2016年1月8日金曜日

20160108 コトバ、言語について・・

A「どうです、最近求職活動などで進展はありましたか?」

B「いえ、特に今のところありませんが、また何件かオファーを頂きました。
なかには良さそうなものもあるのですが、とりあえず現在は目の前のことをやっています・・。」

A「では、現在何か動いているのがあるのですか?」

B「ええ、まあそうなのですが、また具体的な動きがありましたらお知らせします。
それでも最近は私のところに来るオファーの内容も大まかに見れば似たようなものであることが判明しました・・。
そして、それが現在の私の相場というものなのではないかと思います・・(苦笑)。
それらは、これまでの経緯からすれば決して悪くはないと思うのですが、それでも私は今度就く仕事においては持続可能性を大事にしたいと考えておりますので、それに合致しているかどうかは、実際に飛び込んでみないとイマイチ分からないのだと思います。そして、それが悩みどころなのです・・(苦笑)。」

A「まあ、企業や様々な組織でも色々なのがあるらしいからね・・。
ブラック企業とはいわないけれども「看板に偽りなし」とはいえないようなところもありますからね・・。
そして、そういったところに限って何だかよくわからない勢いらしきものがありますからね・・。
ああいったのはどうも不思議ですが、言語の運用の仕方があまり厳密でないというか、変に言語が流れていくような感じでしょうかね・・?
ですから、どうも掴みどころがないというか、とにかくやりにくいです・・(苦笑)。
しかし、もしかしたら企業からすれば、そういった方面で優秀な人材がやり手の営業マンであったりするのではないでしょうか・・?
まあ、その意味において我々日本人とは勢い、流れに呑まれ易いような性質を持っているのではないかな?
そして、それと類似したような具体的なキャラクターを挙げるとすればノモンハン事件から太平洋戦争いや、その後でも名を馳せた参謀辻政信あたりではないかな?
もっともこうしたタイプは太平洋戦争時多く見受けられたらしいですが・・。
それ故、これも特異ではあるけれども時代が生んだキャラクターであるのかもしれないね・・?
しかし、それとあまり変らないようなイケイケドンドンの無理強いキャラクターが様々な場面において実権を握ってしまう我が国の組織とは一体どうしたものなのだろうね?」

B「たしか村上兵衛著作で辻政信が学校に講演に来て、それを聞いた感想として「参謀という職務に幻滅した。」というようなことが書かれていましたが、たしかに現地指導督戦型の参謀とは、現場部隊からすれば厄介な存在であるのかもしれません・・(苦笑)
そして、たしかにそういったキャラクターはやり手の営業マンと被るところがありますね・・。
また、我々日本人とはそういったキャラクターに対し、古来よりどうも弱いのではないかというのも理解出来ます。
そして、何故そういった存在に対し弱いかと考えますと、それは言語の定義、意味、内容などよりも雰囲気、勢いなどに呑まれてしまうからではないかと思います・・。
たしか司馬遼太郎は「日本人とは言語を用い慣れ過ぎているがゆえに、それを退屈なものとあきらめてしまっているのではないか?」という意味のことを書いていましたが、これは識字率が古来より高かった我が国の負の側面ではないかと思います・・。」

A「・・・たしかに我々日本人は言葉、言語を軽く扱い、そしてそれを何やら詩的、芸術的であると勘違いしてしまうような傾向とはなくもないですね・・(苦笑)。
しかし、実際問題、我々の大半は少なくとも日常においては詩人ではありませんし、またそうである必要もありません。
そうしますと、言語、言葉の運用において重要なことは、自身の意思を言語を用いて明晰に相手に伝え、そして相手からのそれを正しく解釈し、対話を成り立たせ、結果として双方意見の合意や相異の原因などを理解することだと思うのですが、我が国におけるそれは往々にして、よくわからない腹の探りあいや、同様の禅問答のようになり、そうした言語の本来の意味に基づいた議論が行われにくいような風潮、傾向が古来よりあるのではないかと思います・・。
そして、それが高い識字率と合成されると、先ほどのような雰囲気、勢いに流され易い国民性?になってしまうのではないでしょうか?」

B「まあ、それはたしかにそうであると思いますが、一方そうした言語の本来の意味に基づいた対話、議論などといっていると、半笑いでダサい、不粋である、あるいはペダンティックなどといわれるような傾向もまたあるのではないかと思います・・(苦笑)。
最近はまた何だかよくわからない読書ブームとやらでそういった傾向は若干弱まってきているようですが、私の記憶するかぎり、つい数年前までは社会全般がそのような感じではなかったかと思います。
また、そうした傾向が変ったのは一連の中国、韓国などを相手とする領土問題が深刻化したからではないでしょうか?
そのように考えると、現在のこの硬い言葉、読書などがもてはやされているのも畢竟「様々な意匠」の一つではないかと思います。
ですから当たり前といえば当たり前ではありますが、また時間が少し過ぎれば風化、フェード・アウトしてゆくものではないでしょうか?
そして、一連のそうした流れこそが我が国の伝統であり、基層にある意識なのではないでしょうか?」

A「・・・ううむ、しかしそうすると、先ほどの雰囲気、勢いに流され易い性質というのは、今後も変らないということになりますね・・?」

B「ええ、多分そう簡単には変らないのではないかと思います。」