2015年10月11日日曜日

若槻禮次郎著「明治・大正・昭和政界秘史」講談社刊pp.196-201より抜粋

大正三年の夏の夜のこと、早稲田の大隈邸で臨時閣議が開かれた。
それは第一次ヨーロッパ戦争の最中で、イギリスからわが国に、膠州湾にいるドイツの軍艦があばれて、イギリスの商船などがやられて困るが、日本の海軍で、ドイツの軍艦を追っ払ってくれんかといって、申し込んできたということを、加藤外務大臣が報告した。
そしてわが国とイギリスとの関係は、日英同盟にあるけれども、その成文からいって、日本は必ずしもイギリスの注文に応じなければならん義務はない。しかし同盟の情誼からいって、一方が苦しんでいる際に、これを助けるのが正常だと思うが、閣僚諸君のお考えを伺いたいというのであった。そしてつけ加えて、わが国は三国干渉でひどい目にあったが、膠州湾に手をつけるのは、それに報いるいい機会だと思うといった。それに対して、みな賛成な様子であった。だが私だけは、おいそれと返事ができなかった。
いざ戦争となれば、軍部大臣、内務大臣、大蔵大臣が一番責任が重い。大蔵大臣がこれに賛成すれば、財源を作って戦費を調達しなければならん。それは容易なことではない。先の先まで考えると、非常にくるしい。閣議は夜の十二時に及んだ。結局私は、たとい戦局が拡大するにしても、ドイツの海軍が日本を攻めて来ることも、日本がそれに屈服するなどということも、有り得ない。そう莫大な軍費を要することはないと結論づけて、私は最後にこれに同意した。閣議の終わったのは、夜中の二時ごろだったろう。
それでイギリスへは、申し込みに応じる旨の返事を出した。しかし加藤も私も、元来戦争は好きじゃない。大ていの方針はそれでいいが、どうにかして戦をせんで済む方法があれば、そうしようということで、その翌日、私は加藤を訪ねて、二人で話し合った。夜であったが、室内は暑苦しいので、開け放しのベランダへ出て話した。そこでの話は、ドイツへ最後通牒を送るのに、普通は二十四時間の期限で出すが、二十四時間でなければ機会を失うというような事柄じゃない。戦をしても、せんでもいいのだから、これは一週間ぐらいの期間で申し込もう。その間にドイツがよく研究して、日本を敵としない、日本のいうことを聴くといえば、戦をするに及ばず、こんないいことはないので、そう決めた。
その最後通牒の要旨は日本の玄関前にドイツが坐り込んでいるのはよろしくないから、膠州湾の海軍は東洋から撤退しなければならん。それから租借地と鉄道は、ドイツが権利を放棄して、中国へ戻されねばならんが、ドイツと中国とで直接授受するとなると、どんな密約をするかわからんから、これはいったん日本に渡して、日本の手からシナへ渡すというので、そうすることにした。だんだん話が決まったので、政務局長の小池(張造)を電話で呼んで、通牒の文案を書かせた。ところがヨーロッパに戦争が始まっているので、交通が絶えている。どうしてドイツへ渡すかいろいろ考えて、ロンドンとか、ストックホルムとか、ハンブルグとか、なんでも四ヶ所に電文を送って、それか一つがいけばよいということにした。後で聞くと、案外早く届いて、ベルリンの船越代理公使(光之丞)が、ドイツの外務省へそれを持って行った。ドイツとしては、それは非常な侮辱であったから、握ったまま、返事をしなかったことは周知の通りである。この事について、イギリスの外務大臣サー・エドワード・グレーは、その後、自分は日本に戦争参加を求めたのではない。
ただドイツの軍艦を追い払ってもらいさえすれば、それでいいといっただけだと言って、日本の戦争参加は早まり過ぎたといわんばかりのことを言ってきたという。それにたいして加藤は、ドイツの軍艦を打ち払えば、戦になるじゃないか。軍艦を打ち払って、それで戦争しないというには無理だ。今に至って戦争参加を求めるつもりはなかったなどは、加藤はイギリスの奴隷だから、加藤外交はイギリス外交だといって、加藤の外交非難をしていた。こんな批評は、ただ抽象的にけちをつけようとする、単なる悪口にすぎないのである。

対支二十一箇条
この大隈内閣は、一年間に四度も帝国議会を開いた。
最初の臨時議会は、昭憲皇太后の御大葬費。
次の臨時議会は、前にいった軍艦建造費。
その次の臨時議会は日独開戦に伴う経費の要求。
その次は通常議会であった。
そして日独開戦の経費は、陸軍は一個師団に少しばかりの特別部隊をつけて、青島に兵を出した、その費用であった。海軍は、東洋にいるドイツの海軍を追い払うのみならず、引き続いて起こる戦争の費用をも要求した。そしてこれには、新たに駆逐艦を作らなければ、やっていけんという、大蔵省では、このくらいの戦争をするのに、新たに駆逐艦を作らんでもよかろうと、一応反対した。ところが海軍次官の鈴木貫太郎、これは終戦当時の総理大臣であり、その後亡くなったが、この鈴木が大蔵省へやって来た。次官の浜口(雄幸)が応接すると、鈴木が蒼くなって、この駆逐艦の建造は認められなければ、戦ができんといって、非常に力んだので、たしか七、八艘造ることになった。これは青島の外に、ドイツには太平洋の真ん中に属島がある。ここを根拠地にして、日本を見張られてはかなわん。これを日本に取り込み、この機会に南進しようという肚で、戦費を要求したのであった。日独戦争は知っての通り、勝敗に疑いのあるような戦争じゃなかった。日本は青島をも、太平洋の群島をも、軍事占領した。ここで大ていの形勢は、もう東洋のことには、欧米諸国が嘴をいれることのできないような形勢になっておった。日本としては、この戦争によって得た地位を、固めておく必要があった。それでまだ戦争中ではあったが、中国に向って交渉を開いた。これがいわゆる対支二十一箇条というのであるが、その主なものの中の第一は、既に期限の迫っている旅順、大連の租借の延長ということであった。
この事については、こういう話がある。
第三次桂内閣の組閣後、加藤は英国から帰って、外務大臣になったが、彼は帰朝に先立って、暇乞いのために、イギリス外務大臣サー・エドワード・グレーを訪ね、自分が帰国すれば多分外務大臣に任ぜられると思う。
それについて、ここに一言申しておきたいことがある。
それは日本は、日露戦争の結果、旅順大連の租借地を譲り受けたのであるが、日本は日露戦争のために、十万人の血を流し、数十億の戦費を費やした。
旅順、大連の租借権は、二十五年の期限になっているけれども、日本がこれを譲り受けたときは、すでに十数年を過ぎており、余すところいくばくもない。
しかし日本人は、この期限がくれば、すぐにこれを中国に返さねばならんとは思っていない。このことは、英国において記憶しおかれることを望む、と言明したところ、グレーはこれに対して、満州には日本人の血が流されているということは、考うべきことである。
貴下のただ今の一言は、英国外務省の文書に記録しておくようにする。
と答えたということである。私は加藤の帰朝後間もなく、この話を直接彼から聴いた。
また内閣が総辞職して、山本権兵衛内閣が出来、牧野伸顕伯が外務大臣になって、事務の引き継ぎをする際、加藤は牧野に向かって、引継事項中には重大なものがあるから、外務大臣ばかりでなく、総理大臣にも引き継いでおきたいから、山本首相も立ち会われたいと言って、山本、牧野両大臣の面前で、右のグレーとの対話を引き継いでおいたと、これも加藤が私に話した。すなわち大隈内閣の外務大臣として、加藤が対支交渉にあたって、最も力を注いだのは、この租借権の期限延長であったのである。

明治・大正・昭和政界秘史
明治・大正・昭和政界秘史
ISBN-10: 406158619X
ISBN-13: 978-4061586192
若槻禮次郎






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