2015年10月11日日曜日

加藤周一著「日本文学史序説」上巻筑摩書房刊pp.22-26より抜粋

中井久夫著「アリアドネからの糸」みすず書房刊pp.134-137より抜粋とあわせて読んでみてください。

日本文学の著しい特徴の一つは、その求心的傾向である。
ほとんどすべての作者は、大都会に住み、読者も大都会の住民であって、作品の題材は多くの場合に都会生活である。
たしかに地方には口伝えの民謡や民話があった。
しかしそういう民謡民話に集められ、記録されたのは都会においてである。
たとえば八世紀に編纂された「古事記」、殊に「風土記」は、多くの地方伝説や民謡を含んでいたが、そういう官選の記録が、中央政府の命令によって作られたことはいうまでもない。
地方を舞台にした多くの話を収録している説話集についても、「日本霊異記」から「今昔物語」を通って、「古今著聞集」や「沙石集」に至るまで、同じことがいえるだろう。
中国では日本でのように一時代の文化が一つの都会に集中してはいなかった。
大陸の文人は、国中を旅して、各地の風物を詠じている。
たとえば杜甫の場合に典型的なように、唐の詩人はその吟懐を必ずしも長安の街頭に得たのではない。摂関時代の歌人が、行ってみたこともない地方の名所・歌枕を、歌につくりなしてしたのとは、大いに異なる。欧州の文学では、その遠心的な傾向が、中国の場合よりさらに徹底していた。
欧州の中世は、吟遊詩人の時代であり、各地の大学を渡り歩いてラテン語の詩をつくっていた学生たちの時代である。
近代になっても、独・伊語の文学的活動が、一つの大都会に集中したことは一度もないといってよいだろう。
パリを中心に発達した近代フランス文学は、その意味では、欧州文学のなかにおける例外である。しかしそのフランスの場合さえも、プロヴァンスはその地方語による大詩人ミストラルを生んだ。日本の場合には、人麿以来斎藤茂吉に到るまで、地方語による大詩人はあらわれなかった。 文学が大都会に集中する傾向は、九世紀以来、京都において徹底した。 律令制権力は中央政府に集中していたけれども、奈良はまだ経済的にも文化的にも大都会ではなかった。 政府と大寺院が大陸文化の輸入の中心であったにすぎない。
経済が大都会を支えるに足るところまで成長し、政治的権力の独占に文化的活動の独占が伴うようになったのは、平安時代以後である。 少なくとも文学に関するかぎり、その中心としての京都の位置は、十七世紀に商業的中心としての大阪が擡頭するまで、いかなる地方都市の活動によっても挑戦されなかった。 十八世紀以後江戸文学がさかんになったが、そのとき文化の中心は、京都・大阪から京都・江戸へ移ったので、京都がその中心であることをやめたわけではない。 そして明治以後の東京中心時代。今日なお著作家の圧倒的多数は、東京とその周辺に住み、出版社の大部分も東京に集中している。 ただ読者層だけが全国的に拡がったのは、文学作品のみならず、ほとんどすべての商品について、全国的な市場が成立するようになったからである。 東京が方向を決め、全国の地方がそれに従う。その意味で、文化、殊にここでは文学の求心的傾向は、江戸時代におけるよりも、今日においてさらに著しいのである。 文学活動の中心であった大都会で、文学と係りをもった社会的階層は時代によって交替した。 今かりに文学作品の創作・享受のいずれかに関与する階層を文学的階層とよぶとすれば、文学的階層の時代による交替は、日本の場合が西洋に似ていて、中国の場合と対照的である。 中国の文学的階層は「士」であった。「士」とは唐・宋の昔から清朝の末まで一貫して、ほとんどそのまま高等教育を受けた中国人と同義語であり、官吏または元官吏であって、彼らだけが文学的言語を読み且つ書くことができたのである。中国の詩文は、「士」の事業であり、彼らのみの事業であった。
そのことは、古典文学の形式の想像を絶した強い伝統と、その伝統に反して新しい形式や主題を発見することの困難を意味する。 日本の文学的階層は、奈良時代にはまだ充分に固定していなかった。 「万葉集」は、主として七・八世紀の歌を集めているが、その作者は、貴族ばかりでなく、僧侶・農民・兵士などであり、また無名の民衆でもあった。しかしおよそ100年の後、10世紀のはじめの「古今集」では、歌人の圧倒的多数が、九世紀の貴族と僧侶であった。平安時代には独占的な文学的階層が成立する。 しかしそのことは、先にも触れたように、京都の支配層以外のところに、口伝えの文学がなかった、ということを意味しない。 おそらくは豊富な伝説や民話や民謡があった。その片鱗は、貴族社会が収集し記録した説話集の類いから、今なお推量することができるのである。
文学的階層としての平安貴族には二つの特徴があった。 その第一は、傑作を生み出した作者に、下級の貴族が多かったということ、その第二は、また女性が多かったということである。 別の言葉でいえば、貴族権力の中心からではなく、その周辺部から、時代を代表する多くの抒情詩や物語が生みだされた。その理由を想像することは、困難ではない。下級貴族は、宮廷生活を観察するためには充分にその対象に近く、そこでの権力闘争にまきこまれないためには対象から充分に離れていた。 地方官として地方へ赴いたときには、宮廷外の社会との接触の機会も多かったはずである。宮廷の女たち(女房)についていえば、経済的配慮、政治的野心、半公用語としての中国語の教養の必要の、いずれからも自由であって、彼らの私的な感情生活を母国語で表現するのに、甚だ好都合な立場にあった。平安時代の文学は必ずしも「女房文学:ではない。しかしこの時代の京都においてほど、女が一時代の文学の重要な部分を担ったことは、おそらく古今東西にその例が少ないだろう。
日本文学史序説 (上)
日本文学史序説 (上)
ISBN-10: 4480084878
ISBN-13: 978-4480084873
加藤周一







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