2016年6月27日月曜日

20160627 340記事到達 学問分野における才能のピーク・・?

今回の記事投稿により作成、投稿した記事数が340になります・・。300記事からこの340記事までは、何故であるか分かりませんが、とても早く感じました。

このような感じで365記事まで到達したいところではありますが、さて、今後どのようなことが生じるかもよくわかりませんので、まあ、引き続き、肩の力を抜いて、一つ一つの記事を作成してゆこうと考えております。

そういえば、先日、数年前に購入した書籍を読んでいますと、そこに記されている内容が、これまた何故であるかわかりませんが、大変新鮮に感じられ、その書籍を購入した以前の自分とは、もしかすると現在の私よりも優れていたのではないかと考えさせられました・・(笑)。

そのように考えてみますと、何であれ知識、学識、見識そしてそれらを統合したいわゆる「才能」といったものは、そのピークといったものがあり、人から聞いたハナシによりますと、理系学問分野におけるピークとは大体30代に訪れるそうで、そうした時期は、何かしら神がかっているようにも見えるということです・・。

それに対し、文系学問分野における才能のピークとは、一般的に理系学問分野のそれに比べて若干遅いということであり、まあ40代がもっとも創造的であるということです・・。

これらがどこまで科学的な意味で事実、本当であるかどうかは分かりませんが、少なくとも面白い意見であるとは思います・・(笑)。

また、たしかに理系学問分野、文系学問分野双方において才能を示す、創造的である時期は、各々の学問の性質上(理系が演繹法的、文系が帰納法的)により、何かしらの相異があり、また文系学問分野のそれは理系学問分野におけるそれよりも「遅いであろう」ということは漠然と、体感的にではありますが納得できます・・。

それ故、一つの試みとして、理系学問分野に進んだ方々は、自身が興味関心を持つことの出来る文系学問分野の一つを副専攻のような形で学び、研究するということは、知性の持続可能性を保持するという意味において、多少は有益であるように思われます。

他方で、文系学問分野に進んだ方々は理系学問分野において同様のことをするのです・・。

学問、研究、職業などの専門性が重要視される一方で、持続可能性もまた大事であると説かれている昨今ですが、これは社会、組織などといった集団に「のみ」に該当することを企図したものなのでしょうか・・?

個人の能動的な活動による知性の持続可能性(発展持続性)とは、長い目で考えてみますと、無視できない影響を社会に対しもたらすのではないかとも思われますが如何でしょうか?

とはいえ、ここまで記していて不図想起したことは、冒頭に挙げた「数年前に購入した書籍」を読んだ影響がここに出ているのではないかということです・・(笑)。

また、そのようなことを記しておりますと、今度はつい先日、抜粋引用した野上彌生子著の「迷路」下巻を想起します・・。

以前、この著作については「今後、抜粋引用することがないであろう。」と記しましたが、この箇所を面白く思い、つい書写してしまいました・・(苦笑)。

願わくは、この記事を読んだ(より多くの)方々が、その著作に興味を抱いて頂ければと思います。

また、今後機会がありましたら、冒頭に挙げた著作からも抜粋引用してみようと考えております・・。

その著者は、何度かこれまでのブログ記事に記したことがありますが、現在読んでいても「これはスゴイ!」と思える何かがあります・・。

こうした感覚とは、一体何処からくるのでしょうか・・(笑)。

ともあれ、ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。

また、さる四月の熊本の大地震にて被災された地域の早急なる復旧それに続く復興を祈念しています。








加藤周一著「夕陽妄語Ⅰ」筑摩書房刊 pp.249‐252より抜粋 20160626

「広島の原爆は、今から四十三年前の八月の事である。日本人がその事を忘れず、毎年の八月に世界へ向かって核兵器の廃絶を訴えるのは、まことに当然である。広島では日本人自身が犠牲者であった。しかしその立場からの訴えは、みずからが加害者で、他国の非戦闘老若男女の多数を犠牲にした場合にも、その事を忘れず、その責任の自覚を失わないことによって、説得力を増すだろう。逆に犠牲者としての自分自身のみを強調し、加害者としての自己を不問に付すれば、説得力は減じる。故に「ヒロシマ」と「南京虐殺」とは絡む。


しかしそれだけではない。中国との関係が、「南京」を日本側が忘れたり、ごまかしたりすることで、うまくゆかぬだろうことは、周知の通りであり。加害者が忘れても、被害者は忘れない。またいうまでもなく、倫理的にみれば、無抵抗の市民を殺すことが罪悪であるのは、その市民の国籍とは関係がない。「ヒロシマ」の子供も、南京の子供も、ドゥレスデンやマニラやアウシュヴィッツの子供と同じように、子供である。

しかし「南京」のまえには、「旅順虐殺」があった。今日の日本人が四十三年後も「ヒロシマ」を忘れないように、「南京虐殺」当時(一九三七)の中国人は、その四十三年まえの「旅順」を覚えていたはずである―ということに、無知な私の注意を喚起してくれたのは、畏友内藤佼子さんである。私は内藤さんから貸与された資料を読んだ。旅順での事件の詳細には、不明の点もあるが、その要領はおよそ次のようになるだろう。


日清戦争で、黄海の海戦に勝ち、制海権を握った日本軍は、朝鮮半島から北上する第一軍とは別に、大山巌大将の率いる第二軍を遼東半島に上陸させ、まず金州・大連を抜き、次いで旅順を陥落させた。その陥落は一八九四年十一月二十一日である。当日旅順市街に入った日本軍は、進撃の途中、先発の日本軍戦死者の屍体が残虐に斬りきざまれているのを見て激怒し、市中の「兵民男女老弱ヲ別タズ」、四日間にわたって、中国人を殺害した。一人の兵士の従軍日記は、「支那兵ト見タラ粉ニセント欲シ、旅順市中ノ人ト見テモ皆討殺シタリ、・・人家ニ居ルモ皆殺シ、大抵ノ人家二三人ヨリ五六人死者ノナキ家ハナシ」という(窪田仲蔵「一兵士の見た日清戦争」。宇野俊一「日本の歴史26、日清・日露」小学館、一九七六、六二ページ、の引用による)。


事件を目撃したのは、当事者ばかりでなく、また欧米の従軍記者や従軍した武官たちでもあった。一八九四年十一月の欧米の新聞には、「旅順口の虐殺」の記事があらわれる。十二月一日には、「タイムズ通信者の一人」が、旅順からの帰りに広島(戦争の司令部は広島にあった)の外相陸奥宗光を訪ね、日本軍が捕虜を「縛リタル儘ニテ殺害シ」、「平民特ニ婦人マデヲ殺シタルコト」は、「欧米各新聞ガ目撃」したばかりでなく、「各国艦隊ノ士官特ニ英国海軍中将ナドモ実地ヲ見タ」ことであるといい、日本史政府の善後策を訊いている(外務省記録、五―二―二、電受第七一五号、明治二十七年十二月一日、広島陸奥宗光外務大臣より林外務次官宛、外務省外交史料館)。


十二月二十五日には、新聞ばかりでなく、米国やロシアの行使が外相に説明をもとめはじめた。この時点での陸奥は、「事実は到底取消シ能ハサルコト」と考え、「旅順口一件ハ今日ニ在テハ唯タ日本政府及ビ日本ノ輿論ハ決シテ其暴行ヲ正当ト認メズトノ一事ガ僅ニ世界に対スル申訳ケナリ」として、「時事新報」や「日本新聞」の社説のその暴行を正当とするかのような議論を鋭く批判していた(外務省記録、五―二―二、電送第六六三号、明治二十七年十二月十五日、陸奥外務大臣より鍋島外務書記官を通じて伊藤総理大臣への伝言、外務省外交史料館)。


政府は結局、責任者を追及せず、その意味での善後策をとらず、欧米各国には弁解をつづけ、日本国民には何らの真相も知らせなかった。そして世界が、殊に日本国内の人々が、その事件を忘れるのを待ったのであろう。もちろん犠牲者のことは考えていない。だから四十三年後の一九三七年に、南京での虐殺事件が起こったのである。「南京」の加害者は「旅順」を覚えていなかった。「南京」の犠牲者は「旅順」を覚えていたし、今でも覚えている(たとえば薫志正編著「旅大史話」、遼寧人民出版社、一九八四)。


今日、日本国民のすべてが、「旅順虐殺」事件を忘れ去ったとは必ずしもいえないだろう。たしかに専門家は事件を知っているし、何人かの歴史家は事件を叙述している(たとえば宇野俊一、前掲書、または藤村道生「日清戦争」、岩波新書、一九七三、など)。しかし国民の圧倒的多数は、「南京」は覚えていても、「旅順」に思い至ったのである。そうして二つの事件を比較することが、日本の近代史を、沈黙による歪曲から救い出して客観的に理解するために、役立つだろうと考えた。


二つの事件は、国際的反響の大きな出来事を日本政府が国民に報らせようとしなかったという点で似ている。そのために、世界中で知っていることを日本人だけが知らないという状態が生じた。また責任の所在をあきらかにして、しかるべき処置をとろうとしなかった点でも、酷似している。すなわち犠牲者に対しての無責任が、共通の特徴である。


しかし大きなちがいもある。「旅順」の場合には、政府内部、殊に陸奥宗光を中心とした外務省の内部で、欧米諸国の世論を問題にし、それを考慮しながら政策を決めようとする努力が際だっていたのに対し、「南京」の場合には、もはや国際世論を問題にせず―たとえ外務省がそれを問題にしたとしても、外務省には政策決定についての力はなく―、「帝国不動の方針」を貫こうとした。一九三七年の日本政府の国際世論に対する態度は、一八九四年のそれと全くちがって、基本的な政策を動かし得るものではなかった。


なぜそのようなちがいが生じたか。「日清戦争」当時の日本は、軍事小国であり、少なくとも政府はそのことを意識していたが、その後軍備を増大させた「日支事変」当時の日本は、みずからを軍事大国と空想するようになったからである。かくして軍事力の増強は、常に必ずしも国の安全を保障しないということが、よくわかる。強大な軍事力は、実にしばしば、一国の政府と国民の国際世論に対する感受性を弱め、さらには国際情勢一般の理解力を極度に低下させる。それがどれほど多くの犠牲を自他に強いるかは、日本の場合にかぎらず、今さらいうまでもないだろう。」


  • ISBN-10: 4480433384
  • ISBN-13: 978-4480433381








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