2022年1月18日火曜日

20220118 日本経済新聞出版社刊 ジャレド・ダイアモンド著 小川敏子、川上純子訳「危機と人類」上巻pp.143‐147

日本経済新聞出版社刊 ジャレド・ダイアモンド著 小川敏子、川上純子訳「危機と人類」上巻pp.143‐147

江戸幕府が日米和親条約を締結し、200年以上もつづいた鎖国が終わった1854年からの14年間は、日本の歴史のなかでの激動の時代だった。むりやり開国させられた結果生じたさまざまな問題に、江戸幕府はどうにか対処しようとした。だが、最終的に徳川将軍家はその対処に失敗する。開国が引き金となった日本社会や江戸幕府の変化は、もはや止めようがなかったのだ。それらの変化は今度は、国内の対抗勢力による討幕につながっていき、さらにその対抗勢力によってたてられた新政府のもと、広範囲にわたる変化が起った。

 日米和親情弱と、イギリス、ロシア、オランダが結んだ同様の条約では、日本との貿易をはじめるという西洋諸国の目的はかなえられていない。その初代アメリカ総領事が公称をし、より広範な条項を含む日米修好通商条約を1858年に締結した。この条約には貿易に関する条項がしっかり入っていた。今回もアメリカとの条約締結につづいて、イギリス、フランス、ロシア、オランダとの類似の条約が締結された。やがて日本国内では、これらの条約が屈辱的だとみなされるようになり、「不平等条約」と呼ばれるようになった。そこには、日本は西洋列強諸国のような扱いを受ける価値がない、という西洋諸国の意識が具現化されていたからである。たとえば、西洋諸国に領事裁判権が認められておち、西洋人は日本で裁かれなかった。つぎの半世紀の日本の政策の最優先目標は、この不平等条約を改正することとなった。

 1858年当時の日本の軍隊はまだ脆弱で、この目標を達成できるのは、はるか未来のことのように思われた。そこで江戸幕府はもっと控えめな中間目標を設定する。それは西洋人による介入、その思想の侵入や影響を最小限に食い止めることだった。その目標を達成するために、日本は、その条約を遵守する姿勢をみせつつ、実際はじりじりと先延ばししたり、合意内容を一方的に変えたり、西洋人が日本の地名をあやふやに覚えていることを利用したり、西洋各国を競わせたりしていた。1858年に各国と結んだ条約では、日本は貿易をおこなえる「条約港」を5港に限定させることと、外国人の居住や外出を港の周辺地区に制限し、その範囲を超えた移動の禁止に成功する。

 時間稼ぎが、1854年以降の江戸幕府の基本戦略だった。これは、西洋列強を(できるだけ少ない譲歩で)満足させつつ、西洋の知識、設備、技術を手に入れ、軍事力と軍事力以外の国力を増強し、できるだけ早い時期に西洋列強に抵抗できる能力を身に着けるためだ。幕府と、薩摩藩や長州藩などの有力諸藩は、西洋の船舶や大砲を購入して軍の近代化を図り、欧米に留学生を派遣した。学生たちは、西洋の航海術や造船、工業、土木、科学技術といった実際的な学問ばかりでなく、西洋の法律、言語、憲法、経済、政治学、文字なども学んだ。幕府は、蕃書和解御用を発展させて蕃書調所を設立して、西洋の書物を翻訳したり、英語の文法書や辞書の制作を援助したりした。

 このように幕府と有力大名は力を蓄えていったが、西洋人との接触により、日本国内ではさまざまな問題が生じつつあった。幕府も薩長も、武器の購入や留学生の派遣にともなう出費のため、外国人から多額の借金をしていた。物価が上昇し、生活費を圧迫する。幕府は独占的に外国との貿易をおこなおうとしていたが、それに反対する武士や商人も多かった。一度目のペリー来航の際に対応をめぐって幕府から下問を受けた諸大名のなかには、これまでのように幕府がすべてを決めるのではなく、もっと諸大名が国の政策や計画策定にかかわるべきだと思うようになった者もいた。西洋列強と交渉し、条約を結んだのは幕府だったが、条約に反する行動をとる諸大名を抑え込むことができなくなっていた。

 その結果、各所で衝突が起こった。まず西洋列強と日本のあいだに、開国の規模をめぐる争いが起きていた。西洋列強は、より開国を促進したかったし、日本の多数派意見は、出来るだけ開国を小規模に抑えることだった。昔から幕府に敵対心を持っていた薩長は討幕姿勢を鮮明化させ、西洋の装備や軍事知識を取り入れ、薩長同盟を結んで幕府と争った。大名同士の争いも増えた。本来朝廷の意に沿って行動することになっている幕府と、名目上の国主だった天皇とのあいだにまで対立が起った。たとえば、朝廷は日米修好通商条約の内容に勅許を与えなかったが、幕府はそのまま条約を調印してしまったのだ。

 日本国内でもっとも先鋭化したのは、日本の基本的戦略におけるジレンマをめぐる対立だった。今、外国人に抵抗し、排斥すべきか?それとも、日本がもっと国力を充実させてからにするべきか?幕府による不平等条約の調印は、日本国内に反発を引き起こした。日本を侮辱した外国人への怒り、日本が侮辱されるのは許した将軍や諸大名への怒りに火をつけたのだ。1859年頃はすでに、一途な若い武士たちが、怒りに駆られ血気にはやって刀をひっさげ、外国人を追い出すために、暗殺を繰り返すようになっていた。彼らは「志士」と呼ばれるようになる。彼らは、自分たちが伝統的な日本の価値観だと信じるものに訴え、自分たちは年寄りの政治家たちよりも倫理的に優れた存在だと考えていた。

日本経済新聞出版社刊 ジャレド・ダイアモンド著 小川敏子、川上純子訳「危機と人類」上巻
ISBN-10: 4532176794ISBN-13: 978-4532176792