2021年10月1日金曜日

20211001 既投稿記事をいくつかまとめたもの⑦

あるいは異言すると、鉄器文化のメソポタミア(両河地方)からの伝播が、青銅器文化よりも2000年ほど遅かったことから、我が国においては青銅、鉄器文化の双方が、ほぼ同時期(紀元前400年頃)に齎されたのだとも云える。

さて、紀元前400年頃(弥生時代前期末)のほぼ同時期に我が国に齎された青銅、鉄による金属文化は、その後、列島各地へと伝播していった。また、これら金属は、齎された当初から、その用途により使い分けられていた傾向が認められ、祭祀に用いる銅鐸銅矛銅戈銅剣銅鏡などの場合は主に青銅(成分比は変化する傾向があるが)が材料として用いられ、他方で実用的な武器や農工具に関しては鉄が用いられることが多かった。

しかしながら同時に、武器や農工具といった実用道具すべての材料を鉄としていたわけではなく、以前に述べた精錬・加工に用いる高温の炎を制御する技術が確立し、さらに、材料となる鉄が安定して供給されるようになるまでは青銅も材料として供されていた。

具体的には、1999年に和歌山県御坊市にて発掘された堅田遺跡にて紀元前200年代頃とされる青銅の溶融に用いた溶炉遺構、そしてヤリガンナの鋳型が、西日本各地、朝鮮半島系の様式を持つ土器、遺物類を伴い出土、発掘されたが、このヤリガンナは祭器ではなく実用道具と考えられ、また、同地域は、同時代の銅鐸祭祀文化圏に含まれていることから、その当時の社会様相の一端が理解出来るのではないかと思われる。

くわえて、以下に引用する記述からは、紀元前後の弥生時代中期当時に、青銅を用いた武器が実際に戦闘に用いられていたことが理解出来る。

「前線で戦死した巫女ーヤジリがささった頭骨」
「昭和25年(1950)の秋、長崎県平戸島の根獅子という所で発見された、弥生時代中期のはじめころの女性人骨は、頭骨のてっぺんに、銅の鏃がつきささっていた。
上から見ると、その折れ口が、長さ6.5ミリ、幅3ミリの、緑色の長い菱形を作り、その尖は頭骨の内面に達して、そこに小さな孔をのこしている。
レントゲンで透写すると、骨の中に埋もれているのは、鏃のさきの部分で、三角形に写り、その形や折れ口の形から、矢の全形もほぼわかった。
また、同じような銅鏃は、壱岐や北九州の弥生時代の遺跡から、他にも出土していることがわかった。
しかし、このように人骨につきささったままで、銅鏃が発見されたのは、これがはじめてだった。その時代には貴重品だったろうと想像されていた銅鏃が、このように実戦に使われていたことも、これでわかる。骨から推定すると、成年の女性で、上アゴの左右の犬歯、下アゴの切歯の全部が若いときに抜かれたあとがある。同じ所から出た他の人骨にも同様の抜歯のあとがあるから、風習的なものだということがわかる。この風習は縄文時代からあるが、日本の先史時代では、これが今まで知られているうちで、最も新しい時代の風習的抜歯である。鏃がささって損傷された部分には、頭骨の表面にも、わずかながら生前の変化があり、おそらく負傷後十数日は生きていたらしく、またおそらく、この傷のために起った、脳膜や脳の化膿性の炎症が原因で死亡したと思われる。しかし、女性がこのように鏃で負傷したということ、つまり、女性が戦場の前線にでたということは、どう解釈したらいいだろうか。いろいろの推理は成り立つが、しかし最もありそうな、そして最も興味ある推理は、この女性がこの地の小さい集団の中での統率者であり、いわば女酋長だっただろう、戦争ともなれば、全集団の先頭に立って敵に向っただろうという想像である。しかし、そのとき彼女が持ってでたのは、けっして刀や槍ー少なくとも実用目的のーではなかった。何であったかはわからないが、霊力あらたかな呪いの道具であったに違いない。武力よりもまず呪力で、戦争を有利に導こうというのが、当時一般の戦法であったのだろう。これは今からほぼ二千年前の、平戸島の内部で起った、地方的な小さな事変の犠牲者であるが、こうした呪力をもつ女酋長が、大集団を統治した例は「魏志」の倭人伝にあるヤマト国を支配した、有名な女王のヒミコや、その娘のイヨがある。
ヒミコは鬼道に従事するもの、すなわちマジシアンだと書かれている、これは三世紀のはじめごろの日本の国情を伝えた記録である。また、これに近いころ、女性の身で水軍を統率して、朝鮮に出兵したと伝えられる神功皇后の例にも、その匂いがある。皇后もそうした霊力をもつ女性として記録されている。「崇神紀」にはタケハニヤスビコの叛乱のとき、巫女であったその妻アタヒメが、一部の軍を率いて、帝京(みやこ)を襲わんとするが、大阪で戦死したことがみえる。また、神功皇后のころにも、またその前に景行天皇が九州を征伐したときにも、女土蜘蛛が九州各地、ことに肥前にはたくさんいたことが、「風土記」などにみえている。女土蜘蛛というのも、やはりこうした巫術でもって、部民を統率していた女酋長とみていい。これらの例からみると、それより少し以前の、肥前の平戸島に、こうした女酋長がいて、政治もやり、戦争も指導したということは、きわめてあり得ることである。しかし、それにしても、彼女らは戦場で自ら傷つくほどの、第一線の活躍をしたかどうか。だが、これにも例がある。琉球というところは、今でもそうした巫女の勢力が幾らかのこっている所だが、そこでは古い諺に「ウナグヤ、イクサノ、サキハイ(女や戦の先駆)というのがある。また現に明の弘治十三年(1500)、八重山のアカハチ(赤蜂)が叛いたとき、その討伐軍には、久米島祝女キミハエ(君南風)という者が従軍して功を建てた有名な例がある。この戦争では叛軍のほうでもたくさんの巫女が戦死している。近年複製出版された寛元二年(1244)の漂流記「漂到琉球国記」には、この漂流船の乗員と一戦を交えようとして、小舟を艤して出動する琉球軍の活動がいきいきと描かれているが、弓や刀や盾を持った琉球戦士の中に、ただ一人、額に日蔭のかつらをつけ呪具とおぼしき飾りつきの矛をもった女性の、先頭とはいえないが、最も近景の舟上に立つ者が描かれている。この絵ははなはだ写実的で、祝女従軍の光景はこれで遺憾なくわかる。
銅鏃を頭に受けた平戸の女性は、このようにして戦った巫女の女酋長であったと推理する。」
発掘より推理する
ISBN-10: 4006031300
ISBN-13: 978-4006031305
金関丈夫

上掲引用文にて「銅の鏃」と記述されていたが、これは精確には「鏃」ではなく「銅戈」あるいは「銅剣」であるということであるが、何れにせよ、紀元前200年代の弥生時代の我が国ではさきに述べたように「青銅も実用的な道具の材料として供されていた」ことは理解出来るのではないかと思われる。

さて、他方の鉄については、2世紀頃の我が国(西日本)の様子を記述したとされる「魏志倭人伝」にて「倭人は朝鮮半島南部にて産する鉄を求めに来る」と記されており、そこから、2世紀当時の我が国における鉄とは、国内では求めることが出来ない貴重な材料であったことが理解出来、また、その後の古墳時代においても、特に初期、4世紀代の古墳には、材料段階である板状(鉄鋌)の鉄が、被葬者の権威、財を示す副葬品として北部九州~畿内の古墳においてに多く出土している。

そして、その後、6世紀代に至ると、半島経由で齎された製鉄技術が定着、一般化し、その道具としての使用は、さらに広汎に、そして一般的なものとなっていった。


鉄を農具の材料として用いることにより、それ以前よりも深く、そして広く土を耕すことが可能となり、また、武器として用いた場合、それ以前と比べ殺傷能力は向上し、また、その武器を多く装備したクニは、更なる版図の拡大を為し得たものと考えられる。

そこから、近畿にて成立したヤマト王権は、その当初において、朝鮮半島から齎される鉄材料のルートの占有・確保に腐心したものと考えられ、また、以前より朝鮮半島との交易ルートを持つ技術的な先進地域との間には、少なからず争いもあったものと考えられる。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

順天堂大学保健医療学部


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