2022年11月23日水曜日

20221123 中央公論社刊 司馬遼太郎著「歴史の中の日本」内「幻想さそう壁画古墳」pp.32-36より抜粋

中央公論社刊 司馬遼太郎著「歴史の中の日本」内「幻想さそう壁画古墳」pp.32-36より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4122021030
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4122021037

 以下、私は単に想像であるとことわって、あるいは幻想であるかもしれないそのことにふれたい。

 まず、高句麗について触れる。

 この民族は本来、満州の草原に住んでいた連中であった。漢民族とは人種も言語を異にし、その社会の仕組みは中国の辺境の騎馬民族と共通したものをもっているが、しかし早くから漢民族文化に接触していたため、ゴビ砂漠の周辺にいる連中よりはるかに農耕的で、すぐれた移入文化をもっていた。

 かれらはたえず満州から朝鮮半島に南下していた。かれらの満州の故地に、「扶餘」という土地がある。この地名をとって、古くから朝鮮半島(とくに南朝鮮)にいて農耕民族になっていた韓民族は、北朝鮮にいるこのひとびとのことを「扶餘族」とよんでいた。簡単にいえば高句麗人・扶餘族は、北朝鮮人である。いまでも体格は北朝鮮人は南朝鮮人より平均的に背が高く、固有満州人にちかいといわれているが、朝鮮の上代の歴史からみても、高句麗人は南朝鮮の百済を新羅のひとびとよりも騎射がたくみで軍事的には優勢であった印象がある。満州草原できたえた牧畜民族的野趣を、農民になりきっていた南方の新羅人や百済人よりも濃厚にもっていたからであろう。

 朝鮮史でいう三国時代つまり北方の高句麗と南方の新羅・百済が鼎立していた時代、もし中国大陸に統一帝国が出現するという大変動さえおこらなければ、なお無事泰平にこの鼎立状態をつづけたかもしれない。

 が、589年、隋帝国が出現するとともにその兵力の大半をあげて高句麗へ攻めてきた。当時高句麗はいまの平壌を首都としつつ、その故郷である南満州のほとんどを領有し、いまの地名でいえば旅大や遼陽をふくむ遼東半島も撫順も瀋陽もみな高句麗の国土であった。隋にとっては辺境のわずらいを未然に防いでおくための武力行使であったのだが、逆に高句麗に敗けてしまい、この敗北が隋という短期帝国の衰亡原因のひとつになり、かわって大唐帝国の出現をうながす結果をもたらした。

 つづいてその唐が大規模な軍をおこし攻めてきたのである。戦争状態は20年つづき、ついに668年平壌が陥落して高句麗は滅ぶ。 

 この間、半島の情勢は混乱し、唐は高句麗攻撃中に新羅と同盟をむすんで百済は日本に救援をもとめた。当時、日本も隋帝国の出現の大津波(多分に心理的な)をうけ、大いそぎで中央集権の国家形態をととのえて万一の侵略にそなえるbwくいわゆる「大化改新」を進行させつつあった。当時の日本の政策決定者は、国際情勢に過敏すぎる傾向をもった中大兄皇子(天智帝)であった。かれは百済救援のために出兵し、その水軍が白村江で唐の水軍と戦って全滅した。この敗戦で百済が滅び(663)、その貴族や人民が多数日本に逃げてきた。ついで5年後に、百済と同盟していた高句麗が滅亡した。以上が私の「想像」の背景である。

 「日本書紀」では、高句麗を高麗と書きコマと訓む習慣になっているが、この鴨緑江流域の大国と日本との関係は南朝鮮の百済や新羅にくらべてもわりあい薄い。 

 急に関係が濃密にあるのはやはり隋帝国の勃興で高句麗が圧迫をうけてからであり、高句麗が隋の大軍を敗走させたあと、推古帝26年(618)に国使をよこして捕虜や鼓や笛、弩、投石器などの戦利品を日本にもたらしてきている。

 それから半世紀経ち、高句麗が唐に攻められるという情勢が濃厚になったとき、その国使がやってきている。さきにふれた天智帝5年のことである。その正月、「高麗、前部能婁等を遣して」調をたてまつる。とある。この前部能婁は夏6月に帰ったという記事があとで出てくるから。彼は日本に帰化していない。

 問題はそのあと4カ月しかたたない10月にやってくる高麗の国使である、きびすを接してやってきているあわただしさに、高句麗情勢の緊迫化を感じさせる。おそらく救援を乞うための使者であろう。しかし天智帝としてはそれより3年前に百済を救援して白村江で大敗し、この高句麗の国使がきた時期は百済の亡臣亡民を収容するのに混雑している最中であった。高句麗を救援する軍事力などは残っておらず、おそらく事情を話してことわったにちがいない。

 この10月の使者は、正使が乙相奄鄒(おっそうあむす)という人である。このひとはほどなく亡くなったのか、その後の消息が出て来ない。

 副使が、二人いる。達相遁(だちそうどん)と玄武若光(ぐぇんむにゃっこう)である。達相遁のその後もわからない。

 問題は、玄武若光のことである。以下単に若光という。かれは二位の位をもっていたというから、正使および副使ともども王族だったのであろう。

 この三人が帰途についた記事がのこっていないのである。

 この翌年、天智帝の皇女大田皇女がなくなって葬儀があった。そのとき、

「高麗、百済、新羅、皆御路に哀奉る」という記事がでている。この三国のひとびとが出てきて哀悼の意を表した。というのである。天智帝のころの騒然たる国際情勢がこの一事でもわかる。葬列を送ったのは、この三国のひとびとでも当然貴人だったであろう。ところでここに「高麗」が出ているのが、やや気になる。当時の情勢から考えて亡国の百済からのひとびとの人数がもったも多く居住していたであろう。新羅がこれに次ぐ。高句麗貴族がいるのは多少珍奇な感じがする。この「高麗」は去年きた若光らの残留している姿と考えるのが自然ではあるまいか。

「この情勢ではとても貴国に帰るわけにはゆきますまい。ずっと日本に住みついたらどうですか」と、日本側からもちかけられたようにおもえる。かれらは帰国できる状況ではなかった。百済の新戦場を通過するわけにはゆかず、海路、すでに戦場になっている故国に帰ったところで、かんじんの高句麗国が存在しているかどうかわからない。げんにかれらが来日してから2年後に高句麗国は唐のためにほろぼされているのである。若光らは残留したであろう。