2024年1月31日水曜日

20240131 岩波書店刊 宮崎市定著 礪波護編「中国文明論集」 pp.21-25より抜粋

岩波書店刊 宮崎市定著 礪波護編「中国文明論集」
pp.21-25より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003313313
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003313312

石炭は漢頃からぼつぼつ中国で使われ、石炭という文字も、隋頃から現れているようで、宋頃になると一般に人民の間にも使われ、官営の石炭販売場も出来ております。この話は唐の末頃でありますから珍しそうに炭と言うているので当時はまだ余り盛んには用いられていなかったことが分かります。そこで李使君は坊さんの注意に従って飯を炊く時に炭を使い出来る限りの準備を整えて宴を張った。いよいよ息子たちが客にやって来て、それに御馳走を薦めるけれども、一向食べようとしない。ちょっと箸を着けてみるが、あたかも針を飲むが如く兄弟たがいに顔を見合せてやめてしまう。折角お膳を沢山並べても何も食べない。最後に飯が出た。飯ならばどこでも同じ米と水から出来ていて、わざわざ炭で炊いたものであるからきっと食べてくれるだろうと思ったところ、これも一口食べて吐き出した様子である。折角お客を歓待したつもりであったところが、少しもお気に召さなかったので、李使君非常に意気阻喪してしまった。後で坊さんに、一体どういう点が客の気に入らなかったのか聞いてもらった。坊さんが再び貴族の子弟の所に行って「あなた方は折角招待されて行ったのに何も御意に召すものがなかったのは一体どうしたのですか」と聞くと、その子供たちは「料理がその法を得ないからだ」と答えた。そこで更に坊さんが「なるほどほかの料理は法を得なかったかもしれないが、石炭で炊いた飯はどこでも同じではありませぬか」と言うと、「いやその石炭にも法がある。炭を使う時には一度焼いて煙の気を取ってしまってから料理に使うべきものである、ところが李使君の家のはその手続を履まなかったから、飯が煙臭くて食えなかった」と言うたそうであります。

 この話は別に贅沢なのに感心する訳ではありませぬが、その手続は大いに同感を表して宜しい。とにかく石炭のような火力の強いもので、しかも特にその煙気を去ってコークスにして料理に使うというのであるかた、理窟が通っております。その前の時代のように、蝋で炊くとかあるいは酒の甕を人に抱かせるとか、そういう不合理なところがない。この火力ということが、今の話に出た唐の末頃から宋にかけて非常に進歩した。石炭なので高熱を出すので、鉄ではすぐ穴があくから銅の銅釜を使い、銅禁などいう禁令を出して銭を鋳潰して器に造ることを禁じている。また単に強い火力を出すというだけではない。強い火力だけでは物は十分に処理されない。強い上に、大きな火力を出し、更に長く続くことを要する。しかもそれが際限なしではなく適当に調節出来ねばならない。その思うままに火力を支配するということがこの時代の行われたので、更に火力を通じて、あらゆる物に対する人間の支配が確立し、一般文明がずっと進歩した、中華料理がうまくなったのもおそらくこの頃からであろうと思います。奴隷に甕を抱かせないでも、立派に飲める酒が醸されるようになった。この時代は近世中国文明と共に中華料理の黎明期でもあります。それから陶磁器は世界で最初に中国で、宋の時代に完成された。現今世界の陶磁器の祖先は宋の陶磁であると言っても宜しい位でありまして、宋代に陶器が堅牢に優美に、単に実用品のみならず立派な工芸品としての価値を有するに至ったのであります。それが外国に伝わって西洋の陶器にも日本の陶器にもなった。小にしては焼栗、冬になると日本でもやるいわゆる天津甘栗ですが、あの焼栗も既に宋代に流行して、当時の都、開封に、名物として知られた焼栗屋があったということが「老額庵筆記」に見えております。小は焼栗から大は陶器の製造に至るまで、色々な方面に、火力の支配、火力の応用ということが行われております。単にそればかりでなく、当時の一般の美術工芸、あらゆる方面にわたって技術がこれがために非常に進歩しました。

 その要素を考えてみますと、およそ二つの方面があると思います。

 一つは当時、科学的知識が非常に進歩した。火力などもその一つの現れであります。科学的知識といいますと、要するに、物の性質をよく究めて、この物はこういう性質を持っている。彼の物はこういう性質を持っている、その性質と性質を組み合わせて人間に必要な物を造って行く、その土台になる物の持っている長所を究める。それが結局科学的知識と言うて宜しいと思いますが、その一つ一つの物に対して、どういう性質を持っているかを研究し、そうしてその性質を生かして使う。こういうことが宋の頃に行われたのであります。

2024年1月30日火曜日

20240129 株式会社新潮社刊 新潮選書 高坂正尭著「歴史としての二十世紀」pp.98-100より抜粋

株式会社新潮社刊 新潮選書 高坂正尭著「歴史としての二十世紀」pp.98-100より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4106039044
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4106039041

下からの議論の積み上げは許されるが、上が決断を下したら、全党一丸となってその決定に従い、分派活動は禁じられるというのが「民主集中制」です。レーニンが作ろうとしたのは、決定を下した後は上意下達を鉄則とする一枚岩の政党でした。彼はロシアの後発性を自覚し、「西欧の民主主義国とは違う。言論の自由もない。議会もお飾りのようで力がない。普通のやり方では変革できない」と主張します。そして、「ツァ―リズムを倒すためには、強力な戦闘力を持った共産党を作る以外に方法はない」と説きました。当然のことながら、彼の議論に対して「そんなものを造ったら独裁制になってしまう」という批判が、同時代のマルクス主義者から出ました。

 しかし、レーニンの主張は説得力があり、マルクス・レーニン主義は共産主義が進む基本路線になりました。ところが厄介なのは、専制体制をなくしても民主主義になるわけではないのです。困ったことに、敵を効果的にやっつけるためには自分が戦っている相手と似る傾向があり、専制体制を潰すための組織は自らも専制的になりました。この点では、日本のように、戦前の軍国主義体制をGHQのような赤の他人に潰してもらった方がうまくいくのかもしれません。「タナボタ主義の哲学」とでも言いましょうか、そのプロセスはされおき、結果は上々でした。敵と対峙すると相手に似てくるのは冷戦期にも見られ、アメリカがソ連と似てしまったのもその一例でしょう。

 同じく共産革命が起こった中国にも共通していますが、何百年どころか二〇〇〇年も専制君主支配にあった国では革命が成功しても民主主義は根付かないという説明もあります。ただし、ロシアの場合、十九世紀末に急速な工業化を成し遂げていたという見逃せない事実もあります。 

 話は脇道にそれますが、「ロシア」と呼ぶか、「ソ連」と呼ぶかにも議論がありまして、一昔前には「ロシア」と言うと、「それは祖連邦である。ロシアとはなんのかかわりもない」と叱られたものです。当時、いかにマルクス主義に威光があったかを示していますが、馬鹿な話で、ロシアと言えば話は簡単だったのです。中国も共産主義国だから「共中」でもいいようなものですが中国と言わなきゃいけない。とやかく呼称にうるさいのは、精神的になにか抑圧的なものがある証拠なのでしょう。

 十九世紀後半から二十世紀の初め、日本とロシアの工業化の進み具合はほぼ同じでした。日本は明治維新から一八九〇年までの二五年間で労働者が倍増しました。その後の一〇年も倍増していますから、結局、工業労働人口は四倍になります。

 さらに忘れてはいけないのは、日露戦争に負けてから第一次世界大戦まで、ロシアが急テンポで工業化を進めたことです。ひょっとすると、そのスピードは日本より速かったかもしれません。その時代、無用の対外的冒険主義をやめて平和に徹したのがよかったのでしょう。

 ただし、急速な発展は社会の矛盾を大きくします。さらに、よせばいいのに、帝政ロシアは第一次世界大戦に参戦します。それがなければ、ロシア経済はさらに発展し、二〇年もすれば、一度は敗れた日本を完全に打ち負かす経済力をつけていたかもしれません。ところが、「バルカンは自分の庭である」、「兄弟はほっておけない」と、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者夫妻が暗殺されたサラエボ事件後、同じスラブ人のセルビアを支援しました。国に挙げての総力戦でロシア経済はひどく疲弊し、国内では革命派と反革命派が争いました。革命の後の内戦には外国が介入し、一九一四年から二〇年までの期間、経済は二、三〇年分後退したと言ってよいえでょう。そのため、ソ連体制に移行した後、共産主義政権は大急ぎで国を立て直さなければいけませんでした。そこで推し進められたのが、強引な工業化だったのです。

2024年1月29日月曜日

20240128 岩波書店刊 岡義武著 「国際政治史」pp.64-67より抜粋

岩波書店刊 岡義武著 「国際政治史」pp.64-67より抜粋 
ISBN-10 ‏ : ‎ 4006002297
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4006002299

歴史的にはナポレオンはヨーロッパにおける民族意識の発達を促進する役割を荷った。さらに、復古(レストレーション)の時代のヨーロッパには18世紀啓蒙主義に対する反動としてロマンティシズム(romanticism)の思想が現れたが、それは個性的・非合理的存在としての民族を価値づけた点において、民族主義(principle of nationality; nationalism)理論の発展に貢献したのであった。なお、政治的意味において民族主義という言葉が用いられる場合には、それは民族がその文化的個性の自由な発展をとげるためには他民族の政治的支配から解放されなければならないという主張を指す。

 そこで以上のような事情の下に、ウィーン会議後のヨーロッパにおいては諸国の被支配階級および被支配民族の間には、全面的または部分的に復興された絶対主義的政治体制、民族主義の原則に反する国境に対する不満が次第に蓄積され、それにともなって、政治的自由獲得の運動、民族的解放の運動が徐々に発展することになった。この点に関しては、諸国における資本主義の進展とともにその経済的実力を高めてくるブルジョア階級が、一般的には、これら現状変革の運動の主たる担い手となったことを考え合さねばならない。彼らはその経済的実力の上昇にともなって政治に対する発言権を次第に強く要求するようになり、そのことは彼らをして政治的自由獲得の運動の推進勢力たらしめることになった。また彼らが被支配民族に属する場合においては、民族的独立によって形成される国家はその経済的基盤を強固ならしめるために民族資本の育成をはかることが当然に予想されたがゆえに、彼らは民族的解放運動の主動力となったのであった。

 なお、経済的に更新的な国家または地方において行われることになった現状変革の運動については、その推進勢力を一義的に規定することは困難である。それは、ある場合には、政治的自由・民族的解放の理想に烈しく憧憬する有識者層であった。また農民階級が重要な役割を荷った例も見出すことができる。

 さて、ヨーロッパ諸国における政治的自由獲得の運動・民族的解放の運動はウィーン体制の変革を意図するものであったから、これらの運動は当然に五国同盟の重大な関心の対象となった。そして、これらの運動が諸国において革命の形をとって進展するにいたった場合には、五国同盟はその定期的会議において事態を審議、国際的武力干渉によってこれを鎮圧することを試みたのである。すなわち、一八二〇年両シチリア王国に起った民主主義革命は、ライバッハ(Laibach)会議(一八二一年)の結果オーストリア軍の武力干渉によって鎮定された。また一八二〇年スペインに勃発した同様の革命も、一八二二年のヴェローナ(Verona)会議の結果フランスの出兵によって弾圧せられた。なお、一八二一年サルディニア(Sardinia)に勃発した民主主義革命は、オーストリアが五国同盟と別に武力干渉を行い、それを失敗に終わらせた。

 しかし、五国同盟の形におけるヨーロッパ協調は、本来的に決して強固なものとはいいがたく、内に破綻の契機を宿していた。この同盟の重要な支柱の一つともいうべきオーストリアは終始、諸国の政治的自由獲得の運動・民族的解放の運動に対して五国同盟としてあくまで抑圧方針をもって臨むべきことを強硬に主張した。オーストリアとしては、文化的にきわめて雑多な人口構成をもち、それらの集団の中に民族意識が成長しつつあった関係から、他国における民族的解放運動の成功が帝国内のこれらの集団を刺戟し、彼らの中における民族的解放への意欲を高揚させ、その結果帝国の存立自体が危うくされるにいたることを惧れたのであった。また、他国における政治的自由獲得の運動の成功も帝国内におけるこの種の運動を鼓舞し活発化させ、その結果以上のような人口構成をもつ帝国が分裂、瓦解へ導かれることを惧れたのであった。このような事情こそ、この時代のオーストリア宰相メッテルニッヒ(K.Metternich)をして、「もし何人か余にむかって、革命はやがて全ヨーロッパに氾濫するにいたるのではないであろうかと問うならば、余はそのようなことはないといって賭けをしようとは思わない。けれども、余は余の呼吸のつづく限りこれ(革命)と闘うっことを堅く決意している」といわしめたのであった。これに対し、五国同盟内においてこのオーストリアと対蹠的ともいうべき立場に立ったのは、イギリスであった。

 イギリスは同盟の定期的会議においては、同盟が他国の事態に対して国際干渉を試みることに常に強硬に反対しつづけた。それは一つには、他国との比較において自国に存在している立憲的自由に「自由の身に生まれたブリトン人」(freeborn Briton)としての誇りを抱いていたイギリスとしては、他国における革命が自国の被支配階級に及ぼす影響について他の四国のごとくには惧れていなかったためである。また一つには、イギリスは五国同盟による国際干渉を通じてとくにオーストリアまたはロシアの勢力が大陸において優勢となることを惧れ、そうなることは大陸諸国間に勢力の均衡を保たせようというイギリスの伝統的方針からみて好ましくないと考えたのであった。さらにまた、イギリスは他国における政治的自由または民族的解放の運動に対して好意的態度を示すことにより、それらの地方を大陸諸国に先だって発展しつつあったイギリス産業資本のよき市場たらしめようと考えたのであった。

2024年1月26日金曜日

20240126 岩波書店刊 宮地正人著「幕末維新変革史」上巻 pp.48-52より抜粋

岩波書店刊 宮地正人著「幕末維新変革史」上巻
pp.48-52より抜粋
ISBN-10 : 4006003919
ISBN-13 : 978-4006003913

 クリミア戦争はナポレオン戦争につづく世界的規模での大戦争となった。ロシア帝国の北太平洋海軍拠点カムチャッカ半島ペテロパヴロフスク港を攻略するため、英国の太平洋艦隊(当時、東印度艦隊の守備範囲と区分されていた)四艦は仏艦三艦とともに一八五四年五月一七日、南米ペルーのカリャオ港を出港、七月一七日ハワイに寄港した後、同月二五日にはカムチャッカ近海に達し、八月三〇日、ぺ港に入港して猛烈な砲撃を開始した。しかしロシア側の守備は堅固で強力に応戦し、翌三一日、英国のプライス司令長官は自殺、九月一日と五日、二度にわたり海兵隊を上陸させて攻略を試みたが、いずれも失敗し、八日英仏艦隊は撤退を余儀なくさせられたのである。

 しかし、英仏艦隊のこのような攻撃が繰りかえされるならば長期にペ港は維持できないとも、ロシア側には明らかとなった。ロシア軍は一八五五年四月同港を撤退(カラフトのクシュンコタンに兵営を築いていたロシア兵も攻撃に備え同年六月に撤退する)、このことは同時にアリョーシャン列島とロシア領アラスカの維持が不可能となったことも意味したのである。

 この年五月二〇日、英艦九艘、仏艦五艘の連合艦隊がペ港攻略のため再入港するが敵兵は皆無、連合艦隊はアラスカに向かうこととなる。

 このペ港の壮烈な攻防戦はロシアの極東戦略の転換点となった。北米大陸進出の方向性が断たれ、それにかわり、清国領内を流れるアムール河を下って太平洋に進出し、サハリン島全域とアムール河以北及び後年沿海州と命名されるアムール河南岸・ウスリー河東岸の広大な清国領の自国編入が国家的課題となるのである。

 クリミア戦争はディアナ号を失ったプチャーチン以下五〇〇名のロシア海軍軍人の問題でもあった。プチャーチンは一日も早く帰国させたがっている幕府と交渉、伊豆半島西岸の戸田で洋式帆船建造にとりかかった。二本縦帆マスト、八〇トン(四〇〇石船に相当)、船の長さ八一尺、竜骨の長さ六二尺、船幅二三尺、砲門八口(実際には積まず)のスクーナー型船である。竜骨を骨格とする船舶建造は戸田村の船大工棟梁上田寅吉(後日の横須賀造船所初代工長)以下、協力する多くの日本人船大工にとっては、技術修得の絶好の機会となった。

 建造中の安政二(一八五五)年一月二七日、米船カロライン・フート号が下田に入港、クリミア戦争に参戦するため一五〇名余の士官・下士官たちが同船を雇って二月二五日下田を出帆、ペ港に到着する。

 つづいて竣工したヘダ号に乗ったプチャーチン等四八名は三月二二日出港、当初はオホーツク海のアヤンに寄ったのちペ港に向う予定であったが、英艦に追跡されアムール河河口のニコラエフスクに逃げ込むことに成功する。

 残置されたロシア人二八〇名余は、六月一日、ドイツ商船グレダ号で下田を出帆する。この中には掛川藩浪人の橘耕斎と彼から日本語を学ぶ中国語通訳ゴシケヴィッチ(後日、最初の函館領事となる人物)がいた。グレダ号はアヤン港に入港する直前、遊弋中の英艦バラク―タ号に拿捕されてしまい、乗組員全員はクリミア戦争終了後の一八五六年四月、ロンドンで釈放されるのである。

 ところで、ヘダ号の設計図をプチャーチンが残してくれたこともあり、上田寅吉ら戸田村の船大工は、その後スクーナー型船を六艘建造し、これらの船は君沢型(戸田村は伊豆国君沢郡にある)と呼称されることとなった。さらに函館で改良されたものが建造されることとなり、これは函館型と呼ばれ(その後「小廻船」といわれるようになる)、蝦夷地・北海道で長く活躍することとなった、現在北海道の利尻町立博物館には二本の縦帆と二つの船首三角帆をもつ「小廻船」模型が展示されているが、その解説には大正から昭和にかけ、動力船が出る前の帆船で、利尻では天塩と結ぶ航路に使われ、島からはニシンカスや海産物、天塩からは製材・薪材や米・味噌・醤油等の生活物資を運んだ、小廻船は動力船の出現と、利尻との交易地が稚内にかわったことにより消滅した、と述べられている。

2024年1月25日木曜日

20240124 早稲田大学出版部刊 照屋佳男著「コンラッドの小説」 pp.237‐239より抜粋

早稲田大学出版部刊 照屋佳男著「コンラッドの小説」
pp.237‐239より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4657909312
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4657909312

ジョウゼフ・コンラッドの反露感情には確かに根深いものがあった。日露戦争の終わつた1905年に発表された論文「専制政体と戦争」(Autocracy and War)において、この感情は日本軍に対する讃嘆の情とロシア軍に対する反感との対照を通じて表出されてゐる。例へば、彼は「日本軍が基盤にしているのは理性に裏打ちされた信念であり、日本軍の支へになつてゐるのは、夥しい血と財宝とを犠牲にしてでも鎮められねばならぬ信念、即ち理論的必然性を帯びた正しさへの深い信念である」と述べるが、その直前には「暗夜のやうな狂気の絶望」といふ表現がロシア軍に適用されてゐる。更にロシアの専制政体、即ち、「銃剣を逆毛のやうに帯び、鎖で武装し、聖像をいくつもぶら下げた恐怖すべき奇妙な亡霊」に他ならぬロシアの専制政体は今や「東郷〔平八郎〕の魚雷と大山〔巌〕の大砲とによって既に修復不能な程にひび割れを起してゐる」とも述べる。コンラッドは、日本軍の使命は「ロシア専制政体といふ亡霊」を鎮圧する事であつたと言ひ、最高級とも思へる賛辞を日本軍に呈するのを忘れない。「〔日本軍〕は己の過去と未来を十全に意識し、驚嘆の眼差しで眺める世界の人々の前で、試練に他ならぬこのいくさのいはば一歩一歩において、「己れを発見する」。この偉大な教訓は、大抵の場合、しばしば半ば無意識のうちに抱かれる偏見や人種的相違によって矮小化されてきた」。日本軍への高い評価は取りも直さずロシアへの烈しい反感を語る仕組みになつてゐる。

 コンラッドの反露感情には、1772年、1793年、1795年と、3回に亙つて行はれたロシア、プロシア、オーストリアによるポーランド分割に根を発する牢乎として抜き難いものがあつた。ポーランドはこの分割以来、国家として消滅してゐたのだが、イアン・ワットも言つているやうに、コンラッドが生れ育つた地域はロシアの支配するところとなつてゐて、他の二国に支配さててゐた地域に比して、その支配の形態は格段に苛酷な性質を帯びてゐた。エドワード・クランクショーの見るところでは、ロシアはコンラッドの世界観が形成される上で決定的に重要な役割を果たしてゐる。不可抗力的な専横な力としての悪の本質についてコンラッドは熟考を強ひた点で、ロシアのポーランド支配はコンラッドの物の見方に大きな影響を与へたとクランクショーは言ふ。コンラッドに限らず、ロシアに分割・統治されてゐた地域の人々はみな、専横な暴力、「自由に徘徊し、どこであらうと意のままに襲ひかかる事の出来る暴力といふむきだしの不可抗力の事実」をつねに意識させられてゐた、と言ふのである。

 コンラッドは船乗りになるべく単身マルセーユへ向つた年、1874年まで、即ち17歳までこの専横な暴力をぢかに身を以て体験するやう運命づけられていたのであるが、両親の肉体を(そして或程度までその精神を)破壊したと言つていい暴力の発生装置たるロシア帝国が、この世の存在すべからざる国とコンラッドに思はれるに至つたとしても無理はない。「ロシアの専制政体は歴史的過去を持たぬ。歴史的未来を望む事も出来ぬ。終焉を迎へる事が出来るのみである」。このやうに発言する時も、恐らく日本を念頭に置きつつ、「東洋の諸専制政体は人類の歴史に属する」。それらはその光輝、その文化、その芸術、その偉大な征服者等の英雄的行為によつて我我の精神と想像力に刻印を残してくれてゐる。東洋の専制政体には知的価値が具はつてゐる」と述べ、それとは違つて、ロシアの専制政体が他に類を見な凡そ反人類的なものであつたといふ事を導出せずにはゐられない。「この政体が人類に対して犯した最も重い罪は・・・無数の精神を仮借なく滅ぼした事である」。

2024年1月24日水曜日

20240123 株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」 pp.233-235より抜粋

株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」
pp.233-235より抜粋
ISBN-10: 4309227880
ISBN-13: 978-4309227887

21世紀に主要国が戦争を起こして勝利を収めるのがこれほど難しいのはなぜなのか?一つには、経済の性質の変化がある。過去には、経済的資産は主に物だった。だから、征服によって裕福になるのは比較的簡単だった。戦場で敵を打ち負かせば、敵の町を掠奪し、敵国民を奴隷市場で売り、価値ある麦畑や金鉱を占領すれば、利益をあげられた。ローマ人は捕らえたギリシャ人やガリア人を売って繁栄し、19世紀のアメリカ人は、カリフォルニアの金鉱や、テキサスの牧場を占有することで金持ちになった。

 ところが21世紀には、そのようなやり方ではわずかな利益しかあげられない。今日、主な経済的資産は、小麦畑や金鉱ではなく、油田でさえもなく、技術的な知識や組織の知識から成る。そして、知識は戦争ではどうしても征服できない。イスラミックステートのような組織の知識から成る。そして、知識は戦争ではどうしても征服できない。イスラミックステートのような組織は、中東で都市や油田を掠奪して、以上を強奪し、2015年には石油の販売でさらに5億ドル稼いだ)が、中国やアメリカのような主要国にとって、そのような額は微々たるものでしかない。年間のGDPが20兆ドルを超える中国は、わずか10億ドルのために戦争を始めたりしそうにない。また、アメリカとの戦争に何兆ドルも費やしたら、中国はそのような出費や、戦争による損害、失われた交易の機会をどう埋め合わせることができるというのか?勝利を収めた人民解放軍はシリコンヴァレーの富を掠奪するのか?たしかに、アップルやフェイスブックやグーグルといった企業は何千億ドルもの価値があるが、そのような富は力ずくで奪うことはできない。シリコンヴァレーにはシリコン鉱山などないのだ。

 戦争で勝利を収めれば、イギリスがナポレオンに勝った後やアメリカがヒトラーに勝った後にしたように、自分に有利になるようにグローバルな交易制度を改変して、最大の利益をあげることが、依然として可能だろう。とはいえ、軍事テクノロジーが変化しているので、そのような離れ業を21世紀に再現するのは難しい。原子爆弾は、世界大戦での勝利を集団自殺に変えてしまった。広島への原爆投下以後、超大国が直接戦火を交えたことがなく、(彼らにとっては)得るものも失うものも少ない争いー敗北を避けるために核兵器を使う誘惑が小さいものーにしか乗り出していないのは、けっして偶然ではない。実際、北朝鮮のような二流の核保有国への攻撃さえも、きわめて魅力に乏しい。金一族が軍事的敗北に直面したら何をやりかねないかを考えると、ぞっとする。

 帝国主義者を目指す人にとって、サイバー戦争のせいで事態はなおさら悪くなる。ヴィクトリア女王とマキシム式速射機関銃の古き良き時代には、イギリス軍はマンチェスターやバーミンガムの平和を危険にさらすことなく、はるか彼方のどこかの砂漠で先住民を大虐殺することができた。ジョージ・w・ブッシュの時代になってさえ、アメリカはバグダードやファルージャに大損害を与えても、イラクはサンフランシスコやシカゴに報復攻撃を加える術がなかった。だが、もし今アメリカが、たとえ月並みなサイバー戦争の戦闘能力しか持たない国を攻撃しても、ほんの数分で戦争はカルフォルニア州やイリノイ州を巻きこむことになりうる。マルウェア〔訳注 悪意あるソフトウェア〕やロジックボムのせいでダラスで航空交通が停止したり、フィラデルフィアで列車が衝突したり、ミシガン州で送電網が使用不能になったりしかねない。

 征服者たちの黄金時代には、戦争は損害が少なくて利益が大きい事業だった。1066年のヘイスティングの戦いでは、ウィリアム征服王が数千人の戦死という代価でたった1日でイングランド全土を手に入れた。一方、核兵器とサイバー戦争は、損害が多くて利益が小さいテクノロジーだ。そうしたテクノロジーを使えば国をまるごと破壊できるか、利益のあがる帝国は築けない。

 したがって、武力による威嚇と棘棘しい雰囲気が満ちている世界では、戦争で成功した最近の例に主要国は馴染みがないというのが、平和の最善の保証になっているのかもしれない。チンギス・ハーンやユリウス・カエサルはどんなに些細なものでもきっかけさえあればすぐに外国を侵略したが、エルドアンやモディやネタニヤフのような今日のナショナリズムの旗手たちは、大言壮語はするものの、実際に戦争を始めることにはじつに慎重だ。もちろん、21世紀の状況下で戦争を起こして成功を収める公式を現に見つける人がいたら、たちまち地獄の門が開くだろう。だからこそ、クリミアでのロシアの成功は、とりわけ恐ろしい前兆なのだ。それが例外であり続けることを願おう。

2024年1月22日月曜日

20240122 株式会社岩波書店刊 加藤周一著「私にとっての20世紀 付 最後のメッセージ pp.204-206より抜粋

株式会社岩波書店刊 加藤周一著「私にとっての20世紀 付 最後のメッセージ
pp.204-206より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4006031807
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4006031800

 20世紀の歴史がわれわれにはっきり示したことは、ことにユーゴスラヴィアの戦争がその例だと思うのですが、ナショナリズムはなくならないということです。ナショナリズムが出てくる根源はいろいろあります。個人は社会の中で、それぞれ自分自身の個性とかアイデンティティを求めます。ところが個人が集まってある集団、たとえば民族的集団をつくると、個人のアイデンティティ、個性、顔つきではなくて、その集団がアイデンティティを求めるようになる。その集団の個性、顔つきを保ちたいという欲求が強くなってくる。その背景はやはり歴史と文化でしょう。

 それぞれの地域の歴史が違い文化が違う以上、ナショナリズムの感情というのはなくならないと思うのです。それをなくすような形で問題を解決しようとするとできない。ですから、戦争にならない、悲劇的な形にならないように、それぞれの歴史的文化的アイデンティティを失わないで、ナショナリズムを大きな国際的組織の中へ組み込んでいくことが必要になるわけです。20世紀はそれに失敗した。だから戦争が起こった。今でもあとからあとから暴力的ナショナリズムは起っている。

 問題は、ナショナリズムと、広い視野からの国際的な協力関係を作り上げていく動きとはどういうふうに融和できるかということです。それはおそらく21世紀の課題になるでしょう。

 この問題を解決するための原理・規範とは何か。それはわれわれの経験の中にあると思います。一国の中で、一民族の中でで、それぞれの人が個性を失わないで一つの国が平和的に成り立ち得るのは平等があるからです。それぞれの人が別の顔かたちをして別の能力を備えているわけですから、もちろん競争も生じます。要は、基本的に平等を認め、相手との違いの存在を容認するか否かです。それを全部消し去って同じ形にしようという力が強く出てくれば出てくるほど、個人と社会あるいは国家との緊張関係は強まります。同じように、民族的な集団がどの集団にも存在の権利を認めて平等な関係が基本的にあれば、多くの集団が激しい衝突にならないで協調することができると思うのです。

 しかし、そうでなくて、小さな集団、弱い集団の個性を消し去って、みんな同じようにする、別のコトバでいえば、優越している一つの大きな民族的集団あるいは国家が、自らの標準を世界中に強制するようになると、その反発が起こって、しばしば強い衝突になる。衝突はいきなり暴力の行使ではなく、経済的、技術的、文化的とさまざまな手段でおきますが、力が拮抗していれば抵抗は暴力的にならないと思います。ところが道がふさがれて、一方が非常に強くて他方がたいへん弱い場合は、弱い側が文化的にも政治的にも軍事的にもすべての点で押しつぶされる傾向がある。

 押し潰されそうになって、それでもアイデンティティを強調するから、最後の表現手段はテロリズムになる。テロリズムは、歴史的文化的なアイデンティティを強調するから、最後の表現手段はテロリズムになる。テロリズムは、歴史的文化的なアイデンティティの表現の道がふさがれたときの最後の絶望的な反応です。誰もテロリズムを望んでいるわけではない。なぜならば、テロリズムは二つの集団の間にある関係をつくり出すための手段というよりも、自分の存在を証明するための絶望的な反応だからです。これを武力であるいは警察力でコントロールするといっても程度問題です。テロリズムというのは、ナショナリズムがなくならないかぎりなくならないでしょう。

 この対立を解決するには、相手のアイデンティティを認める、根本的にはどの集団にも平等な権利を認めるような国際社会をつくること以外にないと思います。20世紀はそのことに失敗し、その目的に達していない。だからテロリズムがだんだん強くなってきたのです。

2024年1月20日土曜日

20240120 歯科材料を基軸とした雑文(試作文章)

「天然歯に色調が最も近いセラミックスは何か?」と考えてみますと、硬質で半透明な陶磁器が先ず思い起こされるのではないかと思われます。陶磁器は英語にしますと「china」と表記されます。これは産地の名前が、そのまま物の名称になったものであり、我が国の「japan」であれば漆器を指し、そしてまた、我が国においても、古くは火縄銃のことを「種子島」と呼称していましたので、こうした名称付与の仕方には世界的に共通するものがあるようにも思われます。

さて、この陶磁器の「china」は、中国においては既に7世紀頃に作られていました。その背景には、技術の発展と同様、高温を長時間保持可能な熱源としての石炭が豊富であるという自然環境もあったと云えます。

こうして、中国で作成された陶磁器はシルクロードを経てヨーロッパにもたらされ、彼の地において、度々模倣が試みられましたが、それらは悉く失敗に終わりました。やがて時代はくだり、18世紀初頭になり、ドイツの錬金術師であるヨハン・ベトガーが繰り返しの実験により、各種鉱物と粘土の混合割合を編み出し、その複製に遂に成功しました。これが、所謂マイセン磁器の誕生の大まかな経緯です。

その後、フランス・英国においても、技術の伝播や独自の実験成果を踏まえてセーブル磁器、ウェッジウッド磁器、そしてスポード磁器などが続々と誕生しました。そこから、18世紀は西欧での陶磁器生産のはじまりの時代とも云えます。

そしてまた、この18世紀は近代歯科医療のはじまりの時代でもあるとも云えるのです。では、これらの関連(陶磁器の生産と近代歯科医療)を述べますと、まず、この時代は大航海時代以降、西欧諸国が世界各地へ進出し、さまざまな植物や、それらの加工品が安定して供給されるようになってきた時代でもあったことを認識する必要があります。

そうして西欧に齎されたもので代表的なものの一つが砂糖です。砂糖は、東南アジアあるいはインドが原産とされるサトウキビを主な原材料として作られます。そして、これが西欧諸国で広く普及するようになりますと、それに伴い、虫歯もまた多く、人々の間に見られるようになってきました。

現在では、西欧の国々は、虫歯予防をはじめ歯科医療全般について先進的とされていますが、当時はまだそうではありませんでした。つまり、砂糖と虫歯との因果関係については知られていませんでした。そうした事情から、虫歯の原因である歯を抜くことが増え、やがて、それを専門とする職業も社会において徐々に一般的なものになっていきました。

その職業は「歯抜き師」と呼ばれ、これは18世紀以前より存在し、17世紀初頭刊行の「ドン・キホーテ」作中にも登場します。 ともあれ、新大陸から齎された砂糖の普及によって虫歯が増加した18世紀の西欧では「歯抜き師」もまた一般的な職業となり、さらにそこから進化をして、歯を抜くことだけでなく口の中全般を扱う「歯の治療者」と呼ばれる職業も登場して、これが現在の歯科医師の直接的な起源であると考えられています。

とはいえ、歯を抜く以外の口の中の治療も行った「歯の治療者」も、現在のような歯科医学の知識が一般的ではなかった時代であったことから、そこで施される 治療も必ずしも適切なものではありませんでした。

それよりも現代の歯科医療に対する「歯の治療者」の大きな貢献は、いわゆる、入れ歯などの歯科補綴装置についてであったと云えます。そして、それと関連して、さきに述べた「西欧での磁器生産」が意味を持ってくるのです。

約言しますと、西欧諸国による新大陸の発見、そしてサトウキビから精製される砂糖の需要から、カリブ諸島を主とした大規模なサトウキビ栽培が始まり、生産された砂糖が西欧社会にもたらされて一般化しますと、それに伴って同地域での虫歯が多くなり、そして、それまでの歯科医療にも変化が生じ、この変化に、同じ18世紀に錬金術師によって編み出された中国由来の磁器の作成法が関係してくるといった流れになります。

ちなみに、前述の「ドン・キホーテ」作中に歯に関する面白い箴言があります。 ‘‘Every toooth in a man’s head is more valuable than a diamond.’’ 「頭の中にある全ての歯は、ダイアモンドよりも価値がある。」 Miguel de Cervantes, Don Quixote (1605)

そして、この ‘‘Every toooth in a man’s head is more valuable than a diamond.’’ 「頭の中にある全ての歯は、ダイアモンドよりも価値がある。」文中の「head」は和訳しますと「頭、頭部、首、脳、目、耳、鼻、顎を含む体の部位」となり、その中にはもちろん「口」も含まれます。そうしますと、原文にある「Every toooth」(全ての歯)は、口の中にある歯を意味することになり、それはそれで意味は通じるのですが 文脈を変えて読んでみますと、さまざまな知識や情報を咀嚼し理解するための「悟性」の能力を「歯」にたとえた文章であるとも読み取れます。そしてこの場合、著者は後者の意味合いで書かれたものと思われますが、いずれにしても、同じ言葉、文章であっても、複数の意味合いが読み取れることは、我々の生活のなかでもしばしばあることで、冒頭付近で挙げた陶磁器の「china」漆器の「japan」そして火縄銃の「種子島」なども、そうしたものであると云えます。

そしてまた、18世紀頃の西欧での砂糖の普及と、それに伴う虫歯の増加から生じる歯科医療の変化に関連させてみますと、 この時代に、それまでの虫歯を抜く「歯抜き師」による、いわば原初的な歯科治療であったものから変化をして、抜歯後の外観や機能の改善、修復を行う「歯の治療者」が職業として広く社会に認知されるようになりました。

「歯の治療者」とそれまでの「歯抜き師」との大きな違いは、その背景にある、口を含む人体の構造や、さまざまな材料についての知識の広さと深さであったと云えます。

つまり、かねてよりの歯を抜くことを業とする職人であった「歯抜き師」と比べて、18世紀頃から一般的となった「歯の治療者」は、さきに述べた「錬金術師」からの系譜に連なるものであり、そしてまた、18世紀に錬金術師であるヨハン・ベトガーがドイツ東部の都市マイセンにて、初めて西欧での陶磁器の製造に成功したことは、その後の歯科医療にも少なからぬ影響を及ぼしたと云うことになります。

現在においても高級陶磁器などで有名な英国のウェッジウッド社の設立も18世紀半ばであり、さきに述べたようにマイセンの陶磁器製造技術の伝播があったと思われますが、ウェッジウッド社で大変興味深いことは、当時、陶磁器の製造技術を用いて人工の歯(陶歯)を製造していたことです。

この陶歯を用いた入れ歯は、当時の技術水準においては大変に優れたものであり、陶磁器と同様、白く艶やかな人工歯が並んだ入れ歯は多くの人々を惹き付けたと思われます。とはいえ、この当時の入れ歯は、現在の陰圧を利用して口腔粘膜に吸着させるものではなく、上下の入れ歯がバネで繋がり、口に入れても、食いしばらなければ、バネの力で口から飛び出してしまうようなものであったとのことです。

アメリカ合衆国の初代大統領であるジョージ・ワシントンは現在、同国1ドル紙幣に印刷され、その描かれた表情を見ますと、頬が若干膨らみ気味であり、口が真一文字に結ばれていますが、これは、さきのバネが仕込まれた入れ歯を着けていたために食いしばっているため、こうした表情になっているというのが、現在では一般的な見解とされています。

18世紀西欧で製造が始まった陶歯を用いた入れ歯は、前述のような構造の問題もありましたが、それでも当時の水準としては先端技術の粋を集めたものであり、現在でいえば、口の中の状態をスキャナーを用いて3Dデータにて記録して、そのデータに基づき、入れ歯の設計をコンピュータ上で行い、その設計データに基づいてCAMのマシニング加工により作成された入れ歯にも比定することが出来ると云えます。

また、西欧においては陶磁器作成技術の確立による白く艶やかな陶歯の製造が可能になる以前は、カバやセイウチや象の牙や牛の骨などから入れ歯に用いる人工歯が作られ、さらには生死を問わずヒトから採取した歯も用いられていました。

そのため、こうしたヒトの歯は戦争の後になると多く出回り、19世紀に入ってからも、ワーテルローの戦いの後に大量のヒトの歯が市場に流通したとのことです。

現代の衛生観念からしますと、これらはきわめて不衛生なものであったといえますが、我が国においても、歯ではありませんが、亡くなったヒトの毛髪を抜いて鬘の材料とする話は、平安時代末期に成立した「今昔物語集」そして、それをベースとした書かれた芥川龍之介による短編「羅生門」などによって知られています。

ともあれ、これらの経緯によって18世紀に陶磁器製造技術を用いた陶材による人工歯が西欧で製造されるようになりました。他方、我が国では、おそらくは火山活動が活発であることからか古くから土器や陶器の製造が盛んであり、また、明治以降の近代化が為されて以降は、積極的に西欧の技術を模倣する段階において陶材による人工歯が製造されるようになりました。

そして、その拠点となったのは、やはり、古来より陶器の製造が盛んであった京都や名古屋などの地域であり、そこでは今なお、こうした企業が存続しています。

ちなみに「18世紀西欧での陶磁器製造技術の確立により、陶材で作成した人工歯を入れ歯に用いるようになった。」とさきに述べましたが、18世紀当時の入れ歯を作成する技術は、現存する当時の入れ歯や資料などから考えてみますと、西欧と我が国では、我が国の技術の方が優れていたのではないかとも思われるのです。

繰り返しになりますが、18世紀の後半においても、欧米諸国の入れ歯は、お口の中でのおさまりや機能性の良さはあまり考慮されていなかったと考えられ、当時の入れ歯は、咀嚼という歯の本来の機能よりも、キレイに歯が並んだ口許の方が重視されていたのではないかとも思われます。

他方、我が国での入れ歯の歴史を遡ってみますと、現存する我が国最古の入れ歯は、西暦1538(天文7)年に76歳で亡くなられた紀伊国(現在の和歌山県)の尼僧であり、仏姫とも呼ばれた中岡テイという女性が用いていたものであり、その材料は柘植(つげ)が用いられており、作り方としては、熱して軟化した蜜蠟に松脂などを混ぜたものを口に入れて型取りをしてから取り出し、そこで得られた口の中の様子(歯型)を柘植の小塊に、木彫りの要領で3次元的な写生を行い概形を作り、それを口に入れて、余分なところや、強く当たって痛いところを徐々に削り取り、そして口の中にピッタリと収まる入れ歯を作っていました。

仏姫は16世紀前半に亡くなっていますので、この我が国最古の柘植の木製入れ歯は15世紀末期か16世紀初頭に作成されたものであると思われますが、その背景には、室町時代末期、足利幕府による統治が綻び、戦国の世に向かおうとしている中で、それまで寺社からの依頼で彫像などを作成していた職人達が、寺社からの仕事の減少により、現世に合った職業を探す必要性があったという事情があると考えられています。つまり、少し大げさに表現しますと、我が国古来の木製入れ歯は、鎌倉時代初期の慶派の仏師等の手による東大寺南大門の金剛力士(仁王)像とも、技術の系譜として連なっているものであるとも云えるのです。

しかしながら、この優れた木製入れ歯を作成する古来からの技術は、近代以降、西洋の歯科医学が我が国に導入されるにつれて徐々に下火となり、そして20世紀初頭の明治末期の都市部においては、概ね西洋的な歯科医療に替わっていたと考えられています。

そして、こうした技術の変化をも含む、この時代での社会全体の西洋化のことを「文明開化」と云いますが、その影には、さきの木製入れ歯の作成にあるような、古くから脈々と伝えられてきた技術の衰亡が少なからずあったことは、記憶に留めておいても良いではないかと考えます。

とはいえ、また一方で、現在でも我が国の歯科技工の技術水準は世界においても優れたものとされていることは広く知られており、我が国の細部にわたる技術へのこだわりはマンガやアニメのみならず、歯科技工の世界においても良い意味で息づいていると云えます。そしてまた、その淵源まで遡ってみますと、さきに挙げた13世紀初期、独特の写実性を三次元的に彫像として表現した慶派の仏師達がいるのではないかとも思われるのです。

ともあれ、つきなみではありますが、結論として、西欧的な白く半透明で艶やかで磁器のような人工歯を用いた入れ歯も、我が国の古くからの木彫技術を受け継いだ固有の入れ歯作成技術にも、それぞれ素晴らしいと云いことになります。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

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2024年1月18日木曜日

20240117 新年のごあいさつにかわり(2120記事)

「新年あけましておめでとうございます。」と述べたいところではありますが、昨年暮れから元旦の能登半島地震をはじめ、国内外にて大きな出来事が続いたことから、年が改まったという感覚は乏しく、例年とくらべると「戦々恐々」といった観があります。

2020年から本格化したコロナ禍、一昨年2022年2月勃発の第二次宇露戦争、そして昨2023年10月イスラム原理主義武装組織ハマースによる大規模テロ攻撃ではじまったパレスチナ・イスラエル戦争は、2024年1月現在、いまだ収束の気配を見せず、逆に周辺地域などへ広がる動きも散見されることから、さきの新年の状況を「戦々恐々」と評した次第です。

他方、当ブログについては、ここ最近は専ら引用記事を充ててきましたが、やはり、しばらく引用記事の作成を続けていますと、作成している私の方にも情念・思いのようなものが生じ、それらを見識などのフィルターを通すことにより、自らのコトバとしての意見となり、そしてそれが当ブログでの独白形式記事の題材となります。

その意味において、引用記事の作成を継続していますと、自然、手持ちの題材が増えてしまい、スランプの際とはまた異なった悶々とした心情が生じ、それが現在、当記事の文章に結実しているのだと云えます。とはいえ、これがほぼ毎日コンスタントに作成出来れば良く、実際、当ブログ開始から丸3年は、ほぼ毎日、ブログ記事の作成を(どうにか)行ってきましたが、その当時と同様の活力は2024年の現在はないように感じられ、あるいは、そうした活力の鉱脈はいまだ見つかっていません。それでも、こうした活動は、継続していないと、新たな鉱脈を見つけること自体が困難になりますので、たとえ面白そうな引用記事題材のストックがあったとしても、引用記事一辺倒であってはあまり良くないのかもしれません・・。

そういえば、新年に入りしばらく経ってから、昨年の3月に訪問したドイツのケルンにて開催の国際デンタルショー(IDS2023)の取材記事が掲載された雑誌の別刷りが出版社さまより届きました。

これはもう少し先になると思っていたことから、新年早々大変嬉しい出来事でした。そこから、さきに述べた世界情勢から視座を変えて、自らの昨年を振返ってみますと、さきのドイツでの国際デンタルショーへの特派員としての訪問は自分にとって初めての経験でしたが、かねてより続いている第二次宇露戦争に関する海外ニュース番組動画などを視聴していたためか、多少リスニング能力がマシになっていたのか、言語ではそこまで苦労をすることはありませんでした。またデンタルショーの会場で驚いたことは、企業ブースに訪問した際、首から下げたプレス・パスを示し、そこに博士と記載があることを先方スタッフが認めると、対応がより丁寧なものに変ることが度々あったことです。

これはまさに「文化」であるのだと云えますが、しかし私からしますと、学位取得後10年を経て、初めての海外渡航にて、こうした経験をすることには、何か寓意や深意があったのか、あるいは皮肉めいた悪い冗談であったのか、今もって分かりかねるところです・・。

また、昨今SNS界隈で「博士」が少し話題となっていましたが、これについて私見を述べさせて頂きますと、人文系と医歯薬学を含む自然科学系では、それぞれの背景にある考えが異なり、自然科学系であれば博士号は運転免許に近いような感覚のものであり、他方の人文系であれば一種の称号に近い感覚があるのではないかと思われます。

実際、去る2015年に亡くなった伯父が法学博士の学位を授与されたのは60歳目前の2002年でした。この時はホテル勤務で南紀白浜にいた私も有給休暇を申請して実家に戻り、伯父の学位取得を銀座の中華料理店にて親戚一同で祝いました。つまり、学位取得とは、それほどの重みのあるものと認識していましたし、また現在、人文系アカデミアにて活躍されている諸先生方で博士号を取得されていない先生方は少なくなく、端的にさきと同様、そのような「文化」であるのだと思われます。

とはいえ、聞くところによると、専攻分野にもよるのでしょうが、以前と比較すると近年は、人文系でも学位取得が出来るようになってきたとのことであり、たしかに私の人文系院時代からの友人二人は、それぞれ大変なご苦労をされましたが学位取得に至りました。

そこから考えでみますと、私の学位は、さきの伯父や人文系院での友人二人と比べますと、まあ軽いものであるとも思われますが、しかし、私の場合はまた異なった種類の苦労があったのではないかとも思われます。そして、その先にある夢、具体的に今年の夢についてはまた近く、別の機会に述べたいと思います。

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2024年1月16日火曜日

20240115 株式会社筑摩書房刊 祖父江孝男著「県民性の人間学」 pp.200-202より抜粋

株式会社筑摩書房刊 祖父江孝男著「県民性の人間学」
pp.200-202より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 448042993X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480429933

和歌山というとすぐにミカンを思い浮かべる位だが、ミカンのあまさを連想するためか、あるいは気候の温暖さに関連させるせいか、温和とか穏健などの性格をあげる人が案外に多い。

しかし住民自身があげている自分たちの性格の特徴だという答えは明朗、情熱的、荒々しく反抗心が強い、進取的、冒険心が強い等々が多いのだ。ここで忘れてならないのは、有名な紀伊国屋文左衛門の存在である。彼は江戸初期の生まれだったが、風波のために船が全く出ず、紀州ミカンが地元では暴落し、江戸では高騰しているのを知って、決死の覚悟で荒海を遠く越え、江戸へミカンを輸送して巨額の富を得たのである。「沖の暗いのに白帆が見える。あれは紀州のミカン船」という江戸庶民のよろこびをこめた俗謡によって、世人に深い印象を与えた。

 後には江戸八丁堀に材木問屋を営んで巨万の富を築いたのだが、彼の場合は彼の性格が例外的に突出していたというわけではなく、和歌山県人が先にもあげたように、進取的で冒険心に富むという県民性を持っていたからこそ、うんと遠くへ抵抗なしに出かけて行くことが可能だったのではないかと思うのだ。

 文左衛門とあわせて、ここの県民性を示していると思われるのは、ここが広島県、熊本県とともに外国への移民の数の最も多い県だという事実である。明治十年代後半以降、特に明治二十六年ころから多数の人が海外に渡航した。なお日高郡三尾村(現、美浜町)からは明治二十年にひとりの男性がまさに単身カナダへ渡って漁業に従事したのであり、それからあと次々に同じ村から移住し、現在までにこの三尾村からカナダへ渡った人々は約三〇〇〇名にも達しており、第二次大戦以降、この村はアメリカ村と呼ばれるようになって、バスの停留所にもその名がつけられるようになった。英語まじりの会話や異国調の服装や建物がめだち、かつては特にアメリカにはあるけれど、日本にはまだ見られないような電気器具などが多かった。

 なおここでさきにあげた文左衛門と並んで見落とせないのは一八六七年和歌山市に生まれた生物学者、民俗学者の南方熊楠である。一九歳のときに渡米、後に渡英して大英博物館の資料整理に従事し、数々の功績をあげた。その後一九〇〇年に帰国してからは、この和歌山にこもり、地元の民俗資料や粘菌類の収集と研究に晩年の全力を尽くして世界的な功績をあげたのだが、少しく変人でもあって、柳田国男とはそりが合わなかったと伝えられる。それはともかくとして、彼が一九際の若さで外国へ渡っているのも和歌山県人らしいし、彼の場合は更に地元和歌山の民俗と粘菌の研究で功績をあげたのだから、まさに和歌山の風土と自然によって生みだされた学者だと言えるのかも知れない。

2024年1月14日日曜日

20240114 株式会社東洋書林刊 セバスチァン・ハフナー著 魚住昌良監訳 川口由紀子訳「図説 プロイセンの歴史―伝説からの解放」 pp.218‐219より抜粋

株式会社東洋書林刊 セバスチァン・ハフナー著 魚住昌良監訳 川口由紀子訳「図説 プロイセンの歴史―伝説からの解放」
pp.218‐219より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4887214278
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4887214279

一八五四年から、一八五六年のあいだに、オーストリアとロシアの関係を友人から敵に、それもどう見ても永遠の敵に変えたのは、クリミア戦争であった。西側諸国対ロシアのこの戦争で、初めてバルカン半島のトルコの継承が問題となり、この危険をはらんだ地域は、その後、半世紀以上にわたってヨーロッパの政治を不穏におとしいれ、ついには第一次世界大戦の発火点となった。

 プロイセンとオーストリアは、クリミア戦争でともに中立を保った。とはいえ両国の中立は非常に異なる色合いをもち、プロイセンはいわばロシア側に、オーストリアは西側諸国の側に立った。オーストリアはドナウ諸国(今日の南および東ルーマニア)の獲得とバルカン半島からのロシアの追放のためのクリミア戦争を利用しようとした。そのわずかな五年前、ハンガリー戦争で負けかけていたオーストリアをロシアが助けてくれたにもかかわらず。「オーストリアはその恩知らずによって世間を驚かせるだろう。」シュヴァルツェンベルクはすでに早い時期にそう言っていたが、これは特徴を言いあてた名言である。オーストリアとロシアは、いまやバルカンにおいて致命的なライバルとなった。

 そしてプロイセンは、もはや彼らの同盟の中の第三者ではありえなかった。その同盟はもはや存在しなかった。今後プロイセンは、好むと好まざるとにかかわらず、両者間での選択を余儀なくされた。

 終わったのは「三羽の黒鷲」同盟だけではなかった。一八一五年にメッテルニッヒが設立し、プロイセンが進んでその中に憩ったきわめて巧妙なヨーロッパ体制が、革命と革命のもたらした結果とによって崩壊した。フランスはもはや関与していなかった。フランスではいま、ふたたびナポレオンという人物が支配していた。

 この「三代目」ナポレオンは、初代が抱いた帝国という野心こそもたなかったが、ヨーロッパ政治の中心をウィーンからパリに移すという野心を抱いていた。彼の手段はナショナリズムとの同盟であった。まず初めはイタリア・ナショナリズムとの同盟、そこでは彼は成功した。次はポーランド・ナショナリズムとの同盟、そこでは何の結果も出なかった。最後は、なんとドイツ・ナショナリズムとの同盟である。

 ここにいたってはナポレオン三世は自らの破滅を招いた。彼はいつものように、ヨーロッパに不穏・戦争・鬨の声をもたらした。革命後のヨーロッパは、もはや一八一五年から一八四八年までのような平和な国家共同体ではなかった。それぞれの国がいまはまた自立していた。良くも悪くも、プロイセンも例外ではなかった。

2024年1月13日土曜日

20240113 中央公論新社刊 池内紀著「ヒトラーの時代-ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」 pp.103-107より抜粋

中央公論新社刊 池内紀著「ヒトラーの時代-ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」
pp.103-107より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121025539
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121025531

テレビが普及して以来、すっかり影が薄くなったが、二十世紀前半にラジオが果たした役割を忘れてはならないだろう。テレビの映像にとって変わられるまで、ラジオの声は、おおかたの人が朝ごとにまっさきに耳にした音声であり、夜は、この声を消して床についた。真空管つきの小さな箱が、海のかなたの政変を伝えてきた。世界的オーケストラによる名曲を気前よく送ってくれる。スポーツの実況を通してグラウンドや競技場の一員になれる。連続放送劇が大当たりすると、その時間帯は通りから人影が消えた。

 情報や娯楽の送り手だっただけではない。そもそもヒトラーが驚くほどの短期間に圧倒的な人気と信任をかちえたのは、ラジオの利用なくしては考えられない。ゲッペルスの見通したように、十九世紀は新聞、二十世紀はラジオの世紀だった。そしてまさに後藤新平が開局の挨拶で述べたとおり、ヒトラーはこれを「精妙に利用」して、「民衆生活の枢機」を握ったのである。

 年頭所感や政局のおりおりに、荘重な音楽が流れ、ついで「ドイツ国民に対するドイツ政府の告諭」になった。どの家庭でも、この瞬間、いっせいに静けさが訪れた。

「ドイツ国民に告ぐ」

ヒトラーお得意の弁舌が流れてくる。選挙の前日には、急遽番組表に割りこんできた。それは放送であって放送にとどまらなかった。ラジオの声はとりも直さず「ナチス国家の表現」であり、ナチズムの精神、ナチス指導部原理にかなうものだった。居間に据えた国民ラジオをとり巻いて、家族全員が威儀を正し、身じろぎせず、神の声を聴くように301型の声に耳を傾けた。

 メディア論者マクルーハンによると、ラジオは「部族の太鼓」だった。ラジオの声が人間の内面の深層にはたらきかけ、ちょうど深い密林で打ち鳴らされる太鼓のように、陶然とした恍惚感に導くからだという。マクルーハンはラジオの影響度を文字文化と産業主義とに関連づけた。イギリスやアメリカは早くからこの両者になじんでおり、いわばラジオに対する「予防注射」を受けていたが、ヨーロッパ大陸はラジオの「免疫」というものを持たず、だからこそファシズムの調べとともに「古い血族関係の網の目」が共鳴を起こして声の魔術にしてやられたー。

 論議が分かれるとこだろう。同じアメリカで一九五〇年代はじめ、上院議員のマッカーシーのラジオ番組とともに「赤狩り」が始まった。煽動的なラジオの声を合図に、人々は一斉に共産主義者摘発に狂奔した。ここでも「部族の太鼓」が人々を、雪崩のような動きへと駆り立てた。

 それはともかく、ナチズムがみるみる勢力をのばしたのは、あきらかにラジオと拡声装置のおかげだった。演説好きの独裁者は新技術を最大限に活用した最初の権力者だった。アドルフ・ヒトラーこそ「メディア人間」のはしりだった。もともと故郷や家族志向の強いドイツ人に「部族の太鼓」はとりわけ効果的に鳴りひびいた。

 さらにマクルーハンによるとラジオは「熱いメディア」であって、本来的に魔術的な威力をそなえている。はるか遠くで発せられた声にもかかわらず、ラジオはひそひそと耳近くでそなえている。はるか遠くで発せられた声にもかかわらず、ラジオはひそひそと耳近くで話しかける。宗教上の神々が地上に降臨するとき、それはつねに目に見えない姿をとり。信(神?)託の声として現われ、人を誘いこむ、ラジオが親密な一対一の関係をもたらすことは、現代のディスクジョッキーでおなじみだろう。これは話し手と聴き手のあいだに、親密な私的世界を生み出すばかりでなく、意識下にはたらきかけて、ひそかな「共鳴」をつくりだす。

 技術はすべて肉体の延長といった目でながめると、ラジオは電話や電信よりもはるかに強く中枢神経の拡張といった役割を担うのではあるまいか。音声として与えられた言葉は目よりもずっと敏感で、本能的で、排他的に作用してくるからだ。

 若きオーソン・ウェルズが一九三八年、CBSラジオの臨時ニュースの形をとって、火星人襲来のラジオ・ドラマを放送したとき、全アメリカがパニックに陥った。ラジオだったせいだろう。テレビであれば、口元にいたずらっぽい笑いを浮かべた野心家の俳優が映っており、その機知と話術を楽しんで、誰も火星人の襲来に逃げまどったりしなかったはずである。

 マクルハーンの言うように、熱いメディアのラジオに対して、テレビは「冷たいメディア」である。マッカーシーが赤狩りの弾劾演説を、おりしもひろがりはじめたテレビに移したとたん、おこりが落ちたようにアメリカ市民は正常に立ちもどった。共産主義者の恐怖ではなく、憎悪にゆがんだ一上院議員の醜悪な顔を見たからである。

 もしヒトラーがラジオではなくテレビの時代に生まれ合わせていたら、せいぜいのところミュンヘン一帯を地盤とする、やたら演説の好きな、チョビひげがトレードマークの一地方政治家に終っていたかもしれないのだ。

2024年1月11日木曜日

20240111 株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」pp.309-311より抜粋

株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」pp.309-311より抜粋
ISBN-10: 4309227880
ISBN-13: 978-4309227887

宗教やイデオロギーに加えて、営利企業も虚構とフェイクニュースに頼っている。ブランド戦略は、人々が真実だと思い込むまで、同じ虚構の物語を何度となく語るという手法を取ることが多い。あなたはコカ・コーラについて考えたとき、どんな画像が頭に浮かぶだろうか?若くて健康な人々がスポーツをしながらいっしょに楽しんでいるところを思い描くだろうか?あるいは、太り過ぎの糖尿病患者が病院のベッドに横たわっている姿を想像するだろうか?コカ・コーラをたくさん飲んでも若返れないし、健康になれないし、運動が得意にもなれない。むしろ、肥満と糖尿病になる危険が高まる。それにもかかわらず、コカ・コーラは長年、膨大な資金を投じて、自らを若さや健康やスポーツと結びつけてきた。そして、何十億という人が、潜在意識の中でその結び付きを信じている。

 真実がホモ・サピエンスの課題リストの上位に入ったことは一度もなかった、というのが真実だ。特定の宗教あるいはイデオロギーが現実を偽って伝えたら、その宗教あるいはイデオロギーの信奉者は、判断力に優る競争相手に太刀打ちできないから、遅かれ早かれその偽りに気づくに違いないと、多くの人は思い込んでいる。そう思っていれば気が楽なのだが、あいにく、それもまた神話にすぎない。実際には、人間が協力してどれほど力を発揮できるかは、真実と虚構の間の微妙なバランスにかかっているのだ。

 もしあなたが現実を歪めすぎると、非現実的な形で行動してしまうので、自分のためにならない。たとえば、一九〇五年にキンジキティレ・ングワレという東アフリカの霊媒師は、ヘビ神に仕える精霊ホンゴに憑依されたと主張した。この新しい預言者は、東アフリカのドイツの植民地の人々への、革命のメッセージを持っていたー団結し、ドイツ人を追い出せ、という。このメッセージの魅力を増すため、ングワレは信奉者たちに、ドイツ人の銃弾を水(水はスワヒリ語で「マジ」)に変えるという触れ込みの秘薬を与えた。こうして、マジ・マジ反乱が始まった。そして、失敗に終わった。なぜなら戦場では、ドイツ人の銃弾は水に変わらなかったからだ。銃弾は、装備不足の反乱軍兵士の体に容赦なく食い込んだ。その二〇〇〇年前、ローマ人に対するユダヤ人の大反乱もやはり、神はユダヤ人のために戦い、見たところ無敵のローマ帝国を打ち負かす手助けをしてくれるという、熱狂的な信念が呼び起こしたものだった。この反乱も失敗に終わり、エルサレムは破壊され、ユダヤ人は国を追われた。

 その一方で、何らかの神話に頼らなければ、大勢の人を効果的に組織することはできない。もしありのままの現実にこだわっていたら、ついてきてくれる人はほとんどいない。神話がなければ、失敗に終わったマジ・マジ反乱やユダヤ人の大反乱ばかりでなく、大きな成果をあげたマフディーやマカベア家の反乱も、組織できなかっただろう。

 実際、人々を団結させる点では、偽りの物語のほうが真実よりも本質的な強みを持っている。集団への忠誠心がどれほどのものかを判断したかったら、人々に真実を信じるようにと飲むよりも、馬鹿げたことを信じるように求めるほうが、はるかに優れた試金石になる。もし大首長が、「日は東から昇り、西に沈む」と言ったら、人々はその首長への忠誠心がなくても、是認して拍手喝采するだろう。だが、もし首長が、日は西から昇り、東に沈む」と言ったら、手を叩くのは忠実な支持者だけだ。同様に、もしあなたの隣人たちがみな、同じとんでもない物語を信じていたら、危機が訪れたときに彼らは団結して立ち上がると思って間違いない。もし彼らが、正しいという折り紙付きの事実しか信じる気がないのなら、それが何の証になるというのか?

 少なくとも一部のケースでは、虚構や神話ではなく、当事者の合意のみで成り立つ約束事を通して人々を組織することが可能だと主張する向きもあるかもしれない。たとえば、経済の領域では、貨幣や企業は人間の約束事にすぎないことを誰もが知っているにもかかわらず、それらは神や聖典よりもはるかに効果的に人々を束ねる。聖典の場合、熱狂的な信者は、「この書物は神聖だと、私は信じている」と言うだろうが、ドルの場合には、熱狂的な信奉者は、「他の人々がドルには価値があると信じていると、私は信じている」と言うにすぎない。ドルが人間の所産でしかないのは明らかであるにもかかわらず、世界中の人がドルを尊重する、それならば、なぜ人間はあらゆる神話と虚構を捨て、ドルのような約束事に基づいて自らを組織しないのか?

20240110 株式会社新潮社刊 新潮選書 高坂正尭著「歴史としての二十世紀」pp.125-127より抜粋

株式会社新潮社刊 新潮選書 高坂正尭著「歴史としての二十世紀」pp.125-127より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4106039044
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4106039041

「コカ・コロナイゼーション」

ここで知っておくべきことは、こんな高度な物質文明がすでに一九二〇年代にはアメリカに存在した事実でしょう。そして、ネビンソンのような冷めた見方をするイギリス人もいました。日本人は戦後にアメリカの豊かな文明を体験して、その差に驚嘆したのですが、その四半世紀前に同じことがあり、かつ、びっくりするより反感を持った人もいたというのが面白いところです。

 同様の違和感はイギリス人のみらなず大陸側のヨーロッパにもあったようです。たとえば、フランスの場合、第一次大戦も第二次大戦もアメリカに助けてもらい、やっとのことで勝ったわけで、イギリス以上に屈折しています。米軍のおかげでナチスから解放されたわけで、感謝するのが普通の感情でしょう。だが、気位が高ければ、その事実がますます忌々しく、「アメリカ糞くらえ!」という思いになることは、十分考えられます。

「コカ・コーラ」と「コロナイゼーション(植民地化)」をくっつけた、「コカ・コロナイゼーション」という造語は、それをうまく表現しています。直訳すれば「コカ・コーラによる植民地化」でしょうか。「コカ・コーラを飲むのが進歩かね、これはアメリカ文明に対する隷属だ」という気持ちを、この言葉に託したわけです。フランス人にしてみれば、自分たちのワインが世界一で、甘ったるいコカ・コーラを飲む連中はどっちみちクズだと思ったのかもしれません。

ラジオと自動車という文明の利器

 しかし、鬱屈した対米感情は、フランスでも長続きしませんでした。その理由は一九二〇年代から三〇年代にアメリカの一般家庭に入っていた工業製品が、第二次大戦後、ヨーロッパにあふれかえってしまったことです。発明された順番は諸説ありますが、普及した順ではラジオと自動車と電気製品、これらが重要です。現代人の生活はラジオを含めマス・コミュニケーションを離れては考えられません。さらに自動車を抜きにした生活もありえない。これは綿製品が安くできるとか、広い家がいいということとは違い、社会生活を根本から変える効果、さらにいえば、人々を虜にする麻薬的なところも持っていた。マス・コミュニケーションという大がかりな伝達手段がなければ、一つの国民が同時に同じニュースを聞いて、同じものに惹かれて、同じことを考えることはないはずです。これまでは、一つの国でも中心から遠い地方では情報が分離・隔絶されていました。ところが、ラジオ、続いてテレビに代表される大衆伝達は広い国でも全土を同時にカバーできます。それまで存在しなかった「国民社会」が、マスメディアによって形成されたことは間違いないでしょう。

2024年1月9日火曜日

20240109 株式会社平凡社刊 ジョン・エリス著 越智道雄訳「機関銃の社会史」pp.25-27より抜粋

株式会社平凡社刊 ジョン・エリス著 越智道雄訳「機関銃の社会史」pp.25-27より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4582532071
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4582532074

イギリスでも、その他の国でも、機関銃は第一次世界大戦の勃発まで日の目を見なかった。しかし世界の一部では、機関銃のすさまじいまでの威力はすでに証明されていた。アフリカに乗り込んだヨーロッパ人たち、兵士および武装した入植者たちの少人数の部隊は、たびたび多人数の原住民による抵抗を受けた。原住民は貧弱な武器しかもっていなかったが、数の上では圧倒的に優位だったために、白人たちはもっていた火器という火器をすべて活用せざるをえなくなった。後装式小銃を使っていた白人にとって、機関銃はこのうえない助っ人だった。アフリカ大陸のあらゆる場所で、ズールー族、デルウィーシュ[過激なイスラム教徒の一派]、ヘレロ族、マタベレ族など、大英帝国の行く手を阻むものはすべて、ガトリング銃、ガードナー銃、マクシム銃が根こそぎ蹴散らしていった。これらの機関銃は、ヨーロッパ人が領土を拡大するために、足掛かりを確保し、一息つくのに必要不可欠なものだった。機関銃を使わなかったら、イギリス南アフリカ会社はローデシアを失っていただろうし、ルガードはウガンダから、ドイツ軍はタンガニーカから追い出されていただろう。ハイラム・マクシムがいなければ、その後の世界の歴史はだいぶ変わっいたはずだ。ヒレア・ベラクがこう書いている。

ありがたや、われわれにはマクシム銃がある

だが、やつらにはない

しかし、帝国主義者たちによるこうした余興は、見る目のある者にとってはきわめて強烈な印象を与えただろうが、本国にいる軍部のエリートたちのにはほとんど何の影響も及ぼさなかった。ヨーロッパ人、とくにイギリス人は、わずかな数の英雄の手柄を讃えることばかりに夢中になっていたため、これらの大勝利がじつは機関銃によってもたらされたものだと認めることができなかったのだ。この並外れた武器の価値をいったん認めてしまえば、栄光はどうなる?武器に勲章をぶら下げるわけにはいかないではないか。第一、勝敗の決め手となったのがただの兵器にすぎなかったといってしまえば、イギリス人が優れている証拠だとは吹聴できなくなってしまう。

 実のところ、機関銃もパーマー、パクル、レブニッツ、ベセマーの時代以来、長い道程を歩んできた。彼らのような、本業でない者はもちろん、ガトリングやマクシムですら、自分たちがどんなに恐ろしい武器をつくりだしたか、人類が地球上から人間を一掃する能力をどれほど高めたか、想像もしていなかった。帝国主義者の体験はこの事実を明らかにしていたが、誰もそれを認めたがらなかった。そもそも、少人数のみすぼらしい〈カフィル〉(黒人)相手の軍事作戦から、ヨーロッパ人が自分たちの大陸で将来起こる戦争について教訓を得ることなどありえようか。こうしたわけで、機関銃は相変わらず調達品リストの末尾にかろうじて載っているにすぎなかった。それもせいぜい、敵が機関銃を装備している場合に何丁かもつというだけのことだったようで、機関銃があればほんの少しでも優位にたてるなどと言い張っても、何の効用もなかったのは確かだ。

 しかしあいにくなことに、一九一四年に、ドイツ軍、イギリス軍、フランス群の手中にあったこれら少数の機関銃でさえ、実際に重大な影響を及ぼした。それは防衛に関して圧倒的な優位ももたらし、ヨーロッパにおける大戦争について両陣営が抱いていた見方を根底からくつがえした。

2024年1月8日月曜日

20240108 日本経済新聞出版社刊 ジャレド・ダイアモンド著 小川敏子、川上純子訳「危機と人類」下巻 pp.133‐136より抜粋

日本経済新聞出版社刊 ジャレド・ダイアモンド著 小川敏子、川上純子訳「危機と人類」下巻 pp.133‐136より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4532176808
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4532176808

第二次世界大戦に対する日本の姿勢をアジアがどうみているかを示すものとして、リー・クアンユーの評価を紹介する。リーは数十年にわたりシンガポールの首相を務め、日本、中国、韓国とその指導者をよく知る、鋭い人間観察眼を持った人物だ。

「ドイツ人と異なり、日本人は自分たちのシステムのなかにある毒を浄化することも取り除くこともしていない。彼らは過去の過ちについて自国の若者に教えていない。橋本龍太郎首相は第二次世界大戦五二周年(一九九七年)に際して「心からのお詫び」を、同年九月の北京訪問時には「深い反省の気持ち」を表明した。しかし、中国や韓国の国民が日本の指導者に望むような謝罪はおこなわなかった。過去を認め、謝罪し、前に進むことを日本人がこれほど嫌がる理由が、私には理解できない。どういうわけか日本人は謝りたがらないのである。謝罪するとは、過ちを犯したことを認めることだ。後悔や遺憾の意を示すのは、現時点での主観的な感情を表明しているにすぎない。日本人は南京大虐殺が起こったことを否定した。韓国人、フィリピン人、オランダ人などの女性たちが、拉致あるいは強制によって前線の兵士たちのための「慰安婦」(性奴隷の婉曲表現)にさせられたことを否定した。満州において中国人、韓国人、モンゴル人、ロシア人などの捕虜を生きたまま残酷な人体実験に使ったことを否定した。いずれの事例についての、日本人自信の記録から反論の余地のない証拠が出てきてようやく、彼らは不承不承ながら事実を認めた。今日の日本人の態度は将来の行動を暗示している。もし彼らが過去を恥じるなら、それを繰り返す可能性は低くなるだろう」

毎年、UCLAの私の学部生向けクラスには日本からの学生が含まれており、日本の学校で教えられていることや、カリフォルニアに来て体験したことを教えてくれる。日本の学校の日本史の授業では、第二次世界大戦についてほとんど時間を割かない(「数千年の日本の歴史のうちのほんの数年にすぎないから」)といい、侵略者としての日本についてはほとんど、あるいはまったく触れないし、何百万人もの外国人や数百万人の日本の兵士と民間人の死についての責任よりも、むしろ被害者としての日本(原爆によって十数万人が殺されたこと)を強調し、日本が戦争をはじめるように仕向けたとしてアメリカを非難するという(公平を期して述べておくと、韓国、中国、アメリカの教科書も、第二次世界大戦について自国に都合よく紹介している)。私の日本人の学生たちは、ロサンゼルスのアジア人学生連盟に参加し、韓国人や中国人の学生と出会い、戦時中の日本人の行動を知り、それが今も他国の学生たちの反日感情を醸成していることを知ると、ショックを受ける。

 同時に、私の日本人の学生の数人は、そして多くの日本人が、日本の政治家がこれまでに述べた数々の謝罪の言葉を挙げ、「日本はすでに十分に謝ったのではないか?」という疑問を述べる。短い答えは「ノー」だ。なぜならそれらの謝罪には真実味がなく、日本の責任を最小化、あるいは否定する言葉が混ぜられているからだ。日本とドイツの対照的な手法は主要な犠牲者である中国と韓国を納得させそこねているのはなぜだろうかと問うことだ。第6章で、ドイツの指導者たちが示して来た反省と責任や、ドイツでは子供たちが学校で自国の過去に正面から向き合うように教えられることなど、ドイツのさまざまな対応を紹介した。日本がドイツと同様の対応をすれば、中国人や韓国人は真摯さに納得するかもしれない。たとえば、日本の首相が南京を訪れ、中国人が見守るなかでひざまずき、戦時中の日本軍による残虐行為への許しを請うてはどうだろうか。日本中にある博物館や記念碑や元捕虜収容所に、戦時中の日本軍の残虐行為を示す写真や詳しい説明を展示してはどうだろうか。日本の児童が国内および南京、サンダカン、バターンなど海外のこうした場所を修学旅行や遠足で定期的に訪れるようにしてはどうだろうか。あるいは、戦争の犠牲者としての日本よりも、戦時中に日本の残虐行為の犠牲となった非日本人を描くことにもっと力を入れてはどうだろうか。こういった活動は今の日本には存在しないし、思い浮かべることすらできないが、ドイツでは同様の活動が広く実行されている。こうした活動が実行されるまで、中国人や韓国人は日本流の謝罪を信じることはなく、日本を憎みつづけるだろう。そして、中国と韓国が徹底した軍備を進めているのに日本は十分な自衛力がないという状態がつづく限り、日本の目前には大いなる危険が迫ったままである。

2024年1月7日日曜日

20240107 東洋経済新報社刊 北岡伸一・細谷雄一編著「新しい地政学」 pp.142‐144より抜粋

東洋経済新報社刊 北岡伸一・細谷雄一・田所昌幸・篠田英朗・熊谷奈緒子・託摩佳代・廣瀬陽子・遠藤貢・池内恵 編著「新しい地政学」
pp.142‐144より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4492444564
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4492444566

ロシアは、間接的な形でシリアやアフガニスタンの紛争にかかわる。また、近接地域であるジョージア(コーカサス地方)、およびウクライナなどで、より目立った紛争とのかかわりを見せてきた。1990年代にロシア政府が激しく戦ったチェチェン紛争の、ロシア領域内とは言え、コーカサス地方で発生した紛争であった。

 カスピ海および黒海の沿岸地域は、19世紀に南下政策をとるロシアが、海洋覇権を握るイギリスと、さまざまな対立を繰り広げた地域である。冷戦終焉後の世界では、21世紀になってから、反ロシアの行動をとったジョージアのサアカシュヴィリ政権に対して、ロシアは軍事衝突も辞さず、南オセチアとアブハジアに対して国家承認を行っており、ロシアにとってコーカサス地方への重要な足掛かりとなっている。

 2014年に勃発したウクライナ問題についても、ロシアの姿勢はジョージアに対するものと基本的に同じであった。ロシアにしてみれば、ウクライナやジョージアに対するものと基本的に同じであった。ロシアにしてみれば、ウクライナやジョージアなどの旧ソ連邦共和国は、少なくとも西側諸国に対する緩衝地帯となるべきだというのが、ある種の不文律なのだろう。2014年で起こった親西欧的な政治運動は、ロシアが決して看過できないものであった。そこでロシアは、クリミア半島を併合し、さらにはウクライナ南部を親ロシア勢力圏に置くことによって、キエフの新政権を囲い込むことを試みた。経済コストを甘受しても黒海におけるプレゼンスを確保するためにクリミアを死守したプーチン大統領の行動は、地政学的な着想に基づいたものであったと言える。

 このようなロシアを中心にユーラシア大陸の動きをとらえる視点は、マッキンダーによって、最も劇的に説明されていた。マッキンダ―は、歴史の「回転軸」を、ほとんどがロシアの領土と重なるユーラシア大陸の中央部の「ハートランド」に見出した。

 周知のように、マッキンダ―は、大陸の外周部分を形成する国家を「海洋国家(シー・パワー)」、大陸中央部にあるのが「陸上国家(ランド・パワー)」だと規定した。この地理的制約を受けた二つの大きな勢力の間のせめぎあいこそが、「グレート・ゲーム」を形成してきた。マッキンダーはハートランドの「陸上国家」は歴史法則的に拡張主義をとるという洞察を提示し、もともとは外洋に向かって勢力圏を拡大させる「海洋国家」群は、「陸上国家」の拡張に対抗して抑え込む政策をとっていかざるを得ないという洞察も示した。これはロシアの膨張主義を、ほぼ歴史法則的にとらえる視点につながる。

20240106 中央公論新社刊 中公クラシックス 宮崎市定著「アジア史論」 pp.301-303より抜粋

中央公論新社刊 中公クラシックス 宮崎市定著「アジア史論」
pp.301-303より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121600274
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121600271

イスパニア、ポルトガル両国、続いて英、仏、蘭を主動力とする西欧帝国主義の魔手は最初に強敵トルコを敬遠し、最も抵抗の薄弱なる地点を選んで東洋に伸び、喜望峰迂回路によってインド、南洋を蚕食し、清朝末期のシナ帝国をも脅迫して、これを反植民地化するの機会を覗いはじめた。

同時に東欧に勃興したるはロシアである。ロシアはトルコ、蒙古の抵抗を憚って、極北無人のシベリアを通過して東洋に到達した。ロシアが最初に選びたるシベリア横断路は、カザン、ボルスク、トムスク、イェニセイスク、ヤクツクを経て、オホツクに達するもので、現今のシベリア鉄道路線よりも、ひとまわり北方を走っていたのである。

 インド、南洋の富は著しく西欧を富ましめた。なかんずく大都市の商工関係者を潤した。ここに西欧における市民階級の勢力勃興を見るのである。英国においてはこれが代弁者としてクロムエルを見出した。都市商工業の勢力はついに、最後の封建制度の残滓たる専制君主を圧倒抹殺し去った。その後英国において名目上は王朝の復興を見たるも、そは決して英国の支配者としてではない。英国の支配者はロンドン市であって、国王は単に諸外国との摩擦を避けんがために、外務大臣として推戴せられたるに過ぎない。英国と相並んで活躍せるオランダの東洋貿易の発展は、またその後方地帯たるフランスに甚大なる影響を与えないでは措かなかった。パリ市の発達はすなわちフランス市民階級の勃興を物語るものであり、パリの新興市民階級とヴェルサイユにおけるスペイン婦系家族ブルボン朝の大陸封建勢力とは、まさに好個の対照をなしていた。この両者の対立の爆発せしものがフランス大革命である。そしてナポレオン時代の市民階級の勢力は、既にクロムエル時代におけるそれの比ではなかった。彼等は既に産業革命を経験し、機械力の恐るべきこと、伝統的封建君主の無力なることに対して絶大の自信を抱いていた。フランスはナポレオンの失脚により、諸外国より旧ブルボン王朝の復活を強制されながら、仏国民は決してかかる外務大臣を歓迎しなかった。ここに最も市民的なる第二共和国の出現する契機が潜んでいた。英国及びフランスにおける二大政治革命は、その結果として著しく西欧を近代化した。しかしながら、この二大革命の裏面には隠れたるアジアの働きが与って力ありしことを忘れてはならない。それはすなわちアジアの物資である。ただしアジアの物資も人の手を藉らねば生産されない。西欧の革命はヨーロッパ人の血を流して達成されたが、その蔭において膏血をしぼられた者は実に東洋の民衆であったのだ。

 西欧における政治革命と相並んでの産業革命こそは、ヨーロッパの世界制覇を確立せしむる決定的要素となった。西欧の侵略に対し、辛うじて自ら支持し来った、東亜の清朝、西亜のトルコ二大国も幾度かの反抗の後、ついには戟を投じて敵の軍門に投降せざるを得なくなったのである。

 オスマントルコの衰頽とともに西アジアの没落が始まった。西アジア社会の没落は、それが最古の文明を有し、最も進み過ぎたる社会の没落であるが故に、必然の結果としてその苦悶が最も深刻であった。オスマン帝国領土の分割は、まず北方におけるバルカン半島小民族、セルビア、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャの独立に始まり、次いで南方におけるエジプトの独立で一段落となった。

2024年1月5日金曜日

20240105 河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「ホモ・デウス」下巻 pp.71-74より抜粋

河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「ホモ・デウス」下巻 
pp.71-74より抜粋
ISBN-10 : 4309227376
ISBN-13 : 978-4309227375

進化論的な人間至上主義は、人間の経験の対立という問題に、別の解決策を持っている。ダーウィンの進化論という揺るぎない基盤に根差しているこの人間至上主義は、争いは嘆くべきではなく称賛するべきものだと主張する。争いは自然選択の原材料で、自然選択が進化を推し進める。人間に優劣があることには議論の余地がなく、人間の経験どうしが衝突したときには、最も環境に適した人間が他の誰をも圧倒するべきだ。

野生のオオカミを絶滅させ、家畜化されたヒツジを情け容赦なく搾取するように人類を駆り立てているのと同じ論理が、優秀な人間が劣悪な人間を迫害することも命じる。ヨーロッパ人がアフリカ人を征服し、抜け目ない実業家が愚か者を破産に追いやるのはは善いことだ。もしこの進化論的な論理に従えば、人類はしだいに強くなり、適性を増し、やがて超人が誕生するだろう。進化はホモ・サピエンスで止まらなかった。まだまだ先は長い。ところが、もし人権や人間の平等の名のもとに、環境に最も適した人間を去勢したら、超人の誕生が妨げられ、ホモ・サピエンスの対価や絶滅まで招きかねない。

 では、超人の到来の先駆けとなる、その優秀な人間たちとは誰なのか?それはいくつかの民族全体かもしれないし、特定の部族かもしれないし、個々の並外れた天才たちかもしれない。それが誰であれ、彼らが優秀なのは、新しい知識やより進んだテクノロジー、より繁栄した社会、あるいはより美しい芸術の創出という形で表れる、優れた能力を持っているからだ。アインシュタインやベートーヴェンのような人の経験は、酔っ払いのろくでなしの経験よりもはるかに価値があり、両者を同じ価値があるかのように扱うのは馬鹿げている。同様に、もしある国が一貫して人間の進歩を戦争してきたのなら、人類の進化にほとんど、あるいはまったく貢献しなかった他の国々よりも優秀さと考えてしかるべきだ。

 したがって、オットー・ディックスのような自由主義の芸術家とは対照的に、進化論的な人間至上主義は、人間が戦争を経験するのは有益で、不可欠でさえあると主張する。映画「第三の男」の舞台は、第二次世界大戦終結直後のウィーンだ。先日までの戦争について、登場人物のハリー・ライムは言う。「けっきょく、それほど悪くはない。・・イタリアでは、ボルジア家の支配下の三〇年間に、戦争やテロ、殺人、流血があったが、ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチが登場し、ルネサンスが起こった。スイスには兄弟愛があって、五〇〇年も民主主義と平和が続いてきたが、やつらは何を生み出したか?鳩時計さ」。ライムはほとんど全部、事実を取り違えている。スイスはおそらく、近代初期のヨーロッパで最も血に飢えた地域だった(この国の主要な輸出品は傭兵だった)し、鳩時計はじつはドイツ人が発明したが、こうした事実はライムの考え方ほど重要ではない。その考え方とは、戦争の経験は人類を新しい業績へと押しやるというものだ。戦争は自然選択が思う存分威力を発揮することをついに可能にする。戦争は弱い者を根絶し、獰猛な者や野心的な者に報いる。戦争は生命にまつわる真実を暴き出し、力と栄光と征服を求める意志を目覚めさせる。ニーチェはそれを次のように要約している。戦争は(生命の学校」であり、同じような考え方を述べたのがイギリス陸軍のヘンリー・ジョーンズ中尉だ。第一次世界大戦の西部戦線で命を落とす四日前、二一歳のジョーンズは戦争での自分の体験を熱烈な言葉で書き綴った手紙を兄弟に送っている。

 あなたはこんな事実を一度でも考えたことがあるだろうか?戦争に惨事は付き物であるとはいえ、少なくとも戦争とは途方もない代物だ。つまり、戦争では、人は否応なく現実に直面させられるのだから、平時に世界の人の一〇人に九人が送る、おぞましい営々本位の生活の愚かさや利己主義、贅沢、全般的な下劣さは、戦時には残忍さに取って代られるのだが、その残忍さのほうが、少なくとももっと正直で率直だ。これは、こんなふうに見るといい。平時には、人はただ自分自身のちっぽけな生活を送る。取るに足りないことにかまけ、自分の案楽やお金の問題といった類のさまざまな事柄を心配しながら、たんに自分のために生きている。なんとあさましい暮らしだ!それに引き換え戦時には、たとえ本当に命を落とすことになっても、どのみち数年のうちにその避け難い運命に見舞われることを予期しているのであり、自分は祖国を助けるために命を捧げたのだと知って満足することができる。現に理想を実現したのであり、私の見るかぎり、ありきたりの生活ではそういうことはごく稀にしかできない。なぜなら、ありきたりの生活は営利本位で利己的な基準で営まれているからだ。よく言うように、成功したければ、手を汚さずには済まされないのだ。

 私としては、この戦争が自分のもとにやって来てくれたことをしばしば喜んでいる。人生とはどれほどつまらないものか、気づかせてくれたからだ。戦争は、言ってみれば自分の殻を破る機会をみんなに与えてくれた・・たしかに、自分について言えば、たとえば先日の四月のもののような、大規模な攻撃が始まるときのあれほどの激しい気分の高まりは、これまでの人生で、一度も経験したことはない。直前の半時間かそこらの昂奮ときたら、並ぶものなど何一つない。

2024年1月4日木曜日

20240104 中央公論新社刊 宮崎市定著「アジア史概説」 pp.395-396より抜粋

中央公論新社刊 宮崎市定著「アジア史概説」
pp.395-396より抜粋
ISBN-10 : 4122014018
ISBN-13 : 978-4122014015

世界交通の幹線からの除外は同時に文化の停滞を意味した。十八世紀からはどんどんヨーロッパ文化が流入したが、それはトルコ国力の復興を意味するものではなく、かえって、ヨーロッパの政治力に圧倒される前兆であった。そして地理的に接触する関係から、トルコがもっとも大きな圧迫をうけたのは、いうまでもなく北隣のロシアである。ただロシアが無力化したトルコをついに合併することができなかったのは、トルコ自身の力ではなく、ヨーロッパの国際政局の間に勢力の均衡が保たれ、ロシアのトルコにたいする攻撃ごとに、列国がその勢力均衡を破ることを恐れて、あいついで干渉した結果に過ぎない。

 十八世紀の終りに、ロシアはクリミア半島を占領して黒海を制圧し、バルカンのスラヴ系諸国民を後援して地中海への進出をねらった。ところがオーストリア帝国もまたバルカン支配をのぞみ、バルカン諸国民も独立を欲しこそすれ、ロシアに併合されることを好まなかったので、バルカン半島ではつぎつぎに小国が独立した。

 十九世紀にはいり最初に独立の宿望を達成したのは、スラヴ系のセルビアであり、ラテン系のギリシャとルーマニアがこれについだ。ギリシャの独立に際しては、それが古典文化発祥の地ということでヨーロッパ諸国の同情が集まり、この際ロシアも兵を出してトルコ軍を破り、ドナウ北岸人民の独立を認めさせたのが、すなわちルーマニアであったのである。この成功に勢をえたロシアは、トルコ領内キリスト教徒にたいする保護権を要求したが、イギリス、フランス二国はそれがトルコの存在を危うくすることを恐れ、トルコをたすけてロシアと戦った。これがセバストポール要塞攻囲戦によって知られるクリミア戦没である。この結果、ロシアは黒海を中立とし、かつトルコの領土保全を約束した(一八五六年)。

 一度きっさきを収めたロシアは、つぎにトルコのブルガリア人虐殺問題の責任を問うてふたたびトルコに侵入した。イギリスはこれに干渉して、ベルリン列国会議を開いてロシアのバルカンにたいする勢力伸長を抑え、ブルガリア、モンテネグロの事実上の独立が確認された(一八七八年)。そしてこのときに、スラヴ民族の居住地であるボスニア地方がオーストリア帝国の領土に併合されたことは、後に第一次世界大戦の遠い原因となったものである。

 バルカン諸国が自力によって独立せず、列国の勢力均衡の上に立って他力的に実現されたものであることは、この地方の民族分布の複雑さとあいまって、陰謀、騒乱の舞台となり、ヨーロッパの伏魔殿とさえいわれた。諸国民の偏狭で利己的な国民主義から、領土の拡張争奪の戦いが、二十世紀に入って第一、第二のバルカン戦争をまねき、それがさらに発展して、第一次世界大戦の破局に導いたのであった。

 

20240103 東京大学出版会刊 池内 恵・宇山 智彦・川島 真・小泉 悠・鈴木 一人・鶴岡 路人 ・森 聡 著「ウクライナ戦争と世界のゆくえ」pp.41‐42より抜粋

東京大学出版会刊 池内 恵・宇山 智彦・川島 真・小泉 悠・鈴木 一人・鶴岡 路人 ・森 聡 著「ウクライナ戦争と世界のゆくえ」pp.41‐42より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4130333054
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4130333054

中東欧諸国とロシアのどちらがより重要であるかという単純化された議論は、現実の政治・外交の現場において建設的とはいい難い。それでも、欧州における冷戦が終結する過程において、欧州の中央に位置するドイツという存在をいかに安定的な秩序に取り込むのかという「ドイツ問題」は、統一ドイツのNATO帰属という形で解決された(鶴岡 二〇〇一)。他方で、欧州大陸にもう一つ存在する大国であるロシアをどう扱うのかという「ロシア問題」は未解決のままに残されたことは否定できない。これは、単に冷戦後のNATO拡大への賛否という問題ではなく、欧州秩序をめぐるより大きな課題である(Sarotte,2021)。

 冷戦後、旧西側諸国は、新生ロシアの民主化と市場経済化を支援し、ロシアをパートナーとして扱う努力を繰り返した。他方で、NATOやEUへの加盟を促したわけではなかった。ロシアのNATO加盟という議論は、一九九〇年代には度々話題にのぼったが、冷戦時代に(ソ連として)東側陣営の盟主だったロシアが、米国主導で軍事組織の最高司令官(欧州連合最高司令官:SACEUR)を米軍の大将が務める同盟に加盟することは、現実問題として真剣に捉えられていたわけではない。そうしたなかでNATOは、ロシアのことを「パートナー」だと呼び続けてきたのである。

 ロシアが反対してきたNATOの東方拡大に際しても、NATOは、新規加盟国の受け入れと、ロシアとの関係強化を並行して進めてきた、一九九七年五月の「NATO・ロシア基本議定書」と、二〇〇二年五月の「ローマ宣言」は、それぞれの後に控えていたNATO拡大を念頭に、ロシアとの手打ちを演出するものだった。(Sarotte 2021:Asmus 2002)。しかし、そうしたNATO・ロシア関係は、結局のところ、双方にとって中途半端なものだったのだろう。二〇一四年のロシアによる一方的なクリミア併合やウクライナ東部への介入によって両者の関係はほぼ完全に崩壊し、NATO側は対露抑止・防衛体制の強化に舵を切ることになった。

 他方で、欧州にとってのロシアが、同じ大陸の同居人である現実も変わらない。ロシアを脅威と捉えての抑止が必要えあることは論を俟たないものの、ロシアを孤立化させるだけでは欧州の平和と安定が実現しないことの感覚が根底に流れているのも欧州の現実である。固定的な対峙を想定した場合は、冷戦ということになるが、これが欧州大陸にとっての最適解でないことは自明である。

 二月二四日のロシアによるウクライナ侵略開始の直前まで、特にフランスのマクロン(Emmanuel Macron)大統領とドイツのショルツ首相が、モスクワを訪問したり、電話会談によってプーチン大統領との対話と説得を続けようとした背景にも、ロシアを封じ込めるのみでは欧州大陸の長期的な平和と安定は実現しないとの問題意識があったといえる。こうした立場は、フランスとドイツにおいて特徴的だが、ポーランドやバルト諸国、さらにはウクライナといったロシアにより厳しい姿勢をとる諸国からみれば、ロシアに過度の配慮した宥和的姿勢として批判の対象になる(Morcos2022)。

 ただ、このような戦争が行われてしまった以上、今後のロシアとの関係が、戦争前のような状態に戻らないこともまた確実な状況であろう。今回の戦争を経ても、プーチン体制が継続する場合は、大統領本人の「戦争犯罪人」としての訴追を含めて、ロシアとの関係は大きく制約された状態が続くことになる。プーチン大統領が職を追われる場合、そのこと自体は欧州の多くが歓迎すると思われるが、新たな政権といかに接するかについて、欧州内でコンセンサスを築くのは容易ではないだろう。

 ただし、これはいわばデジャヴュのような状況なのではないか。一九九〇年代以降、ロシアが欧州のような自由民主主義国家になることを期待する声が西欧では強く、それは結局幻滅に終った。しかし、同じEUやNATOの加盟国でも、ポーランドやバルト諸国では、「ロシアはロシアだ」として、本質は変わらないとの冷めた見方が一貫して主流だったのである。彼らにしてみれば、「だから言ったではないか」ということになる。このギャップを埋めるのは容易ではない。

2024年1月3日水曜日

20240102 創元社刊 スティーブ・パーカー著 千葉 喜久枝訳 『医療の歴史:穿孔開頭術から幹細胞治療までの1万2千年史』 pp.191‐192より抜粋

創元社刊 スティーブ・パーカー著 千葉 喜久枝訳 『医療の歴史:穿孔開頭術から幹細胞治療までの1万2千年史』
pp.191‐192より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4422202383
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4422202389

ナイチンゲールが新たな役割についた時、クリミア戦争が始まった。ロシアがトルコを脅かし、フランスとイングランドがトルコ軍を支援するために軍隊を派遣した。戦いは主にクリミア半島(現在のウクライナの一部)で繰り広げられた。戦況の報告は、当時開発されたばかりの電信によって記録的な速さで届いた。戦場写真も戦場で展開しているドラマを一般民衆に近づけることを可能にした最新の呼び物だった。ナイチンゲールは戦傷者のための病院でのひどい状況を知ると、何か手伝いたいと熱望した。戦時大臣で親しい友人のシドニー・ハーバードが彼女に看護婦を手配するよう頼んできた。1854年11月、ナイチンゲールと38人の女性がトルコのスクタリ・セリミエ・バラックス病院(今日のイスタンブールの一部)に到着した。患者以外、ほとんどすべての備品が不足していた。「水を入れる容器も、何の道具もなかった。石けん、タオル、布もなく、病人用の着物もなかった。人々は、血糊でこわばった、口に出すののもはばかれるような汚物のこびりついた軍服を着たまま横たわっていた。彼らの身体は虫で覆われていた・・・」。ナイチンゲールは施設を改革し、食事と水の供給を改善した。看護兵(助手)を再編成し、もっと多くの上等な備品を要求した。彼女がかつて頼って衛生委員会を要求すると、翌年の春、下水設備全体を改修するために委員会がやって来た。彼女はさらに栄養状態の改善を求めた。スクタリの死亡率は低下した。このことに関しては、どの程度まで、どれだけすばやく、そしてなぜ、ということがその後何度も論議されてきた。ナイチンゲール自身は一度も特別な責任を主張しなかった。それにもかかわらず、彼女がイングランドへ戻ると、一般民衆は「タイムズ」に掲載された彼女の献身的看護についての記事に強い関心を持った。「軍医が夜に休み、沈黙と暗闇がおおった時でも・・・彼女が一人で小さなランプを手に見回りをしている姿が見られるかもしれない」。こうして彼女は「ランプを持った女性」という称号を獲得した。

 1856年にクリミア戦争が終結するとナイチンゲールは帰国し、すぐにヴィクトリア女王へ軍事病院の改革を優先させるよう嘆願した。ぞっとするような状況に戻ることを阻止しようと決意した彼女は、感染を避けるうえで清潔が重要であることを当局に納得させるため、自分の得意な統計学を利用した。何が原因で兵士が亡くなったかー傷なのか、予防可能な病気なのか、それとも他の要因なのかー比較するため、現在の円グラフに似た精密なグラフを考案した。ナイチンゲールはつつましく暮らし、大量に執筆した。クリミア戦争について彼女が綴った「英国陸軍の健康と効率と病院管理に影響をおよぼした事柄について」(1858年)は、軍事病院によりより下水設備と最新の成果を取り入れた栄養、全体に改善された治療をもたらすのに役立った。彼女の豊かな才能はあらゆるところで発揮された。インドの反乱についてのニュースから彼女は当地の英国軍の状況と、地元の人々が苦しんでいた貧困と栄養不足に関心を向けた。ナイチンゲールは自分の影響力を利用して、インド政府に衛生局を設立するよう説得した、1859年、彼女は有名な著作「看護についての覚書」を出版した。「それは誰もが持つべき知識と認められるー職業についている人だけが持つことが出来る医学知識とは異なる」。翌年彼女はロンドンの聖トマス病院にナイチンゲール看護学校と看護師寮を設立した。この学校により看護職が、適切な訓練と資格、キャリアの向上、報酬をともなう正式の職業として確立した。

2024年1月1日月曜日

20240101 株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」pp.262-265より抜粋

株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」pp.262-265より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4794203233
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4794203236

ロシアの相対的な力は一八一五年から数十年間、国際的には平和がつづき、産業革命が進行するにつれて衰えていく運命にあった。だが、このことが明らかになるのはクリミア戦争『一八五四~五六年)が勃発してからである。

一八一四年、ヨーロッパは西に進出してくるロシア軍に畏怖の念をおぼえ、パリの民衆は抜け目なく「アレクサンドル皇帝、ばんざい」と叫んで、コサック旅団を先に立てて入城してきたツァーリを迎えた。和平協定そのものは、徹底的に保守的な立場から今後の国境や政治体制を決めようというもので、八〇万の軍隊を擁するロシアも支持にまわっていた。

ロシア軍はどの国の軍隊よりも強大で、海上で英国海軍が圧倒的な力をふるっていたのと同じく、陸地では行く手を阻むものがなかった。オーストリアもプロイセンもこの東の巨人の影をつねに感じ、王室同士で手を結びあっているときでも、ロシアの力に対する恐れが消えなかったのである。ヨーロッパの憲兵としてのロシアの役割は、救世主のようにあらわれたアレクサンドル一世から専制的なニコライ一世(在位一八二五~五五年)に代わったあとも、強まりこそすれ減ずるものではなかった。

ニコライ一世の姿勢は、一八四八年から四九年の革命の嵐によってさらに強硬になる。パーマストンが述べているように、このころはロシアとイギリスだけが「毅然として立つ」ゆるぎない大国だったのである。ハプスブルグ政権が必死の思いでハンガリーの反乱を鎮圧する助力を乞うたときには、ロシアは三個軍を派遣してこれに応えている。

だが、逆にプロイセンのウィルヘルム四世が国内の改革派につきあげにられて動揺し、ドイツ連邦の変更を提案したときには、ロシアは断固たる圧力を加えて、ついてにベルリン政府に国内では反動的な姿勢を強化させ、オルミュッツでは譲歩を余儀なくさせた。「変化を求める勢力」は、ポーランドやハンガリーの民族主義者も、欲求不満をつのらせたブルジョア自由主義者も、マルクス主義者もこぞって、ヨーロッパの進歩の前に立ちはだかる最大の障害はツァーリの帝国だと考えていた。

 しかし、経済と技術の水準では、ロシアは一八一五年から八〇年までのあいだにみる影もなくなっていく。少なくとも他の大国にくらべて、その衰えは明らかだった。もちろん、だからといって経済がまったく発展しなかったわけではない。ニコライ一世のころでさえ、官僚の多くが市場経済やあらゆる近代化に敵意を燃やしていたが、経済は成長していた。人口は急速に増え(一八一六年には五一〇〇万人だったものが、六〇年には七六〇〇万人、八〇年には一億人)、とくに都市部での増加がいちじるしかった。鉄の生産も増大し、繊維産業も数倍の成長をとげた。一八〇四年から六〇年までに、工場や企業の数は二四〇〇から一万五〇〇〇に増えたといわれている。さらに蒸気エンジンや近代的な機械が西側から輸入された。一八三〇年代からは鉄道網の建設も始まる。歴史家がこの時期のロシアには「産業革命」があったのかなかったのかと議論していること自体、ロシアの発展を裏書きするものであろう。

 だが、肝腎なのは、それ以外のヨーロッパ諸国の発展のスピードの方が大きく、ロシアは取り残されてしまったことだった。人口がはるかに多かったから、十九世紀初めの国民総生産はロシアが最大だった。ところが、二世代あとには、第9表(265頁)に示されているように、国民総生産の総額でも追い越されてしまっている。

 しかし、この数字を国民総生産一人当たりの額に換算してみると、さらにはなはだしい差があらわれる(第10表参照)。

 これらの数字が示しているのは、この期間のロシアの国民総生産の増大が圧倒的に人口の増加によるものであって、この人口増加が出生率の上昇のせいか、トルキスタンなど新たに征服した領土のおかげかはともかく、(とくに工業の)生産性の向上とはあまり関係がなかったということである。ロシアの一人当たり所得と一人当たり国民総生産はつねに西ヨーロッパに劣っていた。だが、いまやその差がいっそう開き、(たとえば)一八三〇年には一人当たり所得がイギリスの半分だったのが六〇年後には四分の一になっている。

 同じく、ロシアの鉄の生産は十九世紀初めに倍増したが、イギリスは三〇倍に増えており、比較にもならなかった。数十年のうちに、ロシアはヨーロッパ最大の鉄生産、輸出国から転落して、西側からの輸入に依存する度合がますます高まっていく。鉄道や蒸気船の発達による運輸通信手段の改善も、相対的な視点でみる必要がある。一八五〇年当時、ロシアには五〇〇マイルあまりの鉄道が敷かれていたが、アメリカでは八五〇〇マイルにおよんでいた。さらに蒸気船による貿易も大きな河川やバルト海、黒海の沿岸でさかんになったが、積み荷の多くは増えつづける国民を養うための穀物と製品輸入の代金としてイギリスに送られる小麦だった。またあらたな進歩がみられても。そのほとんど(とくに輸出業務)が外国の商人や企業家に握られていて、ロシアは先進国経済に一次産品の原材料を供給する国という性格を強くしていく。さらに詳細に検討すれば、新しい「工場」や「工業関係の事業」のほとんどは労働者数一六人以下で、機械化もろくに進んでゐないことがわかる。資本の不足と低い消費需要、そして専制君主の横暴と国の疑い深い姿勢、これらがあいまってロシアの工業の「離陸」はヨーロッパのどの国よりも困難だったのである。

 だが、しばらくのあいだは、経済の暗い見通しもロシア軍のいちじるしい弱体化にはつながらなかった。それどころか、一八一五年以降、大国がみせたアンシャン・レジーム擁護の姿勢がいちばんはっきりとあらわれたのが、軍隊の構成、武器、戦術面だった。フランス革命の余波が残っていたから、各国政府は政治的にも社会的にも軍事力に頼る傾向が強く、軍部の改革には乗り気でなかった。将軍たちも、大きな戦争によって力を試されることがなくなって階級や服従を重視し、慎重になった。この傾向を助長したのがニコライ一世の閲兵好き、大行進好きである。こんな状況であるから、徴兵によって維持される大規模なロシア軍は、外部から見るぶんにはいかにも力強い戦力にみえた。兵站や将校の教育水準といった問題は外部からはわかりにくかった。しかもロシア軍は活動的で、たびたびの軍事行動に勝利をおさめて、カフカスやトルキスタンに領土を広げていた。この動きをインドにいるイギリスが警戒しはじめたため、十九世紀のロシアとイギリスの関係は、十八世紀のそれとくらべてかなり緊張したものになる。

20240101 東京大学出版会刊 池内 恵・宇山 智彦・川島 真・小泉 悠・鈴木 一人・鶴岡 路人 ・森 聡 著「ウクライナ戦争と世界のゆくえ」pp.112‐113より抜粋

東京大学出版会刊 池内 恵・宇山 智彦・川島 真・小泉 悠・鈴木 一人・鶴岡 路人 ・森 聡 著「ウクライナ戦争と世界のゆくえ」pp.112‐113より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4130333054
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4130333054

イスラエル

 イスラエルはユダヤ人による民族主義(シオニズム)に基づく建国の当時から、米国といわゆる「特別な関係」にあり、公式の同盟関係にはないものの、事実上は米国の最有力・最重要の同盟国の一つとみなされている。外交や安全保障政策における密接な関係や、最先端の米国製兵器の他に優先した供与や、兵器の共同開発などで、米国との関係は深く、トランプ政権期に顕著だったように、相互の国内政治はしばしば複雑に相互影響する。そのようなイスラエルであるが、ロシア・ウクライナ戦争に際しては、米国の対露制裁に加わらず、ロシアとウクライナ、米国とロシアの間で、中立の立場を維持しようとしてきた。防空システムのアイアン・ドームやドローン等のイスラエル製兵器や、イスラエルの技術が入って共同開発した兵器の、ウクライナへの供与を拒否するなど、政治的・軍事的に反露姿勢を取ることを最大限回避し続けた。イスラエルはウクライナ支援に際し「ウクライナの人々」に対する「人道支援」に厳しく限定し、大きく国際的に広報を行った。侵攻から間もない三月五日に、野戦病院の設立のため医師チームを派遣すると発表し、翌週にはこれを実施し、六週間にわたり活動して四月末には撤収させている。

 イスラエルは建国当時から東欧・旧ロシア帝国・旧ソ連からのユダヤ人の移民を国家の根幹としてきた。ソ連邦崩壊の際にはウクライナとロシアを中心としる旧ソ連圏からの大規模な移民の波を受け入れ、その後もロシアやウクライナのユダヤ人との民族的な人的ネットワークを外交にも生かしている。ロシアとウクライナへの戦争の勃発は、ユダヤ系人口の拡大・維持を国家存立の最重要課題とするイスラエル政府にとって、新たなユダヤ人移民の波をもたらす可能性のある好機とも言える。ゼレンスキー大統領自身がユダヤ人であることや、プーチン政権に近いオリガルヒの中にユダヤ人が多いことも、イスラエルとウクライナとロシアとの間に、人的ネットワークを成長させてきた。また、イスラエルは労働力不足に悩み、スーダンやエリトリアなどアフリカ諸国からの非ユダヤ人の移民の不正入国や不正就労を、制度上はともかく経済的な実情としては、事実上、一定数受け入れている事情がある。ウクライナからの避難民は、より文化的な摩擦の少ない、教育水準の高い経済移民としても歓迎され得る経済的実績がある。

 イスラエルの連立政権の交代制の首相だったナフタリ・ベネットは三月五日にロシアを訪問し、モスクワでプーチン大統領と会談した。これがユダヤ教の安息日の土曜日であり、宗教的には、生き死にに関わる事柄でなければ労働が許されてないにもかかわらず訪問を行ったことも、話題を呼んだ。ベネット首相のモスクワ訪問は、二月二四日の衝撃的なウクライナ侵攻によって国際的な孤立に陥りかけていたプーチン大統領に、「西側」の外国首脳として異例の速さで手を差し伸べる形となった。同時期にベネット首相はウクライナのゼレンスキー大統領と頻繁に電話会談を行い、プーチン大統領との仲介を図った。ベネット首相の姿勢はしばしばロシア寄りとみなされた。三月八日の電話会談でベネット首相がゼレンスキー大統領にロシアの要求を呑んで降伏するよう要請したとの情報がウクライナ側から一時期流れ、のち否定される一幕もあった。三月一二日にウクライナのキーウで行った記者会見で、ゼレンスキー大統領は、プーチン大統領との協議の場をエルサレムで設けるようにベネット首相に依頼していると語った。ヤイル・ラビド外相が往々にして親米・親西欧的な、リベラルな国際秩序の護持の姿勢を示すのに反して、あるいは役割を分担して、活発にウクライナ問題をめぐる外交を繰り広げた。

 ゼレンスキー大統領は三月二〇日にイスラエルの国会(クネセト)でビデオ演説を行ったが、これは英国(三月八日)、カナダ(三月一五日)、米国(三月一六日)、ドイツ(三月一七日)に次ぐ五番目であり、ゼレンスキーの一連の演説の中で非欧米圏では最初に行われた国となった(日本は三月二三日で六番目)。