2024年1月30日火曜日

20240129 株式会社新潮社刊 新潮選書 高坂正尭著「歴史としての二十世紀」pp.98-100より抜粋

株式会社新潮社刊 新潮選書 高坂正尭著「歴史としての二十世紀」pp.98-100より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4106039044
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4106039041

下からの議論の積み上げは許されるが、上が決断を下したら、全党一丸となってその決定に従い、分派活動は禁じられるというのが「民主集中制」です。レーニンが作ろうとしたのは、決定を下した後は上意下達を鉄則とする一枚岩の政党でした。彼はロシアの後発性を自覚し、「西欧の民主主義国とは違う。言論の自由もない。議会もお飾りのようで力がない。普通のやり方では変革できない」と主張します。そして、「ツァ―リズムを倒すためには、強力な戦闘力を持った共産党を作る以外に方法はない」と説きました。当然のことながら、彼の議論に対して「そんなものを造ったら独裁制になってしまう」という批判が、同時代のマルクス主義者から出ました。

 しかし、レーニンの主張は説得力があり、マルクス・レーニン主義は共産主義が進む基本路線になりました。ところが厄介なのは、専制体制をなくしても民主主義になるわけではないのです。困ったことに、敵を効果的にやっつけるためには自分が戦っている相手と似る傾向があり、専制体制を潰すための組織は自らも専制的になりました。この点では、日本のように、戦前の軍国主義体制をGHQのような赤の他人に潰してもらった方がうまくいくのかもしれません。「タナボタ主義の哲学」とでも言いましょうか、そのプロセスはされおき、結果は上々でした。敵と対峙すると相手に似てくるのは冷戦期にも見られ、アメリカがソ連と似てしまったのもその一例でしょう。

 同じく共産革命が起こった中国にも共通していますが、何百年どころか二〇〇〇年も専制君主支配にあった国では革命が成功しても民主主義は根付かないという説明もあります。ただし、ロシアの場合、十九世紀末に急速な工業化を成し遂げていたという見逃せない事実もあります。 

 話は脇道にそれますが、「ロシア」と呼ぶか、「ソ連」と呼ぶかにも議論がありまして、一昔前には「ロシア」と言うと、「それは祖連邦である。ロシアとはなんのかかわりもない」と叱られたものです。当時、いかにマルクス主義に威光があったかを示していますが、馬鹿な話で、ロシアと言えば話は簡単だったのです。中国も共産主義国だから「共中」でもいいようなものですが中国と言わなきゃいけない。とやかく呼称にうるさいのは、精神的になにか抑圧的なものがある証拠なのでしょう。

 十九世紀後半から二十世紀の初め、日本とロシアの工業化の進み具合はほぼ同じでした。日本は明治維新から一八九〇年までの二五年間で労働者が倍増しました。その後の一〇年も倍増していますから、結局、工業労働人口は四倍になります。

 さらに忘れてはいけないのは、日露戦争に負けてから第一次世界大戦まで、ロシアが急テンポで工業化を進めたことです。ひょっとすると、そのスピードは日本より速かったかもしれません。その時代、無用の対外的冒険主義をやめて平和に徹したのがよかったのでしょう。

 ただし、急速な発展は社会の矛盾を大きくします。さらに、よせばいいのに、帝政ロシアは第一次世界大戦に参戦します。それがなければ、ロシア経済はさらに発展し、二〇年もすれば、一度は敗れた日本を完全に打ち負かす経済力をつけていたかもしれません。ところが、「バルカンは自分の庭である」、「兄弟はほっておけない」と、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者夫妻が暗殺されたサラエボ事件後、同じスラブ人のセルビアを支援しました。国に挙げての総力戦でロシア経済はひどく疲弊し、国内では革命派と反革命派が争いました。革命の後の内戦には外国が介入し、一九一四年から二〇年までの期間、経済は二、三〇年分後退したと言ってよいえでょう。そのため、ソ連体制に移行した後、共産主義政権は大急ぎで国を立て直さなければいけませんでした。そこで推し進められたのが、強引な工業化だったのです。