2022年3月15日火曜日

20220315 中央公論社刊 岸田秀著 「歴史を精神分析する」pp.48-50より抜粋

中央公論社刊 岸田秀著 「歴史を精神分析する」
pp.48-50より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4122048753
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4122048751

いずれにせよ、明治政府は、藩という自閉的共同体を潰して日本を欧米諸国に似せた近代国家にしようとし、はじめのうちは、めざましい成功を収めた。
 しかし、一神教の伝統がないということもからんでいるであろうが、近代的統一国家はどうも日本人の肌に合わず大きな無理があるらしく、わたしが言うように、いったん潰れた自閉的共同体が歪んだ形で復活するにつれて、日本は変な方向にずれはじめるわけである。
 たとえば、日本軍は日清日露の両戦役には勝利を得たが。昭和になると、何のためかよくわからずに、ずるずると日中戦争の泥沼にはまり込み、ついには工業生産力が十倍以上のアメリカと戦争をはじめ、大惨敗を喫する。この違いは、昭和になると日本軍部が自閉的共同体になってしまったことに起因するとわたしは考えている。

日清日露両戦役時代の日本軍の上層部は、薩長出身者が主流を占めていたものの、それぞればらばらな地方の下級武士階級の出身者が多く、軍部として一つの共同体を成しておらず、生まれたばかりの新しい日本国家に忠実であることができた。

ところが、昭和になると、陸士海兵を優秀な成績で卒業したエリートが軍部官僚となり、同窓生の関係や血縁のほかに相互の頻繁な通婚もあって一つの自閉的共同体を形成した。自平定共同体となった軍部は、すでに述べたように、もはや日本国家と国民のためではなく、軍部の栄光のために(陸軍は陸軍共同体の、海軍は海軍共同体の栄光のために)戦うことになり(しかし、そこに自己欺瞞が働いて日本のために戦っているつもりである)、とんでもない戦争をついやってしまうのである。 

中国戦線から撤兵しなかったのも、国益のためではなく、いったんはじめ、多大の犠牲者を出した戦争を大戦果をあげることなく中止するのは軍の面子にかかわると思ったからであろう。

とくに日米開戦後の中国戦線においては、たとえば阿南惟幾中将が強行した第二次長沙作戦のように、国の全体的戦略としては不必要なのにもかかわらず、太平洋戦争で他の部隊が華々しい戦果をあげるのを見て、「おれのところも何か手柄を立てたい」との功名心から遂行された作戦が多い。
 この第二次長沙作戦では、日本軍は六千名の無意味な損害を出した(これは、国のための国民のためには不必要なのにもかかわらず、官僚の権限拡大のため、退職官僚の天下り先の確保のため、めったやたらといわゆる公益法人をつくり、税金を無意味に乱費する現在の省庁とまったく同じ構造である)。
 また、大東亜戦争中の日本軍部ほど兵士の損耗を気にとめず国民の生命を軽んじた軍部は他に例を見ないが、それは、自閉的共同体は共同体の外部の人たちに無関心で、兵士や国民は外部の人たちだからであった。