2015年10月28日水曜日

北杜夫著「どくとるマンボウ医局記」中央公論社刊pp.284-294より抜粋20151020

夢と芸術との関係は昔から注意されてきて、古いところではアリストテレスが、芸術家や哲学者が作品を生み出す際に、しばしば夢に教えられることがある事実を指摘している。
こうしたことを重要視するのは危険であるが話の順序として、夢を見ていわゆる「無意識的創造」を行ったと伝えられる芸術家の実例をあげよう。
ベートーヴェンは友人あての手紙のなかで書いてある。
「僕はウィーン行の馬車の中で眠った。夢のなかで、僕は遠い国へ旅をしシリヤにもインドにも行き又帰国し、最後にはイエルサレムにも行った。聖都は聖書のことを憶いださせた、と同時に、僕はカノンを考えついた。
目覚めるともうそれは消えてしまい、どうしても思い出せなかった。けれども翌日同じ馬車で帰る途中うつつに夢のなかの旅をつづけてみると、連想のおかげで僕はそのカノンを思い出した。僕はメニエライがプロチウスに飛びついたようにそれに飛びつき、三声にわけて歌わせることにした」。
リヒャルト・ワグナーも自伝のなかでこう書いている。
「死ぬほど疲れきって、私はぐっすり眠ろうと固い寝床に横になった。けれど眠れなかった。やがて私は夢遊病者の状態におちいった。不意に、私は急流に沈んでゆくような気がし、そのくだける音が変帆ホ長調のように思えた。
それははげしく流れて比喩的なオルペドウロになった。
私は波頭が私の頭上高くうちあうのを感じながら現つの夢から目覚めた。自分がうまくゆかないで苦しんでいた「ラインの黄金」の前奏曲を幻に見ていたのだ」。
もっとも著名なのはタルティーニの場合であろう。
老後彼が語ったところによると、彼は悪魔に魂を売った夢を見、悪魔に自分のヴァイオリンを手渡してみた。
「ところが実に驚いたことに、悪魔が完璧な腕前で演奏するのを聞かされたことです。
そのソナタは私の想像がいかに大胆に天空を馳せたとしても、到底太刀打ちできぬほどいみじくも美しいものでした。私は歓喜し、我を忘れ、魔法にかかったように思いました。私は息もできず、そこで目が覚めたのです。
私はヴァイオリンをとり、今聞いたあの曲に比べればどのくらい劣っているかわかりません」。
画家としてはラファエロの話をブラマンテが伝えている。「ある夜ラファエロは、それまでもしばしばあったように聖母に祈る夢を見、感動して目覚めた。闇のなかに、彼の寝台の前の壁が映っていた。よく見ると、壁には未完成のマドンナの姿が優しい光につつまれ、完全に、また生けるがごとく懸かっていた。その神々しさは云わんかたなく、その姿は今にも動くかと思われた。否、本当に動いていると見えた。しかし特に驚くべきことは、ラファエロが生涯求めていたもの、彼がおぼろに予感していたものが、その像の中に見出されたことである。彼がふたたび寝たかどうか憶えていないが、翌朝起きた時は生まれ変わったようだった。
なぜなら、その面影が永久に彼の魂と感動のうちに感銘されたのだから。こうして彼は聖母を心深く宿る姿に描くことができた」。作家の例は枚挙に暇ないが、ヴォルテールは「アンリアード」第一部の変形を夢にみた。
「私は目覚めていてはいえないようなことを夢を見ながらいった。こうして私の理想のあるものは私の意志でなく私の方から働きかけることなくしてできあがった」。
またプーシュキンは次のように語る。
「私はエゼキエル書の断章をよみ、ふかく心を打たれました。私が「予言者」のなかで言葉を変えて歌ったのはそれです。その断章は数日間頭にこびりついていましたが、ある夜私はその詩を書きあげました。私は起き上がって書き出したのですが、どうもその詩の言葉は夢に見たものとしか思われません」。
別の箇所で彼はこうも述べている。「時折、夢の間に不思議な詩の文句を見つけます。それは夢ながら素晴らしいものです」。そのほか、コルリッヂは夢から「クーブラ・カーン」を作り、ドストエフスキイは主人公たちやある場面の夢をみて「未成年」を書く気持を起し、トルストイは短編「何を私は夢に見たか」を書いたと伝えられている。
だがはじめに述べたように、こうした例を誇大に評価するのは間違いである。人々は素朴に天才たちを讃えるために、誇張して語り伝えたという点を考えねばならない。
エリスも「実際の睡眠中に時として行われた天才人の創作活動や、彼らが夢のなかでうけた暗示などに言及する必要はまずあるまい」と述べた。
たとえばコルリッヂの詩の場合にしても、実は阿片の影響の下であって、正常な睡眠中になされたのではないと仮定してもよいこと、タルティーニの場合でも、その曲が夢のなかでつくられたと断定する根拠はいささかもないことを指摘している。
ただこれらの挿話から、いかに彼らの自我が強く欲求していたかということ、彼らがやがて産みだそうとしていたものにたして彼らの魂がいかに意欲し模索していたかを感じとって頂ければよい。

彼らには強烈な力が内在していた。だから夢を見た。偶然夢があって何物かが生まれたのではなく、事実はその逆である。通俗的に好んで伝えられるインスピレーションなども同様である。手をこまねいて天からおとずれるものなどありはしない。たとえ本人自身が意識していないにせよ、彼の無意識ないし不意識が長い間求め、もがき、探り、そして感じとった産物なのである。
夢は一つの象徴であり、波間にあらわれた氷山の一角にすぎない。海面下に沈んだ膨大な部分のあることを忘れて、これらの話をうけとっては皮相な見方をまぬかれないであろう。
 ここで触れねばならないことに、夢の目的の問題がある。フロイトすべての夢を過去の願望の象徴と考えたが、ユングなどはこの解釈は後向きのものであり、もう一つ前向きの解釈がなされてよいとしている。
前向きの解釈というのは、未来にむかってなんらかの目的をもつというので、それでなければ前述の創造現象を説明することがむずかしい。

空想ということになると、さらにこの傾向は強くなる。

 空想は覚醒時の現象であるから、夢と同様の産物であるにせよ、もっと現実性がいりこんでいて、もっと意識的のものである。
われわれは現実に直面して不満をもつものであり、架空の世界に逃げこみ、かりそめの満足を求める。

ひとり取り残されたシンデレラと同様、田舎者は都会を夢み、腹のすいたビフテキを頭に描き、旧軍人がふたたび無敵皇軍の威容を思うなど、食欲、性欲、権勢欲などを満たそうとする。


これが行動の面にあらわれたのが子どもの遊びで、彼らは葉っぱを浮かべて舟と見たて、地面に線をひいて家のつもりでいる。

空想は現実逃避にはちがいないが、ユングのいう前向きの傾向の一面を有している。子どもの遊びが、未来の生活のための目的をもっていることを考えれば、この前向きの一面が、創造というものにつながるのである。

 空想にもあらゆる段階がある。
 創造者は強烈な自我をもち、したがって欲求がつよく不満もつよい人間であるといってもいい。
彼らは現実社会に適応しにくい。

よりよきもの、より美しいもの、より真なものを求める。

またより奇怪なもの、より醜悪なもの、より罪深いものを欲求するかも知れない。
空想の世界ではすべてお束縛がとかれる。

時間も空間も無視され、はじめてわれわれは無限を意識することができる。

自由という言葉は空想の世界でのみ可能である。

狂気したことのない人は遂に幸福を知らぬ人間だ」というラムの言葉にしても、そうした意味で受けとられるだろう。だが、いかに魅惑にみち、可能性にあふれた空想にしても、それだけでは客観的な価値はない。それは閉ざされた世界であり、そうした不毛の夢想なら、われわれすべてがなしている訳だ。これに意識的な操作が加えられ、現実性、社会性をおびてこそ、芸術作品としてわれわれの財宝にもなりうるのである。マラルメはいう。「暗示するこれこそわれわれの夢である。この神秘を完全に駆使することが象徴を構成する」。

創造の母体はあくまでも「夢」であり、創造者の秘密をとくになんらかの意味で、夢、幼児、無意識といった問題にふれないわけにはいかない。
彼らが空想にふけりやすいところは幼児に似ている。性格的には分裂気質、内閉的といったものと密接につながっている。

 創造的空想が、視覚、嗅覚、聴覚などから誘導されてくることは多くの実例がある。シラーはいう。「最初に情緒のある音楽的基礎があらわれる。」ついで詩的観念が生じてくる」。
クライストは、音楽が自分の思想に言葉の衣服を着せる基礎だ、と述べ、レーピンはリームスキイ・コルサコフの音楽から「イワン雷帝」の題材を得た。
コンドラーチェフの画法は、「なにか曲が奏でられ、まだ写実的乃至空想的な形象が視覚に浮んでこないうちは、リズムを線で画く」ことで、「メロディはどれも各その一定の色」であらわされた。またアセスは「リズムをつけて手足を交互にふるダンサーの絵を見て」オペラ「ラゴルスキイ王」を作り、真赤なケシの花からコルサコフは「カシュチュイ」を作曲せずにいられなかった。嗅覚の例としては、腐敗した林檎の香とシラー、松露の香とバイロンなどがあげられよう。空想から作品が生まれる創造の過程をドストエフスキイは苦役と呼んだ。彼の兄宛の書簡。「兄さんはそんな理論を持たれるか、そんな場面を大急ぎに書き上げねばならないと考えるか。どこもかしこも大変な労作なのです!プーシュキンの軽快な数行の詩も、易々書かれていると見るまでには、どのくらい長く推敲し書き直したかわからないのです。私はたとえばある場面をすぐ書き上げても、数ヶ月、一年以上も書き直しに要します」。ショパンはサンドの伝えるところによると、或一音の変転のために数週間を身をもだえして子どものように泣いた。フロベールは一ページ半書き上げるのに十二ページを書き汚した。セロフはある肖像画を描くのに九十回ポーズを変えさせた。

どのようにして芸術が生まれてゆくかという過程を、心理学的に解明することは可能であろうか。カントは、「予定を許さぬ創造的空想の遊戯三昧」という言葉を使い、はっきりと創造的現象にたいする実験的方法を否定している。ハルトマンは「創造の根底にある無意識的作用はいかなる場合にも自己観察を許さない」といい、リーボなども大体同じ意見を述べている。これにたいしヴントはいう。「空想の研究という課題は実験の課題と思われる。実験的方法のみが、対象と空想形象との間の関係を正しく支配する条件を意のままに変化させることができる」。
いずれにせよ、科学と芸術は次元の異なる存在であって、ある一側面をうきださす照明以上の役目を果たさないことは確かであろう。
グルゼンベルグの言葉は傾聴に価する。「もし創造心理学が芸術家の創造的空想の法則に関する学となるのを願うならば、それは形而上学的仮定や誘惑的イリュージョンから離れて、似而非なる「創造心理学」の樹立が可能なることを信じてはならない」。
トーマス・マンは詩人を定義して、自分自身のことだけを述べてそれがそのまま全世界を述べていることになる人のことだ、という意味のことを書いているが、同じように、元来個人的な、閉ざされたものである「夢」を解きはなち、普遍性、社会性を付与したものが芸術であるといってもよいだろう。
マンの名前がでたついでに、この辺で固苦しい話からはなれて、ジイドが比べるものがないと呼んだ彼の長編「魔の山」をひもどいてみることにする。
 この小説の主人公ハンス・カストルプは単純な「人生の厄介息子」であり、低地から隔絶されたダヴォスの療養所にはびこる「病菌」の実験材料にすぎない。対立した教育者たちは、この青年をそれぞれの自分の陣にひきいれようとする。だがあるときカストルプは吹雪に迷い、雪のなかで美しくも怖ろしい夢を見た。はじめ彼の前には、明るい霧雨のヴェールの下から、深い紺青の南海があらわれる。海浜の砂地の上では美しい太陽の子らが、楽しげに子どもっぽい、同時に品位にみちてつつましく、馬に乗ったり弓をひいたりして遊んでいる。それは見ていても胸がふくらみ温かくなるような光景だった。だがやがてカストルプは背後の神殿で行われているむごたらしい饗宴にも気づく。そこでは魔女のような老婆が白髪を乱し半裸体で、野蛮な落着いた様子で嬰児を裂いて食べている。彼はもろい骨が老婆の口の中でくだける音を聞き、醜悪な唇から血がしたたるのを見た。そこで彼は目ざめるが、それらの光景をどこかで知っているような気がする。
「僕は一体どこで見たことがあったのだろう?誰も自分の心だけで夢を生むのじゃなくて、めいめい思い思いの見様はしても、本当は無名で共同で夢を見るのではなかろうか。ある大きな塊があり、それが僕という一小部分を通して、僕は僕なりに、いつもその魂がひそかに夢見ている事柄を夢見るのだろう」。そしてカストルプは人間の地位と本領を考え、はきりと彼の「陣」をとる。「僕は人間の地位を夢に見、また人間の礼儀正しい聡明な恭謙な社会を夢に見た。その後ろの神殿では凄惨な血の饗宴が行われていることをひそかに考えているから、太陽の子らはあのように礼儀正しく麗しくいたわりあうのだろうか?」「死の冒険は生のなかにあって、それがなかったら生は生でなくなるだろう。そしてその真中、冒険と理性との中間こそ人間の位置すべき場所である。その真中の位置にあって、人間は上品にやさしくうやうやしく自己を遇さねばならない。なぜなら人間だけが尊いのであって、対立する考え方が尊いのではないからだ。対立しあう考え方も人間があってこそ存在するのだ。だから人間はどんな対立よりも尊いのだ。人間は死よりも尊く、死に耽溺するには尊すぎる。知性の自由を持つからだ。また人間は生よりも尊く、生に耽溺してしまうには尊すぎる。心に敬虔な気持をもつからだ。なんだこれは詩のようだぞ。人間についての夢の詩のようだ。僕はこれを覚えておこう」。
その通り、忘れさられたように見えたこの夢は、彼の魂の底ではずっと生きつづけていた。だから彼は「大きな無感覚」から目覚め、魔の山をくだるようになるのである。
ハンス・カストルプの雪中の夢を、後ろ向きの夢、前向きの夢という観点から眺めてみてもいい。たしかに「夢」はこの二面をもっているのだ。またどんな個人的の夢であっても、それは人間というものから、社会から切り離して存在するものではない。われわれは社会の一員であり、歴史というものに規定されている。またそれであるからこそ、個人個人の「夢」も、われわれの共通財産ともなりうるのである。われわれの「夢」の中には、人間の過去、現在、未来が含まれているのだ。
かつて、夢といえば無意味なもの、はかないもの、美しいものと考えられてきた。今日のわれわれは、夢に意味があることを知っている。それが溶鉱炉のどろどろしたたぎり、生臭いもの、醜悪なもの、抑圧されたものから成っていることを知っている。だが、人間はこの暗黒の中から、獣的なものの中から、絶えず美しいものを産み出しつづけてきた。われわれは「夢」の本質に目をそむけてはならぬ。いわゆる夢幻というヴェールをおしやり、きびしい認識の照明の下にさらしたとき、そこには執拗な生体の息吹きが、さまざまのエネルギーの葛藤が見られるだろう。芸術という面だけから見れば、大多数の「夢」は不毛の自慰に終り、いくばくかのものが見事な果実を結ぶ。

ISBN-10: 4122022657
ISBN-13: 978-4122022652

なだいなだ著「続娘の学校」中央公論社刊pp.148-154より抜粋20151028

はやいものだ。もう三年にもなるだろうか。NHKの番組で、私は、ある未来学者と名乗る人物っと討論したことがあった。討論には、まだ他にも二人ばかり参加していた。番組は、一九七〇年代に、私たちの地球がどうなるかをとりあげていた。
一方では、月に人間を送りこみ、それを通信衛星で世界の人たちがテレビ画像に見るという、大きな事件のあった直後でもあった。それは二十世紀の科学の進歩を、強く印象づける壮大なショウとでもいえるものであった。
が、他方では、あちこちで、公害や自然破壊が起こって、ようやく問題になりかけていた。そして、それが、未来に、大きな不安をいだかせていた。

討論では、今のような形で未来に進んでは、地球が回復不可能な自然破壊をこうむる、科学の進歩をとめねばならない、という主張と、現代の科学技術をもってすれば、自然と調和した成長が可能だという主張がぶつかりあった。
一方は、科学の進歩は、私たちをしあわせてにしただろうか、と科学を否定し、科学者を嫌悪する口ぶりだったし、未来学者は、こうした人たちを、頑迷な無知な人間たちと呼んで衝突した。
未来学者は、小柄な人物だったが、非常に威勢のいい、エネルギーのかたまりのような人物だった。
なにしろ、日に十冊の本を読み、百枚の原稿を書き、数回講演をしてまわると、自分のタフぶりを自慢にする人である。
こちらは、そんな話を聞いただけで目がまわる。彼のいうことは、とても勇ましかった。

「何ですと、先は暗いですと。科学の進歩など不要ですと。公害ですと。なにをこわがるのです。これまでの人類の歴史にも、いくらも困難がありましたよ。人類は滅亡するなんてさわいだこともありました。
しかし、人類は、そのすべてを克服して、現在ここにあるんじゃないですか。しかも、科学の進歩によって克服して来たんです。それなのに、科学の進歩がいけない、進歩をとめろですと。冗談いっちゃいけない。公害なんて、なぜ恐れるんです。公害があるのはたしかです。しかし、これまでに、これほどのものを作りだして来た科学技術を用いれば、公害なんてものはかならず解決できますよ。
すぐに、工場なども無公害化できます。そもそも、現在の公害だって、科学の力で、PPmを測定しているじゃないですか。
昔だったら、こんな微量の物質を測定できましたか。科学の進歩のおかげじゃないですか。それに、生産をおさえろですと、経済成長がいけないですと。それなら、どうやって、公害対策の研究費を作るんですか」

私は医者である。医者というものは、科学者のかたわれである。その討論に加わっていた、ただ一人の科学者だった私は、一方から、被告のようにとがめられ、未来学者から強引な弁護をされ、非常に居心地のわるいところにすわらされた気分だった。科学の進歩にいいところが少しもなかったといわれると、それは極端すぎやしないかねえと答えたかったが、その未来学者のように、勇ましい弁護をされると、恥ずかしくて、聞いていられない気がした。その間、議論は進んだ。

水俣病はどうです。科学技術の進歩は、悪をもたらさなかったといえますか」

「水俣病ですか。あんなものは、公害ではないですよ。あんなのは、れっきとした犯罪です。あんなチッソなんて会社は、びしびしと取り締まればいい。
チッソと、他の私たちの生活をゆたかにしている会社といっしょにしてもらったら、困ります。チッソが悪いのを、科学技術の罪だなんていうのは、あまりの飛躍です。
人殺しの犯人が一人いたからといって、人間全体が悪で、いいところはなにもないというようなものです」

「でも、川は汚れていないですか。カドミウム水銀で。海はヘドロで汚れていませんか。空気はスモッグで。
そのため、私たちの生活は、めちゃめちゃになりかけていませんか」


「心配ありません。それはたしかにそうでしょう。しかし、それも科学技術の進歩によって解決できます。」


「でも、それまでの間はどうしますか」


「人間には適応力があり、公害でほろびるものがあっても、かならず生きのびるものがいます。
汚れた空気も平気、汚れた水をのんでもびくともせず、生き残った人間が、二十一世紀の洋々とした時代をになうことになる。
二十一世紀の未来は、公害に耐えた、たくましい人間たちの前に開かれるものなんです。」


私は、そのやりとりを聞いていた。
議論というのは、両極端がぶつかりあった方が面白い。
中間的の立場では、議論をしても影がうすくなる。歯切れも悪い。
私は、おしっこのがまんをしていて、その方ばかりを気にしていた。
だが、私は、未来学者の主張のあまりの勇ましさに、がまんしきれなくなって、口をはさんだ。討論に来た以上、参加しなければならぬ義務感もあったからである。私はいった。


「科学技術の進歩によって、公害問題は解決できるといわれましたが、あなたに自信があるのですか」

「自信があります」

断乎とした口調で、相手は答えた。

「それで、あなたは科学者なのですか。自然科学者なのですか」

「いいえ、未来学者です。経済学を勉強しました」

私は、困った顔でいった。

「私は、科学者のかたわれです。医者です。
だが、私は自信をもって、解決できるなんでいえないのです。
たとえば、医者だからいうのですが、ある人たちは、すべてのガンの治療は一九八〇年までに、薬で克服されるといいます。
しかし、まだ、その薬は、発見されていません。
だから、これから、発見しなければならないのです。
ところが、発見には運とか偶然がつきものです。その運や偶然を、科学者としては、期待できないのです。だから、別の面でも、同じではないか、ぼくは、そう思うんですがねえ」

相手は、私を見て、情けない科学者だという顔をした。

「どうして、あなたは、悲観的なのです。ガンの研究だって、大変な進歩をしているじゃないですか」

「それはそうです。もう、あと一歩という感じです。でも、エベレストの登山だってそうでしたが、あと一歩というところまで行っても、それからが難しいのはないですか。そりゃ、いつかは解決できるでしょう。ガンの問題もねえ。それから、公害の問題も。
だけど、公害によって、人類の大半がほろびる前にそれをやれという、タイムリミットを与えられても、自信をもって間にあわせられるだろうということは、できませんねえ」

「でも、人間にだって、公害に対する抵抗力というものがあります。次の世代は、公害になれるでしょう」

「いやいや、個人の適応力には限度があります。だから、現に公害病がでているのです。突然変異で、公害に強い人間が生まれることを適応と呼ぶのです。これは不可能でしょう。世代の交替が非常に多ければ、それも考えられます。たとえば、細菌のように、一日で、数十世代も交替するようだったら。でも、一世代が二十年かかって交替するような人間に、二十年で突然変異は可能性として考えられませんね」

相手の未来学者は、私にいった。

「あんたはまったくのペシミストですなあ。よく、これまで生きて来られたですなあ」

私は、今、その三年前のことを思いだす。
そして、私は、いよいよ自信をなくしている。
まったく、よく生きていられるなあと思う。たしかに、未来学者のいったように、科学の進歩は、いくつかの公害対策の技術の開発をみちびいた。排気ガスの基準に合格する自動車のエンジンも作られた。お前たち生徒も知っているように、私は十万円も高い金を出して、その公害対策車なるものを買った。だが、依然として、東京の空気は悪くなる一方な。なんだか、そんなものは、焼石に水のような気がするのだ。そして、最近の、水銀魚事件である。海の汚れはひどくなっている。私は、三年前、何もこのんで、暗く見ていたわけではない。私は、ペシミストだったわけではない。ただ、ありのままを見ていたのだ。私は、科学の進歩を、頭から否定はしない。ただ、進歩は着実にあっても、公害のひろまりとの追いかけっこごっこで、科学に分がなさそうだと思っただけなのだ。


  • ISBN-10: 4122004675
  • ISBN-13: 978-4122004672

  • なだいなだ

    なだいなだ著「続娘の学校」中央公論社刊pp.65-69より抜粋

    お前たちに、私はここで繰返しいっておく。二十世紀から二十一世紀にかけて、いよいよ、政治はテレビショー化していく。選挙もショーなら、戦争もショー、和平もショーなのだ。
    だが、このショーのむこうに演出されない世界があることを忘れるなと。

    このベトナム戦争は、正直のところ、アメリカにとって、まったく名目の立たない戦争であった。強引な戦争であった。これまでの戦争のルールを、まったく無視した戦争であった。その点で、米国にまったく弁解の余地はない。全く、無法な戦争だった。それは、はっきりしている。

    それにひきかえて、解放戦線、北ベトナムの側には、戦争をするだけの充分の名目があった。すくなくとも八割か九割の、正しい要求があった。
    これまでの戦争のルールに従えば、民族独立、分裂国家の統一を悲願とするのは、充分になっとくできることだった。
    そして、その目的のために、ハダシで、ゴム草履で、あらゆる知恵をあつめて、科学的装備にたちむかうベトコンは、戦争のこれまでのルールで判断すれば、賛美にあたいした。みにくいアメリカの戦争のおかげで、それはいっそう美しく見えた。

    そのために、私たちは、米国を非難すると、いつしか、解放戦線の、北ベトナムの論理にいっそくとびに立ってしまうことになったのだ。しかし、あの停戦ショーを見ているうちに、私の目には、その二つの陣営の間にはさまって、自分たちの生まれる前からはじめられた戦争になげこまれている、非政治的民衆の姿が見えて来たのである。
    しかも、ベトナムの悲劇は、その非政治的な民衆の数の多さにあったのだ。しかも、彼らは、まるで政治的にめざめた人間でないことで、彼らの代弁者を持たない。彼らは、かわいそうにと、同情の対象にされるだけである。そのために、数の多さにもかかわらず、彼らは存在しないも同然だった。そして、停戦の協定に代表さえ出せなかった。
    そもそも、代表を出せたら、彼らは非政治的でなくなる。
    だからといって存在さえ忘れられてしまうのは、なんと不幸なことであろう。

    私は解放戦線の論理に同意し同感しながら、彼らの勝利という言葉に空しさを感じたのは、私は、どちらかといえば、この目の前に現れた非政治的民衆の中に身をおきだしたからではないかと思うのだ。

    私は、お前たちに、このベトナムで起こったことを、もういちど、よく見つめさせたいと思う。
    そして、これまで、ねぼけた連中のように扱われていた、非政治的人間の立場に立つことを、教えたいと思う。

    彼らは、平和をのぞむのである。決して勝利をのぞむのではない。勝利は政治家たりの名誉にしかすぎない。名誉ぬきの裸の平和こそ、民衆のものだ。平和を欲するが、平和を、勝利をとおしてえようとすれば、平和は遠ざかる。現にベトナムの平和への道は、なんと遠かったことか。

    平和をのぞむのなら、いちばん早いのは、敗北である。
    私は、お前たちに、ここで敗北主義こそ平和主義であることを忘れるなといいたいのだ。日本の平和は、三十年前の敗北の果ての平和なのである。その時勝者だったアメリカの平和は、どうなっているだろう。敗北もまた平和をもたらすが、政治家たちは、敗北によって、平和どころか国がなくなるかのように、おどすのである。だが、敗北で消え去るのは、政治家だけである。

    もし戦争が起こりそうになった時、平和主義者は、お前たちにちかってもいいが、いつでも、どこの国でも、敗北主義者のレッテルをはられる。もし、お前たちが、平和主義者であろうとするなら、敗北主義者ときめつけようとするものに、答えるがいい。

    「では、あなたは勝利主義者なのですね」

    お前たちは、そこで勝利主義者という敗北主義者の反対語が、日本語の中で、ほとんど使われることがないのに気がつくだろう。敗北主義というイデオロギーはあるが、勝利主義は、思想ですらないのである。敗北主義は、ののしりの言葉であると同時にイデオロギーなのだ。非政治的人間たちの平和論なのである。

    敗北の認識がなくなったところから、三十年戦争は始まり、みなごろし戦争は生まれる。人間が、人間の歴史の中からつかみとらねばならぬのは、敗北の観念であったのだ。

    われわれの日常生活での人間関係は、

    「負けました」「まいりました」「シャッポをぬぎました」「お手あげです」

    という言葉から、きずかれているのである。それを認めるところから社会のルールはきずかれ、文化は生まれたのだ。
    だから、私たちの非政治的な日常は、それらの言葉で埋められているのだ。ところが、政治は、それらの言葉を拒否した。敗北主義として、それらの言葉を追放し、威勢のいい勝利の呼び声だけを認めるようになった。

    お前たちも、日常から敗北の認識がなくなったら、どうなるかわかるだろう。しかし政治家たちはこの、日常からさえ敗北主義者を追放しようとするのだ。もし、お前たちが、日常的平和をのぞむなら、その時は、敗北主義者をイデオロギーとして政治に持ちこまねばならない。私はベトナムの和平のニクソンショーを見ながら、そう考え、ますます、ゆううつな気分にとらえられたのである。
     
     
  • ISBN-10: 4122004675
  • ISBN-13: 978-4122004672

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    なだいなだ

     
    【戦後70年】敗戦?終戦?『戦後』の正体! 米国ケツなめ。。。(白井聡・宮台真司)
     
     
     
     

    なだいなだ著「娘の学校」中央公論社刊pp.196-201より抜粋

    昭和三十九年の八月の末、私は一年足らずのヨーロッパ滞在をおえて、コペンハーゲン経由北極廻りの日航機で、東京に帰って来た。
    飛行機は、混んでいなかった。それでも半数ほどの座席はふさがっていただろうか。

    窓際に席をとり、隣に来た客がモロッコ人の医者で、フランス語が達者だったので、私は彼とずっとおしゃべりをし続けた。
    十六時間半、私たちは一睡もせず、何でもかでも、話のたねにし、おしゃべりのマラソンを続けたのである。
    このことから、私を大変なおしゃべりと、はやまって断定してはならない。

    実を言うと、私は、どうも飛行機というやつが好かんのである。
    乗ると、なんとなく不安を感じるのである。
    眠るどころではないのだ。
    そこで、その不安をごまかすために、おしゃべりをしたのだった。
    相手のモロッコ人の医者の気持も同様であった。
    しかし、これは、お前たちのママには内緒である。
    私は日ごろ、女の方がゼッタイおしゃべりだと主張しているので、こんなおしゃべりマラソンの記録など知られると困るのだ。
    今のところ、お前たちのママのおしゃべり長電話記録は、私が新宿で数度電話したがお話中であり、飯田橋の家にもどったら、さっきお話し中の電話の続きをまだやっていたというものだ。
    この記録を、彼女はあまり光栄なものと思っておらず、しきりとその時の相手がなんとおしゃべりだったかと感嘆して見せるのである。
    彼女が、私たちの記録を知り、その記録に挑戦するような気持を起こさないためにも、このことは、お前たちのママには知らせてはならぬ。

    ともかく、内容はどうということもなかった。
    目に浮ぶもの、頭に浮ぶものすべてについて、何でも話しのたねにした。そうしなければ、十六時間半、たとえ会話の形とはいえ、おしゃべりのしっぱなしというのは難しい。

    「日本にも砂漠があるか」

    とモロッコの医者が言えば、

    「モロッコの冬は寒いのか」

    と私が問いかえすぐあいで、毒のない会話ばかりだった。
    私は、乗客の顔を見て骨相学の話をしたりもした。

    「いいかね。われわれのところと通路をはさんで向う側の席の、白髪の日本人だが」

    私は、相棒に言った。

    「あの、三人分の座席を占領して横になって毛布をひっかぶってる男かね」

    「そうだ、そうだ」

    「よく眠る男だな。
    コペンから乗ったが、離陸して、ベルトを外してよしのサインが出たら、すぐゴロリだ。
    スチュワーデスが、食事を食べんかってゆりうごかしたが、起きようともせんぞ」

    モロッコ人の医者は、あきれたような表情でつぶやいた。
    私は彼に小声で言った。

    「その、あのよく眠る男だがな、あの男は日本の小説家の川端康成という人物に、非常によく似ておるのだ。
    そもそも僕もだな、ほんものは見たことがないのだがな、他人の空似といっても、これほどよく似ている例は、あまりあるまいな」

    アンカレッジで、燃料補給のために、空港内で朝食をとって時をすごす。私たちは、川端康成に似た白髪の老人と、同じテーブルになった。

    「似とる。全くよく似とる。テレビに、そっくりショーというのがあるが、あの番組でぜひ本物と対決させるべきだ。」

    私たちは、そこでもおしゃべりを続けた。
    私たちはフランス語で話し続けていた。
    白髪の老人は、私の正面で、ただ黙々と、パンもミルクもコーヒーもとらず、オレンジなかり二つたて続けに食べ、そして三つ目のオレンジに、ギョロリとした目を向けた。

    「あのギョロリと凝視する目付き、あの偏執的ともいえる事物凝視の目、あそこまで真似られるというのは、もう立派なものだな。」

    私は叫んだ。
    男は、アンカレッジから東京まで、また眠り続けだった。
    まるで眠りの森の老王であった。「まだ眠っとるぞ」

    「よく、まあ眠れるもんだな、あきないで」

    と私たちは言ったが、そこには、自分たちが飛行機がこわくて神経質に一睡も出来ないことについての、劣等感の反映もあったようだ。

    羽田空港について、税関を通り、私は早々と外に出た。
    そして、お前たち娘どもにとりかこまれた。
    その迎えの人の中に、私に急用があって来ていた雑誌記者の人が一人いて、私の姿を認めて、にこやかな顔で近づいて来た。ところが、その人は、私のほうに一直線に進んで来る途中で、急に方向を変え、

    「あ、川端先生」

    と叫ぶと、あの、私が川端康成に非常によく似た人物と呼んだ、白髪の老人の方にすっとんで行ってしまった。

    私は、その時になって、自分が、どうしてその時まで、本人だと思わず非常に似ている別人と思いこんでいたのか不思議だった。
    そして、ホンモノである可能性をすっかり考えなかった自分のオッチョコチョイさかげんに気づくと、われながら、がっかりした。

    川端康成のホンモノは、自分のところにあわててとんで来た雑誌記者を見ると、腹立たしげに言った。その話し声が、私の耳に入って来た。

    「この飛行機で帰って来ることは、誰にも知らしておらんのだ。それなのに、どうして、君は、私がこの便で帰ることをかぎつけたのだ」

    「いいえ、かぎつけたなんて。偶然です。別の方に用事があって来たら、先生がおられたので、すぐ御挨拶に」

    雑誌記者の人は、相手のご機嫌の状態に気づいて、いいわけをした。

    「ともかく、一人にしてくれ。私はくたびれている。コペンハーゲンから、羽田まで一睡もしておらんのだ」

    川端康成のホンモノは、そう言った。

    私は、やれやれ、と、それを聞いて首を振った。
    「一睡もしておらんのだ、か。コペンから羽田まで、眠りの森の老王のように眠り続けていたくせに」

    私は、その時、大文豪となるためには、このくらい堂々と、正反対のことを言えるようでなくてはならんのだな、と思った。そしておれのように正直では、とうてい、文豪などおぼつかないぞ、としみじみ思ったのだった。

    私が、今、この原稿を書いている時、その川端康成氏が、ノーベル文学賞を受賞する式の様子が、テレビ中継されている。そのテレビに大写しになった表情を見て、私は、急に四年前の羽田空港でのことを思い出した、というわけである。


    娘の学校



  • ISBN-10: 4122000297
  • ISBN-13: 978-4122000292

  • なだいなだ