2015年10月11日日曜日

20150927 コトバの読み方について・・

A「どうもお久し振りです。最近だいぶ涼しくなりましたがお元気でしょうか?」

B「やあ、こっちはどうにか元気だよ。そういえば最近君のブログの投稿数が100になった様だね。時々君のブログを読んでいるけれど中には面白いものがあるね・・。それで20150707のブログを以前読んだけれども、ここに書かれていた騎射場と喜捨と八幡宮の関係はなかなか興味深いんじゃないかな・・。その後、たまたま尋ねてこられたその騎射場近くの大学で勤めていた知人に聞いてみたら「それは大変興味深く面白い視点ですね。」って云われたよ(笑)。」

A「はあ、それはどうもありがとうございます。私もその件につきましては特に深く考えないで書いてしまいましたが、もしかしたら、これも初の指摘、発見であるのかもしれません。しかし、何れにしても今の私にとって、そういったことはあまり利するところはないのですが・・。」

B「まあ、何れにしても書き続けるのは良いことだよ。多分君がブログで書いた事のなかに一つは新しい発見はあると思うよ。断言はできないけれどね・・。
それはそうと最近私も小さいけれども面白い発見があってね、まあちょっと聞いてくれ給えよ。」

A「ええ、それは是非お聞きしたいです。それで、その内容とは何ですか?」

B「うん、最近色々な形で「太平記」を読んでいるのだけれど、知っているかもしれないけれど正中の変で幕府側に捕縛されて佐渡に流罪となり処刑された南朝方の公卿日野資朝の息子が、その仇を討ちに京都から佐渡に渡り、まあ、どうにかその仇の親類を討ち取り無事に船で渡海、逃亡するのだが、この息子の名前が「阿新」と書いて「くまわか」と読むのだよ。これは多分「阿」の字が「くま」で「新」の字が「わか」と読ませるのだと思うけれど、ここで面白いのは、今の時代では「阿」を「くま」と読むことは一般的ではないけれど、当時ではそういった読み方で通じていたということだろうね。そしてそうすると、最近ニュースで時折聞く熊本の「阿蘇」・「あそ」の読み方にこれを合わせてみると「くまそ」(熊襲)になるよね。これは当を得ているかどうか分からないけれども、いや、それ以前に元々の阿蘇の語源すら私は知らないけれど、なかなか面白くはないかね?」

A「ええ、それは大変面白いですね!西日本、特に九州などでは古い文化が自然な形で残されていることがあり、時折「ハッ!」と気付かされることがあります。私が鹿児島在住の際に思ったことは多くありますが、先ほど御指摘頂いたブログの騎射場、喜捨そして八幡宮との関係以外で今すぐに思い出すのは、大隅半島の山、確か高隈山(たかくまやま)登山の際、途中にあった山小屋、休憩小屋のことです。これが確か「さしば小屋」と書いてありまして、当時の自分の研究分野が研究分野でしたので「さしば」に反応したのです。
「なぜこれが「さしば」なのか?」という感じで(笑)。」

B「うん、そこの場所で「さしば」は少しおかしいね。で、その意味は何だったんだい?」

A「ええ、その後しばらくして偶然読んでいた金関丈夫著の「発掘から推理する」内の竹原古墳奥室の壁画の記述にて「さしば」という言葉を見つけたのです(前掲著作p.133を参照されたし)。この「さしば」とは、漢字で翳(実際書きながら)と書きまして、昔の偉い人の後ろでお付きの人がよく持っている大きな細長い団扇の様なものであり、日除けなどに使うものです。そして先ほどの高隈山の「さしば小屋」の「さしば」も意味合いで考えますと、おそらくこれが適当ではないかと思うのです。そして、この様な現在では日常生活にて使わない古い言葉を大隅半島などで見聞き、発見しますと、どうも面白いのです。
しかし同時にそれはよく考えてみれば少しも不思議ではないのです。何故ならば、御承知とは思いますが、琉球、沖縄の言葉とは古い奈良時代頃迄の日本語が基にあると既に判っていることから、その伝播径路の途中である鹿児島において存在することはある意味当然なのです。」

B「うん、なるほどねえ、今の推測はよくわかるよ。私も大分前だけれど伊波普猷の著作をいくつか読んだことがあったけれども、それらの中で琉球の言葉の語源についていくつか述べられていたけれど、それとも矛盾しないね。」

A「ええ、琉球、沖縄のことでしたら、最近もう一つ面白いことを見つけました・・。
昨今ニュースなどで時折聞きます沖縄の地名「辺野古」(へのこ)ですが、これはその音(へのこ)ですが、昔の日本語で男性のシンボル、陽の物を意味しまして、以前どこかで見聞きしたお裁きものの落語で出てきたのでぼんやりと憶えていました。また、この辺野古は地理的には大浦湾南側に突き出た半島状になっています。そして、その一方において半島の英語訳であるpeninsulaとは、もともとラテン語の尾、男性のシンボルを意味するpenisが語源です。そうしますと、この辺野古(へのこ)とは、偶然にもその語源においてラテン語、英語などの印欧語の半島の意味と共通している可能性が高いと思われるのです・・・。」

B「うーん、そういうことを真面目に云われるとちょっと驚くけれども、これは確かに単なる下ネタ、笑い話として片付けられないね。うん、なかなか面白いね・・今度それを人に話してみてもいいかね?」

A「ええ、是非お話してみてください。これは話し方で、結構評価が分かれる可能性がありますので、できるだけ真面目に話された方が良いかと思います・・。」

B「やあ、どうもありがとう。それでも私も大勢を相手に説明したり書いたりする仕事は割合長くやってきたと思うから多分大丈夫だと思うよ・・。」

A「ああ、これは失礼しました・・。」

B「いや、気にしないでいいよ。それよりも面白い話をどうもありがとう。」

若槻禮次郎著「明治・大正・昭和政界秘史」講談社刊pp.196-201より抜粋

大正三年の夏の夜のこと、早稲田の大隈邸で臨時閣議が開かれた。
それは第一次ヨーロッパ戦争の最中で、イギリスからわが国に、膠州湾にいるドイツの軍艦があばれて、イギリスの商船などがやられて困るが、日本の海軍で、ドイツの軍艦を追っ払ってくれんかといって、申し込んできたということを、加藤外務大臣が報告した。
そしてわが国とイギリスとの関係は、日英同盟にあるけれども、その成文からいって、日本は必ずしもイギリスの注文に応じなければならん義務はない。しかし同盟の情誼からいって、一方が苦しんでいる際に、これを助けるのが正常だと思うが、閣僚諸君のお考えを伺いたいというのであった。そしてつけ加えて、わが国は三国干渉でひどい目にあったが、膠州湾に手をつけるのは、それに報いるいい機会だと思うといった。それに対して、みな賛成な様子であった。だが私だけは、おいそれと返事ができなかった。
いざ戦争となれば、軍部大臣、内務大臣、大蔵大臣が一番責任が重い。大蔵大臣がこれに賛成すれば、財源を作って戦費を調達しなければならん。それは容易なことではない。先の先まで考えると、非常にくるしい。閣議は夜の十二時に及んだ。結局私は、たとい戦局が拡大するにしても、ドイツの海軍が日本を攻めて来ることも、日本がそれに屈服するなどということも、有り得ない。そう莫大な軍費を要することはないと結論づけて、私は最後にこれに同意した。閣議の終わったのは、夜中の二時ごろだったろう。
それでイギリスへは、申し込みに応じる旨の返事を出した。しかし加藤も私も、元来戦争は好きじゃない。大ていの方針はそれでいいが、どうにかして戦をせんで済む方法があれば、そうしようということで、その翌日、私は加藤を訪ねて、二人で話し合った。夜であったが、室内は暑苦しいので、開け放しのベランダへ出て話した。そこでの話は、ドイツへ最後通牒を送るのに、普通は二十四時間の期限で出すが、二十四時間でなければ機会を失うというような事柄じゃない。戦をしても、せんでもいいのだから、これは一週間ぐらいの期間で申し込もう。その間にドイツがよく研究して、日本を敵としない、日本のいうことを聴くといえば、戦をするに及ばず、こんないいことはないので、そう決めた。
その最後通牒の要旨は日本の玄関前にドイツが坐り込んでいるのはよろしくないから、膠州湾の海軍は東洋から撤退しなければならん。それから租借地と鉄道は、ドイツが権利を放棄して、中国へ戻されねばならんが、ドイツと中国とで直接授受するとなると、どんな密約をするかわからんから、これはいったん日本に渡して、日本の手からシナへ渡すというので、そうすることにした。だんだん話が決まったので、政務局長の小池(張造)を電話で呼んで、通牒の文案を書かせた。ところがヨーロッパに戦争が始まっているので、交通が絶えている。どうしてドイツへ渡すかいろいろ考えて、ロンドンとか、ストックホルムとか、ハンブルグとか、なんでも四ヶ所に電文を送って、それか一つがいけばよいということにした。後で聞くと、案外早く届いて、ベルリンの船越代理公使(光之丞)が、ドイツの外務省へそれを持って行った。ドイツとしては、それは非常な侮辱であったから、握ったまま、返事をしなかったことは周知の通りである。この事について、イギリスの外務大臣サー・エドワード・グレーは、その後、自分は日本に戦争参加を求めたのではない。
ただドイツの軍艦を追い払ってもらいさえすれば、それでいいといっただけだと言って、日本の戦争参加は早まり過ぎたといわんばかりのことを言ってきたという。それにたいして加藤は、ドイツの軍艦を打ち払えば、戦になるじゃないか。軍艦を打ち払って、それで戦争しないというには無理だ。今に至って戦争参加を求めるつもりはなかったなどは、加藤はイギリスの奴隷だから、加藤外交はイギリス外交だといって、加藤の外交非難をしていた。こんな批評は、ただ抽象的にけちをつけようとする、単なる悪口にすぎないのである。

対支二十一箇条
この大隈内閣は、一年間に四度も帝国議会を開いた。
最初の臨時議会は、昭憲皇太后の御大葬費。
次の臨時議会は、前にいった軍艦建造費。
その次の臨時議会は日独開戦に伴う経費の要求。
その次は通常議会であった。
そして日独開戦の経費は、陸軍は一個師団に少しばかりの特別部隊をつけて、青島に兵を出した、その費用であった。海軍は、東洋にいるドイツの海軍を追い払うのみならず、引き続いて起こる戦争の費用をも要求した。そしてこれには、新たに駆逐艦を作らなければ、やっていけんという、大蔵省では、このくらいの戦争をするのに、新たに駆逐艦を作らんでもよかろうと、一応反対した。ところが海軍次官の鈴木貫太郎、これは終戦当時の総理大臣であり、その後亡くなったが、この鈴木が大蔵省へやって来た。次官の浜口(雄幸)が応接すると、鈴木が蒼くなって、この駆逐艦の建造は認められなければ、戦ができんといって、非常に力んだので、たしか七、八艘造ることになった。これは青島の外に、ドイツには太平洋の真ん中に属島がある。ここを根拠地にして、日本を見張られてはかなわん。これを日本に取り込み、この機会に南進しようという肚で、戦費を要求したのであった。日独戦争は知っての通り、勝敗に疑いのあるような戦争じゃなかった。日本は青島をも、太平洋の群島をも、軍事占領した。ここで大ていの形勢は、もう東洋のことには、欧米諸国が嘴をいれることのできないような形勢になっておった。日本としては、この戦争によって得た地位を、固めておく必要があった。それでまだ戦争中ではあったが、中国に向って交渉を開いた。これがいわゆる対支二十一箇条というのであるが、その主なものの中の第一は、既に期限の迫っている旅順、大連の租借の延長ということであった。
この事については、こういう話がある。
第三次桂内閣の組閣後、加藤は英国から帰って、外務大臣になったが、彼は帰朝に先立って、暇乞いのために、イギリス外務大臣サー・エドワード・グレーを訪ね、自分が帰国すれば多分外務大臣に任ぜられると思う。
それについて、ここに一言申しておきたいことがある。
それは日本は、日露戦争の結果、旅順大連の租借地を譲り受けたのであるが、日本は日露戦争のために、十万人の血を流し、数十億の戦費を費やした。
旅順、大連の租借権は、二十五年の期限になっているけれども、日本がこれを譲り受けたときは、すでに十数年を過ぎており、余すところいくばくもない。
しかし日本人は、この期限がくれば、すぐにこれを中国に返さねばならんとは思っていない。このことは、英国において記憶しおかれることを望む、と言明したところ、グレーはこれに対して、満州には日本人の血が流されているということは、考うべきことである。
貴下のただ今の一言は、英国外務省の文書に記録しておくようにする。
と答えたということである。私は加藤の帰朝後間もなく、この話を直接彼から聴いた。
また内閣が総辞職して、山本権兵衛内閣が出来、牧野伸顕伯が外務大臣になって、事務の引き継ぎをする際、加藤は牧野に向かって、引継事項中には重大なものがあるから、外務大臣ばかりでなく、総理大臣にも引き継いでおきたいから、山本首相も立ち会われたいと言って、山本、牧野両大臣の面前で、右のグレーとの対話を引き継いでおいたと、これも加藤が私に話した。すなわち大隈内閣の外務大臣として、加藤が対支交渉にあたって、最も力を注いだのは、この租借権の期限延長であったのである。

明治・大正・昭和政界秘史
明治・大正・昭和政界秘史
ISBN-10: 406158619X
ISBN-13: 978-4061586192
若槻禮次郎






加藤周一著「日本文学史序説」上巻筑摩書房刊pp.22-26より抜粋

中井久夫著「アリアドネからの糸」みすず書房刊pp.134-137より抜粋とあわせて読んでみてください。

日本文学の著しい特徴の一つは、その求心的傾向である。
ほとんどすべての作者は、大都会に住み、読者も大都会の住民であって、作品の題材は多くの場合に都会生活である。
たしかに地方には口伝えの民謡や民話があった。
しかしそういう民謡民話に集められ、記録されたのは都会においてである。
たとえば八世紀に編纂された「古事記」、殊に「風土記」は、多くの地方伝説や民謡を含んでいたが、そういう官選の記録が、中央政府の命令によって作られたことはいうまでもない。
地方を舞台にした多くの話を収録している説話集についても、「日本霊異記」から「今昔物語」を通って、「古今著聞集」や「沙石集」に至るまで、同じことがいえるだろう。
中国では日本でのように一時代の文化が一つの都会に集中してはいなかった。
大陸の文人は、国中を旅して、各地の風物を詠じている。
たとえば杜甫の場合に典型的なように、唐の詩人はその吟懐を必ずしも長安の街頭に得たのではない。摂関時代の歌人が、行ってみたこともない地方の名所・歌枕を、歌につくりなしてしたのとは、大いに異なる。欧州の文学では、その遠心的な傾向が、中国の場合よりさらに徹底していた。
欧州の中世は、吟遊詩人の時代であり、各地の大学を渡り歩いてラテン語の詩をつくっていた学生たちの時代である。
近代になっても、独・伊語の文学的活動が、一つの大都会に集中したことは一度もないといってよいだろう。
パリを中心に発達した近代フランス文学は、その意味では、欧州文学のなかにおける例外である。しかしそのフランスの場合さえも、プロヴァンスはその地方語による大詩人ミストラルを生んだ。日本の場合には、人麿以来斎藤茂吉に到るまで、地方語による大詩人はあらわれなかった。 文学が大都会に集中する傾向は、九世紀以来、京都において徹底した。 律令制権力は中央政府に集中していたけれども、奈良はまだ経済的にも文化的にも大都会ではなかった。 政府と大寺院が大陸文化の輸入の中心であったにすぎない。
経済が大都会を支えるに足るところまで成長し、政治的権力の独占に文化的活動の独占が伴うようになったのは、平安時代以後である。 少なくとも文学に関するかぎり、その中心としての京都の位置は、十七世紀に商業的中心としての大阪が擡頭するまで、いかなる地方都市の活動によっても挑戦されなかった。 十八世紀以後江戸文学がさかんになったが、そのとき文化の中心は、京都・大阪から京都・江戸へ移ったので、京都がその中心であることをやめたわけではない。 そして明治以後の東京中心時代。今日なお著作家の圧倒的多数は、東京とその周辺に住み、出版社の大部分も東京に集中している。 ただ読者層だけが全国的に拡がったのは、文学作品のみならず、ほとんどすべての商品について、全国的な市場が成立するようになったからである。 東京が方向を決め、全国の地方がそれに従う。その意味で、文化、殊にここでは文学の求心的傾向は、江戸時代におけるよりも、今日においてさらに著しいのである。 文学活動の中心であった大都会で、文学と係りをもった社会的階層は時代によって交替した。 今かりに文学作品の創作・享受のいずれかに関与する階層を文学的階層とよぶとすれば、文学的階層の時代による交替は、日本の場合が西洋に似ていて、中国の場合と対照的である。 中国の文学的階層は「士」であった。「士」とは唐・宋の昔から清朝の末まで一貫して、ほとんどそのまま高等教育を受けた中国人と同義語であり、官吏または元官吏であって、彼らだけが文学的言語を読み且つ書くことができたのである。中国の詩文は、「士」の事業であり、彼らのみの事業であった。
そのことは、古典文学の形式の想像を絶した強い伝統と、その伝統に反して新しい形式や主題を発見することの困難を意味する。 日本の文学的階層は、奈良時代にはまだ充分に固定していなかった。 「万葉集」は、主として七・八世紀の歌を集めているが、その作者は、貴族ばかりでなく、僧侶・農民・兵士などであり、また無名の民衆でもあった。しかしおよそ100年の後、10世紀のはじめの「古今集」では、歌人の圧倒的多数が、九世紀の貴族と僧侶であった。平安時代には独占的な文学的階層が成立する。 しかしそのことは、先にも触れたように、京都の支配層以外のところに、口伝えの文学がなかった、ということを意味しない。 おそらくは豊富な伝説や民話や民謡があった。その片鱗は、貴族社会が収集し記録した説話集の類いから、今なお推量することができるのである。
文学的階層としての平安貴族には二つの特徴があった。 その第一は、傑作を生み出した作者に、下級の貴族が多かったということ、その第二は、また女性が多かったということである。 別の言葉でいえば、貴族権力の中心からではなく、その周辺部から、時代を代表する多くの抒情詩や物語が生みだされた。その理由を想像することは、困難ではない。下級貴族は、宮廷生活を観察するためには充分にその対象に近く、そこでの権力闘争にまきこまれないためには対象から充分に離れていた。 地方官として地方へ赴いたときには、宮廷外の社会との接触の機会も多かったはずである。宮廷の女たち(女房)についていえば、経済的配慮、政治的野心、半公用語としての中国語の教養の必要の、いずれからも自由であって、彼らの私的な感情生活を母国語で表現するのに、甚だ好都合な立場にあった。平安時代の文学は必ずしも「女房文学:ではない。しかしこの時代の京都においてほど、女が一時代の文学の重要な部分を担ったことは、おそらく古今東西にその例が少ないだろう。
日本文学史序説 (上)
日本文学史序説 (上)
ISBN-10: 4480084878
ISBN-13: 978-4480084873
加藤周一







加藤周一著「日本文学史序説」下巻筑摩書房刊pp.504-509より抜粋 20151007

敗戦後の日本には、占領軍の強制により、政治社会制度の大きな変化がおこった。
その一つは、軍国日本の「非軍事化」であり、(憲法第九条の戦争放棄条項)、もう一つは、天皇制官僚国家の「民主化」である(天皇の法的権限の縮小、議会民主制、政党および労働組合の活動の自由、言論表現の自由など)。
しかし政治制度の急激な変化に、政治的な意識と行動様式の変化がただちに伴ったのではない。
権力と人民との関係においては、伝統的な「官尊民卑」の風習が残り、今日なお日本社会は、市民革命を経過した社会と異なる。
中央と地方との関係においても、明治以後の中央集権的傾向がそのままひきつがれて、地方自治は極めて弱い。
社会生活一般について、四五年以後のおそらく最大の変化は、家庭でも、学校での、企業でも、集団内部の上下関係の厳格さが崩れ、平等主義が普及したことである。
しかし集団帰属性を強調する価値観が、四五年を境として変ったのではない。
四五年以後の日本社会は、以前と同じように集団志向型の社会であった。
すなわち敗戦と被占領後に出現したのは、個人の人権と少数意見の尊重に鈍感で、しかし高度に平等主義的であり、集団相互および集団の成員相互の競争が激しく、個人の集団への組込まれが常に強かった社会である。
対外関係での最大の変化は、もちろん、被占領から始まった日米関係である。
かつての「枢軸国」は、一転してアメリカとの同盟関係に入った。
アメリカの圧倒的な影響は、政治・経済・軍事・情報・学問・大衆文化の、ほとんどあらゆる領域にわたる。
これほど広汎な領域で、日本国が特定の外国へ依存したことは、一九四五年以前にはなかった。
古代日本への大陸文化の影響は、はるかに広く、はるかに深いものではあったが、中国側からの軍事的・経済的な圧力を伴わない。
一九世紀の「開国」は、たしかに軍事的な圧力のもとで行われたが、その後の「西洋化」の過程は、手本とする先進国が一国に集中していなかった。
またその影響が大衆の風俗習慣に及ばなかったという点でも、戦後三〇年の状況とは大いに異なる。
経済的にみれば、この三〇年を二つの時期に分けて考えることができる。
前半の一五年間は、初めはアメリカの援助、後には朝鮮戦争景気を利用して、日本経済が戦争の荒廃から立ち直った時期である。
五〇年代の半ばに一人当りの実質国民所得は、戦後の水準を恢復した。しかし日本人はまだ貧しく(一九五六年の一人当り国民所得二二六ドル、これはアメリカ合衆国のおよそ一〇分の一、西ヨーロッパ諸国にも遠く及ばない)、TVと乗用車と海外旅行はまだ大衆化していなかった。
戦時中の鎖国状態の後で、国外の文物への知的好奇心は強く、翻訳の欧米文学が読まれ、「西洋事情」の紹介は盛んであった(福沢諭吉「西洋事情」初篇刊行一八六六年の後およそ八〇年である)。
後半の一五年間は、日本経済の高度成長期である。工業製品の国外および国内の市場は、劇的に拡大した。
日本人の生活程度は、かなり高くなった(一九六九年の一人当り国民所得は、一三〇四ドル、これはアメリカ合衆国のおよそ三分の一、西ヨーロッパ諸国の水準にほとんど追いつこうとしていた)。
TVはほとんどすべての家庭に普及し、乗用車は大衆化し、海外への団体旅行は盛んになった。同時に翻訳文学への好奇心は後退し、西洋の知的遺産への関心は薄くなったようにみえる。第一に、ヴェトナム戦争、第二に、「新左翼」の学生運動が、青年たちの関心をひきつけたのは、この時期である。学生運動は、管理された消費社会への成功しない反抗であった、といえるだろう。三〇年間の日本の文学は、経済的復興の前半に活発で、経済的繁栄の後半に独創的な活気を失った。その事情は、第二次世界大戦のもう一つの敗戦国西ドイツの場合とおそらく対称的である。西ドイツの経済的復興は早かったが、その時期に、文化的創造力はほとんど全く麻痺していた。文学芸術の領域での創造的な活動が始まったのは、六〇年代になってからである。日本の戦後文学の主要な条件は、その前半一九六〇年までの時期には、戦争体験と「第二の開国」であり、六〇年以後の後半期には、ヴェトナム戦争と高度成長の消費社会であった。そういう条件が文学にどう反映してきたか。それがここでのわれわれの問題である。


戦争体験について

中国侵略から太平洋戦争へかけて、戦争体験と日本型「ファシズム」の経験とを切り離して考えることはできない。敗戦後にあらわれた日本型「ファシズム」の日本人による自己理解の試みは、その経済的背景の分析から国家論まで、社会心理学的説明から伝統的文化の批判まで、多岐にわたった。そのなかで、思想的領域での分析と叙述が、もっとも周到で、またおそらくもっとも深い影響を戦後の青年たちに及ぼしたのは、丸山真男(一九一四~九六)の「現代政治の思想と行動」(上、一九五六、下、一九五七)に収める諸論文、殊に「超国家主義の論理と心理」(一九四六)、「日本ファシズムの思想と行動」(一九四七)、「軍国支配者の精神形態」(一九四九)である。
丸山はそこで、日本型「ファシズム」を、ナチの体制および歴史と比較し、その特徴を指摘した。すなわち「イデオロギー」における家族国家・農本主義・大アジア主義、運動形態における既存の国家機構の保存・大衆組織の欠如、担い手における小工場主・小地主・下級官吏などの積極性(都会の俸給生活者や「インテリゲンチャ」の消極性)、発展の型における下からの「ファシズム」が上からの「ファシズム」へ吸収される過程などである。
このような特徴の背景には、ドイツと較べての工業化段階および民主主義の後れがあり、したがってドイツ型とはちがう日本型の「ファシズム」が生じたとする(「日本ファシズムの思想と運動」)。民主主義において後れた天皇制国家の基本的な構造は、国家主権がそれ自身に超越する絶対価値へ「コミット」していないということである。
「国家主権が精神的権威と政治的権力を一元的に占有する結果は、国家活動はその内容的正当性の基準を自らのうちに(国体として)持っており、従って国家の対内及び対外活動はなんら国家を超えた一つの道義的基準には服しないということになる」(「超国家主義の論理と心理」。すなわち「主権者自らのうちに絶対的価値が体現している」(同上)。
国家の正統性legitimacyは合法性legalityに解消されず、規範的な内容をもつ。したがって人民は国家に奉仕するためにあるので、国家が人民に奉仕するためにあるのではない。
しかもその国家の指導者が彼らの決定について責任をとらぬという、単に個人の道義的な傾向ではなくて、体制そのものに内在する仕組がある。ニュールンベルグ裁判における被告との対比において、東京裁判の被告の態度の特徴は、「既成事実への屈服」と「権限への逃避」の二点に要約されるという(「軍国支配者の精神形態」)。

前者は、「みんなが望んだから私も」主義である。
みんなが望んだことは、「成りゆき」であり、事の「勢い」であり、「作りだされてしまったこと、いな、さらにはっきりいえばどこからか起こって来たもの」(同上)である。
東京裁判の被告の言い分によれば、日本軍国主義の指導者たちは、誰一人として太平洋戦争を望んでいなかったにも拘らず、太平洋戦争を始めたということになる。
特徴の後者は、指導者のなかに誰にも、特定の決定について、権限がなかったという主張である。
日本文学史序説 (下)
日本文学史序説 (下)
ISBN-10: 4480084886
ISBN-13: 978-4480084880
加藤周一