2015年11月22日日曜日

我が国における雨乞い祭祀類型およびその背景観念の分類20151122

我が国の雨乞い祭祀類型を概括する為、以下、吉川弘文館「精選日本民俗辞典」の「雨乞い」の章を引用する。

「降雨を願って行われる儀式の総称。共同祈願の一つとして行われる。アマゴイと呼ぶほかに、地方によって、アメヨビ(雨呼び)・アメヨバイ(雨呼ばい)・アメヨバワリ(雨呼ばわり)、あるいはアメギトウ(雨祈祷)・アメネガイ(雨願い)・アメマツリ(雨祭)などともいう。雨の神である竜神に祈る事から、リュウオウモウシ(竜王申し)と呼ぶ地域も多い。多くはアメヒキ(雨引き)ともいったらしい。水稲栽培は多量の水を必要とする為、稲の生育期の降水の多少は稲作に基盤を置く社会にとって死活問題で、古代以来、朝廷、幕府はたびたび諸社へ奉幣し、仏僧に祈雨の法を修せしめて国家規模の雨乞いを行った。村落にあっても雨乞いは重要な共同祈願の行事で、各戸の参加が義務付けられていた。雨乞いの儀礼は極めて多岐に渡る。民間で広く行われていた代表的なもののみ列挙しても、

       村民が山または神社に籠って祈願する。

       作り物の龍や神輿、仏像を水辺に遷して祈る。

       特別の面(雨乞い面)を出して祈る。

       大勢で千回・一万回の水垢離をとる。

       水神の棲むという池などをさらって水替えをする。

       水神の池や淵の水をかき回す。

       水神の池や淵に牛馬の首など不浄のものを投げ込む、あるいは汚物を洗う。

       地蔵を水に漬ける。

       釣鐘を川や池に沈める。

       太鼓を打って総出で雨乞い踊りを踊る。

       特定の聖地から代参が水種を受けてきて川や田に注ぐ。

       山に上がって大火を焚く(千駄焚き)

⑦は、神が怒って不浄を清める為に雨を降らせるのだという説明を伴う事が多いが、大陸や朝鮮半島に盛んで古代日本にも行われた動物供犠による雨乞い儀礼が、血穢観念の発達と共に解釈に変化が生じ、派生型を生んだものと考えられている。
②の水貰いに赴く聖地は各地にあるが、榛名山、相州大山、戸隠、伯耆大山などはことに広い範囲に知られる。近畿地方には高野山から火を受けてきて雨乞いする地域もある。雨乞いにはしばしば共同飲食が伴い、また大規模な雨乞いには集団的興奮をも引き起こして、祭礼に似た状態を現出させた。若者や奉公人には雨乞いも楽しみの一つであった。
しかし、雨乞いが祭礼と大きく異なるのは、一つの雨乞い儀礼が奏功しなかった場合、別の儀礼が重ねて執行される点で、その内容と規模は徐々に拡大してゆく傾向があった。
たとえば、水替えで効験がなければ神社へ長期参籠し、それも効無しとみれば、遠方の霊山霊地へ水種を貰いに行く、というようにである。
また、一村落規模の雨乞いで雨が得られなかった場合には、一郷あるいは一行政町村、時には数郡にわたる規模で、大規模な雨乞いを催すこともあり、これを総雨乞いとか大雨乞いと呼んだ。
そこにこの祈願の切実さを見ることができる。
雨乞いの甲斐あって雨が降ると、オシメリカミゴト(お湿り神事。茨城県)、オシメリショウガツ(お湿り正月、東京都)などといって、臨時の休み日を設けるのが通例であった」(福田、新谷、他(2006)pp18-19)

以上、我が国の雨乞い祭祀類型の概括を引用した。
次にそれらを分類する為の概念の基礎として、以下フレイザー著「金枝篇」内記述を引用する。

「自分と同じような衝動や動機によって行動する個人的な存在、自分と同じように哀れみや恐怖や希望に訴える事で心動かされそうな存在が超自然の代理人とみなされたのである。このように理解された世界であれば、蛮人達は、自然の移り変わりに対して都合の良いように影響を与える力が、自分には限りなくある、と考える。
祈祷、誓約、あるいは威嚇によって、天候の恵みと豊富な穀物を神々から得る事ができるだろう、と考える。
そして蛮人がときおりそう信じるように、神が自分と同じ人間姿を取る事になれば、もはやそれ以上高次の力に訴える必要はなくなる。
蛮人は自身と仲間達の安寧を促進するに必要な、一切の超自然の力を自らのうちに所有する過程もある。
世界には霊的な力が浸透している、という世界観と並んで、太古の人間には別の概念があった。
世界の法則という近代以後の概念の、萌芽と見做せるかもしれない概念、すなわち、自然とは個人的な媒介者が立ち入ってくる事など無い普遍の秩序の中で生起する一連の出来事である。という自然観である。
ここでいう萌芽は、共感呪術と呼び得るものに存する。
これは、迷信の世界の殆どで多大な役割を演じている。
共感呪術の原理のひとつは、どのような効果もそれを真似る事で生み出される、というものである。
(フレイザー・邦訳上巻(2004)p.30)

以上引用記述内前半に述べられているものは自然の中にある種の人格を投影したものであり、それに対して祈祷、誓約、あるいは威嚇を行うものである。
この背景とは、全ての事象の背後に神あるいは神々が存在するという、いわば汎神論(パンティズム)に親和性を持つと考える。
それに対し、後半(世界には霊的な~)にて述べられているものは、自然とは普遍の秩序の中で生起する非人格的なものであり、これに対し影響を与えることが出来るのは祈祷、誓約、あるいは威嚇ではなく、それを真似ることであるという観念である。
この背景とは人格化は伴わないが、全ての事象は神であるという、いわば汎霊説(アニミズム)に親和性を持つと考える。そして以下これにしたがい前に引用した我が国雨乞い祭祀類型を分類してゆく。

 村民が山または神社に籠って祈願する。
神への祈願という意味にて汎神論(パンティズム)に親和性を持つと考える。

 作り物の龍や神輿、仏像を水辺に遷して祈る
神像等を用いた祈願という意味にて汎神論(パンティズム)に親和性を持つと考える。

 特別の面(雨乞い面)を出して祈る。
神像の変形としての面の意味にて汎神論(パンティズム)に親和性を持つと考える。

 大勢で千回・一万回の水垢離をとる。
神への祈願という意味にて汎神論(パンティズム)に親和性を持つと考える。

 水神の棲むという池などをさらって水替えをする。
④と同様に神への祈願という意味にて汎神論(パンティズム)に親和性を持つと考えるが、その方法において汎霊説(アニミズム)的要素が強いと考える。

水神の池や淵の水をかき回す。
神への威嚇という意味にて汎神論(パンティズム)に親和性を持つと考えるが、その方法においては汎霊説(アニミズム)的要素が強いと考えられる。

 水神の池や淵に牛馬の首など不浄のものを投げ込む、あるいは汚物を洗う。
神への威嚇を伴う祈願という意味にて汎神論(パンティズム)に親和性を持ち、またより威嚇の要素が強いと考える。

地蔵を水に漬ける。
神像を用いた祈願という意味にて②に近く、また威嚇を伴う祈願の要素がより強いものとして、汎神論(パンティズム)に親和性を持つと考える。

 釣鐘を川や池に沈める。
前述②、⑧と類似していると考えるが、異なる点は総じて釣鐘とは金属製(主に青銅)であり、古来より水神、龍などは金属一般を嫌うという性質を多く見出すことが可能であることから、威嚇を伴う祈願といた要素が強いことから汎神論(パンティズム)に親和性を持つと考える。

太鼓を打って総出で雨乞い踊りを踊る。
大勢での祈願と云う意味にて前述④に近く、加えて太鼓、踊りと云った要素は降雨時を暗示させるものであることから全般的には汎神論(パンティズム)に親和性を持つ一方、その方法は汎霊説(アニミズム)的要素があるとも考えられる。

 特定の聖地から代参が水種を受けてきて川や田に注ぐ。
水を川、田に注ぐと云う行為は降雨時を暗示させ、汎霊説(アニミズム)的要素が強いと考える。しかし、その水が特定の聖地からのものであることから汎神論(パンティズム)的要素も見出すことが出来ることから、当初この祭祀形態とは汎霊説(アニミズム)的要素が強かったが、その後特定の聖地からの水と云う汎神論(パンティズム)的要素が付加されたものと考える。

 山に上がって大火を焚く(千駄焚き)
降雨時に山肌から煙の様に水蒸気が立つことから汎霊説(アニミズム)的要素が強いと考える一方、⑪と類似し、特定の聖地からの火を用いることにより汎神論(パンティズム)的要素が付加されるとも考える。それ故、この祭祀形態も⑪と同様、汎霊説(アニミズム)的要素が強いものに汎神論(パンティズム)的要素が付加されたものと考える。






 

20151121 我が国における水稲耕作について

国内の地域性を検討、考察する際、水稲耕作およびそれに伴う民俗を扱うことは柳田國男民俗学以来の稲作を過度に重視したものとして、また古来より存在する他の作物農耕文化を軽視するものとして、批判される傾向もある。

しかしながら、我が国の主食が現在尚、水稲耕作により栽培される米であることは紛れもない事実であり、その栽培、多作に執念を燃やし続けてきた歴史を反映するものである。

その歴史の背景には様々な要素により構成された背景観念、日常性が、地域毎に類似、相違性を持ちながら存在するものと考える。

その意味において地域性とは、地域における特徴的な観念構成要素の相違、濃淡および、それらの表出傾向であると考えることができる。


以上のことを踏まえ地域性を検討、考察する場合、特に我が国にて水稲耕作に伴う民俗を扱うことは、それが古来より継続し為され、地域に住む集団に大きな変動が無い場合、そこに貫かれた観念および、それらの特徴的な表出の傾向を認識することができるのではないかと考える。


我が国に水稲耕作が伝来、伝播そして定着した時代は、縄文時代晩期~弥生時代であるとされている。

また、その詳細な年代については幅がある。

しかし、共通して云えることは、水稲耕作が当初、朝鮮半島を含む大陸に近い北部九州地域に波状的に伝来、定着し、その後、主に瀬戸内海を経て西日本各地に急速に伝播したことである。


現在我が国にて栽培されている米は丸く、粘り気のある温帯性短粒種のジャポニカ米に分類されるものである。

その原種は植物学的に長江(揚子江)の中下流域で栽培されていたものであると推定されている。

以上のことから、我が国における水稲耕作の伝来は、長江(揚子江)中下流域から、幾つかのルートを通り、波状的に北部九州地域に伝来、定着し、その後西日本各地に急速に伝播したものと考えるのが妥当である。

加えて、当初我が国に伝来した稲とは、その植物的特性から温暖湿潤な西日本が栽培好適地、可耕地であったと考えられる。

しかし、これは約一万年続いた縄文時代において、農耕が全く行われなかったことを意味するのではなく、遅くとも縄文時代後、晩期(紀元前千年頃)の西日本においては、陸稲を含めた雑穀、芋、豆類を主とした農耕が規模は不明ながらも一般的に行われていたものとされている。

また、縄文時代とは、その晩期を除き現在に比べ気候が温暖であり、特に東北、東日本においては、その人口規模から、豊富な落葉広葉樹林がもたらす動植物に依存し食料獲得が比較的容易であり農耕を食料獲得の主軸とする必要のない、いわば成熟した狩猟採集文化が営まれていたと考えられている。


一方、当時の西日本は、主に常緑性広葉樹林(照葉樹林)が多い植生であることから東北、東日本と異なり食料獲得を狩猟採集に大きく依存することが当初から困難であったものと考えられている。

このことを示唆する材料として、これまでに国内にて発見、発掘された縄文時代の遺跡の地域分布は、極端に東高西低であることが挙げられる。

そして、それを基づいて考えられる当時の人口の地域分布もそれと同様の傾向を示すものであったものと考えられている。


また、我が国の水稲耕作伝来以前における農耕の主な起源とは、縄文時代後期頃(紀元前二千~三千年頃)大陸より伝来した照葉樹林文化に含まれるものであったと考えられている。

照葉樹林文化とは、ヒマラヤ南麓、中国南部、東南アジア北部内陸部に起源を持つ、全体の傾向として南方的色彩の強い生活文化である。

加えて我が国に伝来した前述の短粒種ジャポニカ米の起源とされる長江(揚子江)中下流域もまた、この照葉樹林文化に包括される地域に属する。


照葉樹林文化を示す具体的生活文化とは先ず食文化に関連するものとして、焼畑農耕による芋、雑穀類の栽培、鵜飼による淡水漁撈、なれずし、味噌、納豆など発酵食品、喫茶の習慣などが挙げられる。

工芸文化に関連するものとして、竹細工、養蚕、漆器の製作などが挙げられる。

そして、精神文化に関連するものとして歌垣の風習、山上他界観、来訪神、死体から穀物の種子が化生する神話の存在などが挙げられる。

これらのうちの多くは現在の我が国において容易に見出す事が可能である。

しかし同時にこれら全てが縄文時代後期(紀元前二千~三千年頃)の一時期に集中的に伝来したとは考え難く、これらも水稲耕作と同様、波状的、段階的に伝来したものと考えられる。

また、その伝来経路とは必ずしも後の水稲耕作のそれと同一ではなく、中国南部、東南アジアの地域から主に日本海流(黒潮)によって伝来したと考えられる。

その意味において、稲が南洋より海上の道を経て我が国に伝来したと考える柳田國男の著作「海上の道」とは全否定されるものではない。


また、紀伊半島西部地域においてもこれらの生活文化が現在尚自然な形で継続しているといえる。

具体例として有田川における鵜飼いが挙げられるが、この特徴的な漁法は他に愛知、岐阜、島根、山口等の各県、そして京都府などにおいて見出す事が可能である。

そしてその起源とは中国の長江(揚子江)中下流域において見出すことが可能であるが、朝鮮半島においては見出すことができない。


なれずしに関しては、地域内に各種魚類を用いたものが存在するが、この種の発酵食品の起源も前述地域にある。

これと類似するものは朝鮮半島においても存在するが、その起源は我が国と同一であると考える。

それ故、我が国における発酵食品が全面的に朝鮮半島より伝来したと考えることは、その種類の多さ、分布地域の広さから見て困難であるものと考える。


ともあれ、縄文時代晩期(紀元前千年頃)から気候が冷涼化する。

このことにより特にそれまで人口の多かった東北、東日本では、既存の狩猟採集を基軸とする生活様式の保持が困難となり、さらにその後、大陸では戦乱が続き、そこから逃れるため周辺の比較的平穏な地域に避難、移住した。

その結果、朝鮮半島を含む大陸に居住していた人々が水稲耕作などの文化を携え波状的に日本列島に渡来したものと考えられる。

一方、主に列島中山間、海浜地域に散居していた在来の縄文人達は前述の環境変化に伴い、徐々に低地に移り、水稲耕作を受容したものと考えられる。

そして、その受容、定着が概ね平穏に為された要因とは、双方の保持していた背景文化の起源における類似性、親和性にあったのではないかと考える。

20151118 兄そして社会について・・

A「段々と寒くなってきていますが、体調はどうですか?」


B「ええ、特に問題ありませんが、この時期になりますと6年前の丁度この時期に亡くなった兄のことを思い出しますね・・。
兄と私は小さい頃よくケンカをしたものでしたが、高校時代あたりから色々と話すようになり、南紀、和歌山在住時には首都圏歯科大学の大学院生であった兄が何回か訪ねてきてくれました。
その時、一緒に合川ダムに釣りに行ったり、陶芸体験をしたり、あとは県内の古墳巡りも行きましたね・・・
その際、有田市の藤並神社境内にある泣沢女古墳を見学したのですが、首都圏ではあまり見られない普通の街並みの中にある神社境内に立地する古墳に甚く感心したようで、説明板を読み、周囲を丹念に見回っていました。そして、説明板に古墳の被葬者が12歳程度の女性であると書かれていたのを読み、兄はおもむろに「うーん、これは多分上顎6番、第一大臼歯の咬耗の具合によってその様に考えられたのだろうな・・。」と言ったことを憶えています・・。
当時の私はその意味が分かりませんでしたが、後に歯科技工学校に入りその意味を知りました。」


A「ああ、もう6年になるのか・・あれはたしか2009年だったね。Bさんもその時はずいぶんつらかったでしょう・・。」


B「ええ、あの時は鹿児島在住一年目でしたが、兄の死後3ヶ月程度はどうも事態が呑み込めず、ただ呆然とした状態であったことを憶えています・・。
忌引後、鹿児島に戻り数日経った頃、講座によく来られる方々と話しをしていましたら、そのうちの御一人が鹿児島市内で開業されていた兄と同じ歯科大学御出身の歯科医師の一人が若くして亡くなられていることを世間話、井戸端会議の様に声をひそめながらも強調する口調で話された時はショックでめまいがしました。そして何故か拳を強く握り締めていました・・。
その方は性格の悪い方ではないと思いますので、もしかしたら、兄の死で呆然としている私に喝を入れる目的でその様なことをいわれたのかもしれません。
しかし、それでもこういったことをその時、その場所で普通に話しに出すことの出来るという、ある種のサディズム、嗜虐性とは、口ではどんなにキレイごとをいおうとも現実の我々の社会から絶対になくならないのではないかと思います・・。
また、こういった良くいえば野趣あふれる教育的な発言、悪くいえば、ことばの暴力ともいえるものは、先進諸国の中でも高い自殺率を誇る我が国においては、当然の様にあまねく存在するものであり、また特に日本社会に興味のある海外の方々は、こういった人の心を強く揺さぶる発言が、一見周囲にわからないように、記憶されないように、さりげなく為されているのが我々日本人の社会の一面であることを認識されると、より日本文化の深層への理解が深まるのではないかと思います・・。
そしてこれは民度の問題以前に、何といいますか業の深さに原因があるのではないかと思います。また同時に、これは地域・文化圏毎においてかなり大きなブレ、偏差があるのではないかと思います。」


A「うん、ちょっと迷信じみているような感じもするけれど、日本社会一般にはたしかにそういったドロドロとした一面があるね・・。
実際私もそういった経験は君よりも多くあるとは思うけれども、そこで大事なのは、その後で少し間を置いてから激昂せずに冷静に指摘することではないかな・・?
まあ、しかしそれ以前に問題であると思うのは、表面的な態度は現代的であり洗練されていても、その内面、中身においては、どす黒い情念が渦巻いているような行為態度を何やら良いものとしなければならない社会であり、また、そういった行為態度を大人の常識、洗練されたものとして身につけていかねばならない若い世代は大変痛々しいものがあるねえ・・。
その意味で現在進展中の国際化とは、こういったドロドロした因習的な要素が以前よりかは若干希薄にもなるのかもしれないが・・。
あるいは若い頃の能動的な激しい運動によってあらかじめ昇華するべきものなのかもしれない・・。
いや、それよりも若い世代は、もし本当に必要であると思うならば、団塊の世代がかつてそう試みた様に、その時代の覇権を握っている方々を物理的な方法で排除して構わないのではないかとも思います。
結局将来においてツケを支払わせられるのは彼等であるのだから、そのくらいの権利は行使しても良いのかもしれない・・。
また、最近のお笑い界で私が不思議に思うのは、何故かつて「赤信号みんなで渡ればこわくない」などといった当時でいえば明確に反社会的ないくつかのネタにより一世風靡した現在のあの大御所芸人が、某若手芸人コンビのネタが原爆、反日と関連する可能性が強いということで、非難できるのかということです・・。
両者共にテレビの画面で見てきた私にはどうしてもその様に見えてしまう・・。
もっとも、ほとんどの人々はそういったことをすぐに忘れてしまうのでしょうが・・。
そして、当事者達は毎度のことの様に問題をすり替えたりして、上手く逃げおおせるのでしょうが・・しかし長い目で見ると実はそれが問題であったのかもしれない・・。
あるいはこういったことは我が国の社会ではタブーなのかもしれないね・・。」


B「・・ええ、それはたしかにありますね。
我々の社会は何でも正面から取り組む、戦いを挑むのをどうも記紀の時代から佳しとしない傾向があると思います。
別件逮捕的なものであったり、ああいうのは何ともいえず人を不安にさせるものがありますね・・。
何というかジョージ・オーウェルの「1984」の世界みたいなところがあるのです。まあ、それが全体主義的社会の特徴であるならば、日本とは少なくとも近代以降、現代に至るまで全体主義的な社会であり、おそらく今後もそうなのでしょう・・。
転機となりそうな出来事は時折起きるのですが、いつの間にかそれらも収束、安定してまた全体主義的な社会に再帰着するのです。
ですから、それが本来の自然体なのではないかと思います。
しかし、そうした傾向は案外他の多くの国の社会においても同様であるのかもしれません・・それが全体主義的であるかどうかは別として・・。
とにかく、こうした社会の傾向に対する不断の警戒というものの価値が見出されないまま、欧米を直接的始原とする科学・技術的知識を吸収、駆使して同等の位置に到達したのが現代の日本をはじめとするアジア諸国、いや、最近は欧米自身もそうであるのかもしれません・・。
そして、その科学・技術の粋たるものがパソコン・スマホなどの情報機器なのでしょうが、同じ文字を読むのでもそれら機器のモニターから読むのと、紙面から読むのではその後に生じる想念、思考に違いが出てくるのかもしれません・・。
これはもしかしたら木簡から紙面への変化などよりも大きなものなのかもしれないです。何故ならば筆書という一種の身体性の要素が大きく欠落したからです・・。」


A「うん、最近の国際社会はネットの普及によってか、何でもスピード、正確さが要求されているようで、その結果、人間の機械化あるいは機械への人間の適応によってより一層拍車がかかり、チャップリンのあの映画みたいなことが再び生じつつあるのかもしれないね・・。
これは仕方のないことなのでしょうか・・?
・・いや、ともあれ、さきほどの我が国のドロドロした因習的な要素についてだけれど、実はああいったものが引き起こす「怒り」とは、エネルギーに変えられるものであり、それはノーベル賞を受賞されたあの先生の発言にも見られます。
また、その怒りとは、例外はありますが、その多くは若いうちにしか持ち得ないものであり、それは通常、年齢の上昇、あきらめと共に減衰してゆくものです・・。
そして、その若さ故の怒りからのエネルギーにより主体が創造したものが、世間と感応して人気となり、経済的効果が生じ、その結果、一時的にではあるが、世間を活性化させます。そして人気、経済的効果により主体はエネルギーの源であった怒りを持ち得なくなることから、そのエネルギーの供給源を他に求めつつも創造を続け、それがまた世間と感応して、活性化が為されるサイクルが繰り返されるのではないだろうか・・。
その様な一連の流れが時間の経過により感応、活性化の度合い、程度が鈍化、低下すると、今度は新陳代謝の様に新しい主体による一連のサイクルが再び始まるのでしょう。
これは内燃機関にて動く無限軌道の様なもの、あるいはまたフレーザーの「金枝篇」内の「殺される王」もしくは中国の易姓革命の言説などを想起させますね・・。」


B「なるほど・・何だか抽象的であるのか具体的であるのかよくわからないお話でしたが、いわんとする内容はよくわかります。また、私もその考えには賛成できる部分が多くあります。ただ、少し不思議に思うのは、そのお話は、男性を主体として想定されているのですか?あるいは女性はその話しのどこに位置づけられる存在なのですか?」


A「なるほど、それは面白い指摘だね()
私の意見では、実はこの一連のサイクル、流れを無意識ながらも支配、統御しているのが女性なのではないかと思います・・。
しかし現在様々な事物が多様化しているように、女性にも色々あって、先程の主体者に位置づけられるような方も現代社会では多く見られます。
これは特に様々な分野における先駆的存在の女性がそうなのではないでしょうか?
古来より、そして特に近代以降、少なくとも我が国の社会では、こうした先駆的存在を社会の同質性を乱す因子として往々にして同性、異性問わず結果的には排斥する傾向があります。
その一方、同質性を重視する女系的な要素の力が若干弱まっている現在であるからこそ、先駆的な女性は同性からの同調圧力、排斥を免れ、頭一つ越える存在になることが比較的容易になっているのではないかとも思います・・。
しかしそれでも、これもまた私個人の意見だけれども、女性研究者、専門職の方々の自身の研鑽、努力により磨き上げ、鍛え上げられたいわゆる女子力とは、世のほとんどの男性から見れば、ほぼ妖刀であり、御自身が気付かないうちに男性を傷つけていることが多いのではないだろうかね?・・(苦笑)。」


B「はあ、なるほどです・・。
あまり同意したくないですけれど、仰ることよおくわかります()
それで、今のお話で私が思い出したのが、以前私のブログにてとり上げた若松孝二監督の「千年の愉楽」という映画です。Aさんも、もし機会がありましたら是非一度御覧ください多分、今のお話を思い出されるのではないかと思います。また、そういえば、亡くなった兄とも、よく読んだ本や映画に関しての話しをしていましたが、不思議と兄とはそういった好みが似ておりまして、最近は音楽自体あまり聴かないのですが、兄から教えてもらった曲は今でも私のお気に入りに入っています。それらのうちの一曲であるm-floの「Come Again」は現在尚かなり良い曲であると思っています。あ、この一連の会話はまた個人特定の要素を除きブログの題材にしようと思いますが、丁度兄の七回忌ということもありますので前の曲を動画サイトから共有しようと思います・・。」


A「ああ、それはいいね。」