2017年9月30日土曜日

20170930 医療と介護が近接化し、多職種の緊密な連携が必要になると・・

先日投稿のブログ記事にて少し触れたことであり、また、その後知人等に尋ねてみたところ、現在、我が国における福祉系の学部・学科等とは、どちらかというと文系に分類されるということでした・・。

たしかに介護を必要とする方々に対し、その生活の支援、また行政・各医療介護施設等との連絡、調整を職務として考えますと、文系に分類されるのかもしれませんが、現今なお進行中の医療技術の高度専門化にくわえ、実際に介護を必要とする方々と接する現場における専門職とは、その職務を行うに際し、少なからぬ、ある程度広汎な医学的知識を要するのではないかと思われるのです・・。

また、このことは、今後、我が国社会全般において高齢化の度合いがさらに進行することに伴い、介護を必要とする方々もまた増加することにより一層重要視されるものになると考えます。

以上のことを約言しますと、特にこの先において、介護分野での専門職に就く方々とは、より一層、広汎な医学全般の知識が必要とされるのではないかということです。

たとえば、介護を要する方々の具体的な介護を設計管理し、各種介護・医療事業者および行政関連との連絡、調整等を行う介護支援専門員(ケア・マネージャー)とは、現今においても主に医療介護関連有資格者の方々が就いているとのことですが、これを在宅医療分野において、ある程度の臨床・学識経験を有する医師が、認定医・専門医を取得するようなカタチにて介護支援専門員と同様の職務にあたることは、決して悪いことではなく、さらに、さきに述べたことを伏線(介護分野での専門職とは、今後おそらく、より高度、広汎な医療知識を要求される)として考えますと、少なくとも、そうした方向性もまた、今後の有効な選択肢の一つとなるのではなかかと思われるのです・・。

あるいはまた、社会福祉を専門とする資格を養成する教育機関での教育において、これまで以上に医療関連科目に重点を置くといったこともまた、一つの採り得る有効な方法ではないかとも思われます・・。

ともあれ、何れにしても重要なことは、今後高齢化が進行することにより、ますます医療と介護が近接、融合してゆくであろう社会において、緊密な連携を期待される医療介護の多職種の方々が、各々専門分野のコトバおよびその背景概念を互いに理解しつつスムーズな意思疎通が出来るという状況の成立であると考えます。

そして、こうした状況から考えてみますと、個々の具体的な介護に対しての概括を描くのは医療分野から介護分野に近接するようになった医師であるのか、あるいは介護分野からの生え抜きの介護専門職の方々であるのかとは、おそらく今後さらに問われることになるのではないかと思われます・・【医療と介護が近接化した状況における主導権?】。

ともあれ、今回もまたここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在に至るまでに列島各地において発生した一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害により被害を被った地域での諸インフラの復旧・回復およびその後の復興を祈念しています。」














2017年9月29日金曜日

20170929 本当の文系が少ないと・・自身について思ったことから・・

A「ここ数日に作成したブログ記事により、あるいは私とは文系学問分野が『嫌い』ではないかと思われた方も(少なからず)いたのではないかと思われます・・。

しかし、他者がどのように評価しようとも、やはり私とは文系学問分野への親和性が強い人間であり、それを無理に理系らしく振舞おうとすればするほど、どうもおかしな方向に行ってしまうようなところがあるのではなかかと思うのです・・(苦笑)。

とはいえ、その一方で、徹頭徹尾、文系分野への研究に打ち込んで来られた方々に比べてみますと、おそらく多少は理系的とも評される、さまざまな傾向に対しての理解があるのではないかとも思われます・・。

そしてまた、いくつかの研究分野においては多少は突っ込んだ専門的なハナシも出来るのではないかとも思われます・・。

そのように考えてみますと、そうした対象が文系研究分野となった場合、感覚的ではありますが、より多くの研究領域において、そうしたことが出来るといった認識・自覚がありますので、結果的に自身とは、冒頭に書いたとおり、より文系学問分野への親和性が強い人間ではないかと思うに至るわけです・・。

とはいうものの、ある意味これも相対的(かなり大まかな比率)なものであり、それら総体として考えた場合、自身とは一体如何なる観念的な成分構成比?により成り立っているのかとは、その詳細とは、分からないままであり、おそらく今後もずっと分からないままであるのではないかと思われるのです・・。

また、そうしたことから、自身について他者からの非難などを受けた場合において、それらに対し効果的な反論が出来ないのではとも思われるところです・・(苦笑)。

こうした部分の非難のし合いにおいては、つまるところ言語や理性よりも正否を問わない動物的な勢いといったものが強い方に軍配が上がるようになっているのが我が国社会の普遍的な構造であり、また民度構成の基盤であるのではないかと思われるのです・・(笑)。

そして、このさきの未来もまた、ずっとそのような、ある意味頼もしい盤石とも云える構造を有した社会が継続していくのではないかと思われます・・(笑)。

くわえて、こうした状況においても、先日来の複数ブログ記事において書いた『我が国においては本当の文系は少ない』といったことと浅からぬ関連性があるのではないかと思われるのですが、さて如何でしょうか?

とはいえ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在に至るまでに列島各地にて生じた一連の地震・大雨・水害等などの大規模自然災害によって被災された地域での諸インフラの復旧・回復およびその後の復興を祈念しています。」




20170928 我が国に本当の文系が少ないワケについて・・

A「驚いたことに昨日投稿分の記事はかなり多くの方々に読んで頂けました(53)。

しかし、本日に関しては帰宅が遅くなったことからブログ記事作成は止めておこうと、ついさきほどまでは考えていたのですが『それでも何かしら書いておかないと精神衛生上良くないのでは・・』と考えを改め、現在このように記事作成を行っている次第です・・(苦笑)。

さて、本日の首都圏は夜半過ぎまで雨が降り、またそのためか、夕刻以降の外気温は、この時候にしてはかなり冷涼なものとなったのではないかと思われます・・。

以上のような気温の上下を何度か繰り返し徐々に季節が本格的に秋らしくなっていくのでしょう・・。

こうした季節の過渡期ともいえる期間とは、特に体調を崩し易いと云われておりますが、自身の経験からも、たしかにそれは(ある程度)事実を言い当てているのではないかと考えます。

しかし、この『事実を言い当てる』とは、なかなか難しいものであり、たとえば昨日投稿分の記事にて書いた『我が国には本当の文系とは少ない』という見解は、自身のこれまでの経験に基づいたものではありますが、おそらくそれを認める方々とは、かなり少ないのではないかと思われます・・(苦笑)。

また一方で、前述の見解に対して生じるであろう誤解を出来る限り少なくするためにも、この見解について今しばらく書いてみようと思います。

国際的な見地から、一般に我が国とは哲学・思想の国として認識されるよりも優秀な工業製品・優れた造形芸術・特徴的な絵画・工芸品などによってその名が知られてきました。

そしてまた、我が国において言語の連なり、すなわり何らかの『言説』が積極的に発露される時とは、形而上的・観念的な思想を言明する際であるよりも、何かしら具体的な事物に接した時の反応として生じる感興を説明するためといった傾向が強く、そしてまた、その際の感性とは繊細であるのはないかと思われます・・。

つまり、我が国においてはおそらく『はじめにコトバありき』ではなく、はじめに『外部から何らかの感性・感覚に対する働きかけ』といったものがあり、それに対しての反応として言語・言説が洗練されていったといったような経緯があるのではないかと思われるのです・・。

しかし、そうしますと『そうした事情とは、我が国以外の西欧諸国においても同様ではないのか?』と考えられる方々多々がいらっしゃるかもしれませんが、ここまできますと、明確な返答とは出来ないのですが、それでもやはり我が国の場合、さまざまな局面において『後の先を取りに行く』といった傾向が顕著に強いのではないかと思われるのです・・(こうした問答においては強気の悪者には究極的には勝てない、そしてそれ故に現在の我が国のあまり好ましくないさまざまな事態が招来されているのかもしれません・・(苦笑)。)。

また、それは人文社会科学的には、地政学的に説明出来るのかもしれませんが、何れにせよ、たしかに我が国とは『受動への洗練』に大変優れている一方において、能動的にして形而上的・観念的なコトバ・思考の連なり、つまり哲学・思想といった『本質的に文系学問分野の核とされる要素』の発達が、少なくとも西欧・中東などといった(宗教揺籃の)地域に比べますと、良い悪いを抜きにして、明らかに弱いのではないかと思われるのです・・(こうしたバラつきとは、どの地域間においても存在するのだが・・)。

そして、結局、そのことが我が国において本当の文系が少ないことを示しているのではないかと思われるのです・・。

私見として、我が国は観察そしてそれに基づく行動を基礎とする理系学問への更なる注力を通して文系学問分野の充実をも図る方が、その性分に合っているのではないかと思われるのですが、さて如何でしょうか?

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年より現在までに列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った地域における諸インフラの復旧・回復およびその後の復興を祈念しています。」





2017年9月27日水曜日

20170927 総閲覧者数25万人到達 輪読会から思ったこと・・やはり本当の文系は少ないのでは?★★★

本日ついさきほど、記事の閲覧状況を確認してみますと、これまでの閲覧者総数が25万人に到達していました。

おそらく明日あたりになるのではないかと考えていたのですが、意外にも早い25万人への到達に少し驚いています(笑)。

ともあれ、これまで読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
そして今後とも、どうぞよろしくお願いします。

さて、別件ではありますが、先日より読み進めている著作(下巻)は本日帰宅時の電車内での読書にて読了に至りました。乗車後間もなく浜松町あたりから読み始め、丁度神田駅を出発するあたりで読み終えましたが、電車内といった状況でもあることからか、あまり感慨など湧かず、そのまま秋葉原にて乗り換え、あとがき、訳者あとがきまで読み進めました・・。

それはともかく、この著作が大変面白く思われたことから、さらに原著にて読んでみたいという興味が生じ、ついさきほどアマゾンにて調べてみたところペーパーバックの古本でしたら、そこまで高価ではないことから購入することにしました・・。

最近は、こうした洋書を読むといった鍛錬もしくは趣味を自身に課していないことから、おそらく相当苦労するであろうと思われますが、とりあえずは読んでみようと思います・・(苦笑)。

そのことから、ある程度強制力のある英論文輪読会のようなものもまた、他律的ではあれ、それなりに大きな意味・価値があったのではないかとも思われます・・(学生時代の部活動のように・・)。

またさらに、そのように考えてみますと、私は文系・理系(歯系)双方を経験させて頂きましたが、その何れにおいても、輪読会が為されていたことが思い起こされます。

そうしますと、この輪読会という形式とは、学科による分離以前の思いのほかに古くから続いている伝統であるのか、はたまた、ただ単に自然発生的にて最も適切な複数による勉強・知識伝授の手法であったのかもしれません・・(多分両方であると思われるのだが・・。)。

そして、そこからの個人的見解ですが
、文系・歯系での輪読会は、現在の自身に対し、少なからぬ影響を与えているのではないかと思われるのです・・。
おそらく、そのような生きた学問の場にて得た知恵・知識とは、なかなか忘れることがないものと思われます。
(一種のOJTに近いのでは?)

その意味においても、昨日のブログ記事にて述べた『我が国には本当の文系は少なく、そうであるならば、文系分野に仕方なく進んでしまったという学生を減少させ、他方で各大学の医療・介護学分野を拡充するのが適切ではなかかと考えるのです・・(それぞれの学ぶ環境の時代に合わせた整備調整と考えれば良いと考えます。)。』

特に強い興味・関心に導かれることなく純粋な文系分野に進むよりも医療・介護分野にて一生ものとなる普遍的な人体に関する知識を、職務にて必要なものとして学ぶことの方が男女共、社会にとっても意義深いのではないかと思われるのです・・。
とはいえ、もちろん最終的には個人の意志に拠るのですが・・。

あるいは、本当に好きであり続けるのであれば、純粋な文系分野の知識とは、多少年齢を重ねても挽回出来るといった性質があるのではないかと思われます・・。

また、ここからはいくらか偏見的な色彩が強くなりますが、今後、我が国のある程度伝統のある大・中規模大学は、近隣の小規模医療・介護系専門学校を吸収し、さらに近隣、もしくは同学内の医学部・医科大学、歯学部・歯科大学および、それらの併設・附属病院等の医療機関との連携関係を強化する方向に進むのが良いと考えますが、如何でしょうか?

もちろんそれは文系を軽視するからではなく、現在の文系・理系(医療・介護含む)の学生数比率とは戦後の団塊の世代の学部学生数によって錯覚させられていますが、実際のところの文系は、そこまで多くないのではと思われますのです・・(しかし、そういえば介護分野は厳密には理系に含まれるのであろうか・・?あるいは、そういった分類自体あまり意味はないのかもしれません。それでも、やはり文系らしさ、理系らしさといったものは厳然と存在するとも思えますが・・)。

ともあれ、この政策により、現在大学での文系分野にて教職に就かれている方々には特に有意且つ不利益な変化はなく、むしろ、学生数の(政策による)減少に伴う相対的な職務の軽減により、より多くの著述・研究活動等に注力することが可能になるのではないかと思われるのですが、こちらも如何でしょうか?

今回もまたここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年より現在までに列島各地にて生じた一連の地震・大雨・水害等など大規模自然災害により被災された地域での諸インフラの復旧・回復およびその後の復興を祈念しています。」

















2017年9月26日火曜日

20170926 やはり多少おかしい方が文章を書くには良いのかもしれません・・?

現在読んでいる著作も余すところ50頁を切りました。
おそらく今日、明日中に読了に至るのではないかと思われます。
そして、この著作を読み終えることにより、通史的な著作をほぼ、たて続けにて読んだことになりますが、こうした著作とは分類としては一体どのようになるのでしょうか?

それぞれ巻末に参考・引用文献が載せられておりますので単に物語・小説といった分類でもないのでしょうが、その一方で、我が国の一般的な学術論文(文系・理系を問わず)などともまた、かなり異なっていると思われますので、こうした著作の明確な分類とは、未だよく分からず読んでいるといったところです(脱線し、さらに誤解を招くかもしれませんが、おそらく我が国においては本当の文系とは、かなりの少数派ではないかと考えます。それは法律・会計といった実学系とされる文系ともまた本質的に異なるのではないかと思われます。もとい、それ故、私見としては(特に今後)我が国の文系の多くを医療・介護といった実学系の学問と混淆あるいは振り替えてみても、大きな問題は生じないのではと考えます。むしろ人体に関する普遍的知識をより多くの学生(国民)が得ることは民度、文化水準の向上に寄与するものと考えます。)。

とはいえ、こうした著作とは物語・小説に比べ、明らかに読み進めるのに時間を要し、時にはネットを用い、分からないコトバの意味を調べつつ読むといったことも度々ありますので、たとえますと、船によって通常の海原を航海するのと、氷の張った海を砕氷船にて進むのと似通った相違があるとも云えるのです・・。

また、そのように、ある程度苦労して読了した著作であれば、その達成感もなかなかのものであり、さらには、読む際に調べたコトバの意味も多少は増え、少しは賢くなったような錯覚をもおぼえるに至るのです・・(笑)。

とはいえ、この『コトバの意味も多少は増え』に関して、より詳細に考えてみますと、それは一回の読書にて調べて『知った』コトバとは、本当の意味で『知った』という意味ではなく、未だそれは消極的なものであり、実際に自身が何かを能動的に書く段において、そのコトバはまだ運用し得る段階にまでは達していなかこつが殆どです・・。

その後、類似した内容の他著作を読み続けていく間に、そのコトバの意味が自身のなかで重層的、立体的なものとして理解され、そうしてはじめて自身の書く文章において、そのコトバを運用し得るまでになるのです・・。

おそらく自身とは、なかなか簡単には自信を持つことが出来ない性分であるのでしょうが、その性分とは、この読書においてもまた影響しているのかもしれません・・(苦笑)。

またそれは、実験に用いる試料の数においても、一連のブログ記事の数においても、何かしら似通った、通底するものがあるのではないかとも思われるのです・・(笑)。

また、それはコトバを変えれば『執拗』といったことにもなるのでしょうが、自身の性分におけるそうしたいわゆる『暗部』に関してもまた、未だよく分からず書き続けている次第ではありますが、自身は何かしら(強い)思い込みを抱えているのでしょうか、あるいはまた、何かしら強い不安を抱えているのでしょうか・・(苦笑)?

しかしながら、そうした自身の持つどこかしら(多分)おかしい部分(こそ)が、これまで自身が行い、そしてどうにか出来た(あまり普通とは云えない)ことがらの主たる駆動源であるとするならば(おそらくそうであろう)それはそのまま放置しておいた方が面白いのではないかとも思われます・・(笑)。

とはいえ、この一連のブログ記事における750記事程度とは、未だ到底『普通』の域を出ていないのですが・・(笑)。

何れにしましても、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年より現在までに列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った地域における諸インフラの復旧・回復およびその後の復興を祈念しています。




2017年9月25日月曜日

20170925 『事実を言語を以って精確に表現することが第一義』ではあるのですが・・

本日の首都圏は日中、割合と気温が上昇し、若干汗ばむような陽気でした。
とはいえ、ついさきほどまで、特に大きな音は聞こえないものの、北の方の空では稲光の明滅らしきものが見える状態が続いていました。

さて、昨日は休日ということもあってか、当日投稿分記事の閲覧者数は意外と伸び、投稿翌日の現在において50となっていました。
読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます!

しかしながら、以前より時折書いていることではありますが、ここに至ってもなお、よく分からないことは、これまでのブログ記事が一体どういった方々に読まれているかということです・・。

これを多少なりとも理解出来るならば、もう少し(自分なりに)サービス精神を発揮し、それに合わせた文章を書くことを試みてみようかとも考えてみることが度々あるのですが・・(笑)。

しかし、そうしたことは、あとでよくよく考えてみますと、作成者が能動的にブログ記事作成に臨んできた場合においては、とりわけ、そうした迎合とも認識され得る態度は避けた方が良いのではないかとも思われるのです・・。

それは、自身のブログ記事作成の持続可能性の保持のために。
このことは、特に自身においては、少なからず痛い目にあって理解出来たのではないかと考えています・・(苦笑)。

また、そのように考えてみますと、これまで作成してきた記事を読んでくださっている方々とは、そうした自身の危なっかしい性質をご理解されているのではないかと思われることもあるのです・・(苦笑)。

おそらく、これも一種の自意識過剰でしょうが、しかし、ここで多少開き直り気味のことを述べさせて頂きますと、多少なりとも自意識過剰気味にでもなっていないと、こうした一種の精神的露出狂とも評し得る、公開を前提としたブログ記事作成(の継続)などは出来ないのではないかと思われるのです・・(苦笑)。

つまり、少なくとも、こうしてブログ記事を書いていて、さらにそれが興に乗っている時とは、ある意味、自身は『世間体』といったものから(完全にではないにしても)解放されているのではなかかということになります・・(笑)。

しかしながら、それと同時に、ここで極めて重要であると思われることは、そうした『世間体』から解放されている状態でありながらも、心のどこかで『世間体・常識・礼儀・良心』といった、自身の放埓な思考の奔流を制御するものが作用しているということ(無意識の意識・自身への信頼?)なのです・・。

私見とはなりますが、案外とこれが難しいのではないかと思われます・・。

特に、周囲のある事物に対し、何らかの評価を含む言説を述べる際において・・(それは一般的な意味での『自制』ともまた多少異なると思われます)。

その点について、特に現代の理系学問分野においては、事実を言語を以って精確に表現することが第一義とされますので、さきに述べたような種類の文章作成の際の困難さが少ないのではないかと思われますが如何でしょうか・・?

それでも、ここで強く思うことは、この『事実を言語を以って精確に表現することが第一義』とは、実は理系のみならず、どの学問分野においてもそれが(探求に基づく)学問であるならば、大事にされることであるように思われるのですが・・。

そして、これに対しての価値の払い方、対応とは、我々人間生来の(知的)好奇心・探求心に対し、少なからぬ影響をもたらすのではなかかとも思われるのです(我々日本人とは、まさしくこのことに対して関心が薄い、あるいは何か他の感覚の洗練に、より重きを置いているのではないかとも思われることが度々あります・・。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在までに生じた一連の地震・大雨・水害等などの大規模自然災害によって被災された地域での諸インフラの復旧・回復およびその後の復興を祈念しています。



20170924 読書をする上において重要と思われる感覚・シンクロ化(共感性の一種?)

かなり久しぶりに昨日分の閲覧者数は500を大幅に上回りました。
また、同様に昨日投稿分の記事もまた、おかげさまで投稿翌日にしては多くの方々(37)に読んで頂けました。

これらを読んで頂いたみなさま、どうもありがとうございます。

さて、先日来より読んでいる著作(下巻)も半分以上までに至り、おそらく近日中に読了となるのではないかと思われます。

また、当著作下巻においては特に面白いと思われる記述が頻出することから、今後読了に至った後も折を見て、さらに再読、三読を試みようと考えています・・。

ともあれ、こうした俯瞰的な視点からの歴史を扱う著作とは、その書かれている内容が自身が既知のある具体的な歴史の流れ、出来事に沿っている、適合、類似していると考えられる場合、勝手に何かしら新たな発見をしたような幾分高揚としたものを感じさせます・・(笑)。

また逆に、それが自身の知っているそれと合致しない、相反する場合は、それはそれで、疑問が生じ、赤ペンにて当該記述部に横線を書き、そこに「?」そして合致しない、相反する既知の具体例を書き込んだりといったことになります。

そのように考えてみますと、こうした著作をある程度の精読するうえにおいて、大事であると思われることは、書かれている内容およびその文脈の流れをある程度精確に理解しつつ読み進めているといった継続的な実感であり、これは毎回著作を手に取り読みはじめ、しばらく経つと、何となくそうした感じになっちいるようなものではないかと考えます。

とはいえ、その間に自身の感性、頭脳にどのような変化が生じているのかは、分かりませんが、おそらく言語にて、そこで生じている変化を表現しますと、それは著作文体と自身(読者)の感性、頭脳とのシンクロ化といったところではないかと思われます。

そして、人によりシンクロ化のし易い著作、分野、言語などといったものに傾向があるのでしょうが、こうしたものの柔軟性を鍛えるには、さきのブログ記事にても書きましたが、やはりある程度若いうちの方が良いのではないかと思われます・・。

ある程度の年齢に至り、それまで全く関わることのなかった、いわゆるシンクロ化のされ難い文体が主流の世界にて生きて行こうとすることは、余程の必要性および覚悟がない以外は出来るだけ避けた方が良いのではないかと考えます。

その意味において、自身はかなり稀有な経験を経ることが出来たのではないかと思うところではありますが、おそらくそれと同時に何かしらを得る機会も少なからず失ってきたのではないかとも思うことが度々あります・・(苦笑)。

また、それはさておき、自身の書いているこの文章とは、ある程度広汎にシンクロ化されるような文体といったものを保持しているのでしょうか・・?

あまり他者からの評価を気にしないで書いているつもりではありますが、こうしたことを多少書き連ねておりますと不思議なことに『人の振り見て』で自身のこともまた気になってくるものです・・(笑)。

ともあれ、今回もまたここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った地域における諸インフラの復旧・回復そしてその後の復興を祈念しています。」








2017年9月23日土曜日

20170923 目標への到達によって得られるもの・失うもの・・

A「特筆するようなことでもありませんが、先日の750記事到達以降も変わらぬ調子にてブログ記事を作成しておりますが、そうしますと、おそらく11月半ば頃に800記事まで無事に到達することが出来る目算が立ちます。
そうしましたら、しばらく記事作成を休止してみたいと考えております・・。
そこに特に大きな理由はなく、単なる休息です。

また、800記事に到達した後、しばらくしますと、その次の目標もまた、現実のものとしてイメージすることが出来るようになるのではと考えます。

以前もブログ記事にて書きましたが、かねてより私はそのようにして目標としたものに到達してきました(もちろん到達出来なかったものも多々ありますが)。

それは具体的には、実験に基づく学会発表、さらにはその延長線上ともいえる学位もまたそのように、にじり寄るようにして、まさしくどうにかこうにかやってきました・・。

その間、技巧的なことは行いませんでしたが、それでも、実際にそれら目標(表立っては目標とはしないものの、やはり内心においては強く存在するといえる・・)に到達してみますと、やはり到達の前と後では、何かしら自身が少なからず変化していると思われることがあるのです・・(苦笑)。

そして、困ったことに、そこで認められる変化とは、往々にして自身にとってはあまり嬉しいものではないことが多いのです・・(苦笑)。

そのようなことから、また往々にして『ああ、実のところ自身は未だこの到達された目標に対して見あっている人間ではないのかもしれない・・』といった反省的な感覚をおぼえるに至り、そしてまた、何といいますか、その達せられた目標により得られた感覚を自身内面に静置せられ、一体化されるように、それに見合う人間に為すべく、何かしら創造的とされる活動への衝動が生じるのではないかととも思われます・・(苦笑)。

あるいは別の視点としては、根源的ともいえる力強い創造性・バイタリティー・勢いなどは学位取得以前の方が明らかに強かったようにも思われるのです・・。

また、私見ではありますが、学位取得とは一種の『去勢』にも近いような意味合いがあるのではないかと思われるのですが、如何でしょうか?

たしかラカンがどこかで述べていた『人は父性的なるものにより『去勢』されることによって、はじめて「語る存在」になる』とは、あるいはそれと類似した意味合いがあるのかもしれません・・。

ともあれ、その意味において、たしかに、これまで継続的に作成した一連のブログ記事とは、そうした側面(創造への衝動)があるといえます・・。

また、この文章を作成し続けるといった行為とは、その先の変化が如何なるものであったとしても、全く役に立たないということは少ないのではないかとも思われます。

とはいえ、もとより、このブログ記事の作成とは、未来における功利的な目標のみのためにて行っているわけでもないのですが・・(苦笑)。

そして、今回もまたここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等といった大規模自然災害により被災された地域における諸インフラの復旧・回復およびその後の復興を祈念しています。」





20170922 通史的著作を読んでいて思ったこと・・点描のようにして

A「昨日分投稿記事はおかげさまで投稿翌日にしては割合多くの方々(37)に読んで頂けました。

そして、当記事にて書いた現在読み進めている著作に関しての私見ですが、これは下巻に入ってからの方が面白いことがより多く書かれているように思います。

あるいは、自身がこれまでに関心を持ってきた分野に近い分野での記述がより多かったからであるかもしれませんが・・(笑)。

また、そのことから、世評において高い評価を得ている著作の全てを忌諱することもないと理解しました・・(苦笑)。

そしてまた、未だ読了に至っておりませんが、これまでに読んだ内容から、この著作とは名著と評しても良いのではないかと思われました。

そのことから、もしかすると、今後しばらくはまた通史的な著作を読み続けることになるかもしれません・・(笑)。

そういえば、以前にも通史を扱った著作を集中的に読んでいた時期が幾度かあり、それはそれで面倒であり、且つ時間を要するものでした。

しかし、現在になり考えてみますと、そうした時期が大変重要であったようにも思われるのです。

これは間違いを伴う偏見であるかもしれませんが、数巻セットの通史的著作を全巻三種類ほどを読みこなし、その内容を概ね把握し、文章の作成、議論の際にその記述内容を的確を運用することが可能であるならば、文系学問分野の修士のレベルぐらいには達しているのではないかと思われますが如何でしょうか?(とはいえ、この『三種類ほど』というのがクセモノであり、数巻セット三種類を読みこなし、その内容を概ね把握し、さらに論述、口述において適宜運用可能な状態に至るまでは、おそらくその数倍~十倍以上の読書、精読が必要になる・・。)。

さらにもう一つ別の私感となりますが、こうした通史的著作をも含め、概ね共通した内容・主題を扱う異なった著作を複数読むことにより、一つ一つの著作にて得た認識が増え、点描のようにして、自身の脳あるいは精神に、その内容が転写、より深く認識される(インカーネーション)のではないかとも思われます。

そして、ここまで書いていて思うことは、そうした作業とは、現在においては全く出来ないということではありませんが、同時にやはり、若いうち(しかし若すぎてもダメでしょう20代~30代前半迄が最も具合が良いのでは?)の方がより多く吸収し、そして比較的容易に身に着けることが出来るのではなかかということです・・(苦笑)。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被災された地域の諸インフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念しています。」
















2017年9月21日木曜日

20170921 再現可能性の重視・一つの西欧文化の特徴・我が国における理系学問分野について

先日来より読んでいる著作は下巻に入り100頁ほどまで進みました。このあたりになりますと、さきの章にあった宗教から、さらに進み、科学技術およびそれを基礎として発展する武力といったことに(より)焦点が当てられています。

このことは他の通史的な著作においても数多く述べられていることではありますが、表現、言い回し、論法を変えた文章にて読んでみますと、なかなか新鮮に感じられるものです。

さて、そうした著作において共通して述べられていることは『西暦1500年あるいは16世紀あたりまでは西欧とは、世界の片隅にある(どちらかというと辺鄙な)一地域であり、またその科学技術、文化とは総じて同時代の中東、中国などと比べ遥かに立ち遅れていた。しかしながら、その西欧文化が23世紀のちに世界他地域の文化を席捲あるいは支配し得るまでに強大となった。そして、その主たる要因とは、元々西欧発祥ではない伝来されたさまざまな利器を分解、それら機能の原理を要素毎に言語を以って普遍的に理解し、以って利器の数多くの複製および更なる改良を可能ならしめ、そして、それを軍隊が広範に装備したことに因る。』といったところです。そして、その具現化された典型が銃器であるのですが、こうした流れにおいて極めて重要であるのが、主に理系学問分野での主たる概念と評し得る『再現可能性』といえます。
この『再現可能性』に対し、西欧社会とは、かなりこだわる性質を持っているようであり、あるいはその傾向とは『執拗』と評しても良いのではないかと思われます・・。
また、ここまで書いており不図思い出されたのは、みすず書房刊 マックス・ヴェーバー著の「宗教社会学論選」という著作のおそらく冒頭部付近において『楽曲の楽譜への表記・記述を以って、楽曲の再現可能性を為し得たのは西欧文化のみである』といった記述です。この記述部が今日の学術研究レヴェルにおいて厳密に史実であるかどうかは別としても、少なくとも、さきに述べた抽出された通史的内容とはある程度の親和性があるのではないかと考えます。
そのように考えてみますと、今日我々の社会一般において『理系』的として分類されるあらゆる事物・アイコン・性質とは、その殆ど全てが西欧文化に直接的起源を持つものであり、またその文化の背景には、ある種(彼らなりの)戦闘的で猛々しい、武力への渇望といった要素が潜んでいるのではないかとも思われるのです・・(それは西欧諸言語の言霊でしょうか?)。
そして、それは論文和訳調あるいは理系文章的表現とも云える、一種決然的、断定的な文言がかっこいいとされるような価値観、風潮が認められる、ここ最近の我が国社会であるからこそ、よりそのように(強く)感じるのかもしれませんが、さて如何でしょうか・・(笑)?

ともあれ、今回もまたここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年から現在までに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った地域での諸インフラの復旧・回復およびその後の復興を祈念しています。


20170920 感興を以って文章を書くこともまた大事であると思います・・

A「昨日の記事投稿によって総投稿記事数が750記事に到達しましたが、自身の内外において特に変わったことが生じることもなく、またここで新たな記事を書きはじめるに至るまで、そのことはほぼ忘れていました・・(苦笑)。

しかし、思い出してみますと、以前500記事到達の際は、それなりに高揚し、あまり寝付けなかったほどであったのですが、そうしますと、この250記事作成の間に生じた変化とは、一体どのようなものであったのでしょうか・・(笑)。

それは一つ一つの記事作成における『思い入れ・感興』といったものが(より)少なくなり、本格的に日常的・ルーティンな作業と化していった過程を示しているのではないかとも思われます・・。

そして、ブログ記事作成をも含めた創造的な行為全般とは、こうしたいわば、はじめの上り調子の後に訪れるプラトー・停滞の状態になった後にこそ、本当の工夫、創造といったものが求められ、そして生じていくのではないかとも思われるのです・・(より詳細に観察すると数段階程度あるのかもしれません)。

とはいえ、こうした状態(プラトー・停滞)とは、単に記事作成時の思い入れ・感興が少なくなったことにより、総じて記事作成が困難になるのみでもなく、その代わりに何やらよく分からないのですが『記事、文章を書き始めますと、どうにかある程度までは書くことが出来る』といった状態にまで(ある程度安定的に)至ったということを以って、思い入れ・感興が減衰した分を相殺し、どうにかなっているのではないかと思われるのです・・(笑)。

とはいえ、それでもやはり時には何かしら大きな感興を以って文章を書いてみたいとも思うところです・・。

たとえ、いかに技術的に高度なものを得たとしても、人が能動的に文章を著すといった行為の起源には、やはり感興が大きく作用しているのではないかと考えます・・(笑)。
(詩などはよりその傾向が強いのではないだろうか・・?)

さて、感興といえば、先日所用にて御茶ノ水周辺、駿河台下(靖国通り沿い)を歩いておりますと、軒を連ねている古書店の一つの前にて不図足が停まり、屋外にある書棚から、状態の良い箱付きの加藤周一著「日本文学史序説」(上下巻)を見つけました・・。
(このような時の私のセンサーとはなかなかのものかもしれません・・(笑)。

この著作を手に取り、しばらく頁を広いておりますと、これまで所持している文庫本の同著よりもサイズが大きいことから、かなり読み易く感じられました・・。

そこで値段を見ようと思い、古書にて値札がよく貼ってあるカバー・裏表紙裏を見ましたが見当たらないため、尋ねてみようと、比較的明るい店内に入り、奥のカウンターにて何やら作業をしている店主らしき方に著作を渡しつつ値段を尋ねてみますと、しばらく著作を手に取り眺めた後、どちらかというとぶっきら棒に値段をいわれました。

その値段とは、私にとってかなり破格であったことから、しばらくその場にて考えた結果、購入することにしました・・。

この間およそ三分間足らずの出来事であり、また、それがごく最近生じた感興が生じた、高まった場面です・・(笑)。

今回もまたここまで読んで頂いてどうもありがとうございます。


昨年から現在までに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された地域における諸インフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念しています。」




2017年9月19日火曜日

20170919 『良心・道徳』・『言語に対する認識』の程度・『おそれ』・コトダマ?

A「昨日分の投稿記事にて書きましたが、今回の記事投稿によって総投稿記事数が750に到達します。

そうしますと、とりあえずの目標である800記事到達までは残り50記事、そしてさらにその先にある1000記事を目標としますと、残り250記事ということになります・・。

今後さらに250記事を作成することは現在においてはあまり想像することが出来ませんが、一方、あと50記事程度を作成することは、特に無理をすることなく為し得るのではないかと考えます・・。

そして、その50記事を終えた後にまた、さらに先の具体的な目標へと設定し直すことが出来るのではないかと思われます・・(これが実質的且つ現実的であると思われます。)。

あるいは、私はある種の想像力が乏しいのかもしれません・・(苦笑)。

とはいえ、はじめからあまり大きな目標を述べ・立て、書いたりすることもまた、自身に関してはかなりのプレッシャーとなり、現在となっては特に、そうした行為とはおそろしくてすることが出来ません・・(苦笑)。

また、こうした『おそれ』の根源にあるものとは、一つに『言語に対する認識』であるのではなかかと思われるのです。

自身の意見を簡単に一般化することは避けた方が良いとは考えますが、それでも、おそらく一般的に『言語に対する認識』の程度が、ある程度までに達すると、自然とこうした心情、精神が生じてくるのではないかと思われるのです・・。

また、そうした心情、精神が社会において広汎に存在し、そして社会において作用することがなければ、伝統文化そしてその先にあるであろう創造性全般といったものは、これまでの歴史のどこかで潰えてしまったのではないかと思われるのです・・。

そしてそれ(言語に対する認識より生じる、ある種のおそれ)は、昨今何故だかあまり聞くことがない『良心』というコトバと強い親和性、関連があるのではないかと考えます・・。

さて、ここで『良心』よりもより具体的な行動等に関わる指針として『道徳』もまたあります。

そして我が国の場合、古来からの傾向として、実際に採られる行動によって感じ取られる、測られる道徳といったものに、より重点を置く社会であるといえることから、抽象的といいますか、その奥にある『良心』に関しては類似したものとして古くからの『真心』といったコトバがありますが、往々にしてそうしたコトバ、そしてそれが持つ意味、概念とは時間の経過に伴いインフレし、形骸化してしまうといった傾向が強いのではないかと思われます・・(苦笑)。

また、面白いことにか、残念なことにか、ここでもまた問題となるのは『言語に対する認識』であると考えるのです・・(苦笑)。

それ故、超常現象的な意味での言霊とは存在するかどうかは置いておき、その一方で『言語に対する認識』より生じる各個が持つ観念、精神には、良い悪いといった価値判断を抜きにして、何らかの相異があるものと考えるのです・・。

ともあれ、今回もまたここまで読んで頂いてどうもありがとうございます。

750記事に到達しても全く感慨がありません・・(笑)。

そして、昨年より現在までに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った地域における諸インフラの復旧・回復そして、その後の力強い復興を祈念しています。」








20170918 漸進的な変化と急激な変化および自身の性質について・・

A「昨日投稿分の記事もまた、投稿翌日にしては比較的多くの方々(33)に読んで頂けました。

また本日そして明日、これまでの調子にて記事を作成することにより総投稿記事数が750に到達します。

この数値もまた、特に区切りが良いわけでもありませんが、それでも1000記事を目標とした場合、全体の四分の三に到達したことをも意味します。

そうしますと、それ以降は、これまでの三分の一の労力にて1000記事まで到達することが出来ることになりますが、それにより『では頑張ってみよう!』といった感じにはならず、むしろ『まあ、それでしたらとりあえずは800記事あたりまではどうにか書き続けましょう・・。』といった反応になります・・(苦笑)。

また、往々にして私とは、そうした性質を持っているのではないかと思われるのです・・。

それはつまり、あまり明確に先の目標を設定せず、どちらかというと、何となく継続していたことが蓄積され、ある程度のことが為されてきたことが多いということです・・。

また、これまでの経験からも、こうした性質を持った方々とは、自身を含めて帰納法的な物事の考え方を根底に持っていることが多いのではないかと思われます・・。
(感覚的なハナシになりますが、そうした方々は理系よりも文系に多いのではないかと思われます・・。
また、演繹的な傾向を持ちながら文系思考の方々とはハナシを噛み合わせることが困難であったように多いように思われます・・(苦笑)。)

とはいえ、それと同時に、こうした経験によって得られる知見の蓄積を重視する姿勢においても、そこで得られた数々の知見から、より大きな視野に基づく新たな統合的ともいえる知見を見出す必要性が(おそらく)何処かで生じるのですが、自身の場合、こうしたいわば否応なく生じる精神の相変態・相転移といった現象の際にどうも上手く乗り切れないといった傾向があるのではないかと思われるのです・・(苦笑)。

その一方において
、我々日本人とは一般的に、こうした自身内外に生じる変化に対応することが上手いのではないかと思われます・・(明治日本の近代化・・)。

また、その意味において、自身とは多少、周囲と同調する、させる何かが欠如している、あるいは上手く同調させることが出来ない何かを持っているのかもしれません・・(苦笑)。

それ故、今後の自身の変化もまた、どちらかというと、これまでに何処かで経験したような環境にて、漸進的に、徐々に変化していく方が良いのではないかと思われるのです。

ともあれ、これまでで分かることは、少なくとも私は君子ではないということぐらいかもしれません・・(苦笑)。

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年から現在までに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った地域でのインフラの復旧・回復および、その後の復興を祈念しています。

追記として、本日以上に作成したブログ記事は22:00頃より作成をはじめ、もう少しで終了というところで、間違えたボタン操作により全て消去となり、あらためて作成したものです・・こういった出来事はなかなかショッキングなものです・・(苦笑)。」


2017年9月18日月曜日

20170917 下巻(宗教に関しての章)を読み進めていて思ったこと・・

A「先日来より読んでいる著作は昨日に上巻を読み終え、次いで下巻を読み始めましたが、この冒頭での主題もまた大変興味深いものであり、読んでいて思い起こされるのは、フレーザー著「金枝篇」あるいはジョルジュ・バタイユ著「呪われた部分 有用性の限界」であったり、さらに面白いことにはかつて自身が書いた修士論文であったりもするのです・・(笑)。

もちろんそれは十年前に書いた文章ですので、現在読んでみますと間違い、不完全な点も多いのですが、同時にそこで考えたこと、読んだ著作とは現在においても割合明瞭に憶えているものであり、そうしたことから、やはり自身のある程度本格的な思索の原点とは、そこにあるのではないかと思われるのです・・(おそらく勢いは現在よりもあります。)。

さて、ハナシを冒頭に戻し下巻冒頭の章にて扱っている主題とは『宗教』についてであり、そこで述べられることは、さまざまな宗教の成立過程、およびその後の発展過程についてのより観念的、抽象的な概説のようなものであるといえます。

そして、かつての自身とは、こうした原初的、局地的ではあるにしても何らかの宗教の背景にある心情、精神について、ある程度の知見、理解を得ていなければ、地域にて継続して行われた雨乞い祭祀および、それと同じ系譜のさらに先に存在した銅鐸が、如何なる時代・地域を貫く特性にて祀られたのか分からないだろうと考えたのです・・。

とはいえ、そうした考えに基づいた探求の結果によって得られた知見とは、どちらかというと、そのものズバリの特徴を言い当てる、形容できるようなものではなく、その輪郭の概形を触感として得た感覚をさらに言語化したような不明瞭なものであるといえます。

そして、そうした自身の経験から、あくまでも私見ではありますが、文系学問の探求によって得られる知見とは、往々にしてこのような不明瞭なものであり、おそらくそのようにして書かれた文章とは、それと類似した思索を以前に行った方々はどうにか理解することが出来るのでしょうが、そうした経験がない方(もちろんそれは全く恥ずかしいことでもなく、むしろ、そちらの方が普通、通常ではないだろうか)にとってはまさしく何が書かれているか理解不能、荒唐無稽な文章として映るのではないかと思われるのです・・。

そして、おそらくそうした理由から、文系学問における研究とは、全ての点において正当とされる評価を下すことが困難になるのではないかと考えます。

しかしながら、であるからといって文系学問が無価値であるということではなく、むしろそれとは反対に『この著作、文章には自身が引きつけられる何かがあるように思われるのだが、その意味はよく分からない・・』といった感覚を大事にして若い頃から読み続けておりますと、徐々にさきに書いたような輪郭概形の触感を言語化したような不明瞭な感じであることが多いかもしれませんが、それでも自分なりの理解に達することが出来るようになるのではないかと思われるのです・・。

そして、こうしたこととは、継続する以外にないと私には思われるのです・・。

その意味において、ブログ記事とは、現在の自身にとって適当ともいえる表出・表現の手段であるといえるのですが、そのさきに何があるのであろうかとは、さきに書いたような不明瞭な感じであれ、あるいは具体的なものであれ、よく分からないで作成しております・・(苦笑)。

(暗中模索とはこうした状態をさすのかもしれません。)
しかし、否、それだからこそ継続する以外にないのかもしれません・・(笑)。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂いてどうもありがとうございます。

昨年から現在までに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された地域でのインフラの復旧・回復そして、その後の力強い復興を祈念しています。」










2017年9月17日日曜日

20170916 主に現在読んでいる書籍からの抜粋引用 叛乱・蜂起と歴史の流れそして判官贔屓?

先日から読み進めているユヴァル・ノア・ハラリ著『サピエンス全史』上巻は残り二十頁ほどになりました。
おそらく本日中に読了に至るのではないかと思われます。

そしてまた、気のせいであるのかもしれませんが、巻末に近づくにつれ文章が読み易くなっているように感じられます。

これは自身がその文体に慣れてきた為であるのか、あるいは実際に書かれている文章がそのように変化しているのか、あるいは文章の日本語訳文がそのように変化しているのか分かりませんが、何れにしてもこれは自身としては特に都合の悪いことではありません(笑)。

また、現在読み進めている上巻最終章においても新たに面白い記述を見つけましたので以下に抜粋引用します。

河出書房新社 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳
『サピエンス全史』上巻
pp.233-235より抜粋引用
ISBN-10: 430922671X
ISBN-13: 978-4309226712

古代ローマ人は負けることに慣れていた。
歴史上の大帝国の支配者たちはみなそうなのだが、ローマ人も次から次へと戦いで敗北しながら、それでも戦争には勝つことができた。
打撃に耐え、倒れずにいられないような帝国は、本物の帝国とは言えない。
だがそのローマ人でさえ、紀元前二世紀半ばにイベリア半島北部から届いた知らせは腹に据えかねた。
半島土着のケルト族の住む、ヌマンティアという小さな取るに足りない山の町が、ローマの支配下から抜け出そうとしたのだ。
当時のローマは地中海沿岸全域の紛れもない覇者で、すでにマケドニアとセレウコスの両帝国を打ち破り、誇り高いギリシャの都市国家を残らず征服し、カルタゴを焦土に変えていた。ヌマンティアが当てにできるものといえば、自由を熱烈に愛する気持ちと険峻な地形ぐらいのものだったが、彼らは、次々に襲いかかるローマの軍団をすべて降伏や不面目な撤退に追い込んだ。
紀元前一三四年、ついにローマの堪忍袋の緒が切れた。
元老院は、ローマ随一の将軍で、カルタゴを倒したスキピオ・アエミリアヌスに、ヌマンティア人たちを始末させることに決めた、彼は三万から成る大軍を与えられた。
ヌマンティア人の闘志と戦闘技能に一目置いていたスキピオは、無用の戦いで兵士の命を無駄にしたくなかった。
そこで一連の砦でヌマンティアを取り囲み、外界との接触を断った。後は住民たちが飢えるのを待つばかりだった。
一年以上が過ぎ、糧食が尽きた。
あらゆる希望が絶たれたことをさとったヌマンティア人は、自らの町に火を放った。ローマの記録によれば、住民のほとんどがローマの奴隷になるのを嫌って自ら死を選んだという。
後にヌマンティアはスペインの独立と勇敢さの象徴となった。「ドン・キホーテ」(牛島信明訳、岩波文庫、2001年、他)の著者ミゲル・デ・セルバンテスは、「ヌマンティアの包囲戦」(「スペイン黄金世紀演劇集」、牛島信明編訳、名古屋大学出版会、2003年所収。邦訳のタイトルは「ヌマンシアの包囲」)という悲劇を書いた。
この作品は、ヌマンティアの町の破壊で幕を閉じるが、そこにはスペインの未来の繁栄のビジョンが描かれている。
詩人たちは、この町の猛々しい守護者たちを称える賛歌を書き、画家たちは、包囲戦の壮大な光景をキャンバスに描き出した。
1882年、ヌマンティアの廃墟は「国家史跡」に指定され、スペインの愛国者たちの巡礼地となった。
1950年代と60年代にスペインで最も人気のあった漫画本は、スーパーマンやスパイダーマンについてのものではなく、ローマの圧制者と戦った古代イベリアの架空の英雄エル・ハバトの冒険を語るものだった。
今日に至るまで、古代ヌマンティア人たちは、スペインの武勇と愛国心の鑑であり、この国の若者の手本とされている。
だが、スペインの愛国者たちがヌマンティア人を褒めそやすときに使うのは、スキピオの母語であるラテン語に由来するスペイン語だ。
ヌマンティア人たちは、今や失われてしまったケルト族の言語で話した。
セルバンテスも「ヌマンティアの包囲戦」をラテン語で書き、この戯曲はギリシャ・ローマ人の武勇を称賛するスペインの愛国者は、ローマカトリック教会の忠実な信奉者であることが多いーそう、ローマカトリック教会の。この教会に、現代スペインの法律は、古代ローマの法律に由来する。
スペインの政治は、古代ローマの基礎の上に確立されている。そしてスペインの料理や建築は、イベリア半島のケルト族の遺産よりもローマの遺産に、はるかに多くを負っている。
ヌマンティアのもので残っているのは、この町の廃墟ぐらいだ。この町の物語でさえ、ローマの歴史家の著述があったからこそ私たちに伝わっている。
そしてそれは、自由を愛する野蛮人の物語を好むローマの聴衆の嗜好に合わせてあった。ヌマンティアに対するローマの勝利が完璧であったため、勝者たちは敗者の記憶までも取り込んだのだった。
これは私たちが好む類の物語ではない。
私たちは勝ち目の薄い者が勝つのを見るのが好きだ。
だが、歴史に正義はない。
過去の文化の大半は、遅かれ早かれどこかの無慈悲な帝国の餌食になった。
そしてその帝国は、打ち破った文化を忘却の彼方に追いやった。
帝国もまた、最終的には倒れるのだが、豊かで不朽の文化の痕跡を残すことが多い。二一世紀の人々のほぼ全員が、いずれかの帝国の子孫なのだ。』

こうした文章を読みますと、おそらく判官贔屓とは、我が国のみに見受けられる傾向ではないものと考え得ます。

くわえて、おそらく別件ではありますが、面白いことに、上掲の抜粋引用部を読む数日前に読んだ小説が河出書房新社刊 尾崎士郎「私学校蜂起」小説・西南戦争であったことは自身としては、なかなか面白い偶然ではないかと思われました・・(笑)。

ちなみにこの小説の最後の章の題名が「波荒し玄洋社」であることから、やはり以前ブログ記事に書いたように西南戦争と玄洋社には何らの深い関連性、あるいは巨視的に見て同じ系譜に位置付けられるものではないかと思われた次第です。

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年より現在までに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った地域でのインフラの復旧・回復および、その後の復興を祈念しています。

2017年9月16日土曜日

20170915 『緊張感』・『勇気を奮う』創造的活動の背後にある精神を励起させるもの?

A「本日は帰宅が若干遅くなったことから、ブログ記事作成を断念しようと思いましたが、明日が休日であることからブログ記事作成の時間を割くことが出来ると考えたため、思い直し、さきほど(23:21)よりブログ記事の作成を行っております・・(苦笑)。

とはいうものの、本日に関しては、昨夜あまり睡眠をとっていないことからか記事の書き出し・主題等はなかなか思いつかず、パソコンの前にて無聊をかこっているというのが、より詳細な現状であるとも云えます・・(苦笑)。

また本日に関しては、日中書籍を読む時間がなかったことからか、そうした題材(読んだ書籍のこと)にて記事を書き進めようと考えてみても、そうした主題・発想とは容易に脳裏・感覚に現出してくれるわけでもなく、これに対しては『多少困惑している』と評しても良い状態と云えます・・(苦笑)(日頃のブログ記事作成における自転車操業的態度が露呈する)。

とはいえ、同時にこうした状態とは、これまでのブログ記事作成においても同様に存在したと思われることから、これに対しては危機感を持つべきものではなく、むしろ、そうした状態とは、ブログ記事作成をも含む創造的活動を行う上においては避けた方が良く、それよりも、さきに書いた『困惑している』状態を認めた上で、そうした状態について何かしら書き記していく方が、何といいますか、知らぬ間にその状態を脱していることが多いように思われるのです・・。

しかしまた同時に、さきの『困惑している』状態にて書き記した文章を(敢えて)ブログ記事などとして公表するかしないかとは、各個人の好みによるのでしょうが、自身としては、これまで概ね毎日記事を作成・更新しておりますので、その流れを変えずに継続するためにも、とりあえず書いたものは公表するのです・・(笑)(ここでも日頃のブログ記事作成における自転車操業的態度が露呈される)。

もとい、当初、こうした行為に対してはかなり抵抗感があり、勇気らしきものを奮って書き続け、公表していた時期がありました。

しかし、それもまた徐々に変化するようであり、今現在、緊張感を全く持たずに記事を書き、そして公表しているわけではありませんが、他方、当初に比べますと『勇気を奮って』という要素に関しては、かなり減衰しているようであり、どちらかといいますと日常的な作業、ルーチン・ワークに近いものになっているといえます・・。

そして、ここが少し面白いと思われるところなのですが、文章を書く際、あるいは公表する際の『勇気を奮って』であるとか『緊張感』といった、いわば『自身を精神的に締める』要素こそが、ブログ記事作成をも含む創造的活動の背後にある精神を活性化させる作用があるのではないかと思われるのです・・(無論、徹頭徹尾ではないと思われますが)。

また、このことはもう少し広く社会全般にて当て嵌めてみますと、なかなか面白いのではないかと思われるのですが、如何でしょうか?

とはいえ、今回もまたここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年より現在までに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被災された地域でのインフラの復旧・回復そして、その後の力強い復興を祈念しています。」



2017年9月15日金曜日

20170914 先日の勉強会でのことと最近の読書での面白い記述について・・

二日ぶりの記事投稿であったためか、昨日投稿分記事は思いのほか多くの方々(41)に読んで頂くことが出来ました。

さて、先日出席させて頂いた勉強会での記憶に基づいて考えてみますと、やはり私の性質の基層部とは文系学問分野への親和性が強く、中でも歴史、そして地域学・民俗学といった分野に対しての興味が有意に強いのではないかと思われます・・。

そして、その淵源を考えてみますと、幼少期からの読書であったり、二十代の頃にいくつか異郷の地に住んだ経験であるものと考えます。

とはいえ、おそらく、もしも就職および転勤により(半ば)否応なく首都圏を離れるといったことがなければ、私は自身の希望によって首都圏から離れることはありませんでした。

しかしながら、現実の今の私とは、内心において必ずしも、この首都圏での生活を心地よく、快適に思っているわけでももないのです・・。

そして、そのことを先日出席させて頂いた勉強会後の懇親会において指摘を受けたことは自身にとって驚くべきことであり、それまで自身はどのような行動を(半ば)無意識ながらにとっていたのかとは、我がことながら、興味深く思われました・・(苦笑)。

とはいうものの、その一方において現在自身がここ首都圏にて動いているいくつかのことは、多少誇大妄想気味であるかもしれませんが、自身が動かなければ進展しないことであり、またおそらく、それはそれで多少なりとも意味のあることであると思われるのです・・。

それ故、もうしばらく経て事態が収束、落ち着きましたら、あらためてこのことを考えてみようと思います・・。

・・そういえば、先日来より読んでいる著作は上巻の三分の二程度まで至りました。

まだ先は長いですが、ここ最近は文体に慣れてきたのか、割合スムーズに読み進み、さらに面白いことに、つい先日読んでいた箇所とは、昨日・本日作成分ブログ記事の主題とも何やら関連すると思しき主題であり、先を読み進めることが楽しみです・・(笑)。

そして、その関連すると思われる箇所を以下に抜粋引用してみます。

河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳
サピエンス全史」上巻 pp.149-150より抜粋引用
ISBN-10: 430922671X
ISBN-13: 978-4309226712
『ロマン主義は、人間としての自分の潜在能力を最大限発揮するには、できるかぎり多くの異なる経験をしなくてはならない、と私たちに命じる。自らの束縛を解いて多種多様な感情を味わい、さまざまな人間関係を試し、慣れ親しんだものとは異なるものを食べ、違う様式の音楽を鑑賞できるようにならなくてはならないのだ。これらすべてを一挙に行うには、決まりきった日常生活から脱出して、お馴染みの状況を後にし、遠方の土地を旅するのが一番で、そうした土地では、他の人々の文化や匂い、味、規範を「経験」することができる。「新しい経験によって目を開かれ、人生が変わった」というロマン主義の神話を私たちは何度となく耳にする。
消費主義は、幸せになるためにはできるかぎり多くの製品やサービスを消費しなくてはならない、と私たちに命じる。何かが欠けている、あるいはしっくりかないと感じたら、おそらく私たちは製品(自動車、新しい服、自然食品)あるいはサービス(家事、対人関係療法、ヨガのクラス)を買ったり受けたりする必要がある。どのテレビのコマーシャルも、何らかの製品あるいはサービスを消費すれば人生が良くなるという、小さな神話なのだ。』

上に抜粋引用した文章だけを読んでみますとラッセル著「幸福論」内にもありそうな感じを受けますが、同時に自身としては興味深いことが書かれているのではないかと思われます。

興味を持たれた方は是非御一読をおススメします。

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年より現在までに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被災された地域におけるインフラの復旧・回復および、その後の復興を祈念しています。」














2017年9月13日水曜日

20170913 二日ぶりのブログ・約半年ぶりの勉強会 口述と論述

A「関西方面にて勉強会が開催され、それに出席させて頂いたことから、二日間ほどブログ記事の作成・投稿を休止しました。

この休止の間、パソコンを開くことすらしませんでしたが昨日、一昨日の記事閲覧者数はそれぞれ100を越えておりました。この間読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。本日よりまた、記事作成を再開します。

さて、今回の関西・西日本訪問は、特に久しぶりということもなく、場所は異なりますが、概ね一か月ぶり程度のものでした。

それ以上に、かなり久しぶり(約半年ぶり)であったのは、冒頭に書いたように文系学問分野(主に思想・哲学関連)での勉強会に出席させて頂いたことです。

そして、ここで不思議に思うことは、普段はアタマの中のみで考え、あまり表出する機会がない考えであっても、勉強会といった発言の場を与えられることにより、どうにかそれを言明・言語化することが出来たという感覚です・・。

しかし、それをより客観的に考えてみますと、この時、自身が述べた意見とは、総じてたいしたもの・的確なものではないのかもしれませんが・・(苦笑)。

とはいえ、それでも大変面白いと思うことは、自身が意見を述べる際に挙げる具体例とは、意見を述べている最中に続々と脳裏に浮かんできたものであるということです。

そうした具体例とは、その多くが現在の自身が読んでいる、特に意識を向けている事物というわけでなく、いわば、対話の際の瞬時の想起とした生じたものであるといえます。

そして、こうした一連の勉強会での対話を通じ『ああ、自身の文系的な知識一般とは(どうにか)駆動するものであるのだな・・』と認識することが出来るのです・・(笑)。

しかし他面において、こうした自身の発言および知識の瞬時の駆動とは、この勉強会に参加されている方々が持つ、対話者の意見を引出そうとする虚心坦懐な姿勢に促されてのものでもあり、こうした姿勢とは、自身も見習いたいと考えています。

くわえて、自身があまり滞りなく意見を述べることが出来た他の要因とは、あるいは多少意外であるかもしれませんが、これまで継続的に作成しているこのブログではないかとも思われるのです・・。

約半年前、前回開催された同様の勉強会にて、自身は今回の発表ほどに的確に意見を述べることが出来なかったと記憶しています。

その意味から、その間にて『成長』したと感じられた要因とは、この約180日間に作成されたブログ記事にあったのではないかと思われたのです。

とはいえ
、そこには科学的な根拠はなく、あくまでも感覚的なハナシではありますが、勉強会にて、自身が口語にて意見を述べる際、その口述される言語が生み出される自身内部の部位・層?とは、当ブログ記事における文章を生み出すそれと全く同一ではないにしても、随分近い、あるいは重なっている部分があるのではないかと思われるのです
このあたりはある程度科学的に解明することが出来るのではないかと思われますが、如何でしょうか・・?)。

もしかすると、
こうしたことは案外と重要なことであるのかもしれません・・。

そして、そうした理由から、少なくとも今しばらくはブログ記事の作成を継続しようと考えています・・。

ともあれ、
今回もまたここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年から現在までに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を受けた地域でのインフラの復旧・回復そして、その後の力強い復興を祈念しています。」

2017年9月11日月曜日

20170910 ある種の虚構を共有し信じることにより出来ること・・その逆とは・・

昨日分の投稿記事にて扱った著作に『我々人類が大勢で他者と協力し、共通の目的のために働くことが出来るようになった要因とは、言語を介して、ある種の虚構を互いに信じ、共有することが出来るようになったからである。』といった意味のことが書かれ、また、その具現化・対象化されたものが弥生時代の青銅製祭器・古墳時代の古墳などであると自説として書きましたが、こうした構造自体については、現代においても変化はしておらず、法人・株式会社などといった組織、さらにはそれらが扱う貨幣もまた、そうした構造に依拠していると同じ著作内にて述べられています・・。

こうしたことを日常生活にて考える機会とは多くはありませんので、時折はこうしたことに思いを巡らす機会を得るという意味においても、ある種の読書とは自身にとって、それなりに意味があるものと考えます。

また、同様にこうした記述を読んでおりますと、思い起こされるのは、近年多く亡くなられ、現在はほぼ見受けることの出来なくなった戦争経験を有する研究者・著述家が、それぞれの著作にて書いている大戦末期の戦線・規律が崩壊した戦地における状況です。

こうした状況とは、冒頭に書いた設定としての(信じ得る)虚構が全て剥ぎ取られ、むき出しの生への欲望のみによって支配された空間であり、また、そうした状況・空間の様子とは、戦地から生還された方々の多くが周囲に語ろうとしなかったのではないかと思われます。

何故ならば、こうした状況とは、さまざまな仕組み・虚構を当然のこととして現代社会に生きている我々からすると、きわめて野蛮・残酷なものであり、口外することを躊躇される内容を含むものであったからであると考えます・・。

それ故にか、我が国のみの傾向であるのかどうか分かりませんが、こうした状況の詳細とは、多くの場合文章によって著されていることが多いように思われます。

また、こうした心に刻まれるような、ある種の痛ましい状況の記憶とは、画像・映像化されることにより、多くの人々に認知されることは多くなるのでしょうが、その反面、ある種の陳腐化・紋切り型的な認識に堕してしまうといった傾向があるようにも思われます。

それ故、こうした記憶が辿ってしまうことを避けるべきであるのが、こうした、いわば『安易な認識』ではないかと思われるのです・・。

『安易な認識』とは、痛ましい記憶がもたらす衝撃を幾分かは和らげはするのでしょうが、それと同時に『何故、当時、我々の先祖たちは、こうした状況に入って行かなければならなかったか』を(真剣に)考えなくなってしまうのではないかと思うのです。

ともあれ、その根源的な原因については未だよく分かりませんが、我々日本人が持つ文化には普遍的に、こうしたある種の抽象化の傾向があり、それはおそらくなくなるものではなく、間断なく常に、我々自身の持つ記憶を最適なものに変換しようと願いながらも、それらの実施の段において意味・意図が不明瞭なものとなり、それを以ってはじめて社会が受け入れ・悦ぶといったような、どうもよく分からないところがあるのではないかと思うのです・・(苦笑)。

そして、それは冒頭に書いた信じ得る・共有し得る虚構に対する国内さまざまな社会・集団による認識のズレを示しているのではないかと考えますが、これもまた、かなり奥が深い問題であるように思われます(マンガ文化とは、こうしたことをあまり感じさせないが故に人気があるのかもしれません・・)。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年から現在までに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された地域におけるインフラの復旧・回復および、その後の復興を祈念しています。」






2017年9月10日日曜日

20170909 おそらくあまり簡単なことではないと思うのですが・・(歴史を立体的なものとして見る)

A「先日来より読み進めている著作はその後、新たに頁が進み、自身としては面白い内容のくだりとなってきました。

この著作によると、我々人類が大勢で他者と協力し、共通の目的のために働くことが出来るようになった要因とは、言語を介して、ある種の虚構を互いに信じ、共有することが出来るようになったからであると述べられています。

また、その虚構とは単なるモノガタリのようなものであってもダメであり、ある社会集団の中で共有され、信じることが出来るような内容を持っていないと、その効果は発揮されないということです(これを異なった視野から述べると、一時は社会において信じられていた虚構・モノガタリが、何らかの原因によって信じられなくなり、共有されなくなると、その社会とは崩壊に向かうということかもしれない)・・。

歴史を述べる際のこうしたくだりとは、自身にとって興味深いものであり、かつて自身が研究のテーマとした『地域における雨乞い祭祀』においては、その各々祭祀の背景に何らかのこうしたモノガタリが存在し、(地域にて)共有されていた(る)と云い得ます。

もちろん、各々モノガタリが共有され得る地域規模、ひいてはそれらモノガタリを背景として為される祭祀はさまざまですが、こうしたモノガタリを文献書籍・現地でのヒアリングを通じ調べていきますと、今度はさまざまな昔話・説話といったものに至り『日本霊異記』・『今昔物語』などを読むことになります・・。

なかでも『日本霊異記』に収録されている説話とは、古いもので古墳時代(5世紀頃)とされておりますので、地域におけるモノガタリの基層・起源を考える上において参考になり、そして示唆に富む著作であると云えます。

また、こうしたことを書いておりますと、自然と考えさせられるのは、古代における祭政一致の起源もまた、冒頭に書いた『言語を介して、ある種の虚構(モノガタリ)を互いに信じることが出来るようになったから』ではないだろうかということです。

そしておそらくそうした虚構(モノガタリ)が具現化・象徴化されたものが、弥生時代の銅矛・銅剣・銅戈・銅鐸などの青銅製祭器であり、また古墳時代のさまざまな古墳であるともいえます・・。

現在の視座から眺めてみますと、これらのものが、ある社会集団において極めて重要なものであったことは(その費やされたであろう労力を考えると)理解出来るのですが、しかし、それが当然とされていた具体的な社会の有り様、雰囲気を想像、具現化することが困難であると思われるのです。
(我々日本人とは、良くも悪くも、この部分をかなり安易に考えている、あるいはこうした可視化が困難な『時代精神』といったものを対自的存在と為し得ない何らかの傾向があるように思われます。)

丁度、ミサイル発射にて国内が沸き返っている某国の内情およびその系譜を実感として理解出来ないように・・。

しかし、どのような規模においても『歴史を知る』こととは、遺跡・出土物の観察、文献書籍の読解などを通して(客観的な)知見を蓄える『のみ』では、おそらく到底達し難く、如何なるものであれ、対象との同一化が為されることによって、はじめて到達することが出来るのではないかと思われますのです・・。

そして、そのような複眼的な視野の獲得・確立(知見の蓄積による客観的な視野・同一化によって得られる意識的ともいえる即自的な視野)によって『その歴史を立体的なもの』として見る・扱うことが出来るようになるのではないかと思うのですが、それは果たして無駄なことなのでしょうか・・?

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った地域でのインフラの復旧・回復そして、その後の力強い復興を祈念しています。」







2017年9月9日土曜日

20170908 書籍を読み進めていくと、また事態は変わってくるのかもしれない・・?

A「本日も若干帰宅が遅くなり23:00を過ぎてからのブログ記事作成となります。

さて、昨日分の投稿記事にも出た現在読み進めている著作も上巻の半分以上に至りました。そこで述べられている内容とはこれまでと同様に歴史の流れ、あるいはその分析・抽象化であったりします。

そして、本日読み進めていた部分から思い起こされた既読の著作とは、和辻哲郎著「風土 人間学的考察フリードリッヒ・エンゲルス著「家族・私有財産・国家の起源」あるいは梅棹忠夫著「文明の生態史観」などです。

ここで面白いと思われることは、これらの著作とは、たしかに現在読み進めている著作内容・主題と通底するものがありながら、ここに至るまで思い出すことがなかったということです(最前に読了した著作ともまた相通じるものがあるのですが)・・。

あるいは、ここにおいて(何故か)それらの著作が脳裏に浮かびあがってきたとも云えます。

何れにせよ、それは著作内にて述べられている内容・主題の流れに対する(自身の精神からの)反応というよりも、感覚的ではありますが、それは(読者たる)自身がこの著作に没入・コミットしていく度合いにより現出し、より多様性・深みのある想起が可能になったからではないかと考えます・・。

そして、それがある程度妥当な考えであるとすれば、昨今のブログ記事において述べてきた『読書という受動的な活動を行っている際は、文章の作成といった能動的活動は鈍化する』という考えは、その活動初期における観察においては妥当なものであるのかもしれませんが、ある程度継続することにより、徐々にその内容・文体に慣れ、そして読んでいる自身の方からもスムーズな反応が為されるようになり、そして想念・思考といったものが展開していくのではないかと思われるのです・・。

また、それとは別次元でのハナシであるのかもしれませんが、これもまた現在作成しているブログ記事に関連すると思われることであるため以下に記します。

昨日の朝、目が覚めた直後どうしたわけか、これまでに読んだいくつかの書籍の内容が脳裏に流れていったのですが、通常ある程度文量のある一冊の書籍の内容とは、言語にてその内容を表現しますと、少なくとも数分はかかるものでありながら、起きがけの半分寝ぼけている状態の自身では、それは何といいますか、言語でない言語によって脳裏に想起し流れ、実際の時間としてはおそらく十秒程度であったのではないかと思われます・・。

そして、そのあとに続けて「まだまだ書くことが出来る内容はたくさんあるはずだ・・」といった割合強めのコトバが自身の心中にて響きました・・。

そして、それにより少し目が覚めた私は、さきに脳裏に想起され流れた書籍内容の記憶と、あとに聞こえたコトバの関連について思いを巡らし、その結論として「コトバのとおり、まだまだ書く内容はたくさんあるはずであり、それは文体の獲得にとらわれるよりも、そうした(書くことが出来る)内容を精確に伝えていこうとする努力の方が結果的には面白い文章を作成することが出来、そして副次的に文体の獲得といったものがあるのではないか・・」と思うに至ったわけです・・。

そして、こうしたものを内的経験というのでしょうが、こうした経験とは、おそらく年齢の上昇に伴いあまり経験することが出来なくなっていくものであり、また、以前投稿のブログ記事にて書いたユング心理学での「コンステレーション」とは、こうしたものではないかとも久々に思い出しました・・。

こうしたことはこれまで文章を継続的に作成してきた余禄といったものであるのでしょうか・・(笑)?

そういえば、昨日分の記事投稿によって総投稿記事数が740に到達しました・・。

そして今回も、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された地域における諸インフラの復旧・回復そして、その後の力強い復興を祈念しています。」











2017年9月8日金曜日

20170907 ブログ記事を書き続けることにより分かってくること・・外界(自然風土)からの影響:文体の獲得

本日は帰宅時間が若干遅くなってしまい、つい先ほどブログのチェックを行いました。

昨日投稿分のグダグダとした内容の無い投稿記事であってもそれなり(25)に読んで頂いており多少驚かされました。

これを読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

さて、先日来から新たに読み進めている通史的な著作は、さきに読了した類似系統の著作に比べ、何と云いますか全体的にさらに抽象性が高いと思われることから、まさしく考えつつ読み進めており、また、それはそれで(大変)面白いのですが、他面、やはり小説などと比べてみますと、その読み進めるスピードは顕著に遅くなるようです・・(苦笑)。

もとい、このような遅々とした読書を行っておりますと、時折、自身の根本的な読解能力が劣化したのではないかいう危惧・不安もまた生じ、そこから他の既読の著作をあらためて手に取り読んでみますと、そこでどうにか自身の読解能力は特に低下していないことが認識され、再度、安堵した心持ちにてこの遅々とした読書に戻ることが出来るわけです・・(苦笑)。

あまり自慢できることでもありませんが、これまでに私は(ある程度)さまざなな種類の書籍を読んできたのではないかと考えますが、この読む書籍の分野・種類(の好み)にはかなりの濃淡・偏差があり、たとえば詩集などに関しては、これまでに何度か挑戦したものの、積極的に面白いと感じたことはありませんでした・・。

ただ、漢詩に関しては九州在住の末期に面白そうだと感じるようになりましたが結局それは現在に至るまで芽吹き安定するということはありませんでした・・。

それでも
当時、漢詩を面白そうであると感じることが出来るようになった原因とは、現在になり考えてみますと、一連の当ブログ記事においては(相変わらずの)陳腐な考えではありますが、それは在住地域の自然風土に大きく因るのではないかと考えます・・。

そしてまた、こうしたことは実際に体験・経験をしてみないと実感として分からないのではないかと思うのです・・。

また同時に、ある程度の長さの文章を【継続的に】作成する際に発動する脳・精神の部位とは、同時におそらく外界(自然風土)からの影響をより大きく受ける部位でもあり、また、その視座にて考えてみますと、現在このように(概ね)継続的に作成しているブログ記事とは、さきに書いた外界(自然風土)から生じる文章への影響を出来るだけ最小化しようとする試みであり、さらにそれを換言しますと、如何なる環境においても出来るだけ安定して恒常的に文章作成を行うことが出来るようにする(文体の獲得)鍛錬でもあるとも云い得るのです(笑)。

しかし、これ(ブログ記事作成)を継続することによって単純に恒常的な文章作成を行うことが出来るようになるというわけでもないことがここ最近ボンヤリと分かってきたようにも思われます・・。

しかしながら
、それでも書き続けることが重要であろうことには変わりはないのですが・・(苦笑)。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った地域でのインフラの復旧・回復そして、その後の力強い復興を祈念しています。






2017年9月6日水曜日

20170906 記事主題の着想がないままにて記事を書くと・・見通しについて

A「気が付いてみましたら700記事到達の後、40記事近く作成しておりました・・。

そして、この調子にて記事作成を行っていきますと、今月中に750記事に特に無理なく到達することが出来る目算が立ちます。

750記事への到達と考えてみますと、1000記事を目標とした場合、その四分の三に到達したことになりますので、以前667記事到達の際の1000記事を目標とした三分の二への到達よりさらに一歩、一段階進んだことになります・・。

普段、ブログ記事作成の最中は、あまりこうしたことを考えませんが、それでも時折は記事作成前に、これまでに作成した記事を眺めてしばらく考えてみることもあり、そうしますと何かしらさきに書いたような思い、感慨といったものが浮かんでくるようです・・(笑)。

とはいえ、そうした思い、感慨とは、あまり創造的なものではなく、こうした記事の導入部としては悪くないのかもしれませんが、そこから先のの更なる創造的な展開には必ずしも結節し易いというわけではないようです・・(笑)。

それ故、こうした導入部における記述から、次への展開を促すコトバとして『さて、』あるいは『そうえいば、』といったもの(コトバ)が用いられるわけですが、これらのコトバとは一種文法上の徳政令あるいは、それまでの展開をあまり考慮しなくても良いという免罪符的な効果を持ち、自身は文章作成の力量不足のためか、恥ずかしながらこれらを多用している次第です・・(苦笑)。

さて、気が付いてみましたら今月に入り既に五日以上経ちました。

また日中の陽気も先月後半からの本来のこの季節に似つかわしくない冷涼さをそのままに継続し今月に至り、このまま本格的に季節は秋になってしまう様相さえ感じ取れます・・。

そして、ブログ記事に関しては、本格的に冬が訪れる前、年内にどうにか800記事まて到達することが出来れば良いとは考えておりますが、更にその先のブログ記事作成については、漠然と1000記事まで到達したいと考えていますが、今現在の段階では、この1000記事とは、そこまで現実味を持っているわけではありません。

ただ、800記事までに関しては現実的にどうにか到達することが出来るかもしれないとは考えておりますが・・。

普段、特にブログ記事作成の折には、こうしたことを考えることはあまりないものの、何らかの機会にそうしたことを不図考えてみますと、なかなか面白いことに自身のある方面(ブログ記事作成)での目算がどの程度先まで具体的に立てることが出来るかが分かり、これはこれでなかなか面白い感覚であるといえます・・(あくまでも感覚的なことではありますが)。

また、この感覚を具体的なことにたとえてみますと、水面から水中を覗き込み、どの程度の水深まで見通すことが出来るかのかと似ているのではないかと思われます。

しかしながら、こうした思い付き、発想も、特に創造性に基づくというわけでもなく、こうしたブログ記事のつかみ程度には良いのかもしれませんが、更にその先の文章の展開においては寄与するところがあまり大きいとも思われないのです・・。

そのため、本日投稿分のブログ記事においては残念ながら、これといった主張・主旨といったものがないままにて終えるのことになりそうですが、よくよく考えてみますと、これまでほぼ毎日のように作成している一連のブログ記事において、毎回確たる主張・主旨があったとも思われないため、また、昨今より続いているスランプの影響も考慮し、時折はこうした記事であっても差支えないこととします・・。

とはいえ、見方を変えてみますと、こうしたことを主題もないままにて書き連ね、ここまで書き続けることが出来たというのも、自身としては上出来の部類であるのかもしれません・・(笑)。

おそらく(ブログ記事の継続的な作成)以前の自身であれば、こうした状態にあった場合、何も書かなかったのではないかと思われます・・。

今回も、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年から現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被災された地域でのインフラの復旧・回復そして、その後の力強い復興を祈念しています。」











20170905 探求のはじめにある感覚とはどのようなものか・・?

A「昨日投稿分記事の最後に書いた銅鐸に関してですが、その興味への起源を思い返してみますと、それは和歌山県での在住期間であったと云えます。

くわえて、その伏線となった経験とは、祖父母の家があった伊東市に滞在の折、とある用事にて出向いた沼津にて当地の自然が発する大気を(当時の自身は)何やら異様なものとして感じたことであったのではないかとも思われます・・。

とはいえ、自身が、この沼津の自然が発する大気を異様なものとして感じた原因とは今現在になってもよく分かりません・・。

ただ、その時に反応として思ったことは割合明瞭に憶えていて、それは『本当に日本とは私なんかが知らない自然を持つ国なんだ・・』といったことであり、おそらくそのことをどこかで反芻していたがために、その後も結果として割合長く西日本に滞在することになったのではないかとも思われるのです・・。

そして、当地和歌山での在住にて包括的な自然風土にも慣れてきた頃、おそらく6月頃であったと記憶していますが、当地域特有の南方的な強い雨が降る日、勤務を終え帰宅し、翌日が休みということもあり、本箱に入っていた書籍を何冊か代わる代わる手に取り眺めておりますと、一つの書籍(古代史の概説書)に銅鐸の写真と共に『和歌山県**市出土』と記載されており、それが当時在住していた場所と目と鼻の先と評しても良い程に近かったという一種の親近感からか、その銅鐸の写真を眺めておりますと、屋外の雨の音と銅鐸の写真画像が混然一体となったイメージ・イマージュとして刷り込まれていったように思われるのです・・。

無論、こうした経験とは(今現在の科学では)科学的なものとして分類されないと思われますので、あくまでも私見ではあるとして書きますと、それまでツルツルと滑って何処から、どのようにして手をつけて良いか分からないある種の知識体系にたいして挑む最初の効果的な一撃とは、往々にしてこうしたものではないかと思われるのです・・(笑)。

ともあれ、こうしたある種の内的な経験を経ることにより、何やら視界が啓け、さまざまな遺跡、遺物出土地に対して、さながら釣りに行くような心持ちにて出向き、その地で偶然に遭遇した方々に声を掛けて、お話を伺うといったことも出来るようになっていきました・・。

そして、後になり、その地域に関する文献をあたってみますと、大変面白いことに、さまざまなカタチにて当地にて聞いたお話と反映し合っていることが多いのです・・。

こうした感覚とは、おそらく実際に経験してみないと分からないと思われますが、自身の場合、こうした感覚を信じ続けたことによって、いくつかの我が国の古代史に属することをどうにか分かり得たと思いますし、また、それに関連させるカタチにて当地域の雨乞い祭祀もまた、自分なりの認識を得ることが出来たのではないかと思われるのです・・(また、それはあながち間違いでもなく一応学問的な信頼性もあるのではないかとも考えています・・。)

そして、その基層部には自身の場合、(自身が感じた)その地域の『自然風土』といったものがアーチの楔石として存在すると考えるのです・・。

また、それは自身の記憶のなかにある九州においても同様であるのです・・。

今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在までに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った地域での諸インフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念します。」