2015年11月22日日曜日

我が国における雨乞い祭祀類型およびその背景観念の分類20151122

我が国の雨乞い祭祀類型を概括する為、以下、吉川弘文館「精選日本民俗辞典」の「雨乞い」の章を引用する。

「降雨を願って行われる儀式の総称。共同祈願の一つとして行われる。アマゴイと呼ぶほかに、地方によって、アメヨビ(雨呼び)・アメヨバイ(雨呼ばい)・アメヨバワリ(雨呼ばわり)、あるいはアメギトウ(雨祈祷)・アメネガイ(雨願い)・アメマツリ(雨祭)などともいう。雨の神である竜神に祈る事から、リュウオウモウシ(竜王申し)と呼ぶ地域も多い。多くはアメヒキ(雨引き)ともいったらしい。水稲栽培は多量の水を必要とする為、稲の生育期の降水の多少は稲作に基盤を置く社会にとって死活問題で、古代以来、朝廷、幕府はたびたび諸社へ奉幣し、仏僧に祈雨の法を修せしめて国家規模の雨乞いを行った。村落にあっても雨乞いは重要な共同祈願の行事で、各戸の参加が義務付けられていた。雨乞いの儀礼は極めて多岐に渡る。民間で広く行われていた代表的なもののみ列挙しても、

       村民が山または神社に籠って祈願する。

       作り物の龍や神輿、仏像を水辺に遷して祈る。

       特別の面(雨乞い面)を出して祈る。

       大勢で千回・一万回の水垢離をとる。

       水神の棲むという池などをさらって水替えをする。

       水神の池や淵の水をかき回す。

       水神の池や淵に牛馬の首など不浄のものを投げ込む、あるいは汚物を洗う。

       地蔵を水に漬ける。

       釣鐘を川や池に沈める。

       太鼓を打って総出で雨乞い踊りを踊る。

       特定の聖地から代参が水種を受けてきて川や田に注ぐ。

       山に上がって大火を焚く(千駄焚き)

⑦は、神が怒って不浄を清める為に雨を降らせるのだという説明を伴う事が多いが、大陸や朝鮮半島に盛んで古代日本にも行われた動物供犠による雨乞い儀礼が、血穢観念の発達と共に解釈に変化が生じ、派生型を生んだものと考えられている。
②の水貰いに赴く聖地は各地にあるが、榛名山、相州大山、戸隠、伯耆大山などはことに広い範囲に知られる。近畿地方には高野山から火を受けてきて雨乞いする地域もある。雨乞いにはしばしば共同飲食が伴い、また大規模な雨乞いには集団的興奮をも引き起こして、祭礼に似た状態を現出させた。若者や奉公人には雨乞いも楽しみの一つであった。
しかし、雨乞いが祭礼と大きく異なるのは、一つの雨乞い儀礼が奏功しなかった場合、別の儀礼が重ねて執行される点で、その内容と規模は徐々に拡大してゆく傾向があった。
たとえば、水替えで効験がなければ神社へ長期参籠し、それも効無しとみれば、遠方の霊山霊地へ水種を貰いに行く、というようにである。
また、一村落規模の雨乞いで雨が得られなかった場合には、一郷あるいは一行政町村、時には数郡にわたる規模で、大規模な雨乞いを催すこともあり、これを総雨乞いとか大雨乞いと呼んだ。
そこにこの祈願の切実さを見ることができる。
雨乞いの甲斐あって雨が降ると、オシメリカミゴト(お湿り神事。茨城県)、オシメリショウガツ(お湿り正月、東京都)などといって、臨時の休み日を設けるのが通例であった」(福田、新谷、他(2006)pp18-19)

以上、我が国の雨乞い祭祀類型の概括を引用した。
次にそれらを分類する為の概念の基礎として、以下フレイザー著「金枝篇」内記述を引用する。

「自分と同じような衝動や動機によって行動する個人的な存在、自分と同じように哀れみや恐怖や希望に訴える事で心動かされそうな存在が超自然の代理人とみなされたのである。このように理解された世界であれば、蛮人達は、自然の移り変わりに対して都合の良いように影響を与える力が、自分には限りなくある、と考える。
祈祷、誓約、あるいは威嚇によって、天候の恵みと豊富な穀物を神々から得る事ができるだろう、と考える。
そして蛮人がときおりそう信じるように、神が自分と同じ人間姿を取る事になれば、もはやそれ以上高次の力に訴える必要はなくなる。
蛮人は自身と仲間達の安寧を促進するに必要な、一切の超自然の力を自らのうちに所有する過程もある。
世界には霊的な力が浸透している、という世界観と並んで、太古の人間には別の概念があった。
世界の法則という近代以後の概念の、萌芽と見做せるかもしれない概念、すなわち、自然とは個人的な媒介者が立ち入ってくる事など無い普遍の秩序の中で生起する一連の出来事である。という自然観である。
ここでいう萌芽は、共感呪術と呼び得るものに存する。
これは、迷信の世界の殆どで多大な役割を演じている。
共感呪術の原理のひとつは、どのような効果もそれを真似る事で生み出される、というものである。
(フレイザー・邦訳上巻(2004)p.30)

以上引用記述内前半に述べられているものは自然の中にある種の人格を投影したものであり、それに対して祈祷、誓約、あるいは威嚇を行うものである。
この背景とは、全ての事象の背後に神あるいは神々が存在するという、いわば汎神論(パンティズム)に親和性を持つと考える。
それに対し、後半(世界には霊的な~)にて述べられているものは、自然とは普遍の秩序の中で生起する非人格的なものであり、これに対し影響を与えることが出来るのは祈祷、誓約、あるいは威嚇ではなく、それを真似ることであるという観念である。
この背景とは人格化は伴わないが、全ての事象は神であるという、いわば汎霊説(アニミズム)に親和性を持つと考える。そして以下これにしたがい前に引用した我が国雨乞い祭祀類型を分類してゆく。

 村民が山または神社に籠って祈願する。
神への祈願という意味にて汎神論(パンティズム)に親和性を持つと考える。

 作り物の龍や神輿、仏像を水辺に遷して祈る
神像等を用いた祈願という意味にて汎神論(パンティズム)に親和性を持つと考える。

 特別の面(雨乞い面)を出して祈る。
神像の変形としての面の意味にて汎神論(パンティズム)に親和性を持つと考える。

 大勢で千回・一万回の水垢離をとる。
神への祈願という意味にて汎神論(パンティズム)に親和性を持つと考える。

 水神の棲むという池などをさらって水替えをする。
④と同様に神への祈願という意味にて汎神論(パンティズム)に親和性を持つと考えるが、その方法において汎霊説(アニミズム)的要素が強いと考える。

水神の池や淵の水をかき回す。
神への威嚇という意味にて汎神論(パンティズム)に親和性を持つと考えるが、その方法においては汎霊説(アニミズム)的要素が強いと考えられる。

 水神の池や淵に牛馬の首など不浄のものを投げ込む、あるいは汚物を洗う。
神への威嚇を伴う祈願という意味にて汎神論(パンティズム)に親和性を持ち、またより威嚇の要素が強いと考える。

地蔵を水に漬ける。
神像を用いた祈願という意味にて②に近く、また威嚇を伴う祈願の要素がより強いものとして、汎神論(パンティズム)に親和性を持つと考える。

 釣鐘を川や池に沈める。
前述②、⑧と類似していると考えるが、異なる点は総じて釣鐘とは金属製(主に青銅)であり、古来より水神、龍などは金属一般を嫌うという性質を多く見出すことが可能であることから、威嚇を伴う祈願といた要素が強いことから汎神論(パンティズム)に親和性を持つと考える。

太鼓を打って総出で雨乞い踊りを踊る。
大勢での祈願と云う意味にて前述④に近く、加えて太鼓、踊りと云った要素は降雨時を暗示させるものであることから全般的には汎神論(パンティズム)に親和性を持つ一方、その方法は汎霊説(アニミズム)的要素があるとも考えられる。

 特定の聖地から代参が水種を受けてきて川や田に注ぐ。
水を川、田に注ぐと云う行為は降雨時を暗示させ、汎霊説(アニミズム)的要素が強いと考える。しかし、その水が特定の聖地からのものであることから汎神論(パンティズム)的要素も見出すことが出来ることから、当初この祭祀形態とは汎霊説(アニミズム)的要素が強かったが、その後特定の聖地からの水と云う汎神論(パンティズム)的要素が付加されたものと考える。

 山に上がって大火を焚く(千駄焚き)
降雨時に山肌から煙の様に水蒸気が立つことから汎霊説(アニミズム)的要素が強いと考える一方、⑪と類似し、特定の聖地からの火を用いることにより汎神論(パンティズム)的要素が付加されるとも考える。それ故、この祭祀形態も⑪と同様、汎霊説(アニミズム)的要素が強いものに汎神論(パンティズム)的要素が付加されたものと考える。






 

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