2016年12月5日月曜日

20161205 500記事到達(達成感はあまりないです・・(苦笑)。)

今回の記事投稿によって総投稿記事数が500に到達します・・。

このブログを始めたのが昨年6月であったので、ほぼ1年半つまり540日程度で500記事ということになりますので、10日のうち9日は記事を投稿し続けてきたということになります・・。

これは到達までの期間が早かったとは云えませんが、とりあえずキリの良いろころまでは達したというような幾分アイマイな達成感らしきものはあります・・。

とはいえ、この達成感とは、明瞭なものではありません・・。

明瞭な達成感とは、登山にて山頂に至った時、あるいは学会発表を終えた時、一つの実習を終えた時などの方が余程、明瞭且つ強いそれを感じることが出来ていたように思います。

その理由とは、この500記事という目標自体が自らで定めたものである為であるのかもしれませんが、ともかく「よく分からないまま、ここに至った」と評しても良いと思われます・・(苦笑)。

それ故「果たしてこの程度で良いのであろうか?」と思う反面もありますが、一応ここまで至ったということで、かねてよりの企図に従い、今後一週間程度は意識的な断筆を試みるつもりです。

そして、その断筆の期間に、あるいはその達成感といったものが内面より涌出してくるのかもしれません・・(そうであれば良いのですが、そうしたことはあまり期待しないでおきます(笑))。

また、昨日久しぶりにお目に掛かった師匠とハナシをさせて頂いておりますと、何といいますか鹿児島在住時での(良い)記憶が甦ってくるようです・・(笑)。

それで思い出されるのは、さまざな研究、実験指導と共に、登山の記憶です。

鹿児島での登山は師匠のお供で始めたことであり、それは面白いことに和歌山におけるフィールド・ワークの記憶とも結節するのです・・(笑)。

その意味において、それら在住期間を通じ、いつの間にか私は西日本の自然環境に対し、親近感を抱くようになっていたと云って良いと思います。

いや、あるいはそれは「(勝手に)魅入られた」と表した方がより適当であるのかもしれません・・(笑)。

これは、以前のブログ記事にて記しましたがErdgeist・地霊といった存在に因るのではないかと考えております・・。

また、こうした考えを「非科学的」、「現実的でない」とするならば、何故我々は各地の寺社を参拝するのでしょうか?

おそらく我々の祖先とは、おそらく現代の我々よりも多く自然に接し、また、その不思議なチカラを目にしてきたものと考えます。

その結果として、何かしらの事物から神聖さを感じ取り、それに対し境界を設け、社殿を建立してきたのではないかと思います・・。

もし私も含め現代の我々が、一般的に、そうしたことを感じ取れないのは、その神聖さを「感知する能力」が減衰してきたことに大きく因るのではないかと思いますが、如何でしょうか・・?

また、それを別言すると、そうした神聖とされる事物の存在を、自身よりも神聖な存在と認めることが困難な社会になってきたからではないかとも云えるのではないでしょうか?

そして、首都圏とは、その意味において先端であるといって良いと思います・・。

さて、そこで思うことは「人間の創造性に対するこうした存在の影響」です。

その具体的なメカニズム・作用機序は分かりませんが、私見としては、少なくとも我が国の場合、そうした神聖とされる存在が地域に「生きたものとして」残存している方が様々な創造性に対しては良い影響をもたらすのではないかと考えます。

これは我が国におけるノーベル賞受賞者の出身地域から類推してみますと納得することが出来るのではないでしょうか・・?

それ故、地域における自然とは、その意味(人間の創造性)においても大きな価値があるのではないかと思われますが、さて如何でしょうか・・?

【煎じ詰めると、当たり前かもしれませんが、それ(神聖さ)は社殿の壮麗さ、祭りの盛大さなどといった所謂カタチとは異なる次元に内在するものではないかと思われるのです・・。しかし、首都圏におけるそれは、それを(いまだに)見誤っているのではないかと思われることが度々あります・・。】

さて、読んで頂いている皆様のお蔭でここまで到達することが出来ましたどうもありがとうございます!

500記事に相応しい名文とはなりませんでしたが、今後もまた(しばらく期間を置いて)何かしら書き続ける所存ですので、どうぞよろしくお願いします!!

さる熊本、山陰東部、福島周辺において発生した大地震により被害を受けた地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そして、その後の復興を祈念しております。