2017年11月5日日曜日

20171104 九州における古墳と大和王権との関係について

前方後円墳をはじめとする、いわゆる高塚古墳の造営が国内各地にて広範に盛行された三世紀~七世紀代までの古墳時代において、造営された古墳とは、主に列島各地を割拠し治めた豪族たちの墳墓であった。

そして、その頂点がさきに述べた大和王権であり、おそらく三世紀前半頃より奈良盆地を本拠とし、当初は在地豪族たちによる擁立連合体制であったものと考えられるが、それが五世紀代に至ると専制的傾向が強化され、より統一王権としての様相を示すに至ったものと考えられている。

こうした歴史的背景を視座として古墳時代当時における大和王権から大陸の玄関口である九州方面を政治、文化的方面から眺めると、概ね以下の三つに分類される。

①:瀬戸内海から玄界灘に至る北部九州沿岸地域(豊・筑紫・肥沿岸地域)

②:有明海・八代海の内海を包含する中部九州地域(内海・肥地域)

③:南九州 異民族地域(熊襲・隼人地域)

①は大和王権にとっては、対大陸交易、九州地域支配の大動脈を含む地域であり、極めて重要な意味を持っていたといえる。

②は筑後・肥前・肥後の内陸河川(筑後川、菊池川など)流域に広がる平野を擁し、九州最大の穀倉地帯である。そこからの経済力を基盤として在地土着豪族の独自的、自立的な成長が顕著であり、特に五世紀以降に多く見られる装飾性の高い九州型古墳文化が発達した地域である。

③は大和王権の非支配地域としての様相を長く保持していた。①、②とは異なる火山灰層の堆積した地味が乏しい自然環境のもと、独自の民俗文化、社会体制が保持された結果、大和王権より異民族視される史観が生じたものと考えられる。

大和王権による九州の支配とは、その本拠地である大和およびその周辺地域と同様、「県」(あがた)「県主」(あがたぬし)といった領域区分、官職を以って実施された。そして九州の中でも、特に大和王権にとって重要地域である①に含まれる博多湾沿岸地域などにおいては五世紀頃には、既にこうした体制が敷かれていたものと考える。

また、これらの「県」の領域とは、その名称が三世紀初頭の同地域のことを記した魏志倭人伝に登場するクニ(奴国(なこく)・伊都国(いとこく)などとも一致することから、その在地豪族の系譜とは、遅くとも三世紀より継承されている可能性が示唆される。

くわえて①の地域においては大和王権の成立からほど近い年代(三世紀後半)より大和王権型の墳墓形状ともいえる前方後円墳が造営されている。

とはいえ、この比較的早い年代(~五世紀)における各県主と大和王権の関係とは、後の在庁官人といったようなものではなく、さらに独立性の高いものであり、おそらく比較的ゆるやかな結合による大和王権と在地豪族による連合政権といったものが形成されていたと考えられている。

また、そうであったからこそ、のちに大和王権の更なる中央集権化が為された六世紀代の継体天皇御代における磐井の乱の背景、意味合いをも理解することが出来るのではないかと考える。

今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年から現在に至るまで列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された諸インフラの復旧・回復および復興を祈念しています。』