるしく立ち遅れさせたことは周知のとおりであるが、それはナショナリズムの思想構造ないし意識内容に決定的な刻印を押したのである。頂点はつねに世界の最尖端を競い、底辺には伝統的様式が強靭に根を張るという日本社会の不均衡性の構造方式は、ナショナリズムのイデオロギー自体のなかにも貫徹した。

そうしてあたかも日本帝国の驚くべき躍進がその内部に容易ならぬ矛盾を包蔵することによって同様に驚くべき急速な没落を準備したこととまさしく併行して、世界に喧伝された日本のナショナリズムは、それが民主化との結合を放棄したことによって表面的には強靭さを奔騰させつつあるとき日本国民は逆にその無気力なパンパン根性やむきだしのエゴイズムの追求によって急進陣営と道学的保守主義者の双方を落胆させた事態の秘密は、すでに戦前のナショナリズムの構造のうちに根差していたのである。

2021年4月1日木曜日

20210401 株式会社新潮社刊 北杜夫著「どくとるマンボウ航海記」pp.64-67より抜粋

株式会社新潮社刊 北杜夫著「どくとるマンボウ航海記」pp.64-67より抜粋
ISBN-10 : 4101131031
ISBN-13 : 978-4101131030

スエズには12月17日の夕刻に着いた。シンガポールを出てから18日目である。検疫も簡単にすんだ。書類には、やれ伝染病が発生したか?とか、ネズミがいるか?とか、いかめしい質問が並んでいるが、要するにすべてNoで片づけてしまって、ネズミはいたが食べてしまったなどど書く必要はない。

ドクターのことを呼んでいると船の者が言うので、行ってみると検疫官の従卒が「頭痛がする」と額に手をあてて実に物悲しげな顔をしてみせる。私は日本医学の真価をみせてやるのはこのときだと思い、わざわざ数種類の薬を調合して彼に与えた。ところが、あとからあとからいろんなのがやってくる。「アイ・ドロップ」とか言って目薬を要求するものが多い。そう際限なくやってしまっては自分の船で使うのがなくなってしまう。私もこれには弱って、あちこちから目薬の空きびんをかき集め、ホーサン水を作ってその中につめ、それからはこれを与えることにした。あとでサード・オフィサーが言った。

「ドクター、だめだよ。奴等みんなタカリですよ。」

エジプトは薬品が高価で不足しているので、仮病を使って船に薬を貰いにくるのだという。スエズ運河を通過中も、しきりにボートマンが私のところにやってくる。最も欲しがるのはやはり目薬だ。例の急造のを与えると、ひねくりまわしてなにかぶつぶつ言う。よく聞いてみると、ペニシリン入りのはないかとのこと。

「ノオ」とついに私も大声を出した。「この船はそんなもの持たぬぞよ!」

私はそいつを医務室から押し出し、ピシャリとドアを閉めた。しばらくすると、また別のボートマンが現れ、アイ・ドロップ、プリーズ、と言う。「ノオ」と私は不気味におしころした声を出した。そのくらいのことで引き退る相手ではない。しきりに自分の目を指し哀訴を繰返す。見るとたしかにその目は汚く目ヤニがこびりついている。もう急造の目薬もないので、硼酸の粉末を与え、その使用法を説明し、私はそいつを医務室から押し出し、ピシャリとドアを閉めた。

 薬品ばかりでなく、「スエズを通るのはもうイヤだよ」と船長がこぼしていた。船には港々で検疫官やパイロットなそにやるミヤゲ物をかなり積んである。扇子、ハンニャの面、羽子板などだが、ひどいパイロットになると、これではイヤだ、もっと別なのをくれ、終いには船長室にかかっていた額をさして、あれをくれなどと言いだす始末だそうだ。ついに私は持参した例の風呂敷の一つを船長に提供したが、上等の風呂敷を持ってこなくてホッとしたのはこのときだけであった。そればかりではない。調査官のM氏の部屋にやってきたボートマンが空箱を指さし、それをくれと言うのでなにげなく頷くと、空箱でなくてその横になった手袋を持って行ってしまった。慌ててとめると、今あんたは確かにくれると言った筈だと頑張り、とうとう手袋をまきあげられてしまったという。こうした植民地的貧困の残渣は、現在この国に澎湃とみなぎっているナショナリズムの息吹きと一見奇妙な封に入り混じっている。

 スエズでもポート・サイトでも、家の中でも街上でも、頻々とナセルの写真にお目に掛かった。私は大体こういう現象を好まない。写真なぞというものは、個人でこっそり飾っておくべきもので、でかでかと人目につくように貼りだされる場合、いつだってなにかいかがわしい気配を感ぜざるを得ない。しかしアラブ連合の若き役人氏は、自分の胸をさし、「ナセルは私の心臓だ」と言った。街にはこの雰囲気がみちみちている。

 スエズの裏通りには、パジャマ姿に素足の汚い子供らが一杯いて、写真機を向けると我がちに集まってくる。自分が写されようとして前へ前へと出てくるからなかなかシャッターが切れない。ところが大人がそばにいると、たちまち子供らを追いはらってしまう。初めは何のことかと思ったが、要するに貧しい非文明的な情景は、国威をけがすから写させないのだ。辻豊氏の「ロンドン東京五万キロ」という本によると、シリアやヨルダンではもっとひどく、うっかり写真をとると警察にひっぱられる。辺鄙な土地ほどこういう傾向が強いらしく、スエズでは汚い風景にカメラを向けると必ずといってよいほど注意を受けたが、ポート・サイドではめったにそういうことはなく、アレクサンドリアでは一度も経験しなかった。

 特有な平たいパンを戸板にずらりと並べ頭にのせて運んでいる光景を撮ろうとすると、さっそく愛国者が現れ、手をふって「ノオ」といった。しかもこの愛国者氏は十分間ほど私を尾行し、けしからぬ写真を撮りはせぬかと見張っているのである。といって、対日感情は非常によく、街を歩いていてもやたらに握手を求めてくる。しかし私はこういう現象も好まない。もっと個人的なものから出発したものでないと、なにかいかがわしく、トーマス・マン作「魔の山」に出てくるクラウディア・ショウシャの口を借りれば「ねーんげん的」でないように思われる。

*このクラウディア・ショウシャは、おそらく実際は、同著内、他の登場人物であるシュテール夫人を指しているのではないかと思われます。