2020年4月22日水曜日

20200421 河出書房新社刊 木下順二著「子午線の祀り」pp.18‐20から引用

河出書房新社刊 木下順二著「子午線の祀り」pp.18‐20から引用
ISBN-10: 4309402712
ISBN-13: 978-4309402710

知盛「民部よ。」

重能「はあ?」

知盛「おぬしも口に出すのは過ぎてしまったことだけか?」

重能「は?」

知盛「心にかかるのはこれからのことだ。敵とすれば何よりの手柄のこの生け捕り人、どうにでも使って、難題を吹きかけてくる道具になる。」

重能「勝った源氏がここで吹きかけてくる難題といいますとー」

知盛「平氏と源氏の勝った負けたを雲の向うから眺めながら、あの手この手を楽しんでいられるお人があろう。」

重能「―後白河院でございますな?後白河院が一体どういう―」

知盛「考えてみろ。われら三種の神器を奉じて都を落ちてこのかた、後白河院が焦げるように望んでいられるのは、三種の神器を取り戻すことだ。」

重能「すると―本三位の中将様と引き換えに三種の神器を―」

知盛「ばかを申せ。一人の本三位と日本国のみしるしを引き換えになどと、子供じみた手は使われぬのが後白河院というお人だ。」

重能「なるほど―(考えこむ)」

知盛「(やがて)民部、見ろ、あの北斗を。あの剣先の方角には金神が位して、それを背に負うて戦わねば戦さは必ず敗れる―陰陽寮の小博士がいつやらいっていたのを、その時は気にも留めずに聞き流していたが―」


重能「あの星は時刻と季節を知るのに役立つだけのものでございましょう。」

知盛「その通り、あの剣先は一日ひと夜に、また十二の月に、十二の干支を尾差しながらめぐっている。万劫の過去から尽未来際、十二の干支を順々に、狂うことなく尾差してめぐっている。」

重能「人の世の営みとはかかわりもないことでございましょう。」

知盛「天と地のあいだにはな、民部よ、われら人間の頭では計り切れぬ多くのことがあるらしいぞ。」

重能「どこへおいでになります。」

知盛「この狭い屋島の磯のほかに、広い日本国のどこへいまいくところがある。暫くして大船に戻る。」(去る)

重能「お人が変わった。なにやら気弱になってしまわれた。それにいわれることの端々がどうも合点が行かぬ。従三位行中納言左兵衛の督平の朝臣知盛の卿、あの橋合戦のご出陣以来逞しく成長され、宮廷に仕えてただ官職位階を競う者のみ多いご一門の中にあって、誰に劣らず武人たるの力量を持ちただ一人大将たるの器量をそなえられ、その故にこそ一門末の郎党からまで敬われ頼りとされてこられたお人ではないか。何ぼ初めの負け戦とはいっても、あのご様子はいろいろと合点が行かぬ。とりわけてあの馬のこと、わが名と平家武門の意地をその背に負われて、常に全軍の真先かけて乗ってこられたあの名馬をむざむざと敵の手へ。―敗戦の狼狽からか?狼狽はもう少し偉くない者のすることだ。御子息武蔵の守さまを討たせたお気落ちからか?それもあるにはあろうが―何にせよ、あの馬と共に平家の御運が去って行ったのでなければ幸いだが。

何とか新中納言さまに、いま一度奮い立ってお貰い申さねば。おれもこの四国では、どの豪族にもひけをとることない阿波の民部大夫重能だ。平家一門、ここで再び御盛運に向かわれるように何としても力を致さねば、長年御恩を蒙った故平相国清盛公に申し訳がない。また―わが身わが一族にとっても、それよりほかに生きて行く道はないのだ。」(去る)