2017年6月11日日曜日

20170611 650記事に到達して思ったこと・・余聞

A「さて、さきほどの記事投稿により総投稿記事数が650に到達しましたが、やはりこれといった感慨らしきものは湧いてきませんでした・・(苦笑)。

また、次の目標は700記事ということになりますが、現在の記事投稿頻度を維持しますと、おそらく8月初旬迄には到達することが出来るのではないかと思われます・・。

また、それに加えてもう少し遠大な目標を立てるとすれば、何時頃になるか分かりませんが、あまり無理をすることなく記事作成を継続し1000記事まで到達することが出来れば、良いと考えております・・。

また、総投稿記事数を1000を目標としますと、今現在では、その三分の二にも達しておらず、今後17記事を作成、投稿し667記事にまで到達すれば、そこに達したということになりますが、そのように考えてみますと、ここから667記事到達への17記事あまりの作成もまた多少やる気が湧いてきますが、とりあえず今後もあまり焦ることなく、落ち着いて記事作成を継続していこうと思います・・。

とはいえ、正直なところ、ブログ記事作成当初は現在の投稿記事数650までも継続することが出来るとは思ってもみませんでした・・。

しかし実際ここに至ってみますと、何となく「ここまで来たなあ・・」といった感じであり、また今後の目標とする700記事到達においても「到達できるかどうかは分からないけれどもとりあえずやってみるか・・」といった感じであり、これまた正直なところ、あまり喜怒哀楽の感情を生じせしめるようなものはありません・・。

また、このことは以前と比べて徐々に変わってきたことでもありますので(当初は比較的ある区切りの良い記事数への到達を割合喜んでいた)この変化とは、一体どのような内面の経緯により為されたのかとは、なかなか面白く気になるところでもあります・・(笑)。

あるいは単純に自身の感情といったものが鈍磨しているだけなのでしょうか・・(笑)?

しかし、もしも実際に感情が鈍磨しているのであれば、ブログ記事作成の継続など望まず、もっと簡単に楽しむことが出来る他の何かに興味を持ち、それを行うのではないかとも思われます・・。

いずれにせよ、こうしたことも、もう少し記事作成を継続してみないと今以上明瞭に分かることはないと思われますので、とりあえずは、もうしばらく記事作成を継続することにします・・(笑)。

ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
今回の記事は同日作成記事の余聞のようなものです。







20170611 おかげさまで650記事に到達しました。文章を書く際の緊張感・・弁証法?

本日の記事投稿で投稿記事が650に到達します。

また、先日来よりSNSとの連携を試験的に行ってみたところ、閲覧者数が増加し昨日は、ここ最近では見られない程多くの閲覧者数を得ることができました・・。

とはいえ、このようなSNSとブログとの連携を自身で行っておきながら、以下のようなことを書くのも矛盾しておりますが『多くの方々に記事が閲覧されているという自覚』とは、どうやら(それに慣れるまでは)記事作成においては必ずしもプラスではなく、どうも萎縮してしまうといった要素も少なからずあるように思われるのです・・(苦笑)。

しかし同時に、さきの自覚とは、記事を書く上において、自身に緊張感を生じさせることから、書く記事の内容に対しても、より深く考えさせる効果もまたあるように思われます・・。

そして、この双方要素の内面での葛藤こそが自身の場合、ブログ記事作成の『力』となっているのではないかと思われるのです。

それでもやはり、こうしたものも他のさまざまなことと同様にバランスが大事であり、緊張感ばかり大きくなりますと萎縮して記事作成が困難な状態となり、一方それが皆無であれば、書かれる内容もまた、意図しないことながら無意識に手を抜いてしまうといった傾向があるように思われます・・。

それ故、おそらく自身にとって最も望ましい展開とは、ある程度の『量』の記事作成によって閲覧者数が増大することに伴い生じる緊張感に耐え得る、それを記事作成に対してプラスに転化し『記事内容、質』の向上が為し得る自身に漸進的に進化発展を遂げることではあるのでしょうが、実際にはそこまで単純に行くものでもなく、もっと込み入った複雑な事情が存在するものと考えます・・(苦笑)。

また、以上のことを一般化するのもまた単純過ぎるのではあるのでしょうが、ものごとの進化発展の背景とは、概ねそのようなものではないでしょうか・・(笑)?

ともあれハナシを冒頭に戻し、今回の記事投稿によって投稿記事数が650に到達するわけですが、あまり実感や感慨なども湧かず『じゃあ次は700記事かな・・?』といった考えがボンヤリと出てくる程度です・・(笑)。

そして、そのようなことを書いておりますと、さきには『記事作成における緊張感は必要である』といった意味のことを書いたにもかかわらず、それらの蓄積である投稿記事数に対しては意識していないことはないものの、緊張感を含む感慨といったものをあまり持ち得ないこととは、なかなか面白い、あるいはまた多少一般化し得る心的傾向といったものを垣間見ることが出来るのではないかとも思われましたが如何でしょうか・・(笑)?

また、ブログ記事作成が創造の一つであるとするならば、そこには、創造という行為の背景にある、何かしらの傾向、特徴を示しているのではないかとも考えられます・・。

ともあれ、今回650記事に到達し、以上のようなことを書くことが出来る背景には、面白いものばかりではない、一連の投稿記事を(継続的に)読んでくださって方々がいらっしゃるからであることは間違いないことです・・。

おかげさまで650記事に到達することが出来ました。
そして今回もまた、ここまで興味を持って読んでくださり、どうもありがとうございます。

去る2016年、熊本、山陰東部、福島県周辺にて発生した地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しております。」








20170610 SNSとブログ記事を連動させて思ったこと・・直観・直覚・・帰納?

昨日、試験的にいくつかの当ブログの記事をSNSと連動させてみたところ、明らかな閲覧者数の増加を示しましました・・。

とはいえ、これはこれで自身にとってはプレッシャーとなると考えたことから、毎回の投稿記事を連動させることは、とりあえず控えておきます・・

今後、それに慣れてきた場合、徐々に移行して行けばそれで良いものと考えます。

また、このブログ記事とSNSとの連動に伴い、昨日投稿のブログ記事にて書いた、ここ最近、随分以前に投稿した記事がぽつぽつと読まれている状態がさらに加速、励起されたようであり、冒頭に述べた閲覧者数の増加とは、概ねそのような記事(随分以前に投稿した記事)の閲覧によるものであるのです・・。

さらに加えて面白いことは、それら読まれている記事とは、必ずしも昨日SNSにて連動させた過去の記事ではないということです・・(笑)。

こうなりますと、自身でも、よくその事情、作用機序が分からなくなるところではあるのですが、不思議なことに、その一方で、読まれていた記事と昨日の投稿記事との関連について考えてみますと、どうも私の個人的なこと、いや少なくとも一連のブログ記事や以前SNSにて書いた意外のことを知っているのではないかと考えさせられるのです・・。

とはいえ、このように考えるに至った経緯とは、残念ながら現在の私の文章表現力、言語能力にて端的、簡潔に説明することが困難であり、同時に、その感知されたことは、それを今現在ブログ記事主題として書いている自身のいわば創造の源泉ともいえることから、そう簡単に解明、明瞭化されてしまっては面白くないのです・・(笑)。

こうしたこともまた、以前のブログ記事において書いた学問における論証過程の重要さと通底する何かがあるのではないかと思われますが、如何でしょうか・・(笑)?

さらに、ここまで書いておりますと、我が国の多くの地域でその伝説がある妖怪『座敷わらし』とは、案外こうした考えが具体的な日常生活において発露されたものではないかとも思われるのです・・。

また、これはある程度一般化され得ることであると思われますが、さまざまなことを調べておりますと或る時点で『コトバにはならないけれども分かった』と感じる時があります。

これは直観、直覚といったものの為せるワザとのことですが、その後さらに倦むことなく調べ、究め続けておりますと、徐々にその感覚が言語化されてきます。

そして、この一連の経緯こそが意識下にて行われていた論証過程が徐々に意識上に顕現してくるといった現象ではないかと考えます・・。

こうしたことを思い至るに及んで、現在私は既に若くはない年齢には達しましたが、未だ時において直観、直覚といったものが働いたことに、多少安堵するのです・・。

いや、あるいはこうした直観、直覚とは、若いうちよりも、ある程度の年齢に達してからの方がよく働くものであるのでしょうか・・?

このことをもう少し考えてみますと、おそらく直観、直覚とは、それがある程度『確からしい』と自覚されるものであれば、それは主体が積んだ経験、学識などもまた同様にある程度の『量』に達していると思われます。

何故ならば、それは参照し得る経験、知識が多いということになりますので(確からしさとは、そのような土台の上に立つ)。

さて、そうした土台、前提の上で、何かの契機、きっかけによって直観、直覚を得るとは、いわば無意識に行われている内面での経験、知識の参照作業に何らかの刺激が加わることによって直観、直覚が発露されるということになると考えられます・・。

そして、それは考え方のモデルでいいますと、帰納法による推論に近いのではないかと思われますが如何でしょうか・・?

しかしそうなりますと、そこで問題になるのは、では内面にて行われている経験、知識の参照作業を行っている『力』とは一体何であろうか?ということになると思われます。

また、この『力』とは、おそらく勉強、学ぶ『力』ともある程度関連はあると思われる一方、単純に比例、随伴するものでもないのではないかとも思われるのです・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

年、熊本、山陰東部、福島県周辺において発生した地震によって被害を被った地域の出来るだけ早い諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しております。」