2024年1月3日水曜日

20240102 創元社刊 スティーブ・パーカー著 千葉 喜久枝訳 『医療の歴史:穿孔開頭術から幹細胞治療までの1万2千年史』 pp.191‐192より抜粋

創元社刊 スティーブ・パーカー著 千葉 喜久枝訳 『医療の歴史:穿孔開頭術から幹細胞治療までの1万2千年史』
pp.191‐192より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4422202383
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4422202389

ナイチンゲールが新たな役割についた時、クリミア戦争が始まった。ロシアがトルコを脅かし、フランスとイングランドがトルコ軍を支援するために軍隊を派遣した。戦いは主にクリミア半島(現在のウクライナの一部)で繰り広げられた。戦況の報告は、当時開発されたばかりの電信によって記録的な速さで届いた。戦場写真も戦場で展開しているドラマを一般民衆に近づけることを可能にした最新の呼び物だった。ナイチンゲールは戦傷者のための病院でのひどい状況を知ると、何か手伝いたいと熱望した。戦時大臣で親しい友人のシドニー・ハーバードが彼女に看護婦を手配するよう頼んできた。1854年11月、ナイチンゲールと38人の女性がトルコのスクタリ・セリミエ・バラックス病院(今日のイスタンブールの一部)に到着した。患者以外、ほとんどすべての備品が不足していた。「水を入れる容器も、何の道具もなかった。石けん、タオル、布もなく、病人用の着物もなかった。人々は、血糊でこわばった、口に出すののもはばかれるような汚物のこびりついた軍服を着たまま横たわっていた。彼らの身体は虫で覆われていた・・・」。ナイチンゲールは施設を改革し、食事と水の供給を改善した。看護兵(助手)を再編成し、もっと多くの上等な備品を要求した。彼女がかつて頼って衛生委員会を要求すると、翌年の春、下水設備全体を改修するために委員会がやって来た。彼女はさらに栄養状態の改善を求めた。スクタリの死亡率は低下した。このことに関しては、どの程度まで、どれだけすばやく、そしてなぜ、ということがその後何度も論議されてきた。ナイチンゲール自身は一度も特別な責任を主張しなかった。それにもかかわらず、彼女がイングランドへ戻ると、一般民衆は「タイムズ」に掲載された彼女の献身的看護についての記事に強い関心を持った。「軍医が夜に休み、沈黙と暗闇がおおった時でも・・・彼女が一人で小さなランプを手に見回りをしている姿が見られるかもしれない」。こうして彼女は「ランプを持った女性」という称号を獲得した。

 1856年にクリミア戦争が終結するとナイチンゲールは帰国し、すぐにヴィクトリア女王へ軍事病院の改革を優先させるよう嘆願した。ぞっとするような状況に戻ることを阻止しようと決意した彼女は、感染を避けるうえで清潔が重要であることを当局に納得させるため、自分の得意な統計学を利用した。何が原因で兵士が亡くなったかー傷なのか、予防可能な病気なのか、それとも他の要因なのかー比較するため、現在の円グラフに似た精密なグラフを考案した。ナイチンゲールはつつましく暮らし、大量に執筆した。クリミア戦争について彼女が綴った「英国陸軍の健康と効率と病院管理に影響をおよぼした事柄について」(1858年)は、軍事病院によりより下水設備と最新の成果を取り入れた栄養、全体に改善された治療をもたらすのに役立った。彼女の豊かな才能はあらゆるところで発揮された。インドの反乱についてのニュースから彼女は当地の英国軍の状況と、地元の人々が苦しんでいた貧困と栄養不足に関心を向けた。ナイチンゲールは自分の影響力を利用して、インド政府に衛生局を設立するよう説得した、1859年、彼女は有名な著作「看護についての覚書」を出版した。「それは誰もが持つべき知識と認められるー職業についている人だけが持つことが出来る医学知識とは異なる」。翌年彼女はロンドンの聖トマス病院にナイチンゲール看護学校と看護師寮を設立した。この学校により看護職が、適切な訓練と資格、キャリアの向上、報酬をともなう正式の職業として確立した。