2022年6月13日月曜日

20220613 株式会社講談社刊 講談社学術文庫 谷川健一著「埋もれた日本地図」 pp.58‐60より抜粋

株式会社講談社刊 谷川健一著「埋もれた日本地図」
pp.58‐60より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4065249430
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4065249437

私が連綿とした家系に驚嘆したのは安曇氏ばかりではない。埼玉県の入間郡の高麗本郷というところで高麗神社を祀っている高麗氏がある。58代目と称する当代の高麗明津氏は77歳の高齢であるが、会ったとき、その柔和な面ざしに朝鮮の血がながれていると、私は思わずにはいられなかった。もっともこのうち10代は兄弟が継いだのだから、じっさいは48代という説明だったけれども、それにしてもその祖先の高句麗亡命人若光がこの地に移住したのが、「諸国の高句麗人をあつめ、武蔵国に高麗郡をおく」とある元正天皇の716年であるから、奈良時代の初めごろの話である。

 高句麗(前37~668)は高麗とも呼ばれた。高麗人1800人をあつめ高麗郡をつくったが、その首長が若光であった。

 この若光は高麗郡に移るまえに神奈川県の大磯にいたという伝承がある。大磯には高麗山の地名がのこり、また高来神社の下の宮は高麗王若光を祭っている。高来神社はいうまでもなく高麗神社の呼び方を変えたものだ。この神社の一年越しにおこなわれる夏の大祭で舟子たちがとなえる祝歌の一部に、「俄かに海上騒がしく、浦の者共怪しみて、遥かに沖を見てあれば、唐船急ぎ八の帆を上げ・・・この船の中よりも、翁一人立ち出でて、艪に登り声をあげ、汝らそれにてよく聞けよ、われは日本の者にあらず、諸越の高麗国の守護なるが、邪慳な国を逃れ来て、大日本に志し、汝等帰依する者なれば、大磯浦の守護となり、子孫繁昌と守るべし」とある。この翁が若光であったのである。

 こうした歌が歌が今日まで歌いつがれること自体ふしぎとは思わざるを得ない。しかも埼玉の高麗郷に本拠をすえた若光の子孫は代々高麗氏を名のり、鎌倉幕府の執権北条泰時のころまでは、親族や重臣とばかり縁組してきたということが高麗神社伝来の系図に明記されており、高麗本郷一帯の帰化人のあいだで高麗氏の血が保たれてきたことがはっきりする。この系図は正元元年(1259年)に火災で焼けたが、そのとき一族老臣など高麗百苗があつまって諸家の故記録をとりしらべ、高麗氏の系図をあたらしく書きのこすことにしたと記してあるのをみると、鎌倉時代の中期までは同族意識はきわめて強固であったことがうかがえる。じっさいこの高麗本郷には、若光の墓と称する朝鮮式の多重塔があり、付近に高麗川が流れていて、日本のなかの、朝鮮特別区という趣がある。そうした雰囲気を奈良時代このかた途切れることなく持ちつたえてきたのがこの一帯であったにちがいない。高麗郷近くの飯能は朝鮮語のハンナラ、つまり「韓の国」という意味だそうだ。東京都下に狛江があることは誰でも知っている。

 私は狛江、調布、八王子と多摩川ぞいに引かれるラインを北上させて、八王子と高崎をむすぶ八高線の沿線に朝鮮文化を想定してみた。つまり関東平野の西部ぞいに古代朝鮮人が定着し、開拓をおこない、養蚕をひろめ、ひいては機織りをさかんにしたと考えてみた。すると、あきらかに高句麗系文様の金銅飾板を出す狛江の古墳群のまわりに当時の一大集落が浮かび上がる。そこは多摩川とつい目と鼻のあいだである。多摩川は「万葉集」に多麻と書き、麻に関係があると思われる「和名抄」には多婆と書いてあるから白栲の栲を意味するタバかも分からない。そして近くに調布や砧(布板のつづまった語)などの集落があるところをみれば、多摩川に布をさらし、それを木や石の上において叩いてやわらかにしていた当時の光景が眼前に出現する。それは高麗本郷や流れる高麗川でもみられた風景だったにちがいない。

20220612 中央公論新社刊 中公クラシックス 竹山道雄著「昭和の精神史」pp.49-52より抜粋

中央公論新社刊 中公クラシックス 竹山道雄著「昭和の精神史」pp.49-52より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 412160122X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121601223

青年将校の運動は、封建時代このかた持続された支配階層たる「天皇制ファッショ」が、自己の本質を一直線に実現していった過程の一齣ではなかった。その代表者を殺すことによってその真の姿を生かしたのだという「呼出し役」説は、堅白同異の詭弁であり、歴史を都合よく体制化して考えるためにつくりだされた便宜の仮想にすぎない。これによって組み立てられた全体を、歴史としてうけとることはできない。

旧勢力の人びとも国の一員だから、国の保全とか国勢伸張とかいうことは、当然願っていた。願いすぎた人もたくさんあった。これは幣原外相も高橋蔵相も考えていた。しかし、国の隆盛を欲すること自体がすなわちファッショなのではなく、ファッショといわれるためには特定の形態をもち理念をもち方法をもったものでなくてはなるまい。「かれらが一見ファッショと対立して見えるのはただ手段の緩急についての意見の差にすぎず、本質的には同一利害の上に立っていた」。故に、かれらもファッショだった、ということはできない。これは極端な「部分的真理の一般化」であり、もしこのような論理を用いるならどんな体系もたてることができる。

 青年将校の運動は既成秩序に対する真向からの反撃だったが、しかし階級闘争ではなかった。上からの革命でもなく、下からの反抗でもなかった。かれら自身はおおむね中産階級の出で、実社会から離れた生活をしていた(極端ないい方をするなら、これもこの三十年来いまもつづいている、社会の不正に対する若い世代の反撥の一齣だった。)檄文にも見るように、かれらはみずから革命の前衛をもって任じていて、後から国民大衆がつづいてかれらのはじめた仕事を完成することを期待していた。かれらの動機は自分の階級の利益のためではなくて、観念の情熱からだった。階級は一つの権力の主体であるが、階級のみがそれなのではない。階級の悪を否定しようとする情熱もそれとなりうる。軍縮時代の軍人が肩身がせまかったから、それへの怨恨が軍隊の中にあったし、これが軍人の政党嫌いの一因をなしていたのにちがいないが、かれら自身はもっと若く、その根本の動機は檄文に表明されたとおりのものと思われる。

 しかし、このように主観的動機を重視することは、はたして歴史の闡明になるだろうか?歴史をうごかすのは、もっと「根本的」な要素なのであり、証明は経済ないし階級的利害によって裏づけられなければならないのではないだろうか?青年将校の運動は、独占資本にあやつられたか、農民の反抗であったか、あるいは苦しんでいる小市民のあがきであったか、とにかくそのような観点に基礎づけられなくてはならないのではないだろうか?観念の情熱ー?そんな頼りのない話ではなくて、もっと「実質的な」要素に還元して、そこの上からの演繹をするのでなかれば、すべては非科学的な「むなしい唯心論」なのではないだろうか?

 人間のすべてをその根本的と想定される一元的要素の因果関係に還元したときのみ、科学的実証となるとする考え方は、前世期の固定観念だった。これは必然の立証がすなわち科学であるとして、それに対して自立する人間の主体的意思を認めない。

 しかし、「哲学は世界を解釈するのではなくて、改造すべきものである」と説いて、歴史解釈にすら主体性を要求しながら、その歴史の中に行動する人間には主体性を認めないのは、ふしぎである。

 歴史は人間の行動によってうごく、そして、この行動から主体的意思をのぞいて考えることはできない。人間は外界によって機械的に反射的に規定されるものではない。

 もともと、人間の行動と外界とは直接につながっているのではなく、その間に心がある。これはその後の学問によって確認されたことであり、もしこの事実を認めないならそれは非科学的である。人間の行動は、外界によって直接に条件づけられるのではなく、むしろ外界について彼がいだいているイメージによって条件づけられる。故に人間の行動はしばしば外界とズレるのであり、たとえ彼が外界に対して正しく反応したときにも、彼はなお彼がいだいている外界像にしたがって行動したのである。