2024年1月4日木曜日

20240104 中央公論新社刊 宮崎市定著「アジア史概説」 pp.395-396より抜粋

中央公論新社刊 宮崎市定著「アジア史概説」
pp.395-396より抜粋
ISBN-10 : 4122014018
ISBN-13 : 978-4122014015

世界交通の幹線からの除外は同時に文化の停滞を意味した。十八世紀からはどんどんヨーロッパ文化が流入したが、それはトルコ国力の復興を意味するものではなく、かえって、ヨーロッパの政治力に圧倒される前兆であった。そして地理的に接触する関係から、トルコがもっとも大きな圧迫をうけたのは、いうまでもなく北隣のロシアである。ただロシアが無力化したトルコをついに合併することができなかったのは、トルコ自身の力ではなく、ヨーロッパの国際政局の間に勢力の均衡が保たれ、ロシアのトルコにたいする攻撃ごとに、列国がその勢力均衡を破ることを恐れて、あいついで干渉した結果に過ぎない。

 十八世紀の終りに、ロシアはクリミア半島を占領して黒海を制圧し、バルカンのスラヴ系諸国民を後援して地中海への進出をねらった。ところがオーストリア帝国もまたバルカン支配をのぞみ、バルカン諸国民も独立を欲しこそすれ、ロシアに併合されることを好まなかったので、バルカン半島ではつぎつぎに小国が独立した。

 十九世紀にはいり最初に独立の宿望を達成したのは、スラヴ系のセルビアであり、ラテン系のギリシャとルーマニアがこれについだ。ギリシャの独立に際しては、それが古典文化発祥の地ということでヨーロッパ諸国の同情が集まり、この際ロシアも兵を出してトルコ軍を破り、ドナウ北岸人民の独立を認めさせたのが、すなわちルーマニアであったのである。この成功に勢をえたロシアは、トルコ領内キリスト教徒にたいする保護権を要求したが、イギリス、フランス二国はそれがトルコの存在を危うくすることを恐れ、トルコをたすけてロシアと戦った。これがセバストポール要塞攻囲戦によって知られるクリミア戦没である。この結果、ロシアは黒海を中立とし、かつトルコの領土保全を約束した(一八五六年)。

 一度きっさきを収めたロシアは、つぎにトルコのブルガリア人虐殺問題の責任を問うてふたたびトルコに侵入した。イギリスはこれに干渉して、ベルリン列国会議を開いてロシアのバルカンにたいする勢力伸長を抑え、ブルガリア、モンテネグロの事実上の独立が確認された(一八七八年)。そしてこのときに、スラヴ民族の居住地であるボスニア地方がオーストリア帝国の領土に併合されたことは、後に第一次世界大戦の遠い原因となったものである。

 バルカン諸国が自力によって独立せず、列国の勢力均衡の上に立って他力的に実現されたものであることは、この地方の民族分布の複雑さとあいまって、陰謀、騒乱の舞台となり、ヨーロッパの伏魔殿とさえいわれた。諸国民の偏狭で利己的な国民主義から、領土の拡張争奪の戦いが、二十世紀に入って第一、第二のバルカン戦争をまねき、それがさらに発展して、第一次世界大戦の破局に導いたのであった。

 

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