2017年12月3日日曜日

20171203 国民性の由来・・歴史が重視される理由?

大筋における歴史の解釈において我が国、日本とは有機的な発展段階を経ずに、急激に新たな時代に入り、それに伴う、新たな精神の形態をも、あまりにも不用意に受け入れなければならなかったと云うことが出来る。

ここに大きな混乱、不整合が生じることは自然であるが、それと同時にこの場面において多くの国民の活力を注ぐべき大きく有意義な目標(近代化・西欧化・富国強兵・・)もまた存在していた。

そして、その目標がある程度達成されたと広汎に実感された後から、徐々に我が国とは新たな悲境への道を知らずに歩んでいったように思われる。

また、そこに見られる歴史の流れの図式、概要とは、太平洋戦争後の現在に至るまでの我が国社会においても、ある程度類似したものを見出すことが出来るのではないかと考える。

何故ならば、国のあり方が変わっても、人はなかなか変わらないものであると考えるからだ。

かつて飛行機に爆弾を積み、敵艦船に捨身の攻撃を行った性質とは、戦後に至り、モーレツに働くサラリーマンへと転化し、そしてそれは昨今においてはブラック企業的とされる諸要素、性質とも決して偶然とはいえない親和性いや連続性を見出すことが出来るのではないかと思われる・・。

こうしたことを考えてみると、不意に『では一体我々はどのような人間なのであろうか?』といった疑問が生じ、また同時に『個性のある人間は、その生涯のあいだに、よく似た体験をくりかえす』というコトバがあるが、その意味から『では我々は如何なる個性を持ち、どのような体験を繰り返すのであろうか?』といった疑問へとさらに深化していく・・。

どの国の人々においても、それを最大公約数化したような性質があることを私は疑わない。

しかしながら同時に、こうした国民性といったものは、往々にして人間において普遍的なものとも交錯しており、そこに固有、特殊なものとの見分けをすることは困難であると云える。

では、何故そうでありながらも、国民性といったものが比較的広汎に認識され得るのか、そして、それは一体何処から顕れ出ているのかといった疑問へと至るのであるが、それは宗教、風土、経済的状況などといったさまざまな要素が複合的に作用し、顕現しているのであろうが、何れにせよそこには固定化し得る、容易に図式化可能な論理、公式といったものはないように思われる。

とはいえ、そうでありながらも、国々によっては歴史が(外交問題に関係なく)重要視される大きな要因とは、こうした断片としての過去の要素を忘れないように保持し、更なる検討を加えること、あるいはそれらの中から新たな発見が為され、現在の自国あるいは他国の何かとの関連性などを見出すことが出来るかもしれないということは、タイムマシンなどで未来・過去に対しての知見を即物的に得るよりも、少なくともそれに関心を持ち続ける当事者達からすれば、大きな価値を持つ【と信じられている】ところにあるのではないかと思われる。

とはいえ今回もまたここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年より現在までに列島各地にて生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った
諸地域のインフラの復旧・回復そして力強い復興を祈念しています。

昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事をも祈念しています。