2020年11月30日月曜日

20201130 岩波書店刊 宮地正人著「幕末維新変革史」上巻 pp.392-393より抜粋

岩波書店刊 宮地正人著「幕末維新変革史」上巻

pp.392-393より抜粋

ISBN-10 : 4006003919
ISBN-13 : 978-4006003913

 長州藩過激派は江戸において尊王攘夷運動を加速すべく、11月13日、横浜近郊の金沢において外人襲撃計画を企てた。薩藩は生麦にて攘夷の実を挙げた、ととらえていたからである。しかしながら警備が厳重のため実行は断念された。この時は、後述の別勅使(大原勅使と区別するための表現)で長州過激派を熟知している三条実美姉小路公知両名が滞府しており、右の挙を阻止するため、勅命伝達直前に「横浜斬夷等の挙」ありては、一時に事の敗れと相成る故、「折角の大志暫時猶予」すべしとの書状を急派している。宛先は「久坂殿始」である。また世子毛利定広も行動阻止のため馬で途中まで出向く事態になった。

 この際のメンバーは、久坂高杉井上馨品川弥二郎大和弥八郎長嶺内蔵太寺島忠三郎有吉熊次郎白井小助赤根武人山尾庸三の11名である。

 この挙の直後、彼らは「百折不撓、夷狄を掃除し、上は叡慮を貫き、下は君意を徹する外他念無之、国家の御楯となるべき覚悟肝要たり」と誓い、御楯組を結成、その後山田顕義吉田稔麿野村靖らも加わり、総計25名となった。

 御楯組の面々は、将軍家茂が奉勅攘夷を誓い、両勅使が12月7日江戸を出立した後の12月12日、品川御殿山の英国公使館を焼打ちし、その上で政局の中心地となる京都に上るのである。

202011129【架空の話】・其の50

会計を済ませた丁度のところで携帯電話が鳴った。時刻は既に11:00をまわっており、おそらくはBからであろうと思い確認してみると、果たしてそれはBからであった。

Bは「今そちらに向かっていて信号待ちだけれども、あと10分くらいでホテルに着くから、それじゃ。」と云い、それに私が返事をしようとすると既に通話は切れていた。ともあれ、そこから再度ホテルに戻り、フロントに一声かけてから隣接する駐車場に行き、Bの着くのを待っていると、駐車場スタッフの方に「何番に駐車ですか?」と訊ねられたため事情を説明すると「ああ、聞いてますよ。」と云いメモを見てから確認するように頷かれた。

陽はさしているとはいえ、この時季は動かないでいるとすぐに寒くなってくる。もう少し暖かい服装で来るべきであったかななどと思っていると、昨日見た白の軽バンが通りの向こうから見えてきた。私が少し通りに出てこちらに手招きすると、気が付いたようでスムーズにホテル駐車場の方に入って来た。そして駐車の後、整理券を受け取り、ホテルロビーを通ってT文館の方に向かった。

Bは「いやあ、思ったより早く着いたよ。それで、今日の昼は何を食べようか?」と聞いてきた。私は今朝、専門職大学に行って、ファーストフード店で少し重めの朝食を摂ったことを手短に伝えた。」すると、しばらく黙ってから「そうか、ええと、前こっちに来た時は、どこのラーメン屋さんで食べたの?」と重ねて聞いたきたため「ああ、Y形屋っていうデパートのすぐ近くにある、たしかTって云うお店だったかな。」と返事をすると、すぐに「ああ、あそこは老舗だね。じゃあ、そのすぐ近くにもう一軒Fっていうラーメン屋さんがあって、こっちも美味しいし、普通のラーメンなら、そこまで量も多くないから、そこにしようか?」と聞いてきた。

特に異論はないためすかさず同意すると「じゃ、そこに行こうか。」と云い、そのまま歩き続けた。そして、さきのお茶屋さんも過ぎ、さらに市電が曲がるところもそのままアーケードに沿って歩き、一つ目の電停とも接続している横断歩道を渡り、そこからさらに市電沿いに歩いていると、その横にはBが内定した銀行のかなり大きな支店か本店営業部らしい趣の建物があったため、歩きながら聞いてみると「ああ、本店ではないかれど、ここには営業統括部があるんだ。それと、近いうちにこちらに本店が移転するとも聞いているよ。」とのことであった。

やがてその建物を過ぎたすぐの角を右側に曲がりしばらく行くと、以前のラーメン屋さんとは感じが異なるが、これまた味のある佇まいのお店が見えて来た。開店後あまり時間は経っていないようだが、店内にはお客さんが少なからずいて、見たところ、こちらも地元客が多いように思われた。暖簾をくぐり店内に入りメニューを見てみると「ラーメン専門」と謳っているだけありラーメンと大盛とライスのみの構成であった。

Bと一緒にラーメンを注文すると、すぐに暖かいお茶と、かなりの量と云える大根の浅漬けが出て来た。この浅漬けの量はさすがに驚いたが、Bにそれを聞いたところ「まあ二人分だからね。」とのことであってが、これには私の質問の意図が上手く伝わっていないように感じられ少し歯がゆかった・・。やがてラーメンがやってきたが、その見た目はさきのTと似ているように感じられた。そして味の方も系統としては似ているが、こちらの方がスープが澄んではいるものの、その味にパンチがあり、少し脂が勝っているように感じられた。また全体的にはTと甲乙つけがたいくらいに美味しく、さらに大きな発見であったのは、同じ九州といっても、Kのラーメンは、北部の福岡や久留米や熊本のそれと比べ、スープが澄んで淡く、あまり強い「豚骨」感がないということであった。

これと近いものとして思いつくのは「沖縄そば」と云える。しかし、それとは麺が大きく異なり、共通する要素と云えるのは「澄んで淡泊な豚骨スープと」いったところであろうか・・。

また、そのようなことを考えていて、不図思い出したのは、以前に台湾からの留学生と都内町場にある中華料理店に行った時に漢族系本省人と云っていた彼が「日本の中華料理は美味しいけれども全部しょっぱい、塩辛いね。」と云っていたことである・・。考えてみると沖縄はKの先であり、さらに台湾は沖縄の先とも云えることから、それらには通底、共通する味覚に対する嗜好のようなものがあるのかもしれない・・。そして、さらには昨日Bが云っていた鳥刺しなどの生食文化についての見解とも関係があるのではないかと思われた・・。

こうしたことはBには云わず、黙って食べたが、あまりそればかりに傾き過ぎるのもどうかと思われるが、やはり、地域の食文化は大変面白いものであると感じられた。

*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!



ISBN978-4-263-46420-5

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2020年11月29日日曜日

20201128 【架空の話】を49話まで続けて思ったこと・状況の整理

 去る4月末から断続的にではあれ、現在に至るまで書き続けている【架空の話】もおかげさまで49話まで書き進めることが出来ました。しかしながら、そのモデルとなっている自身の経験全てから考えてみますと、これまでの文量は、その全体の10%にも至っておりません。それ故、今後、当【架空の話】を書き進めるに当たり、その書き進め方については、今しばらく検討する必要があるのではないかと考えています。

具体的には、物語の進行の速度であり、これまで夏頃から物語が始まり、そして現在翌年の1月末頃を描いていることから、期間的には半年程度を49回に分け、さらにその焦点を当てている時期は編入試験とWへの旅行およびその後の時期であり、出来れば、今後2話程後にはKでの新生活が始まるようにしたいと考えてますが、こういったものを書いていて面白いと感じることは、書いているうちに、その物語の筋を即興にて変えることがあるのですが、その筋にて書いていると、再度興に乗り、ある時期・場所の描写を念入りに書いてしまうことであり、これが続くと当初の漠然としたものであれ、予定と噛み合うことが困難になり、本格的に「脱線」していくことになります。たしかにそれはそれで、その時書いていて面白いとは感じているのですが、他方でやはり、さきに述べた「全体の筋・予定」も同様に重要であると思われることから、今回このような文章を作成して、自身としても状況の整理を促し、また今後の物語進行の方向性を大まかなものであれ、読んで頂いている皆様に対し提示することにより、その路線にて書き進める必要性が生じると思われますので、これはこれで意味があると自身としては考える次第です。

また、これまでの経緯からしますと、蛇足気味にはなりますが、当【架空の話】をしばらく継続して作成し、その他については書籍からの抜粋引用文を記事としていますと、他のこれまでに作成してきたような記事を書く”コツ”のようなものを忘れてしまったような感覚を覚えるのです。そして、そうした状態にて作成することが出来る、自身オリジナルの記事とは、こうした【架空の話】にまつわるものであり、自身としても多少驚くところです。

とはいえ、それ以外にて記事作成が出来ないというわけではなく、おそらく自身内部の異なる記憶の相には、これまである程度の期間、継続的に作成してきた雑文記事のような文章を作成するための「記憶の相」が存在するはずであると思われ、また感じられることから、もし、それを強く望むのであれば、しばらく時間を必要とするとは思われますが、再度、そうした雑文系の記事を書き続けることは出来るのではないかと思われます・・。あるいは、そうしたところは、もっと疑問視すべきところであるのかもしれませんが・・。

ともあれ、現在の私はそうした状況であり、そして次回からは【架空の話】の先を作成して行こうと考えています。

*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!



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2020年11月26日木曜日

202011126【架空の話】・其の49

その後、ホテルに戻ったのは9:50頃であり、無事にチェックアウトも終えた。とはいえ、Bが着くまではまだ少し時間があることから、腹ごなしも兼ねて、また少しT文館を散策しようと思い立った。

そこで、財布など貴重品以外の荷物をフロントに預け、再度街に出てみると、週末ということもあり、人通りは朝よりも大分増えていた。してみると、さきほど覗いた専門職大学は国家試験が集中する期間ということもあってか、週末にも直前の講義を行っていたのだろう・・。

ともあれ、私の方は再びT文館の電停を挟む交差点から、今度は名君と謳われた旧藩主を祀った神社の方に出向いてみた。この神社は特に古い由緒を持つわけではないが、社叢はキレイに整備され、また社殿は時代を感じさせるものではないものの「丁寧且つ重厚に造られた」といった感じを受けた。こうしたところは、以前兄と参拝したW市に鎮座する国造家が代々神主を務めるあの神社とは、異なった印象を受けたが、こちらの方が南国ということもあってか、大胆な豪壮さが目立ち、対してW市の神社は、社叢などでも出来るだけ「自然のまま」を大事にした、詫び・寂びにも通じる感覚があるように思われた。

あるいは、こうしたところにも地域性は発露するのであろうかと思いつつ、これからお世話になるKの神社に参拝をして今度はその表参道を通り、再びT文館に戻ることにした。表参道とは云っても東京のそれとは感じが異なり、その神社側奥の景色には、Wとはまた異なった様相の山なみが控えていた。また参道左手には大きな公園があり、既に家族連れなどで賑わいつつあったが、そこを過ぎて交差点を渡ると、再びアーケード街に入った。このあたりは映画館やアウトドア・ショップ、また比較的大きな遊戯施設などが並んでおり、街並みは参道ということもあってかキレイに整備されていた。そして、そのあたりを過ぎて再び市電が走る通りに出るあたりに、味のある構えのお店が目に入ってきた。なおもお店に近づくと、日本茶の薫りがしてきて、また、店内には一休み出来るように野点の茶会に用いる緋毛氈をかけた床几台も置かれていた。日本茶のお店であったが、その薫りは首都圏でのそれと若干異なるように感じられたことから、店内の方を少し気にしつつ歩いていると、店内から「どうぞ一服されてみてはいかがでしょうか?」と声を掛けられた。おそらく50代くらいの、これまた元気な感じの女性であったが、促されるまま店内に入ると店内に置いてあるお茶の説明をしてくれ、さらに小さな丼のような形の煎茶茶碗に注がれたお茶を出して頂いた。「あの歌」でも分かるとおり、この時期はお茶の旬の季節ではないが、ここ南国ともいえるKでは、もうじき四月初旬には新茶が出回るので、その時も是非飲んでみて欲しいとのことであった。ともあれ、そこで飲んだお茶は淹れ方も良かったのだろうが、これまでに飲んだお茶の中で最も味や薫りが濃厚に感じられた。お茶も作物・植物であることから蜜柑などの柑橘と同様、産地によって味が異なるということが、ここで初めて体感として理解できた。とはいえ、お店の方はあまりそうしたことに頓着しない様子で、商品の説明を続けられていたが、その中でスティック状の小袋に入った粉末状のお茶が手軽で良さそうであると思い。「すいません、あのスティック状の袋に入ったお茶を少し頂けますか?」と訊ねてみると、気安く応じて頂いた。その味や薫りもさきと同様であり、尚且つ手軽であると思われたことから、実家やD先生や指導教員へのお土産に良いと思い10本入りのものを三つ購入させて頂いた。

昨日の鶏の肝刺と云い、このお茶と云い、やはり異なった地域には、異なった種類の美味しさがあるものだと実感しつつ、会計を済ませた丁度のところで携帯電話が鳴った。時刻は既に11:00をまわっており、おそらくはBからであろうと確認すると、果たしてそれはBからであった。

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2020年11月25日水曜日

202011125【架空の話】・其の48

ちなみにE先生は、年齢がこの時29歳であり、比較的私とも近く、その後、色々とお世話になることも多かった。

その後、ブラブラとT文館を一巡し、途中でペットボトルの暖かいお茶も購入して、ホテルに帰着したのは22:30頃であった。部屋に戻ると、テレビを点けてから、バスタブにお湯を溜めつつ、ベッドに座っていると、僅かに外の繁華街の喧騒が聞こえてきたが、それもまた何故だか、異郷にいることを感じさせた。

やがて、バスタブに湯も溜まり、決して広くはないトイレと一体になったユニットバス内で器用にシャワーで身体を流してから、バスタブに浸かった。気のせいであるかもしれないが、どうも水が首都圏よりも柔らかいように感じられた。しかし、その後、幾つかの地域にて風呂に浸かる経験を経てきたが、この時の感覚は間違いとは思えず、たとえ水道水であろうと、地域による相違はあるのではないかと、現在に至るまで考えている。

さて、風呂から上がり少しのぼせ気味の中、テレビをボーっと観ていると、時刻は24:00近くになっていた。翌日は特に早起きする必要はないものの、少し早く出て、またT文館を歩いてみようと思ったが、そこで不図、ホテルのチェック・アウト時刻が10:00であり、また明日Bがやって来るのが昼前であることを思い出した。そして、Bがやってくる頃には既に宿泊客ではなくなっている私に駐車場を貸してもらえるかが心配になってきた・・。そこで、フロントに内線電話をかけようとしたが、こうしたことは面と向かって言った方が良いと思い、タオルで頭をもう一度拭いてから、客室備え付けの寝間着を着てフロントに向かった。冬季だけに室外は多少冷えたが、我慢できないほどではなかった。やがてフロント前に着くと、若い男性が何やらPCの入力作業のようなことを行っていてが、私の姿を認めると「何か御用でしょうか?」と訊ねてきた。そこで「明日、昼頃から14:00過ぎあたりまで駐車場を使わせてもらうことは可能か?」という主旨の質問をすると、すぐに一端バック・ヤードに下がり、そしたまたすぐに戻ってきてPCの画面を確認してから「ええ、明日の昼は大きな宴会も入っておりませんし、また、自動車でお越しになる早めのチェック・イン予定の方はいらっしゃいませんので、大丈夫です。ええと、何処のお部屋にお泊りでしょうか?」と訊ねてきたことから「はい、7階の7**号室の**と申します。」と返事をすると、ペンで何かを記入して「はい、承知しました。では、その旨、明日勤務の者にも申し伝えておきます。」とのことで、無事に駐車場を使用させて貰えることになった。

安心して、部屋に戻るとルームキーを室内に置いたまま出て来たことに気が付き、閉ざされたオート・ロックのドアの前で少し困惑したが、ここは速やかに再度フロントに行くべきと判断し、またフロントに戻った。フロントのスタッフの方も前と一緒であり、またこちらを認めると何か言い出しそうであったが、私が先に「すいません・・。ルームキーを室内に置いたままで出てきてしまいまして・・」と頭を掻きながら話しかけると「ああ、そうですか、では今ご一緒に伺います。7**号室の**様ですね。」と云い、バック・ヤードに一声掛けてから、しゃがんでキーケースの中にあると思しきマスター・キーを手に持ち、エレベーターに乗り解錠のために同行してくれた。

そこで少し雑談をしたが、こうしたことは度々生じるそうで、特に恥ずかしいことではないとのことであったが、しかし、それでもやはり恥ずかしいには違いないだろう・・。

そうして、どうにか再び室内で落ち着くことが出来たのは、24:00過ぎであり、早々に洗面や歯磨きなどをしてから、就寝した。この日も色々と初めての経験があったことから多少の気疲れもあったようで、すぐに寝付くことが出来た。

翌朝目を覚ましたのは7:30頃であり、特に用事もないことからテレビを点け、そのままベッドの中から観ていると、徐々に目が覚めてきて、ベッドから出て洗面、歯磨きなどを行い、着替えてから概ね荷物をまとめ終えたのが、大体8:15頃であった。チェック・アウトまではまだ大分時間があることから、どこかへ行ってみようと考えたところ、昨夜、偶然会った面接官(E先生)のことから思い出したのか、もう一度大学を見に行こうと思い付いた。そうと決めると動きは速やかになり、外出の準備を済ませて外に出た。今度はルーム・キーは持参したままである。

電停までは徒歩5分もかからずに、やがて来た中央駅方面への市電に乗り、目指す市民病院前駅に着いたのは8:50過ぎであり、思いのほかに早く着いた。そこから大学まではまた徒歩で1、2分程度であり、大学の前に立つと、どうやらこの時期は医療系資格の国家試験が集中しているようで、何だか全体にピリピリした雰囲気が漂っていた。こうした雰囲気は人文社会科学系の大学キャンパスではあまり感じられないものであり、これに関しては今に至るまで、どうも慣れることが出来ない・・。

ともあれ、そうした事情から、折角訪れたキャンパスではあるが、何やら邪魔をするようで悪いと感じ、また時刻も悪くないことから、編入試験の際も利用したファーストフード店に入ると、この時も以前と同様少なくない学生さんと思しき方々がいたが、混雑とまでは行かず、すぐに席も確保出来た。そして、ソーセージエッグマフィンセットを注文し、比較的時間をかけて食べ、食後も一休みしていると、時刻は9:30に近くなっていたことから、ホテルに戻るべく立ち上がり、そして「今日の昼食はあまり食べられないな・・」と不図思った。その後、ホテルに着いたのは9:50頃であり、無事にチェックアウトも終えた。とはいえ、Bが着くまではまだ少し時間があることから、腹ごなしも兼ねて、また少しT文館を散策しようと思い立った。

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20201125 株式会社講談社刊 村上春樹著「羊をめぐる冒険」上巻pp.19-22より抜粋

株式会社講談社刊 村上春樹著「羊をめぐる冒険」上巻pp.19-22より抜粋

ISBN-10 : 4062749122
ISBN-13 : 978-406274912

 1970年11月25日のあの奇妙な午後を、僕は今でもはっきりと覚えている。強い雨に叩き落された銀杏の葉が、雑木林にはさまれた小径を干上がった川のように黄色く染めていた。僕と彼女はポケットに両手をつっこんだまま、そんな道をぐるぐると歩きまわった。落ち葉を踏む二人のの靴音と鋭い鳥の声の他に何もなかった。

「あなたはいったい何を抱え込んでいるの?」と彼女が突然僕に訊ねた。

「たいしたことじゃないよ」と僕は言った。

彼女は少し先に進んでから道ばたに腰を下し、煙草をふかした。僕もその隣りに並んで腰を下した。

「いつも嫌な夢を見るの?」

「よく嫌な夢を見るよ。大抵は自動販売機の釣り銭が出てこない夢だけどね」

彼女は笑って僕の膝に手のひらを置き、それからひっこめた。

「きっとあまりしゃべりたくないのね?」

「きっとうまくしゃべれないことなんだ」

彼女は半分吸った煙草を地面に捨てて、丁寧に踏み消した。「本当にしゃべりたいことは、うまくしゃべれないものなのね。そう思わない。」

「わからないな」と僕は言った。

ばたばたという音を立てて地面から二羽の鳥がとびたち、雲ひとつない空に吸い込まれるように消えていった。我々はしばらく鳥の消えたあたりを黙って眺めていた。それから彼女は枯れた小枝で地面にわけのわからない図形を幾つか描いた。

「あなたと一緒に寝ていると、時々とても悲しくなっちゃうの」

「済まないと思うよ」と僕は言った。

「あなたのせいじゃないわ。それにあなたが私を抱いている時に別の女の子のことを考えているせいでもないのよ。そんなのはどうでもいいの。私が」彼女はそこで突然口えお閉ざしてゆっくりと地面に三本平行線を引いた。「わかんないわ」

「べつに心を閉ざしているつもりはないんだ」と僕は少し間をおいて言った。「何が起こったのか自分でもまだうまくつかめないだけなんだよ。僕はいろんなことをできるだけ公平につかみたいと思っている。必要以上に誇張したり、必要以上に現実的になったりしたくない。でもそれには時間がかかるんだ」

「どれくらいの時間?」

僕は首を振った。「わからないよ。一年で済むかもしれないし、十年かかるかもしれない」

 彼女は小枝を地面に捨て、立ち上がってコートについた枯草を払った。「ねえ、十年って永遠みたいだと思わない?」

「そうだね」と僕は言った。

 我々は林を抜けてICUのキャンパスまで歩き、いつものようにラウンジで座ってホットドッグをかじった。午後の二時で、ラウンジのテレビには三島由紀夫の姿が何度も何度も繰り返し映し出されていた。ヴォリュームが故障したせいで、音声は殆ど聞きとれなかったが、どちらにしてもそれは我々にとってはどうでもいいことだった。我々はホットドッグを食べてしまうと、もう一杯ずつコーヒーを飲んだ。一人の学生が椅子に乗ってヴォリュームのつまみをしばらくいじっていたが、あきらめて椅子から下りるとどこかに消えた。

「君が欲しいな」と僕は言った。

「いいわよ」と彼女は言って微笑んだ。

我々はコートのポケットに手を突っ込んだままアパートまでゆっくり歩いた。


2020年11月24日火曜日

20201124 河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 「21Lessonsー21世紀の人類のための21の思考」 pp.17-19より抜粋

河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 「21Lessonsー21世紀の人類のための21の思考」

ISBN:978-4-309-22788-7

pp.17-19より抜粋

人間は、事実や数値や方程式ではなく物語の形で物事を考える。そして、その物語は単純であればあるほど良い。どんな人も集団も、独自の物語や神話を持っている。だが20世紀には、ニューヨーク、ロンドン、ベルリン、モスクワのグローバルなエリート層が、過去をそっくり説明するとともに全世界の将来を予言するという触れ込みの、三つの壮大な物語を考え出した。ファシズムの物語と、共産主義の物語と、自由主義の物語だ。

 ファシズムの物語は、異なる国家間の闘争として歴史を説明し、他のあらゆる人間の集団を力づくで征服する一つの集団によって支配される世界を思い描いた。共産主義の物語は、異なる階級間の闘争として歴史を説明し、たとえ自由を犠牲にしても平等を確保する。中央集権化された社会制度によって、あらゆる集団が統一される世界を思い描いた。自由主義の物語は、自由と圧制との闘争として歴史を説明し、あらゆる人が自由に平和的に協力し、たとえ平等はある程度犠牲にしても中央の統制を最小限にとどめる世界を思い描いた。

 これら三つの物語の間の争いは、第二次世界大戦で最初の山場を迎え、この戦争によってファシズムが打ち負かされた。1940年代後期から80年代後期にかけて、世界は共産主義と自由主義という、残る二つの物語の間の戦場と化した。やがて共産主義の物語が破綻し、自由主義の物語が、人間の過去への主要なガイド兼、世界の将来への不可欠の手引きとして後に残されたーいや、グローバルなエリート層にはそう思えた。

 自由主義の物語は自由の価値と力を賛美し、次のように語る。人類は何千年にもわたって暴虐な政治体制の下で暮らしてきた。そうした体制は、政治的な権利や経済的な機会や個人の自由を人々にほとんど許さず、個人やアイデアや財の移動を厳しく制限した。だが人々は自由のために戦い、自由は着実に地歩を固めていった。民主的な政治体制が独裁政権を押しのけた。自由企業制が経済的制約に打ち勝った。人々は、偏狭な聖職者や旧弊な伝統にやみくもに従う代わりに、自分で考え、自らの心に従うことを学んだ。公道や頑丈な橋や活気に満ちた空港が、壁や堀や有刺鉄線のついた柵に取って代わった。

 自由主義の物語は、世の中では万事が順調であるわけではないことや、まだ乗り越えなければならない障害が多々あることを認める。地球上の多くが圧制者に支配されており、非常に自由主義的な国々でも、多くの国民が貧困や暴力や迫害に苦しんでいる。だが少なくとも、これらの問題を克服するために何をする必要があるかはわかっている。より多くの自由を人々に与えればいいのだ。私たちは人権を擁護し、全員に選挙権を与え、自由市場を確立し、個人やアイデアや財が世界中をできるだけ容易に移動できるようにする必要がある。この自由主義的な万能の解決法【わずかな違いこそあれ、ジョージ・W・ブッシュもバラク・オバマも受け容れている)によれば、私たちの政治制度と経済制度を自由主義化・グローバル化し続けさえすれば、万人のために平和と繁栄を生み出せるという。

 とどまる所を知らないこの進歩の大行進に加わる国々は、より早く平和と繁栄で報われる。この必然的な展開に逆らおうとする国々は、苦しむ羽目になるー彼等も目を覚まし、国境を開放し、社会と政治と市場を自由主義化するまでは。時間はかかるかもしれないが、北朝鮮やイラクやエルサルバドルさえもが、デンマークあるいはアイオワ州のように見えるようになるだろう。

 1990年代と2000年代には、この物語は繰り返し語られるグローバルな信条になった。ブラジルからインドまで多くの国の政府が、容赦ないこの歴史の進展に加わろうとして、自由主義の処方箋を採用した。そうしそこなった国は、太古の化石のように見えた。1997年、アメリカのビル・クリントン大統領は、中国が政治を自由主義化するのを拒めば、「歴史の流れに逆行する」ことになると、自信たっぷりに中国政府を批判した。

 ところが、2008年のグローバルな金融危機以来、世界中の人々が自由主義の物語にしだいに幻滅するようになった。壁やファイアウォールの人気が回復した。移民や貿易協定への抵抗が強まっている。表向きは民主主義の政府が、司法制度の独立性を損なったり、報道の自由を制限したり、いかなる反政府運動も叛逆呼ばわりしたりしている。トルコやロシアのような国の独裁者は、新しい種類の非自由主義的民主主義やあからさまな独裁制を試している。今日、中国共産党が歴史の流れに逆行していると自信を持って言い切れる人はほとんどいないだろう。

2020年11月23日月曜日

202011123【架空の話】・其の47

ここでBにご馳走になる理由は特にないことから、その旨を伝えると「いやいや、Cさんのこともあるから・・。」と云われ、そこで「ハッ」と感覚的には納得するに至ったものの、ここでの支払いとBとCさんが付き合っていることの明確な関係性は、イマイチよくわからなかった・・。

ともあれ、結局ここでの支払いはBが持つことで落ち着いた。店を出てから夜寒きT文館をぶらぶらと歩きながら私はBに「そういえば、あれからCさんとはどうなっているのか?」と訊ねると「うん、お蔭さまで続いているよ。昨日も電話を掛けて初の赴任先が延岡になったことを伝えたよ。」との返事であった。どうやら頻繁にやり取りはしているようだ。そしてなおも「それでCさんは延岡のことを聞いて何か云っていた?」と聞いてみると「ああ、よく分からないけれど「夏目漱石の「坊ちゃん」のうらなり君?みたい。」とか云っていたよ・・。」とのことであった。私はその意味が理解出来たが、どうもBは分かってないらしかったが、別に取り立てて説明を要することでもないと思い「ははあ、なるほどね。」と返事をした。また、Bもそのことをあまり気にしていないようであった・・。

Bは「新卒の赴任先は大体2年程度の勤務で次の転勤になると聞いているから、この次は多分K市内か、県内の近場がいいな。」と話したが、それは、これまでの6年間の東京での暮らしと比べると、特に長い期間ではないから余裕があるのかもしれない。他方で、私の場合、今回、24歳にして初めて一人暮らしを始めるわけだが、この先、無事に3年(2年次編入)で卒業したとしても、その後は一体どうなるのであろうか・・?と、この異郷の地の繁華街の真中で不図、漠然とした不安に襲われた・・。

そこへBが「じゃあ、明日はまた空港まで車で送るから、たしか17:00過ぎの便だったね。」じゃあ、昼前にホテルに着くようするから、車をホテルの駐車場に停めて、またこのあたりで昼食でも食べようか。」とのことであった。おそらく、この時期、Bも色々と大変であったのだと思われるが、こうして世話をしてくれるのはとてもありがたかった・・。

21時半過ぎ頃にBと電停で別れ、私はホテルに帰る前にコンビニで暖かいお茶でも買おうと思い、T文館を再びブラブラ歩いていると、向かいの方から背広を着た5,6名の集団がやって来るのが目に入った。その声色からして多少酔っていると思われたが、迷惑というほどでもなく、まあ「陽気な感じ」といったほどのものであった。さらに近づいてくると、その中の一人が、見覚えのある顔であることに気が付いた。先方もまた、私の視線に気が付いたようであり、なおも近づくと、その顔が編入試験の面接の際に右側に座っていた頤の立派な若手教員であることを思い出した。そして先方も、私のことを認識したようで、少し態度を取繕うかと思いきや、私に「おお、来年度入学の***君じゃないか?」と大きな声で話しかけてきた。私は「はい、その節のどうも・・。今日はアパートを探しに来ていました。また明日東京に戻ります。」と返事をすると教員は更に思い出したように「・・ああ、そうだ***君は向うの人だったんだ!いやあ、Kへようこそ!勉強頑張ってくれ給え!」と握手を求めて来られた。周囲の方々はそれを見て「ああ、Eがいる大学の新入生らしい」と言い合っていたが、E先生はどうやらこの中で一番若手のようであり、しかも何か嬉しいことがあったように見受けられた。とはいえ、それをこの場で質問するのも変であると思い、簡単に礼を述べてから立ち去ろうとすると背後から「また四月に会おうなあ・・!」と、これまた大きな声で云われた。

後になって知ったことだが、この日はE先生の学位審査の結果が出た日であり、私と遭遇したのは、その祝賀会の後であった。当時、E先生は専門職大学口腔保健工学科の助教を勤めつつK大学大学院医歯学総合研究科にて研究を続けており、学位取得が期待されていたのだが、この時はそれが達成出来て嬉しかったのだと思われる。ちなみにE先生は年齢がこの時29歳であり、比較的私とも近く、その後、色々とお世話になることも多かった。

*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!





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202011123【架空の話】・其の3・4加筆修正

「あと、大学での数少ない友人もこのK県の出身者でして・・」と話しているうちに、数少ないというよりも、唯一と云っても良い友人であるBのことを思い出していた・・。
Bは、経済学研究科の修士院生であり、会計学を専攻している。そして、さきにも触れたがK県の出身であり、その父親は公立病院にて院内薬剤師として勤務しているとのことであった。そのため、時折、医療系の話題になることもあったが、歯科医療については話題になったことはなかった。とはいえ、B自身は、銀行など金融系への就職を希望しており、その頃、就職活動の最中であった。

そうしたことを思い出し先生との会話に意識が戻り「ええ、それは少し面白そうですね。それで、その歯科技工士は、どのような仕事なのですか?と素人丸出しの質問をすると、先生は「うん、歯科技工士は平たく云うと入れ歯や銀歯などを作る職人さんと云えるのだが、現在、さまざまな工作機器やそれに使う材料も進歩していて、仕事内容も大きく変化しているところなんだ。そうした、まあ不安定な過渡期とも云える状況から、あまり成り手が少ないのかもしれないけれども、この仕事は、この先もなくてはならない重要なものなんだよ。
それだから最近は色々なところで、これまでの専門学校から大学へと改組されているんだ。だから、このハナシはちょっと検討してみても良いと思うよ・・。」とのことであった。単純な私はそれで少し高揚し、帰宅後に早速Bに電話を掛け、先生から聞いたK県の専門職大学のハナシを伝えたところ「うん、その専門職大学のハナシは前に親から聞いたことがあったが、設置されたのが丁度大学2年の時で、受験するには時既に遅しだったのだ・・。それよりも最近、地元K県の地銀の面接に呼ばれた。」と嬉しそうに話し、さらに「明日は時間があるから少し話そう。」とのことであった。同様に、家族に対し専門職大学のハナシをすると「学費が安ければ、どうにかなるかもしれないが、向こうに行ったら生活はどうするのだ?」とのことであったが、それでもエンジニアの父親からすると、手に職をつけることは、現在の非生産的な文系院生よりかは多少はマシなことであると考えているフシがあるおように感じられた・・。くわえて、K県のハナシでは、K県の県庁所在地K市には、今も先祖の墓があるとのことであり「もし受験して受かれば一度、そこも見てくると良い。」とのことであった。墓は遠い親戚が管理してくれているとのことであり、かなり昔のハナシになるが、先祖がこちらに移住してきたのは明治10年の西南戦争の前であり、戦争当時kにいた親戚の多くは西郷軍側に従軍し亡くなってしまったとのことであった・・。東京に出ていた私の先祖はその後、東京の学校を出て役人になり、最終的には国策で設立した某会社で、ある程度の地位に就き、引退後は故郷K県を思わせる温暖な静岡県沼津市に小さな家を買い、年の大半をそこで過ごしていたという。この沼津の家は現在も親戚が住んでいる。とはいうものの、ズボラな私は、おそらく肝心な話題となる歯科技工士については何も下調べせずに、翌日の昼過ぎに大学近くにある行きつけの喫茶店で、数週間ぶりにBと会っていた。
久しぶりに会ったBは金融系を志望する学生らしく、小ぎれいな服装をしていた。さて、ここで少しBの服装について触れようと思うが、その前に先ず、Bと出会った経緯から書いてみようと思う。

Bと初めて出会ったのは、大学入学後しばらく経ったGWの少し前頃であり、ある履修科目講義の開始時間少し前に講義室入口に一人の学生らしき男がやって来て、そこから教室内全体に聞こえるような声で「すいません。この教室に**ちゅうのはいますか!」と云った。それまで、いくつかのグループに分かれ、雑談や講義の準備などしていた講義室内の全員は、声の主に目をやった後、私のことを知っている数人が、こちらの方を少し見てからまた、それぞれの雑談や準備などに戻っていった。講義室内で**という苗字は私のみであり、且つ、この男性には面識がない。そのため、多少訝しみつつ、席を立ち、おそるおそる講義室入口の男性のもとに行ってみた。そうすると「おお、お前が**か。俺はBと言って経済学部経営学科の一年生だ。それで出身は何高校か?」と唐突に訪ねてきた。私の方は少しためらい気味に「・・僕は文芸学部ヨーロッパ文化学科の**です。出身高校は近所の**高校ですが、そ何か・・?」と精一杯強気な感じで訊ね返した。するとこの男性ことBは「・・そうか、お前は元々こっちの人間なのか・・。それでも、多分親か何かはK県の出身じゃないのか?」と、少し声色を落ち着かせ更に聞いてきた。そこで私は「僕は元々こっちの人間だけれど、たしかに先祖はK県の出身だと聞いているけれども、それが何か?」とさらに訊ね返した。そうするとBの態度はさらに落ち着き、また目のあたりも少し柔和な感じになり「ああ、そうだったのか・・。どうもありがとう。この講義が終わったら学食に行くから、そこで、もう少し話したいのだがどうか?」と、先ほどと比べると大分丁寧に云ってきたことから「うん、分かった。」と一言だけ返事をしてから席に戻った。席に戻る途中で教員が資料を抱え、少しアタフタした様子で講義室に入ってきて周りは静かになった。

講義の後、学食に行ってみると、入口近くのベンチに座り、イヤホンを耳に挿し、何か文庫本を読んでいる、さきほどの男性ことBを認め、声を掛けてみた。すると「顔を上げて、こちらを見て、イヤホンを外し「おお、どうもありがとう。それじゃ中に入ろうか。」と云いつつ、イヤホンをポケットに入れ、文庫本を横に置いてあったリュックに入れて立ち上がった。学食に入り、食券を購入し、列に並び昼食を受け取り、食堂内で席を探していると、まさに昼食時であることから食堂内は大変混雑し、空いている席が見当たらなかった。そこで同じく席を探していたBが「外のテラス席が少し空いているみたいだから、そこに行ってみよう。」と提案し、外に出てみた。外のテラス席もたしかに混んではいたが、食堂内ほどでなく、二人分の座席は確保出来た。そこで昼食を食べつつBは出身地であるK県のことを話し、また「同じ学部の同期で、K県出身者が見つからないので、入学式の際に配布された学部毎の新入学生名簿を見て文芸学部に**という苗字を見つけ、それで、さきほど声を掛けた。」とのことであった。そこで、私も自分の知るk県とのつながりを話してみたところ、Bは興味を示しつつ聞いてくれていた。また、こうして話しをしてみると、さきほどまで、全くの赤の他人であったBの服装に、どうしたわけか注意が向き始めた・・。記憶によると、その時Bは、白の無地Tシャツの上にオーバーサイズ気味の黒のオープンカラ―シャツ(長袖)をボタンを多めに外し着て、若干太めの黒の綿パンを穿き、そして靴は結構使い込んだ、これまた黒のキャンバス オールスターを履いていた。髪型は短髪のツンツンヘアと云うのだろうか、そういった髪型をしていた。その恰好からは、服装に気を使っていることは感じ取られたが、しかしながら同時に「もっとセンス良くなるのでは?」とも強く感じられた。そして、その後もBとは度々会うようになり、また、休日に私の家に来たこともあったが、はじめて会った私の両親に対する、その四角張ったとも云えるような礼儀正しさには少し驚き、後刻「なんだか今の日本人じゃないみたいね・・。」と母親が云っていたが、この指摘は必ずしも誇張ではないように感じられた。

 Bは大学近くのアパートが多く建つ地域で一人暮らしをしており、機会があり部屋を訪ねてみると、男の一人暮らしの割にはキレイに片付ており、驚いたことには、急須で淹れたお茶を出してくれた・・。こういうのは、やはり生まれ育った地域の日常性に染み着いた文化と云えるのではないだろうか。また、そのお茶が今までに飲んできたお茶と異なり、味が濃く美味しかったことから、まさに茶飲み話で「このお茶は美味しいけれど、どこのお茶なの?」と聞いてみたところ「ああ、それは実家から送ってきた食料に入っていたものでK県産のお茶だよ。それが美味しいと感じるのであれば**の舌もそれなりのものなのだろう・・。」とのことであった。こうした、時には強烈過ぎるとも感じられるBの愛郷心というか、ある種の自意識は、これまであまり感じることがなく新鮮であったが、それが良いものであるか、あるいはそうではないのかは、今もってよく分からない。
 また、Bとの話題では、あまり専攻分野についてのことになることはなく、読んでいる本や、映画、音楽そしてファッションなどのことが多かった。ファッションについては、やはり最初の観察通り、ある種のこだわりのようなものがあったが、それは未だ美意識によってまとめられたものではなく、いくつかのポリシーと云っても良かった。そのため、休日や講義が早く終わった日に、渋谷、代官山、原宿、表参道、下北沢、高円寺、吉祥寺、アメ横などに一緒に足を運んだ。そうしたことをしばらく続けているうちにBの方は、自分のお気に入りを幾つか見つけたようであり、私と一緒でなくとも、そうした場所に普通に出向くようになった。また、私がさきに述べた古着屋でのアルバイトをするようになると、時々、突然店に現れて、若干困惑している私に、普通の見知らぬ客のように、平然とある商品について訊ねてくることもあった・・。そうした経緯でBの洋服のセンスは、徐々に洗練されていき、あまり金銭に余裕のない学生としては、それなりにセンスの良い小ぎれいなものになっていったのではないかと思われる。

 さて、ハナシを戻し、Bに電話をかけた翌日、待ち合わせの大学近くの喫茶店に着くと既にBは席に着き、その前にはコーヒーカップと水の入ったグラスが置かれ、Bは何やらスマートホンを操作していた。そして店内に入ってきた私に気が付くと、Bは手を挙げて場所を知らせてくれた。席に着き、Bと対座すると、面接の件のためか上機嫌に見えた。また、その恰好は、綿製、濃紺のジャストサイズで着たベッドフォードジャケットのボタンを外し、その下には台襟が高く、クラシックな胸にフラップポケットがあるタイプのボタンダウンシャツの第一ボタンのみを外して着て、下の方は、セルビッチのある生地を用いた、国内大型衣料品店の細身のジーンズの裾をわずかに折り返して穿き、靴は濃いブラウンスエードのクラークスワラビーを履き、髪型は全体的に刈上げ、その上は寝るか寝ないか程度の髪を、光沢の出る整髪料で七三気味でラフに分けていた。話は私の方から切り出した。「やあ、今日はありがとう。それで、そっちの最近の調子はどうだい?」
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2020年11月22日日曜日

20201122 株式会社角川書店刊 山本七平著「日本はなぜ敗れるのか」―敗因21カ条 pp.14-15より抜粋

株式会社角川書店刊 山本七平著「日本はなぜ敗れるのか」―敗因21カ条 pp.14-15より抜粋

”終戦”は単に日本が戦争に敗れたというだけでなく、一つの革命だった。昨日までの英雄は一転して民族の敵となった。同時にすぐさま新しい独裁者が、軍事占領に基づく絶対の権威をもって戦後”民主主義”を推し進めていた。従って当時の多くの人の記述に見られるのが、新しい時代に順応するため、一切を軍部に転嫁し、これを徹底的に罵倒するという形になったり、自分や自分の所属する機関を被害者に仕立てるという形になっている。

 ある大学は軍部に追われた教授を総長に迎えた。軍部に追われたというが、実際は、彼を追い出したのは大学である。しかし、その大学がその教授を総長に迎え、大学自体をその総長と同定することによって、自分の過去を再構成し、あたかも大学自体がその総長同様に被害者であったかの如き態度をとって、そのまま存続した。同じことをした言論機関もあるが、もちろんこの傾向は、あらゆる機関から家族・個人にまで及んでいる。

 こういう場合、その大学や機関等の記す「戦中史」や「回想記」は、たとえ、「直後にその場」という「現地性」と「同時性」を備えていても、信頼できる歴史でも記録でもない。否、むしろ最も信頼に値しないものの一つであろう。

2020年11月21日土曜日

20201121 株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー⑦「ある異常体験者の偏見」pp.309-313より抜粋

株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー⑦「ある異常体験者の偏見」pp.309-313より抜粋

軍の輸送船はひどい、まるで地獄船だという話は前にも聞いていた。しかしその実情は聞きしにまさるもので、いかなる奴隷船もどのような強制収容所も、これに比べれば格段に上等である。前に「週刊朝日」でも触れたが、人類が作り出した最低最悪の収容所といわれるラーベンスブリュック 強制収容所の狂人房も、収容人員一人あたりのスペースでは、陸軍の輸送船よりはるかに、”人道的”といえるのである。前述の石塚中尉の日記をもう一度ここで引用させて頂こう。「・・船中は予想外の混乱なり。船倉も三段設備にて、中隊176名は3間と2間の狭隘なる場所に入れられ、かつ換気悪いため、上層の奥など呼吸停止するほどの蒸れ方なり。何故かくまで船舶事情逼迫せるや。われわれとしては初めて輸送能力の低下している事情を知り大いに考えざるべからず・銃後人にもこの実情を見せ、生産力増強の一助にすべきものなるにかかわらず、国民に実情を秘し、盲目的指導を続けていることは疑問なり」

 これ以上の説明は不要であろう。2間に3間は6坪、これを3層のカイコ棚にすると、人間がしゃがんで入れるスペースは18坪、言い換えれば、ひざを抱えた姿勢の人間を、畳2枚に10名ずつ押し込み、その状態がすでに2週間つづいているということ、窒息して不思議ではない。それは一種異様な、名状しがたい状態であり、ひとたびそこへ入ると、すべては、この世の情景とは思えなくなるほどであった。その中の空気は浮遊する塵埃と湿度で一種異様な濃密さをもち、真暗な船倉の通路の、所々に下がっている裸電球までが、霧にかすんだようにボーッと見え、むーっとする人いきれで、一瞬にして、衣服も体もベタベタしてくる。簡単にいえば、天井が低くて立てないという点で、また窓もなく光も殆どない鉄の箱だという点で、ラッシュアワーの電車以上のひどさで家畜輸送以下なのである。だが、このような場所に2週間も押し込められたままなら、人間は窒息か発狂かである。従って耐えられなくなった者は、甲板へ甲板へと出ていく。しかし甲板には、トラックや機材が足の踏み場もないほど積まれ、通路のようなその間隙には、これまた人間がぎっしりつまり、腰を下ろす余地さえなくなる。一言でいえば、前述したプラットホームである。

 そのくねくねした迷路に一列に並んでいる人の先端が、仮設便所であった。便所にたどりつくのが文字通り「一日仕事」。人間は貨物ではない。貨物なら船倉いっぱいにつめこめればそれですむ。しかし、人間には排泄がある。貨物船の便所は、当然、その乗組員の数に応ずる数しかない。三千人をつめこめば、三千人用の便所がいる。そのため舷側に木箱のような仮設便所が並び、糞尿は船倉をつたって海に流れ落ちる。だがその数も十分ではないから、便所への長蛇の列が切れ目なくつづき、その結果、糞尿の流れが24時間つづくから、船自体が糞尿まみれで走っている。天気ならまだよい。しかし門司を出てから殆ど雨。順番が来るまで雨でぐっしょり濡れる。その兵士が、寒さにふるえながら船倉におりてくる。濡れた衣服と垢だらけの体と便臭から発散する異様な臭気とむっとする湿気。それはますます船倉内を耐えがたくし、そのため人々は、呼吸を求めて甲板へと出て行き、一寸の余地でも見つければそこを占領して動かない。「組織の自転」も不可能、軍紀も何もあったものではない。それでも甲板に出られる人数は、せいぜい3分の1の、千人であろう。

 こんな異常な事態は船舶司令部の「居眠り訓示」などで、どうにかなる状態ではない。戦局は到底内地で想像しているような事態ではない。だがそう思わせたのは、船内のこの状況だけではなかった。バシー海峡までなぜ2週間もかかるのか。南へ向かっているにになぜ雨に濡れた兵士が寒がったか。理由は潜水艦を恐れて前頁の航路をとり、しかもジグザグ行進をするからである。だが、この航路をとれば安全というわけではない。アメリカの潜水艦はすでに沖縄列島の線を越え、東シナ海で縦横に活躍している。そのため海防艦3、駆潜艇5が船団を護衛しており、すでに3回の対潜警報と、1回の爆雷攻撃が行われていた。バシー海峡が危いという話は聞いていたが、日本が、「天皇の浴槽」日本海とともに自分の海同様に思っていた沖縄以北さえもうこの有様とは、当時の内地では想像もできず、戦争はまだ遠い遠い南のはて、そこで一進一退の前哨戦が行われているとみなが思っているのだ。だがこの現実を見れば、大陸への兵站線さえ、すでに半ば遮断されている。驚いた、「こりゃ、とんでもないことになっている」。すべての者が船内船外のこの実情を膚で感じてそう考えないわけにはいかなかった。

 人間は、置かれた実情が余り苦しいと、未来への恐怖を感じなくなる。というのはいまの状態に耐えているのが精一杯、「どうでもいい」という形で、それ以外の思考が停止するからである。ラッシュアワーの電車の中で水の配給・食事の配給・排泄まで行いつつ2週間もたてば、「もし衝突したら・・」という恐怖を抱く余裕のある者は、一人もいなくて不思議ではない。簡単にいえばそういう状態であろう。従って、それまでに聞かされていた「日本のボロ船は、アメリカ製高性能魚雷2溌で15秒で沈む。三千人のうち助かるのは十二、三名」といった恐ろしい話さえ、実感とはならなかった。

20201120 株式会社新潮社刊 大岡昇平著「俘虜記」pp.13-15より抜粋

株式会社新潮社刊 大岡昇平著「俘虜記」pp.13-15より抜粋ASIN : B00J861M36

 私は既に日本の勝利を信じていなかった。私は祖国をこんな絶望的な戦に引きずりこんだ軍部を憎んでいたが、私がこれまで彼等を阻止すべく何事も賭さなかった以上、今更彼等によって与えられた運命に抗議する権利はないと思われた。一介の無力な市民と、一国の暴力を行使する組織とを対等に置くこうした考え方には私は滑稽を感じたが、今無意味な死に駆り出されて行く自己の愚劣を笑わないためにも、そう考える必要があったのである。

 しかし夜、関門海峡に投錨した輸送船の甲板から、下の方を動いて行く玩具のような連絡船の赤や青の灯を見て、奴隷のように死に向かって積み出されて行く自分の惨めさが肚にこたえた。

 出征する日まで私は「祖国と運命を共にするまで」という観念に安住し、時局便乗の虚言者も、空しく談ずる敗戦主義者も一絡げに笑っていたが、いざ輸送船に乗ってしまうと、単なる「死」がどっかりと私の前に腰を下ろして動かないのに閉口した。

 私の35年の生涯は満足すべきもではなく、別れを告げる人はあり、別れは実際辛かったが、それは現に私が輸送船の上にいると云う事実によって、確実に過ぎ去った。未来には死があるばかりであるが、我々がそれについて表象し得るものは完全な虚無であり、そこに移るのも、今私が否応なく輸送船に乗せられたと同じ推移をもってすることが出来るならば、私に何の思い患うことがあろう。私は繰り返しこう自分に言い聞かせた。しかし死の観念は絶えず戻って、生活のあらゆる瞬間に私を襲った。私は遂にいかにも死とは何者でもない、ただ確実な死を控えて今私が生きている、それが問題なのだということを了解した。

 死の観念はしかし快い観念である。比島の原色の朝焼夕焼、椰子と火焔樹は私を狂喜させた。至る処死の影を見ながら、私はこの植物が動物を圧倒している熱帯の風物を眼で貪った。私は死の前にこうした生の氾濫を見せてくれた運命に感謝した。山へ入ってからの自然には椰子はなく、低地の繁茂に高原性な秩序が取って替わったが、それも私にはますます美しく思われた。こうして自然の懐で絶えず増大して行く快感は、私の最後の時が近づいた確実なしるしであると思われた。

 しかしいよいよ退路が遮断され、周囲で僚友が次々に死んで行くのを見るにつれ、不思議な変化が私の中で起こった。私は突然私の生還の可能性を信じた。九分九厘確実な死は突然推しのけられ、一脈の空想的な可能性を描いて、それを追求する気になった。少なくとも、そのために万全をつくさないのは無意味と思われた。

2020年11月19日木曜日

20201119 頭頂部の危機的状況から思ったこと

ここ直近数回の投稿記事は【架空の話】の続きや、加筆修正分としました。そして本日もまた【架空の話】の続きを作成しようと考えていましたが、昨夜自身に驚くべき発見があったため、そのことを書こうと思います。

昨夜24:00過ぎに入浴を終え、洗面所の前で身体をタオルで拭いていると、自身の頭頂部が部分的に肌色に近い色合いを示していることに気が付きました。そういえば、ここ最近は朝、目が覚めると、目立つ程度に毛髪が枕に付着していましたが、そうした経緯を経て、今回の発見になったわけですが、これは自身としては少しショッキングな出来事であり、もし挽回出来るのならば、したいところですが、とりあえずは、夜遅くまで起きているのを止めようと思いました。しかし他方でブログ記事の作成は継続したいとも思いますので、作成開始時間をある程度定め、早めのルーチンとして設定すれば良いのではないかと考えました。

もちろん、仕事などとの兼合いで、継続し、そのように作成出来るかは不明ではありますが、やはり、このまま頭頂部の毛髪がなくなってしまうというのは、今後「モテ期」を三度程は経験することを欲している(これまでにはなかったと思います。)自身からしますと、かなり不本意に近いと云えることから、これは出来るだけ順守し、頭頂部の残存毛髪の保護および新規育毛を心がけていきたいと思います。

さて、先日来の宮地正人著「幕末維新変革史」はあまり頁が進まずに現在上巻の400頁あたりです。おそらく今月中には読了出来ると思われ、来月には同著下巻を読み進めていければと考えています。また他にも面白そうな書籍は見つかっており、今後は、より一層、ブログ記事作成の時間と共に書籍を読む時間を出来るだけ長く確保する必要があると云えます・・。

しかし、よくよく考えてみますと、そのような願望と、さきの「モテ期」三回とは、あるいは矛盾する願望であるのかもしれません・・。そして、もしも本当にそれらが矛盾するものであるのならば、私はどちらをより優先して望み、そしてそのように行動するのだろうか・・。今までであれば、間違いなくブログ記事の作成と読書であったと云えます(苦笑)・・。しかし、今後はそれを少し変える必要があるのかもしれません・・。

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2020年11月17日火曜日

202011117【架空の話】・其の1・2加筆修正

21世紀に入り、今後さらに進行する高齢化社会に対応すべく、国内各地に医療介護系の大学・学部・学科が新設され、また、既存の医療介護系専門学校も、新たに専門職大学に改組され、さらに、それらが合併するといった事態も生じてきた。そして、そうした高等教育における状況から、人文社会科学分野を専攻する学生数は徐々に減少していった・・。

さて、こうしたことを話している私は元来、人文社会科学分野を背景とする人間であり、A大学のヨーロッパ文化専攻に進んでいた。そして、この専攻分野では卒業しても、あまり実入りの良い就職口に就けそうにないことを3年生になってはじめて気が付いた。そこで「後悔先に立たず」から「毒を食らわば皿まで」と方針の転換を行い、同専攻の修士課程に進むことにした。

ともあれ、それは修士課程まで進むことにより「これまでとは違ったビジョンが見え、より良い選択肢を見つけることが出来るのではないか」と考えたのであるが、他方で、面倒で困難な選択をなるべく避けて「出来る限り安逸に生きていたい」といった願望が全くなかったとも言い切れない・・(苦笑)。くわえて、専攻分野について「自分は多少のセンスがある」と現実を知らずに思い込んでいたフシもあったと云える・・(苦笑)。

そのようにして大学院修士課程に進んだわけであるが、その院生生活は学部生の延長のような部分も少なからずあり他方で、研究のための文献を読む時間については、学部生であった頃と比べ、履修科目が減ったことから、かなり増やすことが出来た。また、以前からの通学路途中にあるS駅近くの古着屋でのアルバイトも継続した。このお店は、店長の趣味か、なかなかシブイ、古い映画作品に出てくるような品が並ぶことが度々あり、当アルバイトは、店長との会話を契機として、なんとなく働くようになったという経緯があった。

勤務時はしばしば、客が手にする商品について、(長々と)ウンチクを語ってしまうことがあり、時々やんわりと、店長から注意を受けることがあった・・(苦笑)。とはいえ、もともとは店長自体がウンチク好きであり、かつて客であった私と店長が話をしたきっかけも、そうした共通認識があったことから、その内容は「そういうことを人に説明したいと思うはよくわかるけれども、多くのお客さんは、あまりそうしたウンチクを聞きたいとは思っていないから、そこまで熱心にやらなくても大丈夫だよ・・。」といった感じであった。それでも、自分が良いと思った品についてハナシかけたくなってしまうのはごく普通の心情であると思われるのだが・・。

さて、アルバイトと参考資料・文献の読み込みや、調べものと多くはない履修科目の予習・復習と少しの遊びで、修士課程1年目を終え、2年目では通常であれば、本格的な就職活動を行うことになるのであるが、私の方はどうしたわけか、就職活動に身を入れることはせず、アルバイトは相変わらず続けつつ、割合ダラダラとした日々を過ごしていた。周囲の院生やゼミの学部生などは、リクルートスーツを着て大学でも就職支援センターなどに頻繁に出入りする中、私といえば色落ちしたジーンズにヨレヨレ(洗いざらし)のボタンダウンシャツで図書館と院生研究室ばかりに出入りしており、面識のある教員の方々からは「君はこの先どうするつもりなのかね?」と、あまり興味なさげに訊ねられることも幾度かあった・・(苦笑)。

当時の私は傍から見る、どのように見えていたのだろうか?いや、そのようなことは今となってはどうでも良い。それよりも、ここからが、少し重要なくだりになってくるのだが、GWが終わって梅雨に入る少し前の時期、どうしたわけか、突然、右下の歯が痛くなり、シフトで入っていたアルバイトも早退し、一端自宅に戻り保険証を手にして近所の歯科医院に、かなり久しぶりに訪問した。その院長は、かつて、どこかの歯科大学か大学歯学部で講師か助(准)教授まで勤めていたとのことであり、時折、商店街や駅の近くで見かけることがあったが、気安く話しかけるには纏っている緊張感が強すぎるように感じられた・・。しかしながら腕は確かであると近所では評判であり、実際、私の家族も皆、そこでお世話になっていた。

さて、そうした経緯で歯科医院に入ってみると、丁度、院長が開封したての学会誌のような雑誌を院内入ってすぐの待合室で立ち読みしていたようであり、雑誌を持ちつつ、こちらに目を向け「おお、**君じゃないか・・。久しぶり、どこか歯でも痛くなったのかね?」と聞いてきたので「ええ、どうもお世話になっています。実は右下の歯が少し痛みますので先生に診て頂きたいのですが・・。」といった感じで、右顎に手を触れさすりつつ少し自嘲気味で答えた。」すると「ほお、そうですか・・。君はとてもラッキーだね。丁度今、予約していた患者さんが急な事情でキャンセルになったところなので、すぐに診てあげれるよ。」とのことであった。普段、あまり運の良し悪しについて考えない私も、これには少し「運が良い」と感じ、また、それが外出先にて腹痛を起こし、飛び込んだ先の施設で清潔なウオッシュレット付きトイレが空いていた時の感覚によく似ていることに気が付いた・・。

その5分後には、私は診療チェアーの上にいた。診療がはじまり、痛む歯の部分だけをくり抜いたゴム製の布のようなものを被せられている時、以前の診療時にはいなかった女性スタッフが先生のサポートにあたっていることに気が付いた。見たところ、私と同年代であるように見えたが、次第に治療が本格的になってくると、そのようなことも意識が向ける余裕はなくなり、歯の真中を細い鋸のようなものが、ギシギシ云いながら歯髄の方に迫ってくる感覚には久しぶりの冷汗が流れた。とはいえ、その治療自体は、そこまで苦痛はでなかった。治療後の先生の説明は「右下の臼歯で、以前に根っこの治療をした場所に再び膿が溜まって、それで痛かったのだと思う。とりあえず、穴を空け、排膿してから洗浄して仮に封をしておいたから、また近いうちに来てください。」とのことであった。

私はその説明をただ頷いて聞いていたが、しばらくすると先生の方から「そういえば**君は今、A大の大学院生でしたっけ・・。それで、何を専攻しているのかな?」と訊ねてきたため「ええ、文学研究科のヨーロッパ文化専攻です・・。」と少し遠慮気味に答えた。

すると「それはまた何だか面白そうですね・・。それで、具体的な研究テーマは何ですか?」とさらに踏み込んで訊ねてきたことから「ええ、近現代のイギリスに帰化した作家の特徴のようなものをジョゼフ・コンラッドという作家を中心として研究しています。」と、これは割合具体的に答えたが、先生の方は「ふーん、それはノーベル文学賞のカズオ・イシグロ氏も範疇に含まれるのですか?しかし何だか難しそうなテーマですね・・。それで院の修了後はどうするつもりなのですか?」と、あまり思っていなかった方向に質問が行ったことから「・・はあ、順調に行けば来春には修士課程を修了して、どこかに就職したいとは考えていますが、正直なところ就職については今現在あまり考えていません・・。」と今度は尻すぼみ気味に返事をした。

すると、先生はしばらく天井を見て、意を決したかのようにこちらを向いて「少し前に私が出たK大学のあるK県に、公立と私立の中間のような、まあ第三セクターによって運営される医療介護系の専門職大学が設置されてね、そこでは私の仕事とも大いに関係がある歯科衛生士と歯科技工士を養成する学科が設置されているのですがね・・。それで歯科衛生士の方の学科、まあ、口腔保健学科と云うのだけれど、こちらは割合人気があって心配無用なのですが、もう一つの歯科技工士を養成する学科、これは口腔保健工学科と云うのですが、こちらの方はどうしたわけかあまり人気がないのです・・。まあ、それが理由かどうか分かりませんが、今年の夏に学士編入試験を行うという連絡が来て、それで「誰か良い学生さんを知りませんか?」と、現在その大学で教鞭を執っている同期の友人に尋ねられたのですが、そこで少し唐突ですが**君はこういった話には興味はありますか・・?」と少し伏線のある質問を投げてきた。

私は、歯科技工士云々よりも、とある理由から、その大学があるK県の方に興味を持った。そこで先生に「先生はK大学のご出身だったのですね・・。それで元々はそちらのご出身なのですか?」と、本題からは少し外れた質問をした。すると「・・ああ、知らなかったっけ、たしか君のお父さんはよく知っていると思ったのだけれど・・。まあ、それはいいけれども、私は元々こちらの出身ですが、学生時代からは、しばらくK県に住んでいたのです。そういえば、だいぶ前に君のお父さんに聞いたことがあったけれども、君の家は元々はK県の出身だそうですね・・。」先生のこの返事で、少し先回りをされた感があったが、私は「ええ、そうなのです。だいぶ前、それこそ明治時代にご先祖がk県から上京して、こちらの学校に通い、仕事に就き、居着いてから3世代ほど経っているのですが、如何せん、あちらの苗字は変わったものが多くて、私も根っから、こちらの人間であるはずなのに、苗字からK県出身者と間違われることが度々あるのです・・。あと、現在も大学での数少ない友人はこのK県の出身者でして・・」と話しているうちに、その数少ないというよりも、唯一と云っても良い友人であるBのことを思い出していた・・。

*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!



ISBN978-4-263-46420-5

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