2017年3月22日水曜日

20170322 外部・既存の考え・思想と『能動的に考える』について・・

A「総投稿記事数も570に達し、あと30記事未満の投稿にて600記事へ到達することになりますが、そういった自覚といったものは、実際のところあまり感じることはありません・・。

しかし、思い返してみますと、記事作成を開始した当初とは『公にする文章を作成する』というプレッシャーを強く感じ、あれこれと考えた結果、順調な記事作成が困難な状況となっていました・・。

そこで自分なりに試行錯誤し対話形式の記事、書籍からの抜粋引用を行うことによってどうにか記事数を増やしていました・・(苦笑)。

そして300記事あたりから徐徐に自身の作成記事割合が増加していき、おそらく現段階においては全体の70%程度は自身の作成した記事であると思われます・・。

とはいえ、現段階においても作成記事に対して『ワキが甘い』といった指摘を知人から受けることも時折ありますので、今後も自身の内心に正直に且つ必要以上に周囲を刺激しないよう心がけ記事作成を継続していこうと考えております・・。

しかし一方、面白いことに自身は作成記事の内容によって思想的に左右両方の傾向を示すようであり、人によって『**君の考えは少し左寄りではないかね?』と云われたり、一方『全体的に見て**さんの考えは、その地金は右寄り、あるいは保守的ではないかと思います・・。』といったご意見を頂戴することがあります・・。

自身としては何れであれ結構であり、また記事題材が変わることにより、得られる考え、思想も変化するのであれば、それは、それこそが『自身の考え』ではないかと思われるのです・・。

無論、(既存の)思想とは大事であり、それにより扱う題材に対する視座、軸が得られ、そしてまた文章を書くことが出来るのですが、しかし、あくまでも(既存の)思想とは、我々の外部に存在するものであり、機に応じてそれらを発し、用いることが出来ることこそが、我々生きている人間の為す創造的な行為と云えるのではないでしょうか・・?

また、昨今は特に自身のコトバにて記事を書くことを大事にしておりますので、ここに既存の思想からの援用、運用が必要以上に多く(過多)なりますと、自然、自身の考えといったものを書くことが困難になってくるのではないかとも思われるのです・・。

これは以前、書籍からの抜粋引用を多用していた時期に考えたことです・・。

また、それに慣れてしまいますと、今後は更に一層、自身の文章を書くことが困難になるのです・・。

そのことから『自身の文体を持つ』ということが大きな意味を持ってくるのではないかと考えます。

とはいえ、以前よりブログ記事に書いている通り、開始当初に比べた場合、自身の文体とは、ある程度明瞭にはなっているとは考えますが、それでも未だ『自身の文体を得た』という自覚、実感は得ておりませんので、それが今後如何なる経緯を辿り文体を得るのかとは興味深い事柄です・・。

そういえば、先日岩波新書刊 竹内洋著『丸山眞男の時代』を再読しましたが、そこで述べられている昭和初期の思想家である蓑田胸喜に関しての部分とは、昨今のさまざなな社会での出来事を考えるうえで参考になるのではないかと思われました。

果たして我々とは、その時代(昭和初期)から、如何なる進化が為されたのでしょうか?

あるいは如何なる経験を経ることにより思想、考え方の進化、深化とは為され(定着す)るのでしょうか?

とはいえ、こうしたことは物理化学(理系諸学問)のように普遍化することは困難であるのかもしれません・・。

しかしながら、それでも各々我々が能動的に考えていくこと以外、その善処の方法とはないのではないかとも思われます・・。
そしてその際に既存の思想とは極めて有用であると考いえます・・。

しかし、であるからといって既存の考え方、思想に徹頭徹尾、現実の出来事、事象を適合させていくといった考えは一見『能動的に考える』に見えるのかもしれませんが、そこで微妙な齟齬が生じ続け、結句、帳尻において『間違い』ともいえる結論に至ってしまうことも少なからずあるのではないかとも思われます・・。
こうしたことは思いのほか、我が国の近現代史を考える上で示唆するものがあるのではないでしょうか?

それでも、こうした抽象論とは、どんなに書き続けてもあまり意味はないのかもしれませんが・・(苦笑)。

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

昨年に生じた熊本、山陰東部、福島県周辺における地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧および、その後の復興を祈念しております。」