2015年7月4日土曜日

銅鐸について 4 和歌山県における出土銅鐸の分布および傾向


和歌山県を主とした紀伊半島西部地域は我が国有数の銅鐸出土地域の一つであり、これまでに伝和歌山出土を含めると、およそ30の遺跡から40個程の出土例がある。また、他の多くの銅鐸出土例を持つ他府県として島根、兵庫、徳島、大阪、愛知などが挙げられる。

これら地域から出土する銅鐸には、各々地域間にて共通性・相違性が存在し、それは製作地、製作時期等により生じたものと考えられる。

一例として1996年に島根県大原郡加茂町(加茂岩倉遺跡)にて39個の銅鐸が出土したが、その内の4個が1970年に和歌山県和歌山市大田黒田遺跡にて出土した旧式小型の「聞く銅鐸」と同じ鋳型にて作製された物であることが判明したことが挙げられる。

銅鐸の鋳造に用いられる鋳型は旧式小型の「聞く銅鐸」の場合、石製であり数回の複製は技術的に可能である。一方、新式大型の「見る銅鐸」の場合、鋳型は土砂製となり、土砂製の鋳型を用いて鋳造する場合、溶湯合金を鋳込み、鋳造体を得る際に鋳型を破砕することから同一の鋳型にて複製することは不可能であると云える。

紀伊半島西部地域における銅鐸の出土分布の様相は、紀ノ川から富田川までの県内主要河川流域の周辺丘陵地からの出土例が大半であると云える。

また今日の海浜地域・内陸山間地域からの出土例がなく、また、その新旧別の出土傾向は、紀北地域に旧式小型の「聞く銅鐸」の出土例の割合が多く、南下に随い新式大型の「見る銅鐸」の出土例の割合が増加する傾向が認められる。

紀ノ川流域にて出土した銅鐸は、和歌山市周辺を中心に7個であり、そのうち新式大型の「見る銅鐸」は破砕状態にて1個のみである。前述の地域内での出土銅鐸総数が40個程のうちの7個が地域内最大の水稲耕作可耕地を含む紀ノ川流域にて出土していることは銅鐸が水稲耕作社会における祭器であったことを併せて考えると、その全体に占める割合が過分に小さく、また同時に大変興味深い現象であるといえる。

日高川流域にて出土した銅鐸は、御坊市を中心に計7個であり、その内訳は旧式小型の「聞く銅鐸」が4個、新式大型の「見る銅鐸」が3個であることから、この地域は、南下に随い新式大型の占める割合が増加する紀伊半島西部地域内における新旧様式が均衡並存していると云える。
また、特徴的なこととして、18世紀に道成寺境内(現日高川町)から新式大型の「見る銅鐸」が出土したこと、さらに1999年御坊市にて発掘された堅田遺跡において現在日本最古である紀元前200年頃の青銅を溶かした溶炉遺構、ヤリガンナの鋳型等が瀬戸内をはじめとする西日本各地、朝鮮半島系の様式を持つ土器、遺物を伴い出土したことが挙げられる。

これらのことから伝承、物語等の地域における根が深いこと、現在の都鄙感覚を用いてこの様な現象を検討、考察することの困難さを示し、同時にこれは我が国における水稲耕作の伝来、伝播経路と矛盾しないものであるともいえる。
南部川流域にて出土した銅鐸は計6個であり、これらは概ね新式大型の「見る銅鐸」に分類される。この地域にておいて特徴的なことは、前述の紀ノ川、日高川流域における新旧銅鐸の出土傾向からさらに変化、逆転していることである。

また、みなべ町西本庄の通称雨乞い山頂上付近にて新式大型の「見る銅鐸」の出土例があり、その出土地は隣接する須賀神社のかつての社叢に含まれており、これは地域の歴史を考える上で極めて示唆に富むことであると考える。